2025年11月12日水曜日

祖父と樺太の記録

 
1930年代の泊居


北の森に生きた祖父 ― 樺太と日本の記憶のはざまで

私の祖父は、奈良の営林署に勤める林野庁の役人でした。1920年代、まだ20代の若さで、奈良から遠く離れた日本最北の地・樺太の泊居(トマリオール)支所に転勤を命じられました。理由はわかりません。家族の誰も、なぜ祖父がそこに赴いたのかを知りませんでした。しかし、その旅は、当時の日本人にとって「北のフロンティア」への挑戦と勇気でもあったのだと思います。

泊居で祖父はおよそ7年勤務し、その後、樺太庁が置かれていた豊原(現ユジノサハリンスク)に転勤しました。そして1941年、太平洋戦争が始まる年に奈良へ戻ったようです。祖父の足跡は、国立国会図書館のアーカイブに残る林野庁の人事記録によって確認することができました。

中学生だった私が覚えている祖父は、穏やかで優しい几帳面な人でした。報告書の文面にも、その性格がにじみ出ています。働くことそのものが祖父の人生観であり、勤勉・倹約・正直という日本人の美徳を体現した人だったのでしょう。

樺太の森と「パルプの島」



当時の樺太は、漁業と林業が二大産業として発展していました。「パルプの島」と呼ばれるほど、森林資源の開発が進んでいたのです。樺太庁のもと、営林署は国有林の管理、造林、伐採、森林警察、林産物の処分などを担っていました。大学の演習林も設けられ、東京大学、京都大学、北海道大学、九州大学などが北方林の研究拠点として活用していました。パルプ工場の煙突が立ち並び、三井物産などの民間企業へ大規模な森林区域を払い下げ、開発を進めました。まさに、日本の近代産業の北限を切り拓いたのが、こうした官民一体の営みだったのです。

ところが、繁栄の影には過剰伐採による資源の枯渇が忍び寄っていました。1931年、樺太庁は「産業合理化計画」を策定し、開発のブレーキを踏み始めます。豊原には行政官や企業人、教師、医師などが集まり、北の都市としての活気を帯びていきましたが、国際情勢の影は確実に迫っていました。

樺太という「境界」

そもそも樺太(サハリン)は、帝政ロシアと日本が幾度も奪い合った島です。1905年、ポーツマス条約によって日本が北緯50度以南を領有して「南樺太」となり、北緯50度以北はロシア領となりました。以後、南樺太は正式な日本領として北海道の延長線上に位置づけられました。鉄道が敷かれ、移住政策が進み、漁業・鉱業・林業が国家事業として展開されていったのです。

祖父が泊居にいた頃、そこはまさに“帝国の辺境”であり、日本の開発国家が北へ伸ばした手の先端でした。樺太の自然は苛酷でした。冬は零下20度を下回ることも珍しくなく、雪解けとともに巨大な湿地が広がります。けれども、その厳しさが、そこに暮らす人々の気質を鍛えたのでしょう。

祖父の文章は、場所が樺太であれ奈良であれ、日本の林業に携わる一人の人間として、祖父が到達した普遍的な哲学を示しています。それは、自然を敬い、自分の仕事を通じてその秩序を守るという、私たち日本人が古くから大切にしてきた勤労観や自然観そのものと言えるでしょう。非常に貴重な記録であると感じます。祖父にとって「働く」とは、まさに自然と向き合い、秩序を守る行為だったのだと思います。

戦争の影とソ連の野望

日本の近代化が北へと進む中で、国際関係は緊張の度を増していきました。ソ連との国境を挟む樺太は、いつ爆発してもおかしくない火薬庫でした。1939年にはノモンハン事件が起こり、日ソ関係は険悪化します。1941年に「日ソ中立条約」が締結され、一時的な安定を得ましたが、それは紙一重の均衡にすぎませんでした。

1945年2月、ヤルタ会談においてスターリンは米英首脳に対し、ドイツ降伏後三か月以内に対日参戦することを約束します。その見返りとして、南樺太と千島列島の引き渡しを「非公式に」認められました。ソ連はこの密約をもとに、8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本への侵攻を開始しました。樺太にもソ連軍が上陸し、数日のうちに占領が進みました。終戦間際の混乱の中で、多くの民間人が犠牲となり、北海道への避難を試みた人々の船が撃沈される悲劇も起こりました。泊居から数十キロ南の豊原郵便局の悲劇は、あまりにも有名です。

スターリンはさらにその勢いで、北海道北部(釧路—留萌を結ぶ線以北)の分割占領をアメリカに要求しました。もしトルーマン大統領がこれを受け入れていれば、日本は南北に分断されていた可能性があります。しかし、トルーマンはこの要求をきっぱりと拒否しました。アメリカは、日本本土の占領は連合国軍最高司令官マッカーサーの単独指揮下で行うと決めており、分割占領を認めなかったのです。ソ連軍自身も、上陸用舟艇や補給能力の不足から作戦実行を断念しました。こうして、北海道が「もう一つのベルリン」になる事態はかろうじて回避されたのです。

この外交的せめぎ合いの裏で、樺太は静かに地図から消えていきました。戦後、ソ連の統治下に組み込まれた南樺太は「サハリン州」となり、日本人はすべて引き揚げを余儀なくされました。祖父が歩いた泊居の森も、今はロシアの手の中にあります。

忘れられた北の記憶

豊原市市街

私は父から樺太の話をほとんど聞いたことがありません。1930年に泊居で生まれた父は、真珠湾攻撃の年に奈良へ引き揚げましたが、北の記憶を語ることはほとんどありませんでした。おそらく、それは彼にとって「失われた故郷」であり、語るほどにつらい思い出だったのかも知れません。父が話したのは、スキーで通った学校や、凍らせて保存食にしたニシンのことだけでした。

日本の教育では、樺太についてほとんど教わりません。かつて日本の正式な領土であり、北方開発の象徴でもあった場所が、敗戦後の地政学的秩序の中で“存在しなかったこと”にされています。けれども、そこには確かに人々の生活があり、働く者たちの汗と祈りがありました。祖父のような営林署の職員たちは、森を守り、木を植え、寒風の中で黙々と仕事を続けていたのです。

戦争が奪ったのは、領土や制度だけではありません。そこにあった「誠実に働く」という倫理そのものを、私たちの記憶から奪ったのかもしれません。祖父の足跡をたどると、そこには一つの静かな日本人の思想が流れています。――働くことは、天に恥じぬ行いである。今の日本が失ったものは、もしかするとこの“静かな倫理”ではないでしょうか。

北の森の祈り

祖父が亡くなって半世紀以上が過ぎた今、私はあらためて思います。働くこととは、単なる労務でも義務でもありません。自然と人との関係を律し、世の秩序を守る「祈り」に近いものだったのではないでしょうか。その祈りの場所が、祖父にとっては樺太や奈良吉野の森だったのだと思います。

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