2025年11月6日木曜日

自由と平等のねじれ ― リベラルという幻想

 
正義の尺度

リベラルという幻想 ― “平等”と“自由”のあいだで


「リベラル」という言葉ほど、誤用されやすい言葉はないかもしれません。日本では、リベラル=進歩的=良いこと、という単純な図式が浸透しています。しかし、その語源をたどれば、リベラリズムとは自由の思想であって、平等の思想ではありません。

自由とは、個人の差異を認め、選択と責任を引き受けることです。ところが現代の「リベラル」は、いつの間にか“みんな同じでなければならない”という、新しい平等の圧力を生み出しています。

アメリカでは「平等の名のもとに自由を奪う」現象が進行し、それへの反動として“反知性主義”や“トランプ現象”が起きました。つまり、リベラリズムは自らの理念によって自己崩壊しつつあるのです。

日本の「リベラル」は、もっと曖昧で、もっと善意的だ

日本のリベラルは、アメリカのようにイデオロギー対立として成熟していません。

それは良くも悪くも、日本社会が“関係性”を前提に成り立っているからです。人間は孤立した「原子」ではなく、互いに影響し合う「分子」である。この感覚は、古代ギリシャのプラトン以来、そして日本では村社会の倫理として自然に受け継がれてきました。

日本社会の強みは、極端な個人主義に陥らない点にあります。一方で、その曖昧さが「責任の所在」をあいまいにし、何も決めない文化を温存してきたのも事実です。リベラルを名乗る人たちが、ほんとうに「自由のため」に発言しているのか、それとも「平等のため」に発言しているのか、その違いを自覚している人はどれほどいるでしょうか。

本当の自由とは、他者を承認する勇気である

自由とは、好き勝手に生きることではなく、他者の自由を尊重する覚悟です。それは、リベラルが口にする“多様性”(最近では“包摂”?)とは似て非なるものです。多様性はスローガンで語れても、自由には痛みと忍耐が伴う。

日本は、アメリカよりもずっと静かに、この「自由と平等の宥和」を実現してきた社会だと思います。

極端な富裕層支配もなく、宗教的対立も少ない。それなのに、メディアや大学の一部では、アメリカ型の“リベラルごっこ”が横行している。「民主主義の危機」などと声高に叫ぶ前に、リベラルとは何かをもう一度、足元から問い直す時期に来ているのではないでしょうか。
    
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