2025年11月14日金曜日

経済戦争の時代に、学級会レベルの国会

 

日本政治の「安全保障なき安全保障」


米国外交問題評議会(CFR)が今月発表した報告書「U.S. Economic Security ― Winning the Race for Tomorrow’s Technologies」は、まさに時代の現実を突きつけています。AI(人工知能)、量子技術、バイオテクノロジーといった「基盤技術」をめぐる覇権競争は、もはや産業政策ではなく、安全保障の最前線にあります。報告書は、米国が直面する脆弱性――サプライチェーンの中国依存、戦略分野への投資不足、輸出管理体制の弱さ――を冷静に分析し、国家戦略としての再構築を訴えています。つまり、経済と安全保障の境界が消えた「経済戦時代」において、国家は市場に任せるだけでは生き残れない、ということです。

では、日本はどうでしょうか。

いまの国会を見ていますと、小学校の学級会のようだと感じます。まるでワイドショーの延長のような質問が続いています。野党の質疑や、有名女性議員の支離滅裂で喧嘩腰の質問などを聞いていますと、経済安全保障や国家戦略を論じるには、あまりにも次元が違うと感じざるを得ません。野党の質問が悪い意味で「週刊誌的」になり、与党はそれに律儀に答弁する。そこには政策の具体性も、未来への建設的な視野も見えてきません。世界の潮流は「AI×量子×バイオ」という融合領域をめぐる覇権競争に突入しているのに、日本の政治は依然として「昨日の失点探し」と「一方的な自己主張」に終始しています。

経済安全保障とは、単なる技術や防衛の話ではありません。それは「国家の意思」を問う問題です。米国がAIや量子を「国家存立の中枢」として位置づけているのに対し、日本では「誰の責任か」という議論が国会を覆い、「どうするか」という本質的な問いは置き去りにされています。これはもはや政策力の問題ではなく、国家としての成熟度の問題です。

野党の質問が小学生の学級会のように聞こえるのは、単に内容が幼稚だからではありません。そこに「国家をどう導くか」という当事者意識が欠けているからです。他人の失敗を責めることは簡単ですが、責任を担う覚悟がなければ、政治は永遠に「議論のふりをした罵り合い」にしかなりません。

経済安全保障とは、未来の種をどこにまくかを決めることです。その決断を他人任せにしている限り、日本の未来は誰かに「設計」されてしまいます。世界が「経済戦時代」に突入した今、日本に必要なのは「質問の上手さ」ではなく、構想の深さと覚悟の強さだと思います。
   
いまの日本は、「考える葦」ではなく、ただ風に吹かれて左右にゆらゆらとそよぐ葦のように見えます。国民一人一人が、何が本当の問題なのか、未来の子どもたちのために真剣に考えるべきだと思います。

***

0 件のコメント:

コメントを投稿