最近の議論では「日本でイノベーションが起きている地域はどこか?」というテーマが取り上げられ、研究者や高度人材の地域集中と地域格差が論じられています。確かに人が集まる場所で新しい動きが生まれやすいという指摘は的を射ています。
しかし、私が感じるのは、議論の核心がなお隔靴掻痒だということです。なぜなら、日本でイノベーションが生まれにくい本質的な理由は、地域要因よりも教育システムに深く根ざしているからです。
日本の教育は依然として点数や偏差値を「客観的な物差し」として崇めています。しかしポストコロナの混迷する世界で、それは本当に正しい指標でしょうか。英語の tolerance は「寛容」であると同時に「許容誤差」を意味します。これからの社会で必要なのは、まさに誤差を許容できる柔軟さや寛容さのはずです。ところが日本の教育は、いまだに「誤りを許さない」方向へ全力疾走しています。
- 出題範囲が決まっている ⇒ 一定の枠の中でしか考えない
- 制限時間がある ⇒ 回転の速さばかりを測られる
- 100点以上はない ⇒ 減点主義で挑戦心が育たない
結果として「スクール・スマート」な優等生ばかりが評価され、狭い専門性を磨きながらも、大局観や直観力を育てる機会を失っていきます。この構造は歴史の中でも繰り返されました。明治のリーダーたちは広い視野を持ち国際情勢を読み解く力がありましたが、日露戦争以降は「スーパー係長」的な専門官僚が前面に出て、大局を誤ることになりました。平成期の企業停滞も、このDNAを引き継いだ帰結だといえるでしょう。
今の教育行政は「EdTech」や「チェンジ・メイカー」を掲げていますが、現行の教育システムが量産しているのは、実際には「チェンジ・テイカー」――制度に従うだけの人材です。テクノロジーをいくら導入しても、根底にある評価の物差しが変わらない限り、本当の転換は望めません。むしろ教育の形骸化が進むだけでしょう。
そして、日本の教育は今でも「木を見て森を見ず」どころか「木の葉の葉脈まで見つめる」方向に突き進んでいます。論理的思考の訓練は必要ですが、それに偏りすぎると直観力や洞察力が麻痺してしまいます。AIやイノベーションを声高に叫んでも、肝心の教育が「官僚型人間」を再生産する限り、日本発の革新は掛け声倒れに終わるでしょう。
変化を望むなら、まず親や教育現場が「偏差値という物差し」への盲信をやめることです。誤差を受け入れる寛容さを取り戻し、誤りから学ぶ教育を育てること。その覚悟がなければ、日本はいつまでも「変われない国」のまま取り残されるのではないでしょうか。
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