2025年8月16日土曜日

邂逅と漂流の八十年

 

今週、母方の実家の墓じまい(二か所)が終わりました。

母方には現在、西宮の施設にいる92歳の叔母が一人残るだけで、跡取りはいません。したがって、先祖代々のお墓もここで幕を閉じることになったのです。 

お墓は奈良唐招提寺の裏手、小高い山にありました。子供の頃、その墓は竹林の中にあり、柔らかな木漏れ日と静かな空気に包まれていました。しかし、何十年にもわたる乱開発で山は削られ、今では周囲に住宅がぎっしりと立ち並び、その中に古い墓地だけが唐突に取り残されたような様相になっています。

縁というのは、不思議な言葉です。

難しく言えば「邂逅」。人だけでなく、モノや出来事、土地との出会いもまた、人生の方向を変えます。

父方の祖父は二十代で奈良・橿原を飛び出し、樺太の最北端へと移り住みました。営林署の若い役人でした。理由は定かではありませんが、父の話では古いしきたりや家の束縛から逃れたかったようです。結果として、祖父は奈良での安定した道ではなく、「迷子の道」を選んだのでしょう。戦局が悪化する中で奈良へ戻ってからは、死ぬまで裕福とはいいがたい暮らしが続きました。

樺太は、祖父が渡った時代も、そして八十年前の敗戦の夏も、激しい変動の地でした。ソ連軍の南下と混乱、大量虐殺、真岡郵便局の悲劇。朝鮮半島から仕事を求めて渡った数万人の朝鮮人は、1990年の韓国・ロシア国交回復まで帰国できずにいる人が多くいました。そこには、国境に翻弄される庶民の姿が幾重にもありました。
  
こうした歴史を思うと、いま日本が「政治の漂流状態」だと評される現状も、もっと長い時間軸で捉える必要があると感じます。
   
確かに現政権はリーダーの資質により漂流している。しかし、日本の漂流は今に始まったことではありません。戦後八十年、この国は本質的な意味で一度も政治が機能してこなかったのではないでしょうか。江藤淳が語った「忘れたことと忘れさせられたこと」。敗戦直後、日本人は強制的に忘れさせられました。そして今や、日本は自ら進んで忘れようとしているのかもしれません。自己欺瞞から虚無主義へと滑り落ちながら(ニーチェの言った、最後に立ち上がる虚無ではなく)。   

墓じまいは、単なる整理ではなく、血縁や土地の記憶との別れです。そこには、個人の記憶と、国家が選び取った「忘却の道」とが、静かに重なっています。振り返れば、漂流の八十年とは、結局のところ、私たちがその邂逅から目をそらしてきた時間なのかもしれません。

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