日本の夏、とくに終戦記念日である八月十五日が好きではありません。
若いころから何度も口にしてきたことです。今年も例外ではありませんが、今年はとりわけ『海ゆかば』の旋律とともに、亡き父のことを思い出しています。
父は十数年前、83歳で亡くなりました。70歳で脳出血を発症し、亡くなるまで左半身麻痺の高齢者として生きました。私も来年は古希を迎えます。そのせいか、今年の夏は父の姿がことさら胸に浮かびます。そして、この国の政治家の発言や行動に、あらためてあきれ果てています。こんな人たちが日本という国家を動かしているのかと思うと、全く無責任だと感じます。メディアも同じです。私はテレビを見ませんが、YouTubeで断片的にコメンテーターの発言を耳にしたり、ネットで「識者」と呼ばれる人たちの言葉に触れたりします。しかし、その多くは非常にお粗末な認識にすぎません。40〜50年前も同じような気持ちで八月が嫌いでしたが、今の日本の状況はそれ以上にひどいと感じます。
父は戦争に行きませんでした。樺太西海岸の泊居(トマリオル)という小さな町で生まれ幼少期を過ごしました。父の父、私の祖父は奈良出身の営林署(宮内省林野局)の役人で国有林の管理が仕事だったみたいです。祖母は根室の人でした。小学校三年のとき、祖父の転勤で泊居から樺太庁の所在地である豊原市に移り住みます。暮らし向きはよく、父は読書好きな普通の少年だったようです。しかし戦局が悪化し、祖父の判断で故郷の奈良へ戻ることになります。この判断は絶妙なタイミングで、祖父の世界を読む目と判断力の確かさを物語っています。
終戦の年、父は15歳で、学徒動員により愛知の軍事工場に入り、ゼロ戦に搭載する20ミリ機関砲を作っていました。祖父も父も固定観念に縛られず、祖父は明治生まれでありながら自分で料理をし、茶碗を洗う人でした。奈良の立派な家系に生まれながら世界の森を渡り歩き、父もまた、自分の基準(物差し)で生きる人でした。若いころは会社で生意気だといじめられ、出世やお金とは縁がありませんでしたが、本を読み、絵や書、水墨画を楽しみ、車を愛しました。
70歳で倒れたあとも、76歳で妻を亡くしてからも、父は障害を抱えながら独りで前向きに暮らしました。戦争体験については多くを語りませんでしたが、何度か『海ゆかば』を口ずさむ姿を見ています。大伴家持が西暦783年に詠んだこの歌は、国のためではなく、愛する人のために命を捧げる鎮魂の歌です。人が生きるには理由が必要であり、人間は自らの生きる価値を見つけなければならないのだと感じます。
奈良中学(現・県立奈良高校)の時、父は勤労動員で豊橋の幸田へ行かされました。団塊世代のように戦争を知らないのではなく、少年期を戦争のただ中で過ごしたことが、単なる反戦ではないリベラルな思想の土台になったのだと思います。加えて、両親の自由な考え方も影響したのでしょう。
70歳で倒れたあとも、76歳で妻を亡くしてからも、父は障害を抱えながら独りで前向きに暮らしました。戦争体験については多くを語りませんでしたが、何度か『海ゆかば』を口ずさむ姿を見ています。大伴家持が西暦783年に詠んだこの歌は、国のためではなく、愛する人のために命を捧げる鎮魂の歌です。人が生きるには理由が必要であり、人間は自らの生きる価値を見つけなければならないのだと感じます。
奈良中学(現・県立奈良高校)の時、父は勤労動員で豊橋の幸田へ行かされました。団塊世代のように戦争を知らないのではなく、少年期を戦争のただ中で過ごしたことが、単なる反戦ではないリベラルな思想の土台になったのだと思います。加えて、両親の自由な考え方も影響したのでしょう。
そんなことを思い出しながら、終戦の日のニュースを見ました。石破首相は靖国参拝を見送り、私費で玉串料を奉納すると言います。ほかの閣僚も「適切に判断する」と言葉を濁し、理由は語りませんでした。そもそも総理大臣が一個人として昭和の戦争を総括するなど、なんという傲慢な思い上がりでしょうか。私は、国のリーダーが靖国を無視することを理解できません。参拝は戦争を賛美する儀式ではありません。そこに眠るのは、名もなき兵士や、愛する人のために命を落とした人々です。他国への忖度であれ国内への配慮であれ、理由はどうあれ、国の礎を築いた人々への敬意すら示せないのなら、政治家としての資格は問われるべきだと思います。それを公言できないのが今の日本です。
靖国に行けとは言いません。しかし、せめて『海ゆかば』の静かな旋律を聴きながら、哀悼の意を表することがなぜできないのでしょうか。今年の八月十五日も、九段の空にその歌が流れることを、私は心から願っています。
そしてその旋律が、かつて命を賭した者たちの魂に、静かに届くことを信じています。
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