2025年8月8日金曜日

献身という事 ~ 戦後80年の夏に思うこと

リンカーン(Wikiより)

8月15日が近づくたびに、私は必ず思い起こすことがあります。

私は「もはや戦後ではない」と言われた世代に生まれたため、1945年8月15日の記憶は持っていません。しかし、子どもの頃からこの日はどうしても嫌いでした。その理由は、三島由紀夫が述べた「限りなき悲哀」を、私は毎年感じるからです。

この日、私は常に戦後日本の教育が作り上げた歴史認識に違和感を抱きます。日本は敗戦後、過去を直視することを避け、まるでダチョウが目を閉じて現実を見たくないかのように、過去を無視してきたように思えます。

私はリンカーンの「ゲティスバーグ演説」を思い出さずにはいられません。

アメリカ人が深く愛してやまない言葉「devotion」は、この演説でも強調されています。リンカーンは、戦争で命を落とした人々が「無駄死にではない」と強く伝えたかったのでしょう。彼は、戦争の悲劇を慰霊しつつ、その犠牲が決して無駄ではなかったことを伝えたかったのです。

リンカーンが訴えた「人民の人民による人民のための政治」というフレーズは、単なる有名な言葉にとどまるものではありません。その本当のメッセージは、戦争で命を捧げた人々が決して無駄死にではなく、彼らの献身があって初めて、新たな誓いとして自由と平和を守るための政治が成り立つ、というものです。

戦後80年の今、私は戦没者の献身を無駄にしないことが私たちの責務であると強く感じています。日本の過去を見つめ直し、戦争の犠牲者への感謝と敬意を示すためには、自己批判的な歴史認識を超え、私たちの名誉を守るために立ち上がらなければなりません。リンカーンが訴えた「devotion」の真の意味を、今こそ深く考えるべきです。

この夏、国民が最も求めるべきは、戦没者を敬い顕彰することです。そのためには、国のリーダーには靖国神社への参拝が最も意義深い行為であると私は信じています。

さらに、民意を無視し、辞任を表明しない総理大臣に対して、私は強い不満を抱いています。政治家として、責任を果たさずその座にとどまり続けることが、いかに無責任であるかを再認識すべきだと思います。

私は誠実な歴史認識と、真摯な責任の取り方を信じています。日本の未来を守り、戦没者の犠牲に感謝するためには、自己批判的な歴史観を超え、日本の名誉を守り続ける姿勢こそが今、最も必要だと考えます。それが、今の日本の子どもたちに対する大人の責任です。

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ゲティスバーグ演説
ゲティスバーグ、ペンシルバニア州 1863年11月19日

87年前、我々の父祖たちは、自由の精神に育まれ、人はみな平等に創られているという信条に捧げられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。 今我々は、一大内戦のさなかにあり、戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、このようなあらゆる国家が、長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである。われわれはそのような戦争に一大激戦の地で、相会している。われわれはこの国家が生き永らえるようにと、ここで生命を捧げた人々の最後の安息の場所として、この戦場の一部をささげるためにやって来た。我々がそうすることは、まことに適切であり好ましいことである。 しかし、さらに大きな意味で、我々は、この土地を捧げることはできない。清め捧げることもできない。聖別することもできない。足すことも引くこともできない、我々の貧弱な力を遥かに超越し、生き残った者、戦死した者とを問わず、ここで闘った勇敢な人々がすでに、この土地を清めささげているからである。世界は、我々がここで述べることに、さして注意を払わず、長く記憶に留めることもないだろう。しかし、彼らがここで成した事を決して忘れ去ることはできない。ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きている我々なのである。我々の目の前に残された偉大な事業にここで身を捧げるべきは、むしろ我々自身なのである。 ――それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を 尽くして身命を捧げた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、我々が一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、我々がここで固く決意することである。)—Abraham Lincoln

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