2025年8月2日土曜日

「The Buck Stops Here」~ 責任とリーダーシップの空洞化

トルーマン大統領
The Buck Stops Here なのか Pass the Buck なのか?

昨日、臨時国会が召集され、新人議員たちが初登院しました。しかし、それを見ながら私は高揚感よりも深い虚無を覚えました。日本の政治家の威信は、もはや地に落ちたと言っていいでしょう。阪神淡路大震災、オウム真理教事件、東日本大震災——いずれの時も、私が感じたのは「この人たちが国を導いているのか?」という、苛立ちと不安でした。危機の場面に立たされた政治家たちの発言は、空虚な言葉を繰り返すだけで、そこに「責任」という重みはほとんど感じられませんでした。


こんなとき、私はいつも英語の表現「The buck stops here.(責任はここで止まる)」を思い出します。この言葉には、リーダーが自らに責任を引き受ける覚悟と決意がにじんでいます。翻って日本の政治家に、その「責任の止まり木」が果たしてあるのでしょうか。

私はただの老百姓です。けれど、凡人なりに、自分の生活と命を守るために危機感を持ち、慎重に生きてきました。それが私なりの「危機管理」でした。そして、それを国家レベルで行うのが、本来の政治家という存在のはずです。だが今や、政治家とは「口当たりの良い言葉を言い、無責任に去る者たち」になりつつあるのです。

特に今の総理に対する評価は、私の中で明確です。彼は明らかに、リーダーに最も向いていない「スペック」の人物です。確固たるビジョンもなければ、思想的バックボーンも見えない。かつて防衛大臣であった際の対応には、致命的な判断ミスがあったし、拉致問題においても、被害者家族の切実な思いに真に寄り添う姿勢は見られませんでした。

彼を見ていて感じるのは、「冷徹さ」ではなく、「リーダーとしての器の小ささ」です。発言に一貫性がなく、自分の言っていることの意味を自覚していないようにすら見えます。その場しのぎの言葉を重ねるだけで、明確な方向性や意志が伝わってこない。

にもかかわらず、なぜ彼を支持する層が存在するのか? それは、戦後日本の深層にある「現状維持の病理」にほかならないでしょう。特に高齢者層には、「変わらなくてもいい」「今のままでよい」と考える者が多い。自分たちの残りの人生が平穏であれば、それでよし。未来の日本より、自分たちの安定が大事なのです。私も高齢者の一人なのでよくわかります。

この姿勢は、まさにニーチェが『ツァラトゥストラ』で描いた「末人(the last man)」そのものです。自分で考えず、リスクを取らず、ただ「快適さ」だけを求める者たち。こうした国民に支えられたリーダーが、果たして未来を切り開けるだろうか?

思えば、日本のこのような風土は、近代以降の教育制度に端を発している。「自己本位」(selfhood)を育むことなく、「序列」と「従順」だけを教えてきた敗戦後80年の教育が、思考を放棄した末人を大量に生み出した。そして個人(individual)と社会(society)の関係性を問うことなく、ただ「世間」に適応する人間を作り続けたのです。

政治とは、自己保存の延長ではなく、公共への献身であるべきです。だが、公共空間が未成熟なこの国では、いまだに「世間」がすべてを支配しているかのようです。個人の意志よりも、空気の読み合いが優先され、政治家でさえもその空気の奴隷となる。

いま、私たちはもう一度問わなければなりません。
総理大臣は、「The buck stops here」という言葉を、果たして本当に知っているのか?

そして我々国民もまた、自分の「The buck」がどこに止まるのか、問い直す時に来ているのではないでしょうか。

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