慶応大学出身の現首相は、果たして創設者である福沢諭吉の『学問のすすめ』をきちんと読んだことがあるのでしょうか。はなはだ疑問に思います。衆参両議院の議員にしても、通読した経験のある人は一割にも満たないのではないでしょうか。
福沢諭吉は、人生の前半を江戸時代の武士として、後半を明治の知識人として生きました。ヨーロッパやアメリカを視察して異文化に直接触れ、漢学から出発してオランダ語、そして英語へと学びを広げました。自らギャップに飛び込み、思考を深めた人物でした。こうした経験の蓄積があったからこそ、『学問のすすめ』第15編において「事物を疑って取捨を断ずる事」という、時代を超えて通用する言葉を残すことができたのだと思います。いま私たちは、AIとデジタル化の時代を生きています。真実と虚偽の境界はますます曖昧になり、本物と偽物を見抜くことが難しくなりました。福沢が指摘した「取捨選択の知性」は、この時代にこそ必要とされている能力です。しかし、日本の政治家の議論を見ていると、この知性の欠如ばかりが目立ちます。スパイ防止法や監視強化をめぐり、「人権がどうなる」「民主主義が壊れる」といった表層的なやりとりに終始する姿は、自らに統治する意志がないことの裏返しではないでしょうか。
さらに福沢は、取捨選択の前提として「自らのビジョンを持つこと」を暗に示していたように思います。将来の展望や問題意識がなければ、必要な情報は集まってきません。例えば子供の教育に強い関心を持っている人のもとには、教育に関する情報が自然と集まってくるものです。逆に問題意識のない人には、氾濫する情報に翻弄される未来しかありません。幕末から明治への激動を生きた福沢にとって、ビジョンを持たないこと自体が理解しがたいことだったのでしょう。
「軽々しく信じるべからず、また軽々しく疑うべからず。信と疑のあいだに必ず取捨の明なかるべからず」――この一節は、教育現場を見つめる上でも示唆に富んでいます。もし親が子供に「納得するまで質問しなさい」と日頃から言い聞かせていたら、判断力を備えた子供が育つでしょう。しかし現実には、そんな子供は受験戦争に不利となり、先生に嫌われるだけかもしれません。これこそが日本の教育の歪みであり、知性を育てるどころか抑え込んでいる現状だと思います。
『学問のすすめ』第15編の最後で、福沢は「我々学者が勉強しなければならない」と述べています。これは当時の慶応の先生たちへの呼びかけだったのかもしれません。しかし現代に生きる私たちには「親や大人こそ学ばなければならない」という警告として響きます。
そして何より求められるのは、政治家も親も一人の大人として、自らのビジョンを持ち、氾濫する情報の中から取捨選択する知性を鍛えることではないでしょうか。
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