リーダーシップとは何でしょうか。私は長年、リーダーの条件として「決断力」「イニシアティブ」「ユーモアのセンス」の三つを挙げてきました。しかし、これだけでは不十分です。リーダーシップとは単なる技術ではなく、環境との邂逅を自らの経験として受け止め、それを共同体に活かす力でもあります。ところが日本社会では、その昇華のプロセスが決定的に欠落しています。困難に出会っても学びに変換できず、挑戦を自己の成長へとつなげられない。結局、リーダーは育たず、既存の秩序に安住する構造だけが温存されてしまうのです。
リーダーシップの本質は、個と公共のバランスにあります。自分を律しながらも、公共に奉仕する意思を持ち、共同体を自己統治として形成していく力です。しかし日本社会では、この「自己統治」の発想そのものが欠けています。国家や組織からのパターナリズムが重く覆いかぶさっているからです。ここでいうパターナリズムとは、親が子どもを一方的に導くように、権威が国民を「守ってあげる」と称しながら実際には依存を強める構造を指します。その結果、人々は「管理されること」に慣れすぎ、自らの責任で共同体を動かす経験を持たないまま大人になってしまうのです。
教育のあり方も大きな問題です。学科ごとに分断された非総合的な教科体系のもとで、子どもたちは「知識の断片」を詰め込まれるだけで、概念を横断的に結びつける力を養えません。教育改革を声高に唱える人々もいますが、実際には何も考え抜かれてはいません。総合的な思考の訓練もなく、言葉を通じて思考を鍛える経験もない。これではリーダーが育たないのも当然です。
さらに、日本では「正統性(legitimacy)」という考え方も十分に理解されていません。正統性とは、単に選挙で勝つことではなく、その人がリーダーとして認められるに足る人格・責任・一貫性を備えているかどうかを意味します。民主主義においては、権力の行使そのものが「正統性」によって支えられるのです。しかし、日本の現状を見る限り、その意識は希薄です。国民もまた、その条件を求めないまま、表面的な人気や手軽な安心感に流されています。
本来、リーダーであり続けるためには、正統性に裏打ちされた責任感と、環境を学びに転化する柔軟性、そして矛盾を乗り越え続ける努力が不可欠です。困難に直面しても逃げるのではなく、向き合い続ける姿勢こそがリーダーをリーダーたらしめる。ところが今の日本の総理大臣は、その条件を何一つ満たしていません。いや、それ以前に人格そのものが問われるべきでしょう。
しかし、問題は個人に帰せられるものではありません。リーダー不在の社会は、リーダーを求めない国民自身の選択の結果でもあるのです。責任を取らないリーダーを生み出すのは、責任を問わない国民である。そのことに気づかぬまま、日本は「耳障りのよい安心感」と「先送りの文化」に沈み込んでいます。
リーダーシップの本質を忘れた社会に未来はありません。日本に欠けているのは「誰がリーダーか」ではなく、「リーダーとは何か」という根本的な問いを持ち続ける姿勢なのです。
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