先日、ある元大学教授が「次期学習指導要領のカギは主体性だ」と論じる記事を目にしました。正直に申し上げて、「何をねぶたいこというとんねん」と思いました。
なぜなら、日本の教育にはそもそも「主体性」など存在してこなかったからです。戦後の教育制度は、敗戦直後にGHQによって設計されたものであり、日本人が自らの歴史や文化を踏まえてつくり上げたものではありません。教育の出発点から「主体性」を欠いているのです。元大学教授の論は、こうした歴史的背景を踏まえず、表層的に「主体性」を唱えているだけに見えます。だからこそ、眠たい議論に聞こえるのです。
私はこれまでのブログで繰り返し指摘してきましたが、日本の教育現場で「協調性」という言葉ほど危ういものはありません。本来の「和」とは、自分の主体性を保持したうえでの協調です。しかし現実には、その前提が抜け落ち、付和雷同する態度が「協調性」として評価されてきました。孔子が「君子は和して同ぜず」と説いた精神は、戦後教育の中で形骸化してしまいました。
その結果として、若い世代は「自分は何をすればいいのか」と問い続けながら、情報を自分の目で確かめることもなく、政治を他人事と見なし、海外に視野を広げることもなく、ただ「誰かに従う」生き方に安住してしまうのです。サルトルの言葉を借りれば、実存が本質に先行するはずなのに、日本人はその実存を自ら放棄してしまったといえるでしょう。
この従順教育の帰結が、現代日本の社会と政治に表れています。国民は怒る力や疑う力を失い、自ら首輪をはめる「自発的隷従」の状態にあります。AIが普及すれば、思考さえ外部に委ね、ますます「怠け者の天国」に陥ることになるでしょう。しかしそれは強制されたものではなく、自ら望んで選んだ隷従なのです。
現行教育の最大の欠陥は、知識を科目ごとの「柱」として植え付ける一方で、それらをつなぐ「梁」を欠いていることにあります。抽象と具体を往復し、全体像を描く力が育たない。これこそが、日本人から主体性を奪い、従順さだけを残した根本原因です。孔子の「君子不器」――一つの機能にとどまるな――という教えは、現代日本にこそ必要な精神だと思います。
もし本物の「主体性教育」を目指すのであれば、敗戦直後に立ち戻る必要があります。外から与えられた教育制度を根本から見直し、日本の歴史と文化に基づいて再構築すること。これを避けて、表層的に「主体性が大事だ」と叫ぶ限り、教育は変わりません。
主体性のない教育は、主体性のない国民を生み、主体性のない国民は、主体性のない国家しかつくれません。これこそが、日本という国の最大の病なのです。
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