2025年8月17日日曜日

時代劇の消滅とその意味

  
荒野の一ドル銀貨(1966年 日本公開)

先日、半世紀以上ぶりにジュリアーノ・ジェンマ主演のマカロニウエスタン「荒野の一ドル銀貨」を観ました。懐かしさと同時に、日米双方で西部劇や時代劇といった歴史劇が姿を消してしまった現実を思わず考えさせられました。 


アメリカで西部劇が衰退した理由の一つには、マカロニウエスタンが従来のヒーロー像を変えてしまったことが挙げられます。しかし、より根本的な原因は、侵略と虐殺という自国の「負の歴史」が若い世代にとって直視しがたいものとなったからでしょう。西部劇の舞台は、アメリカが触れられたくない恥部そのものなのです。

一方で、日本の時代劇は少し事情が異なります。江戸時代を中心とした時代劇には、対外侵略の歴史が描かれることはなく、むしろ鎖国の中での国内の発展や生活の様子が映し出されています。武士道精神、庶民の知恵や道徳観、共同体のあり方――そこには、現代にも学ぶべき価値観が数多く残されています。子供の頃に観た「銭形平次」や「水戸黄門」、あるいは若い頃に読んだ池波正太郎や藤沢周平の作品の中に、日本人の精神性や暮らしの知恵が脈々と受け継がれていました。   

にもかかわらず、今や時代劇はテレビや映画からほとんど姿を消しました。その理由は、衣装やセットに費用がかかること、視聴率が伸びないこと、そして若年層が古臭いと感じてしまうことにあります。まさにデフレスパイラルのように、作られないから観られない、観られないから作られない、という悪循環に陥っているのです。

背景には、制作側が若者に届く新しい価値観を時代劇に取り込めないこと、さらには社会全体に「歴史観」や「文化観」を育てる素養が乏しくなっていることもあるでしょう。これは日本の義務教育が歴史を「暗記科目」に押し込め、本当の意味での教養として伝えてこなかったことと無関係ではありません。

時代劇の衰退は単なるテレビ文化の衰退ではなく、日本人が自国の歴史や精神文化を手放しつつある象徴のようにも思えます。アメリカの西部劇が「恥部」を隠すために消えたのだとすれば、日本の時代劇は、受け継がれるべき精神を置き去りにして消えつつあるのかもしれません。だからこそ、その消滅には寂しさ以上の喪失感があります。

***

0 件のコメント:

コメントを投稿