人生の先が見えてきたからでしょうか、かつて強烈だった8月への拒否反応も、最近ではやや和らいできました。それでも20代の頃から、私は8月に日本にいることが本当に嫌でした。理由は明快です。テレビや新聞、雑誌など、メディアが取り上げる「戦争」や「終戦」の話題に強い強い不快感を覚えるからです。そうした報道の空気に触れるたび、日本人でいることが情けなくなるのです。
なぜ不快なのか。それは、どれもが「うわべ」だからです。日本の教育界やメディアには、 戦後に輸入されたアメリカ式教育思想を誤って解釈した影響が強く残っています。すっかり空疎な理想主義と責任転嫁の術だけを身につけてしまった。日本人としての自己認識も歴史的教養も欠けているように見えます。
私は40年以上前から、「もう日本人は戦後に喪失した主体性を、今こそ取り戻すべきだ。自らの足で日本を発見すべきときだ」と言い続けてきました。それは決して、戦前の独善性に回帰することではありません。むしろ、もっと広く、もっと深く、長所と短所を見きわめ、日本人とは何者かを考え、新しい時代へと進むための手がかりを見出すべきだという思いからです。
世界のあらゆる仕組みには、ルールがあります。なぜなら、多くの国が人間の本性を性悪説に立脚して理解しているからです。人間は不完全であり、禽獣の域を脱していない――その認識が、政治や外交の現実的な土台を支えています。国家間の摩擦は、文化、感情、認識のギャップから生まれます。日本の2000年以上に及ぶ文化と、17世紀以降のアメリカ的近代文明とは、人生観も倫理観も宗教観も根底から異なるのです。だからこそ、国家間の問題には抽象的なレベルにおける理解が不可欠です。
ところが日本では、議論は逆の方向に流れがちです。政府、官僚、企業を構成するエリートたちは、具体的議論には長けていても、抽象的な思考や全体像をレベルセットする能力に欠けています。現行の教育制度もその原因の一つです。教科ごとの知識(=柱)は立てるが、それらをつなぐ「梁」を架けることはない。つまり、体系性のある思考が育たないまま社会に出てしまう。
結果として、抽象と具体のバランスをとって思考・行動するという、もっとも基本的な知的態度が形成されない。「君子不器」――孔子のこの言葉が今こそ重みを持ちます。すなわち、君子たる者は一つの機能にとどまるなという教えです。現代の日本に欠けているのはまさにこの「全体性」への志向です。
若い人たちには、単に「人殺しは悪い」「戦争は悲惨だ」といった情緒的で抽象度の低い話だけではなく、「戦争論」としてのメタ的な視座から、ものの考え方を鍛えてほしいと思います。誰だって人殺しは嫌です。そんなことは言われなくても分かっているのです。問題は、なぜ人は戦争に踏み込むのか、 国家という単位で命が動員される現実がどうして発生するのか――そうした根本的な問いです。
日本のメディアは、8月になると「反戦」の情緒的メッセージを繰り返し流しますが、それがあまりにも浅く、そして自動化されていて、私はむしろ絶望すら覚えるのです。だからこそ、今の日本で残された道は、一人でも多くの若者に覚醒してもらうこと。そのためにも、「器にとどまらぬ君子」を育てることに尽きるのではないか。
この国がここまで堕ちたのだと痛感させる政治家の顔、、、頭がくらくらするのは、どうやら暑さのせいだけではないようです。
結果として、抽象と具体のバランスをとって思考・行動するという、もっとも基本的な知的態度が形成されない。「君子不器」――孔子のこの言葉が今こそ重みを持ちます。すなわち、君子たる者は一つの機能にとどまるなという教えです。現代の日本に欠けているのはまさにこの「全体性」への志向です。
若い人たちには、単に「人殺しは悪い」「戦争は悲惨だ」といった情緒的で抽象度の低い話だけではなく、「戦争論」としてのメタ的な視座から、ものの考え方を鍛えてほしいと思います。誰だって人殺しは嫌です。そんなことは言われなくても分かっているのです。問題は、なぜ人は戦争に踏み込むのか、 国家という単位で命が動員される現実がどうして発生するのか――そうした根本的な問いです。
日本のメディアは、8月になると「反戦」の情緒的メッセージを繰り返し流しますが、それがあまりにも浅く、そして自動化されていて、私はむしろ絶望すら覚えるのです。だからこそ、今の日本で残された道は、一人でも多くの若者に覚醒してもらうこと。そのためにも、「器にとどまらぬ君子」を育てることに尽きるのではないか。
この国がここまで堕ちたのだと痛感させる政治家の顔、、、頭がくらくらするのは、どうやら暑さのせいだけではないようです。
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