近代史の影と未来への責任
―― 広島・長崎から福島まで、「核」と向き合うということ
広島と長崎への原爆投下から80年が経過しました。今もなお、私たちはその出来事とどう向き合い、どのように未来に継承していくのかを問われ続けています。しかし、この惨劇を自然災害のように扱い、「落ちた」のではなく「落とされた」のだという事実すら、どこか曖昧にされているように思えます。なぜ原爆が広島と長崎に投下されたのか。その背景を正しく理解し、語り継ぐことなしに、日本が真に戦後レジームを脱却し、自立した国家となることはありえません。
アメリカが核兵器を使用した狙いは何だったのか? ハリー・トルーマン大統領と側近のバーンズによる対ソ戦略や外交交渉の布石として、原爆が使用されたという見方は根強くあります。1945年8月6日、ウラン型爆弾「リトルボーイ」が広島に、8月9日にはプルトニウム型爆弾「ファットマン」が長崎に投下されました。同日の早朝にはソ連が満州・樺太に侵攻。スターリンは、日本の即時降伏を恐れて慌てて日ソ中立条約を破棄し、参戦を決断しました。
日本政府はソ連に和平の仲介を期待していたため、まさに戦略は裏目に出ました。8月10日、日本はようやくポツダム宣言の受諾を決定しましたが、すでに二発の原爆が使われた後でした。アメリカが原爆投下によってソ連の軍事的拡張を抑止しようとしたにもかかわらず、その後の歴史が示す通り、それは成功したとは言い難く、むしろ米ソ冷戦が加速しただけでした。
トルーマンとバーンズは、ポツダム宣言の文面から「天皇の地位保全」に関する条項を削除し、日本に最後通牒として伝わらないよう配慮したとも言われています。結果的に日本政府の判断をさらに迷わせることとなりました。この種の「外交上手」は、裏を返せば実に腹黒い計略とも言えるでしょう。
戦争の背景にある国際政治の複雑さや外交のデリカシーに対して、日本はあまりにも鈍感でした。いくら「過ちは繰返しませぬから」と誓ったところで、その背景を正確に検証しなければ、核兵器反対や原発反対を叫ぶ声も、列島の中だけで響く空疎な反復になりかねません。
原爆と原発は技術的には異なるものの、どちらも「核」という共通点を持ち、日本の歴史に深い爪痕を残しています。福島原発事故のような比較的新しい出来事でさえ、事故の根本的な原因(root cause)についてはいまだに見解が分かれています。この事実は、広島・長崎への原爆投下という、より複雑で多層的な歴史的事象の真相解明がいかに困難かを物語っています。
アメリカと日本の間には、単なる戦争の結果ではなく、思想的・哲学的な断絶があります。アメリカの近代国家主義は、アトミズム(原子論)という、「個」がバラバラに存在する世界観に基づいています。対して日本は、人と人が支え合う分子論的な共同体の価値観に基づいて社会が構成されてきました。その断絶は単なる文化の違いではなく、戦争やその後の占領政策、現在の国際政治にも影を落としています。
私たちが国際社会においてどう生きるかを考えるとき、世界には「共通の正義」や「普遍的な価値」など存在しないことを前提にすべきです。外交とは「キツネとタヌキの化かし合い」であり、自分の国は自分で守るという覚悟が必要です。国連の存在や国際法の限界は、朝鮮戦争やソ連の国連拒否権の扱いなど、歴史が既に証明しています。
だからこそ、私たちは過去の戦争や核の問題を、単なる過去の出来事として扱ってはなりません。今の政治家や教育制度が過去を十分に検証していないとしても、私たち一人ひとりが、歴史の真実に目を向け、未来への責任を果たすべきです。
未来の世代にとって、過去は単なる記録ではなく、「生きた教訓」として意味を持つべきです。原爆投下の本当の意味とは何だったのか? それに対する答えを、日本人自身が出す責任があるのではないでしょうか。
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