カフェやギャラリーが並び、文化人やリベラルな思想の住民が集う街。それが東京・武蔵野市です。南北にはJR三鷹駅北口(玉川上水から北側)から西東京市や練馬区方面へ、東西には武蔵境から吉祥寺まで広がっています。しかし、この街が歩んできた80余年の歴史をご存じの方は、意外と少ないようです。
1944年11月24日、B-29の大編隊がサイパンを飛び立ち、日本本土初の本格空襲を行いました。その最優先目標は東京都心ではなく、三鷹駅北側──現在の武蔵野中央公園一帯にあった中島飛行機武蔵製作所でした。この工場は零戦のエンジンをはじめ、陸海軍機の心臓部を製造していたため、米軍の重要攻撃対象となっていました。
当時の武蔵野町(現・武蔵野市)の人口は、工場開設前後の数年間で急増しており、爆撃の頃には3万人程度に達していたといわれます。米軍はまず市内2か所の浄水場(東京都水道局と武蔵野市水道局)を狙い、水源を断った上で工場への集中爆撃を行いました。初回の空襲だけで57人が死亡、75人が負傷。その後、終戦までに計9度の空襲が繰り返され、犠牲者は数百人にのぼりました。
中島飛行機武蔵製作所が破壊し尽くされた後も、空からの脅威は終わりませんでした。1945年7月末からは、硫黄島を拠点とするP-51戦闘機による悪名高き機銃掃射が始まりました。それは、まるで騎兵隊がインディアンを追い立てるかのように、列車や市街地を容赦なく襲いました。さらに、原爆投下を担った特殊部隊によって、模擬原爆「パンプキン爆弾」が投下され、爆撃精度の訓練や被害データの収集が行われました。武蔵野の空は、終戦直前まで戦争の影をまとい続けたのです。
戦後、焼け野原となった工場跡は米軍に接収され「グリーンパーク」と呼ばれました。接収解除後には野球場が建ち(神宮球場が接収されていたため)、やがて団地や公園に姿を変えました。いまは穏やかな住宅地や憩いの場となっていますが、その地下には戦時の記憶が静かに眠っています。
そして現代。この4〜5年で外国人の流入は増え、ゴミ収集車にも外国人労働者の姿が見られます。多様性が進む一方で、街の歴史を語り継ぐ声は次第に少なくなっています。
過去を知り、語り継ぐことは、単なる「場所」ではない街の顔を守ることです。武蔵野市はいま、その分かれ道に立っているのかもしれません。
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