Silicon Valley is home to many major tech firms, including Apple's circular headquarters
(BBCの記事から借用です)
AIに頼るほど、人間は何を失っていくのか。それを考える「知性」こそ、今いちばん必要とされているのではないでしょうか。
Silicon Valley is home to many major tech firms, including Apple's circular headquarters
(BBCの記事から借用です)
小学校で「絵日記」を書くことの意味を、私たちは意外なほど軽く見ているのではないでしょうか。印象に残った場面を絵に描き、その説明を短い文章でまとめる。単純な宿題に見えますが、実はこの作業こそが「情緒的な思考」と「論理的な思考」をつなぐ最初のステップなのです。
自民党総裁選で高市早苗氏が新総裁に選出され、初の女性首相誕生の可能性が現実味を帯びてきました。これに対して、多くの国民からは期待や歓迎の声が上がっていますが、日本のフェミニズム研究の第一人者である社会学者・上野千鶴子氏は、「うれしくない」と率直な思いをX(旧ツイッター)で発信しました。
上野氏は、「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない」と投稿。さらに、スイスのシンクタンク「世界経済フォーラム」が毎年発表する「ジェンダーギャップ指数」に言及し、「来年は日本のランキングが上がるだろう。だからといって女性に優しい政治になるわけではない」と指摘しました。
特に上野氏は、高市氏が「選択的夫婦別姓」に慎重である姿勢を問題視。「これで選択的夫婦別姓は遠のくだろう。別姓に反対するのは誰に忖度しているのだろう?」と批判的な見方を示しました。もっとも、高市氏自身は旧姓の通称使用拡大に政治家として長年取り組んできた経緯があります。
一方で、立憲民主党の辻元清美参議院議員は、党派を超えて祝意を述べました。「高市さんと私は20代の頃から『朝まで生テレビ』で議論してきた対極の存在」としながらも、「ガラスの天井をひとつ破りましたね。たとえ意見や考え方が違っても、すべての人の幸福のために力を尽くす。その思いでしっかり熟議しましょう」と前向きなメッセージを送りました。
この辻元氏の発言には、普段彼女の政治姿勢に賛同しないと語る一部の有権者からも、「今回はよかった」「さすが大阪のおばちゃん」と評価の声があがりました。
高市氏の総裁就任を巡っては、社会的な立場や政治的な思想によって、評価が大きく分かれています。しかし、この議論から見えてくるのは、「女性であること」そのものよりも、「どのような価値観に基づき、どのような社会を目指すのか」という、より本質的な視点が問われているということです。
男であれ女であれ、魅力的な人は魅力的であり、家庭にいる女性もオフィスで働く女性も同じように尊重されるべきです。性別によって役割が決まるのではなく、互いの違いを認め合い、折り合いをつけながら共に生きていくことこそが、成熟した社会の姿といえるでしょう。
その意味で注目すべきなのは、社会主義者・北一輝の思想です。彼は社会主義者ですから、当然のごとく男女平等主義者でしたが、同時に「断じて同一の者に非ざる本質的差異」があることを認めていました。男と女は物理的に異なり、それぞれにしかできないこともある。互いに理解できない現実もある。にもかかわらず、人は努力して折り合いをつけながら共に生きていくものだ、という視点は、今日のジェンダー論にも通じる重要な視座ではないでしょうか。
ここで思い起こされるのが、アメリカ建国の精神です。
「すべての人は平等に造られている(All men are created equal)」という独立宣言の一節は、当初は女性や有色人種を含まない限定的なものでした。しかしその理念――「個人の自由と平等を守る」という普遍原理――が、のちの黒人解放運動や女性参政権運動、そしてフェミニズムの礎となっていきました。散歩
自民党の総裁に高市早苗さんが選ばれました。
私はアメリカにほぼ20年暮らし、
近年はLGBT法案も注目を集めています。
こうした問題に対して、エマニュエル前駐日米大使は「
もちろん、日本にも課題はあります。事なかれ主義、
世界は本来、平等ではありません。程度の差はあれ、
北一輝は男女平等を主張しましたが、それは「
一方で、男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法が掲げる「
教育に関しても同じです。子供たちには「世の中は平等ではない」
高市総裁誕生という歴史的出来事を「男女平等」
追)高市氏の出身高校は私の本籍地と同じ町内であり、橿原市の初代市長が私の親族であるという偶然の符合があります。とはいえ、私は特定の政治家を称賛する意図はありません。むしろ、この出来事を通して「日本的平等観」を改めて考える契機としたいのです。
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昭和の大ヒット曲「およげ!たいやきくん」は、子ども向けの歌として知られていますが、大人になって歌詞を読み返すと、そこにあるのはサラリーマンの虚無感を描いた風刺です。
OpenAIの動画生成AI「SORA2」がリリースされました。これを機に、私がこれまで懸念してきた「情報化」についての問題を整理しておきたいと思います。
自民党の総裁選が週末に結果発表されるそうですが、正直、まったく興味がありません。バカバカしくて、ただのお笑い種にしか見えないからです。一方で、今週の吉祥寺・三鷹界隈はやたらと人出が多い。不思議に思っていたら、中国の国慶節休暇で大量の観光客が押し寄せているのだとか。こちらのほうが、よほど生々しく時代の動きを感じさせます。
小林秀雄の『無常という事』(昭和17年)の最後の一行は、こう結ばれています。
「無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」。
この随筆はたった四ページですが、読むたびに考え込まされます。無常とは、時間が常に流れ、世界が常に変化し、人が老い、やがて死ぬという当たり前の真理です。国だって同じこと。小林がこの言葉を綴った背景には、ミッドウェー海戦を控えた当時の日本人への警告があったのかもしれません。
八十年後の日本。戦時中ではありませんが、精神的にはあの頃と大差ないように見えます。世界の空気を読むことなく、未来に対してただ自分の欲望と格闘しているような政治家たち。人生の無常をどれだけの人が意識しているのでしょうか。教育者は、生徒にどう伝えているのでしょうか。
では「常なるもの」とは何か。私は、人の基層にあるDNAだと思います。先人から受け継いだものを、今の私が次へと繋いでいく。それがかろうじての「常」なのでしょう。失敗もするし、立ちすくむこともある。しかし時は流れ、やがて老い、死ぬ。要は毎日を精一杯生きよ、ということです。
一方で、中国からの観光客ラッシュを目の当たりにしながら思い出したのは、「真贋」の問題でした。中国は「ニセモノ天国」と揶揄されてきました。私は昔から「中国が本当に先進国になりたいなら、まず贋作文化をなくさねばならない」と考えていました。それは単なる知財問題ではなく、「真贋を見抜く力」が文明の成熟度を示すと考えていたからです。
しかし、戦後80年を迎える日本もまた、その「真贋を見極める目」を失いつつあります。政治家もしかり。誰が本物で、誰がニセモノなのか。西郷隆盛像を「時代が生んだ幻想」と見抜いた芥川龍之介の冷静さは、今の日本に必要な視座です。
小林秀雄は言いました。模倣を超えて滲み出るのは「精神の質」だと。本物を見抜く眼を持たぬ社会は、AIによる模倣の洪水に飲み込まれ、何が真で何が偽かを判断できなくなるでしょう。
* * *
結局、総裁選の顔ぶれを眺めて笑い飛ばし、中国の観光客ラッシュに驚嘆する私の雑感も、突き詰めれば「無常」と「真贋」に行き着きます。国家経営も企業経営も、人の生き方すらも、そこからは逃れられません。
小林や芥川の言葉に背を押されながら、吉祥寺サンロードの人混みをすり抜けます。とはいえ、観光客の若者にぶつかりそうになってヨロけるばかりで、「精一杯生きよ」どころか「精一杯転ばないようにせよ」というのが実態です。
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楽譜を書くのも楽しみの一つ
奈良飛火野(撮影は亡き父)
環境考古学という分野があります。気候や地理条件などの環境が人間の文明にどんな影響を与えたかを探る学問です。ある教授は「森を切り開くと文明は衰退する」と説きました。ローマ帝国が森を失い砂漠化していく過程で、多神教から一神教へと変わり、やがて多様性を失って衰亡したという指摘です。森と文明の関係は単なる資源利用を超え、思想や世界観のあり方にも結びついているのだという視点は新鮮でした。
私自身も、宗教というより「森や木や石や水に命が宿る」と感じる日本的な感覚に惹かれてきました。自然の繰り返しや循環を重んじる心は、経済至上主義では測れない価値を持っていると思います。
そんな考えに思いを寄せるのは、森とともに生きた祖父の存在があるからかも知れません。祖父は奈良の林野庁営林署から樺太に赴任し、1920年代から戦前戦後を通じて森林事業に生涯を捧げました。山野を歩き、林道を拓き、木を育て、森と共存する知恵を体現した人でした(国立国会図書館のデジタルアーカイブに記録が残っていました)。晩年の物静かな祖父の姿しか記憶にありませんが、山と森の情熱を生活に溶け込ませていたのかも知れません。
近年、「木育」という言葉が広まりました。子どもたちが木に触れ、森に親しむ教育です。しかし祖父のように実際に森を歩き、木と格闘しながら学んだ人の経験に比べると、木のおもちゃだけで森を語ることに私は一抹の物足りなさを覚えます。森の匂い、木肌の感触、木陰の風──現場の体験があって初めて自然への畏敬は育まれるのではないでしょうか。
一方で、北海道などでは再生可能エネルギーの名の下に森林伐採が進んでいます。太陽光パネルや風力発電の持続可能性を掲げながら、実際には森を犠牲にしている矛盾も目立ちます。森を破壊して未来を守れるのか──この問いは重くのしかかります。
自然を征服するのではなく、人と自然が一体となること。これは環境考古学が示唆する文明の条件であり、祖父が生涯をかけて体現した姿勢でもあります。森は文明の礎であり、私たちが未来へ引き継ぐべき原点なのだと、改めて思います。
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会社か、人生か?
最近ある大学教授が「キャリアとは会社をどう使うかで決まる」という趣旨の記事をビジネス誌に連載していました。賃金は若年層を厚くし、中高年を薄くする形に変動してきた。長期停滞のなかで賃下げが格差を拡大した。だからこそ企業は積極投資を、個人は「脱・会社頼み」を進めるべきだ――そうした論旨です。
一見もっともに聞こえますが、この記事には大きな前提があります。すなわち「会社」とは、日本の大企業をモデルにした組織であるという点です。しかし現実の「会社」は国や文化によってまったく異なり、その違いを見落としてしまうと、キャリア論は極端に視野の狭いものになってしまいます。
会社のかたちの違い
まず、日本の典型的な大企業、いわゆる「カイシャ」は、入社自体がキャリアの第一歩とされ、どの会社に入るかで人生が決まる構造を持っています。職務よりも所属が重視され、個人は「会社人間」として組織に埋め込まれていきます。高度成長期には有効な仕組みでしたが、今は通用しにくくなっています。私は自民党の総裁選にまったく興味がありません。メディアが連日大騒ぎして報道している姿には、むしろ狂気すら感じます。候補者が誰であるかも把握していませんでしたが、試しにYouTubeで各候補者の演説を短縮版・倍速で飛ばし飛ばし観てみました。
候補者の力量には大きな差がありましたが、全体として感じたのは「人間的魅力の乏しさ」と「政治家としてのリテラシーの不足」です。彼らは皆、立派な学歴を持っています。しかし、学歴の象徴である“有名大学卒”という経歴を見て、多くの親御さんはどう感じるのでしょうか。子どもを小学校低学年のうちから塾に通わせ、必死に受験勉強をさせてきた先に現れる姿が、この総裁候補たちの姿だとしたら。そこに教育の成功例を見出せるのでしょうか。***
キャリアとは何か ― パンくずをたどるように
「ヘンゼルとグレーテルは、ある森のなかへ入りました。
みなさんご存知の童話です。英語でパンのクズ(
例えば今の仕事をあとどれくらい経験したら、
キャリアとは人生そのもの
キャリアとは、自己発達(成長)の中で報酬を得る職業と、
学校と社会にはギャップがあります。
日本型キャリアの限界
日本の就職は「自分が何をしたいか」ではなく「会社の名前」
この構造は高度成長期には有効でした。しかし今の日本、
「自分で考える」とは何か
「自分で考える」
それは「自分で情報を収集し、自分の意見を持っておくこと」。
大組織ではどうしても「上の指示を下に伝える」「
君子不器 ― スペシャリストからゼネラリストへ
私が好んで使う言葉に「君子不器」があります。君子は器(
キャリアはまずスペシャリストから始まります。
日本ではゼネラリストが「何でも屋」と揶揄されますが、
選択にはトレードオフと機会費用がある
キャリアの選択は常に「トレード・オフ」と「機会費用」
機会費用とは「ある行動を選択したために、
迷い続ける人生と教養の価値
多くの人は孔子のように「三十にして立つ」ことは難しい。
最近「静かな退職(Quiet Quitting)」が注目されています。
教育は知識を与えますが、教養は文化の中でしか培われません。
幸福の定義は人それぞれです。
終わりに
コロナ禍を忘却してよいのか ― 日本と世界をめぐるポストモダン的考察
新型コロナウイルス感染症が世界を襲ったのは2019年12月。
欧米では社会や思想のあり方に深刻な揺らぎを残し、
欧米:ポストモダニズムの加速
コロナ禍は欧米社会において「モダニズムの限界」
こうした現象は、
日本:「忘却」と「同調」の社会
日本では欧米のような激しい分断や論争は起こりませんでした。
つまり、日本は「忘却」と「同調」
中国:国家主導の「超モダニズム」
一方の中国は、ポストモダン的な価値観とは真逆に進みました。
中国は、ポストモダンを拒絶し、
一元化と二元化 ― 哲学的な補足
私は「一元化」という言葉を、
哲学では、一元論(世界は一つの原理で説明できる)と二元論(
この点で、日本の「一体化」の感覚は、
忘却ではなく教訓へ
コロナ禍から2年、日本ではその記憶が急速に風化しています。
私たちは、歴史の痛みや経験を「なかったこと」
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こうしてみると、
隠居からの提案
教育が社会を変えるのではありません。むしろ教育は、
教育の変遷は社会の変化の結果である――
では日本の教育はどうでしょうか。