2025年8月23日土曜日

AI時代に必要な「取捨選択」の力

 

慶応大学出身の現首相は、果たして創設者である福沢諭吉の『学問のすすめ』をきちんと読んだことがあるのでしょうか。はなはだ疑問に思います。衆参両議院の議員にしても、通読した経験のある人は一割にも満たないのではないでしょうか。

福沢諭吉は、人生の前半を江戸時代の武士として、後半を明治の知識人として生きました。ヨーロッパやアメリカを視察して異文化に直接触れ、漢学から出発してオランダ語、そして英語へと学びを広げました。自らギャップに飛び込み、思考を深めた人物でした。こうした経験の蓄積があったからこそ、『学問のすすめ』第15編において「事物を疑って取捨を断ずる事」という、時代を超えて通用する言葉を残すことができたのだと思います。

いま私たちは、AIとデジタル化の時代を生きています。真実と虚偽の境界はますます曖昧になり、本物と偽物を見抜くことが難しくなりました。福沢が指摘した「取捨選択の知性」は、この時代にこそ必要とされている能力です。しかし、日本の政治家の議論を見ていると、この知性の欠如ばかりが目立ちます。スパイ防止法や監視強化をめぐり、「人権がどうなる」「民主主義が壊れる」といった表層的なやりとりに終始する姿は、自らに統治する意志がないことの裏返しではないでしょうか。

さらに福沢は、取捨選択の前提として「自らのビジョンを持つこと」を暗に示していたように思います。将来の展望や問題意識がなければ、必要な情報は集まってきません。例えば子供の教育に強い関心を持っている人のもとには、教育に関する情報が自然と集まってくるものです。逆に問題意識のない人には、氾濫する情報に翻弄される未来しかありません。幕末から明治への激動を生きた福沢にとって、ビジョンを持たないこと自体が理解しがたいことだったのでしょう。

「軽々しく信じるべからず、また軽々しく疑うべからず。信と疑のあいだに必ず取捨の明なかるべからず」――この一節は、教育現場を見つめる上でも示唆に富んでいます。もし親が子供に「納得するまで質問しなさい」と日頃から言い聞かせていたら、判断力を備えた子供が育つでしょう。しかし現実には、そんな子供は受験戦争に不利となり、先生に嫌われるだけかもしれません。これこそが日本の教育の歪みであり、知性を育てるどころか抑え込んでいる現状だと思います。

『学問のすすめ』第15編の最後で、福沢は「我々学者が勉強しなければならない」と述べています。これは当時の慶応の先生たちへの呼びかけだったのかもしれません。しかし現代に生きる私たちには「親や大人こそ学ばなければならない」という警告として響きます。

そして何より求められるのは、政治家も親も一人の大人として、自らのビジョンを持ち、氾濫する情報の中から取捨選択する知性を鍛えることではないでしょうか。

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2025年8月22日金曜日

安心感の人質

   


世界が問う「リーダー不在の時代」と日本の平和ボケ

池上彰氏や増田ユリヤ氏を誹謗中傷する意図はありません。お二人を個人的に知っているわけでもなく、著書を読み込んできたわけでもありません。ただし、彼らの時事解説が長年にわたり広く支持されている背景には、日本社会の病理が色濃く表れているのではないかと思うのです。

トランプ前大統領が「アメリカ・ファースト」を掲げ、国際秩序の舵を放り出した結果、世界は“Gゼロ(リーダー不在の時代)”へ突入しました。アメリカは世界の警察を降り、欧州は内政不安に揺れ、中国とロシアやイスラエルは規範を無視してやりたい放題を続けています。この「リーダー不在の時代」において、各国が問われるのはリーダーの資質・品格・正統性です。

ところが日本では、そもそも国民がリーダーに「正統性」を求めているのかさえ疑わしい状況があります。その背景には、日本社会の高齢者が抱える「安心感依存」があるのではないでしょうか。

高齢者は変化を嫌う傾向があります。これは単なる加齢による保守化ではなく、年金・医療・生活基盤といった制度に依存している以上、「変化=生活不安」に直結するからです。そのため彼らにとって(私も高齢者ですが)最も重要なのは、変化の中身ではなく「安心できること」そのものです。だからこそ、「分かりやすい」「耳ざわりのよい」解説に飛びつきます。そこには、現実の厳しさを突きつける批判よりも、「分かった気になれる安心感」が優先されるのです。

池上解説が「なるほど」と受け入れられるのは、国際政治の複雑さを本当に理解したからではありません。むしろ「怖い現実を咀嚼して、安心できるパッケージにしてくれるから」です。この安心依存が日本の世論形成を大きくゆがめています。

その結果、政治においても同じ構造が再生産されます。国民がリーダーに求めるのは、政策の実効性や国際的正統性ではなく、「変化しない安心感」です。つまり日本の政治は、安心感の人質になっているのです。これでは新しいリーダーを選ぶ力もなく、国際社会の変化に対応する胆力も育ちません。

欧州や米国から見れば、日本は「責任ある行動主体」ではなく、「自己満足の安心感に浸る島国」にすぎません。無責任な解説に拍手を送り、安心感を優先してリーダーを選び続ける――この現実こそ、日本が正統性を失っている最大の原因なのだと思います。

しかし、未来は閉ざされてはいません。むしろ「安心感の殻」を破り、リーダーに本物の資質・品格・正統性を求めることができるかどうかが、日本が次の時代に踏み出せるかどうかの分岐点になるのです。変化を恐れるのではなく、責任を引き受ける覚悟を国民一人ひとりが持つこと。そこからしか、日本が「平和ボケ国家」として軽んじられる現状を抜け出し、世界から信頼される存在へと変わる道はありません。

私たちが求めるべきは「耳ざわりのよい安心感」ではなく、苦くとも真実を見据えた上での責任ある選択です。その積み重ねの先にしか、日本の正統性を回復し、未来を切り開く力は生まれないのだと思います。

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2025年8月21日木曜日

正統性なきリーダーと平和ボケ国家

 

アメリカのトランプ大統領は「プーチンとゼレンスキーを直接会わせれば和平は近い」と豪語しています。しかし現実はそんなに甘くはありません。プーチンはゼレンスキーの正統性そのものを認めていないからです。つまり、交渉のテーブルにすら座れない関係なのです。

一方で、欧州の首脳たちはよく分かっています。彼らが真に望んでいるのは「一度きりの和平」ではなく「戦争を繰り返させない仕組み」です。マクロンが「プーチンは捕食者」と断じたのは象徴的でしょう。捕食者に手を差し出せば、翌日にはまた噛みつかれる。だからこそ欧州は、米国の後ろ盾を得ながら、有志連合による抑止体制や安全保障の保証に力を注いでいるのです。

要するに欧州が欲しているのは「言葉の平和」ではなく「力の平和」です。会談や曖昧な祈りでは戦争は止まらない。その現実を欧州は直視しています。

さて、この「正統性」の話になると、日本の姿が否応なく思い浮かびます。今の石破総理に総理としての資質も品格も正統性もないのは、冷静に見れば明らかではないでしょうか。ところが不思議なことに、国民の少なくとも3割は「総理続投」を望んでいる。世論調査を眺めるたびに、私は首をかしげざるを得ません。

なぜ高齢者は石破さんを支持するのでしょうか。単に「変化を望まない」からなのか。あるいは「次がもっと悪いかもしれない」という漠然とした不安からなのか。私自身も高齢者ですが、どうひっくり返っても石破さんはリーダーの器ではないとしか思えません。国民の側から見ても正統性を欠いているはずなのに、それでも支持が3割――。これが日本の現実です。

欧州のリーダーたちは、和平交渉であれ安全保障であれ、「誰に正統性があるのか」を徹底的に吟味します。だからこそ日本の首相の存在は国際政治で軽く扱われるのです。正統性を持たないリーダーが国内で一定の支持を集めているという事実こそ、日本が国際社会で信用されない最大の理由ではないでしょうか。
    
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2025年8月20日水曜日

沈黙というサウンド――60年代アメリカと現代日本

  沈黙のサウンド
        
「Sound of Silence」が発表された1960年代、アメリカはベトナム戦争、公民権運動、ケネディ暗殺など、社会の裂け目が大きく口を開けた時代でした。サイモン&ガーファンクルの歌は、沈黙の中に漂う不安、誰も口に出さない危うさを照射していました。しかし、この歌が社会批判の象徴となったにもかかわらず、70年代以降のアメリカは没落の道を歩み始めます。経済的繁栄と裏腹に、政治的分断とモラルの崩壊は進み、ついにはトランプの台頭に至りました。これはアメリカの宿命と言えるかもしれません。  

この歴史の流れは、現代の日本社会に重なって見えるのです。表向きの繁栄や安定を装いながら、実際には深刻な少子高齢化、経済停滞、政治の無能化が進行しています。ところが、人々は声を上げず、ただ沈黙のなかに身を沈めている。まるで「沈黙というSOUND」が、日本社会全体を包み込んでいるようです。

忘却の早さもまた、日本の特徴です。昭和の15年戦争、阪神淡路大震災、オウム事件、東日本大震災、そしてコロナ禍――これら大事件の記憶はすぐにかき消され、教訓は生かされません。あたかも「沈黙」が新しい常識であるかのように。

賢者は話すべきことがあっても口を開かない。愚者の話だけが声高にメディアを覆いつくす。

「Sound of Silence」は、単なる時代の歌ではありません。60年代のアメリカにおける社会批判であると同時に、現代の私たち日本人への警鐘でもあるのです。沈黙に甘んじれば、やがて「沈黙」は癌のように拡がり、社会を蝕む。

私が危惧するのは、この国が再び「声を失う社会」へと沈んでいくことです。アメリカの轍を日本がなぞらぬためには、過去を忘れず、沈黙を破る勇気を取り戻さねばなりません。

しかし現実にはどうでしょうか。国民が声を上げるどころか、与党の中枢にすら「声を持たない者たち」が居座り、沈黙を美徳と勘違いしたような政治が横行しています。その結果として生まれたのは、歴史に刻まれるべき史上最低のリーダーたちと、リテラシーのない国民なのです。これこそが、日本社会の「沈黙というサウンド」が鳴り響かせた最も皮肉な結末ではないでしょうか。

サウンド・オブ・サイレンス(翻訳 三鷹の隠居)

真っ暗闇という僕の親友、また話に来たよ。
眠っている間に種が蒔かれたんだ。
それは幻(VISION)のように忍び込み、
「沈黙というSOUND」のなかで芽を出していた。

僕は細い路地をひとり歩いていた。
街灯の光の下、冷たいもやにコートの襟を立てて。
ネオンの閃光が夜を切り裂いたとき、
僕は「沈黙というSOUND」に触れた気がした。

裸電球に照らされ、
一万人、いやもっと多くの人々が言葉をなくしたまま喋り、
疑いもなく聞き入っていた。
理解されることのない言葉を、壁に勝手に刻んでいた。
けれど誰も「沈黙というSOUND」を破ろうとはしなかった。

馬鹿だな。
何も学んでいない。沈黙は癌のように増殖していくんだ。
僕の言葉は、きっと君に届くこともあるだろう。
だけど、それは雨粒が深い井戸に落ちて、
ただ静かにエコーするだけ。

そして人々は、ネオンの偶像に祈りを捧げていた。
お告げは、地下鉄の壁や安アパートの廊下に刻まれていた。
そう、沈黙のSOUNDのなかでみんなが囁いていたんだ。

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2025年8月19日火曜日

徒然なるままに ~ 2025年夏

生成AIに以下の文章を読ませてイメージ化しました。

日本の政治の混迷は、社会全体の劣化を映す鏡のようです。小学生でもできるはずの価値判断ができず、そこに生成AIなどのテクノロジーが拍車をかけている。

思えば、平安末期から鎌倉時代にかけて生まれた『平家物語』『方丈記』『徒然草』には、無常観や価値判断の基準、さらには時間の感覚までもが宿っていました。高度経済成長前夜の1960〜70年代前半、日本の自立を憂いた若者は、サルトルを読み、学生運動やロックに救いを求めたものです。しかし今の時代、人々は「何をどうしたらいいかわからない」「何も考えたくない」と諦念の中に沈んでいるように見えます。

オルテガの『大衆の反逆』は1920年代に世界を警告しました。1927年に自死した芥川龍之介の苦悩もまた、日本社会への一つの警鐘だったのかもしれません。しかし当時の世間は耳を貸さず、時代の勢いに押されて昭和の15年戦争へ突き進んでいった。ならば今の状況を脱する原動力はどこにあるのか――残念ながら私には分かりません。

「三鷹の隠居」は、実際には「三鷹の老害」と呼ぶ方がふさわしい。年齢を重ねただけで、修行はまだまだ足りない。増長を戒めるべき立場です。

徒然草第131段に、こうあります。

おのが分をしりて、及ばざる時は、速やかにやむを智というべし

分をわきまえず、強いて励むのは己の誤りにすぎません。14世紀に吉田兼好が説いたこの至言は、いまの日本の政治家にそのまま突き刺さるでしょう。もっとも、彼らに読ませても無駄かもしれません。「分をわきまえる」どころか、分を知らないことにすら気づいていないのだから。

日本が再び歩みを取り戻すには、兼好の言葉に立ち返るしかない。しかし、政治家に限って言えば ―― まずはひらがなを読む練習から始めるのが早道でしょう。

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2025年8月18日月曜日

アンビバレントな幼児性 ~ 成長できない社会と政治への疑問

 

NHK 2025年8月12日 19時00分


通常、人は矛盾する二つの感情や価値観を同時に抱くことがあります。心理学ではこれを「アンビバレント」と呼びます。たとえば、ある出来事に対して好きでもあり、嫌いでもあると感じる状態です。本来、人間はこのアンビバレントな感情をうまく調整し、全体としてバランスの取れた人格を形づくっていきます。それが「成長」です。

ところが今の日本を眺めると、このアンビバレントを調整できないまま、ただ矛盾を抱え込んでいる大人や組織があまりに多い。まるで幼児の延長線上にあるように見えるのです。教育の出発点は、本来この「アンビバレントな幼児性」からの脱却にあるはずなのに。

福澤諭吉は「智徳と人間交際を高め、禽獣の世界から文明に近づけるのが教育である」と言いました。智徳の「智」は手段やツールにあたるインテリジェンス、「徳」はモラル。そして「人間交際」は、社交性やコミュニケーションのことです。これは人と人との関係だけでなく、国家間の外交の根っこにも関わるものです。

しかし現代の日本は、「Where do you want to go?(目的)」が定まらないまま、手段やツールばかりにしがみついています。智徳のバランスは崩れ、智に偏重し、徳は軽視され、人間交際は自己中心的。結果として「他者が見えない社会」になりつつある。その一因は教育にありますが、もう一つ大きいのがマスメディアの影響です。

その象徴が「世論調査」です。私は学生時代、朝日新聞の世論調査のアルバイトを経験しました。兵庫県全域を回り、アポをとって家庭や工場の寮を訪ね歩いたのですが、回答者は偏り、設問は誘導的で、調査の精度はお粗末なものでした。半世紀前から「これは偽善だ」と思っていたのに、いまだにありがたそうに報じられている。驚くというより、もう呆れるしかありません。

今回もそうです。石破内閣の支持率38%と報じられました。新聞やテレビもさすがに「支持率回復!」とは書きません。書いても信じる人はいないし、出している側も中身が偏っていることを知っているからです。実際、その38%の多くは高齢者に偏っていて、若い世代の声はほとんど入っていない。未来を担う層が排除されたままの数字を「国民の声」と言い張るのは、どう見ても欺瞞です。

しかも、38%が「支持」なら62%は「支持しない」か「わからない」。ビジネスに例えれば、顧客アンケートで6割以上が不満を示しているのに、経営陣が「市場から高評価を得た」と胸を張るようなものです。まともな会社なら経営陣は即座に退任です。それを「まだ支持されている」と勘違いする総理と閣僚がいる。与党議員の多くは、次の選挙を意識して「いつドロ船を逃げ出そうか」と計算しているでしょう。本気で自分が支持されていると信じているのなら――残念ですが、幼稚園からやり直すしかありません。     
   
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2025年8月17日日曜日

時代劇の消滅とその意味

  
荒野の一ドル銀貨(1966年 日本公開)

先日、半世紀以上ぶりにジュリアーノ・ジェンマ主演のマカロニウエスタン「荒野の一ドル銀貨」を観ました。懐かしさと同時に、日米双方で西部劇や時代劇といった歴史劇が姿を消してしまった現実を思わず考えさせられました。 


アメリカで西部劇が衰退した理由の一つには、マカロニウエスタンが従来のヒーロー像を変えてしまったことが挙げられます。しかし、より根本的な原因は、侵略と虐殺という自国の「負の歴史」が若い世代にとって直視しがたいものとなったからでしょう。西部劇の舞台は、アメリカが触れられたくない恥部そのものなのです。

一方で、日本の時代劇は少し事情が異なります。江戸時代を中心とした時代劇には、対外侵略の歴史が描かれることはなく、むしろ鎖国の中での国内の発展や生活の様子が映し出されています。武士道精神、庶民の知恵や道徳観、共同体のあり方――そこには、現代にも学ぶべき価値観が数多く残されています。子供の頃に観た「銭形平次」や「水戸黄門」、あるいは若い頃に読んだ池波正太郎や藤沢周平の作品の中に、日本人の精神性や暮らしの知恵が脈々と受け継がれていました。   

にもかかわらず、今や時代劇はテレビや映画からほとんど姿を消しました。その理由は、衣装やセットに費用がかかること、視聴率が伸びないこと、そして若年層が古臭いと感じてしまうことにあります。まさにデフレスパイラルのように、作られないから観られない、観られないから作られない、という悪循環に陥っているのです。

背景には、制作側が若者に届く新しい価値観を時代劇に取り込めないこと、さらには社会全体に「歴史観」や「文化観」を育てる素養が乏しくなっていることもあるでしょう。これは日本の義務教育が歴史を「暗記科目」に押し込め、本当の意味での教養として伝えてこなかったことと無関係ではありません。

時代劇の衰退は単なるテレビ文化の衰退ではなく、日本人が自国の歴史や精神文化を手放しつつある象徴のようにも思えます。アメリカの西部劇が「恥部」を隠すために消えたのだとすれば、日本の時代劇は、受け継がれるべき精神を置き去りにして消えつつあるのかもしれません。だからこそ、その消滅には寂しさ以上の喪失感があります。

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2025年8月16日土曜日

邂逅と漂流の八十年

 

今週、母方の実家の墓じまい(二か所)が終わりました。

母方には現在、西宮の施設にいる92歳の叔母が一人残るだけで、跡取りはいません。したがって、先祖代々のお墓もここで幕を閉じることになったのです。 

お墓は奈良唐招提寺の裏手、小高い山にありました。子供の頃、その墓は竹林の中にあり、柔らかな木漏れ日と静かな空気に包まれていました。しかし、何十年にもわたる乱開発で山は削られ、今では周囲に住宅がぎっしりと立ち並び、その中に古い墓地だけが唐突に取り残されたような様相になっています。

縁というのは、不思議な言葉です。

難しく言えば「邂逅」。人だけでなく、モノや出来事、土地との出会いもまた、人生の方向を変えます。

父方の祖父は二十代で奈良・橿原を飛び出し、樺太の最北端へと移り住みました。営林署の若い役人でした。理由は定かではありませんが、父の話では古いしきたりや家の束縛から逃れたかったようです。結果として、祖父は奈良での安定した道ではなく、「迷子の道」を選んだのでしょう。戦局が悪化する中で奈良へ戻ってからは、死ぬまで裕福とはいいがたい暮らしが続きました。

樺太は、祖父が渡った時代も、そして八十年前の敗戦の夏も、激しい変動の地でした。ソ連軍の南下と混乱、大量虐殺、真岡郵便局の悲劇。朝鮮半島から仕事を求めて渡った数万人の朝鮮人は、1990年の韓国・ロシア国交回復まで帰国できずにいる人が多くいました。そこには、国境に翻弄される庶民の姿が幾重にもありました。
  
こうした歴史を思うと、いま日本が「政治の漂流状態」だと評される現状も、もっと長い時間軸で捉える必要があると感じます。
   
確かに現政権はリーダーの資質により漂流している。しかし、日本の漂流は今に始まったことではありません。戦後八十年、この国は本質的な意味で一度も政治が機能してこなかったのではないでしょうか。江藤淳が語った「忘れたことと忘れさせられたこと」。敗戦直後、日本人は強制的に忘れさせられました。そして今や、日本は自ら進んで忘れようとしているのかもしれません。自己欺瞞から虚無主義へと滑り落ちながら(ニーチェの言った、最後に立ち上がる虚無ではなく)。   

墓じまいは、単なる整理ではなく、血縁や土地の記憶との別れです。そこには、個人の記憶と、国家が選び取った「忘却の道」とが、静かに重なっています。振り返れば、漂流の八十年とは、結局のところ、私たちがその邂逅から目をそらしてきた時間なのかもしれません。

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2025年8月15日金曜日

海ゆかばと靖国の静けさ

 


日本の夏、とくに終戦記念日である八月十五日が好きではありません。


若いころから何度も口にしてきたことです。今年も例外ではありませんが、今年はとりわけ『海ゆかば』の旋律とともに、亡き父のことを思い出しています。

父は十数年前、83歳で亡くなりました。70歳で脳出血を発症し、亡くなるまで左半身麻痺の高齢者として生きました。私も来年は古希を迎えます。そのせいか、今年の夏は父の姿がことさら胸に浮かびます。そして、この国の政治家の発言や行動に、あらためてあきれ果てています。こんな人たちが日本という国家を動かしているのかと思うと、全く無責任だと感じます。メディアも同じです。私はテレビを見ませんが、YouTubeで断片的にコメンテーターの発言を耳にしたり、ネットで「識者」と呼ばれる人たちの言葉に触れたりします。しかし、その多くは非常にお粗末な認識にすぎません。40〜50年前も同じような気持ちで八月が嫌いでしたが、今の日本の状況はそれ以上にひどいと感じます。

父は戦争に行きませんでした。樺太西海岸の泊居(トマリオル)という小さな町で生まれ幼少期を過ごしました。父の父、私の祖父は奈良出身の営林署(宮内省林野局)の役人で国有林の管理が仕事だったみたいです。祖母は根室の人でした。小学校三年のとき、祖父の転勤で泊居から樺太庁の所在地である豊原市に移り住みます。暮らし向きはよく、父は読書好きな普通の少年だったようです。しかし戦局が悪化し、祖父の判断で故郷の奈良へ戻ることになります。この判断は絶妙なタイミングで、祖父の世界を読む目と判断力の確かさを物語っています。

終戦の年、父は15歳で、学徒動員により愛知の軍事工場に入り、ゼロ戦に搭載する20ミリ機関砲を作っていました。祖父も父も固定観念に縛られず、祖父は明治生まれでありながら自分で料理をし、茶碗を洗う人でした。奈良の立派な家系に生まれながら世界の森を渡り歩き、父もまた、自分の基準(物差し)で生きる人でした。若いころは会社で生意気だといじめられ、出世やお金とは縁がありませんでしたが、本を読み、絵や書、水墨画を楽しみ、車を愛しました。

70歳で倒れたあとも、76歳で妻を亡くしてからも、父は障害を抱えながら独りで前向きに暮らしました。戦争体験については多くを語りませんでしたが、何度か『海ゆかば』を口ずさむ姿を見ています。大伴家持が西暦783年に詠んだこの歌は、国のためではなく、愛する人のために命を捧げる鎮魂の歌です。人が生きるには理由が必要であり、人間は自らの生きる価値を見つけなければならないのだと感じます。

奈良中学(現・県立奈良高校)の時、父は勤労動員で豊橋の幸田へ行かされました。団塊世代のように戦争を知らないのではなく、少年期を戦争のただ中で過ごしたことが、単なる反戦ではないリベラルな思想の土台になったのだと思います。加えて、両親の自由な考え方も影響したのでしょう。

そんなことを思い出しながら、終戦の日のニュースを見ました。石破首相は靖国参拝を見送り、私費で玉串料を奉納すると言います。ほかの閣僚も「適切に判断する」と言葉を濁し、理由は語りませんでした。そもそも総理大臣が一個人として昭和の戦争を総括するなど、なんという傲慢な思い上がりでしょうか。私は、国のリーダーが靖国を無視することを理解できません。参拝は戦争を賛美する儀式ではありません。そこに眠るのは、名もなき兵士や、愛する人のために命を落とした人々です。他国への忖度であれ国内への配慮であれ、理由はどうあれ、国の礎を築いた人々への敬意すら示せないのなら、政治家としての資格は問われるべきだと思います。それを公言できないのが今の日本です。

靖国に行けとは言いません。しかし、せめて『海ゆかば』の静かな旋律を聴きながら、哀悼の意を表することがなぜできないのでしょうか。今年の八月十五日も、九段の空にその歌が流れることを、私は心から願っています。

そしてその旋律が、かつて命を賭した者たちの魂に、静かに届くことを信じています。

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2025年8月14日木曜日

お好み焼きと思考の高め方、ほんまに奥深いで

 


お好み焼きって、作り方がめっちゃ奥深いねん。関西人やさかい、ちょっと口出したくなるんやけど、ほんま奥が深いんよ。大きく分けたら関西風、関東風、広島風の三種類や。関西風と関東風は、具と生地を混ぜる「混ぜ焼き」が特徴や。キャベツはみじん切りにして、生地と具がよう混ざるようにするんやけど、関西風は生地少なめ、関東風は多めって違いもある。広島風は生地を薄うのばして、その上に具材をのせる「重ね焼き」。ひっくり返すときに散らばらんよう、キャベツは長めの千切りがええんや。


昨日、気合い入れて作ったんやけど、、、大失敗や。キャベツを粗みじん切りにしたつもりが、2~3センチ角になってもうてな。鉄板の上でキャベツが飛び散りまくって、えらいことになってもうたわ、「さっぱりワヤヤ」や。豚バラも、いつもは最初に焦げるまで焼いてから生地のっけるんやけど、今回は生地の上に豚バラのせて、かつお節もパラパラ。味はまぁまぁやったけど、細かい違いで全然変わるんやから、料理ってほんま面白いわ。

オイラが料理好きなんは、料理作りたいときだけ作るからやと思うワ。気が向いたときだけ手を動かす、そんなんがええんや。実は、手軽に達成感を味わえる単純作業の皿洗いも好きやで。これもまた、ちょっとした「作業の楽しみ」やねんな。

このお好み焼きの話、実は思考の進め方に似とるねん。料理も思考も、試行錯誤を重ねて「失敗の幅を狭める」作業や。キャベツの切り方や長芋の量ひとつで完成が変わるように、頭の中で言葉や考え方を整理して試すことで、思考の精度が上がるんや。読書も同じで、文章を読むことで知識や語彙を頭に蓄え、整理する。そうすると、自分の考えを組み立てやすくなるんよ。

書くことは、その読解力をさらに深める最良の手段や。ただ、ハウツー本ばっか読んで、チャットで短文のやり取りだけして満足してると、老後も内容のない生活になってまう。文章の要約や作成を生成AIに任せきりにすると、料理で例えたら「材料を放り込むだけで味見もせえへん」状態や。自分で試行錯誤せんまま完成品を食べるだけやから、思考力も深まらんわ。

だから、料理も思考も一緒や。手を動かして、材料を考えて、試行錯誤して、自分で組み立てる。その過程を楽しむんがほんまに面白いんや。お好み焼きも、文章も、人生も、奥深さを味わうことが大事やねんな。わかってくれはりますか?

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2025年8月13日水曜日

サックス11か月、まさかの初歩ミス発覚!

 27年前に息子のために買ったサキソフォン

当時、800ドルでした。


サックスを始めて11か月。これまで「なんだか楽器がぐらぐらして安定しないなあ…」とずっと思っていました。持ち方が悪いのか、それともサックスを構える位置に問題があるのかと思っていたら、まさか原因は自分の口にあったとは。

実は、吹奏楽出身の人たちと、私が目指す黒人ジャズやファンキー系サックスプレーヤーでは、口元の形が違うことは早くから分かっていました(ありがとうYouTube)。でも、口の中まで見せてくれる動画はない。まるで料理番組で「ここで味を整えます」の一言で終わらせるようなもので、肝心なところが素人にはわからない。

アンブシュア(マウスピースをくわえる形や筋肉の使い方)については、教則本にもネットにも「音色や音程、演奏の安定性が向上します」とは書いてあるけれど、どうやら一番大事なことが抜け落ちていたようです。

私の致命的ミス、それは――上の歯をマウスピースから浮かせて吹いていたこと。

「え?そんなの普通じゃないの?」と思ったあなた。違うんです。正解は、上の歯をしっかりマウスピースに当てて固定すること。そうすれば楽器はぐらつかず、口角も自然に締まる。

このことに気づいた瞬間、「なんだ、今までの私は水漏れ配管みたいな音を出してたのか…」と心の中で頭を抱えました。次からは、安定感のある音を出せるはず。あとは腕前がそれに追いつくのを待つだけ――人生の第四コーナーにいる自分に、まだ間にあうか?

Sax at Eleven Months — and the Rookie Mistake That Had Me Playing Like a Leaky Faucet
  
I’ve been at the saxophone for just under a year now, and for all that time one question haunted me: Why does this horn feel like it’s trying to wriggle out of my hands? I blamed my grip. I blamed my posture. I even blamed gravity. But the truth was far closer to my face — inside my mouth, in fact.

Early on, I spotted a difference between the neat, disciplined embouchures of concert-band players and the looser, swagger-infused style of the Black jazz and funk saxophonists I admire. (Thanks, YouTube.) Trouble is, YouTube never shows you what’s going on inside the mouth. It’s like a cooking show that cuts to the next scene after, “And now we season to taste.” Great — but what taste, exactly?

Method books and websites talk plenty about embouchure — that magical blend of mouth shape and muscle control that shapes your tone, intonation, and stability. But apparently, they’ve all been skipping over the one thing that could have saved me months of frustration.

Here it is: I’d been playing with my top teeth hovering above the mouthpiece. Floating. Not touching. Not anchoring.

If you just muttered, “Wait, isn’t that fine?” — nope. The pros rest their top teeth firmly on the mouthpiece, locking it in place like a tripod’s center pole. Do that, and suddenly the horn stops wiggling, the corners of your mouth pull in naturally, and the whole setup feels solid.

When I finally discovered this, I nearly dropped the horn. So all this time, I’ve been sounding like a busted water pipe? No wonder I couldn’t keep things steady.
Now, with this one fix, my tone’s got a fighting chance. All I need is for my chops to catch up. But here I am in life’s fourth quarter, racing the clock and hoping the music will still let me play overtime.

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2025年8月11日月曜日

戦後80年、日本は何を語るのか──歴史と未来の往復運動

戦後80年の言葉と歴史の重み

石破総理が「戦後80年談話」を出すかどうかで議論が起きています。国家の節目に発する言葉は、国内だけでなく海外にも響きます。そのため、首相がどのような歴史観を持ち、どれほどの教養と深慮を備えているかは、極めて重要です。軽々しい言葉は誤解や摩擦を招き、国益を損なう危険さえあります。残念ながら、近年の日本政治からは、真に歴史を踏まえた上での重い言葉が聞こえてくる機会が減っているように思います。

歴史と時代の往復運動

歴史を語るとき、私たちはしばしば「過去の事実をそのまま伝えること」と「現代的な解釈として物語ること」の間で揺れ動きます。けれど、どんなに過去を見ようとしても、そこにいるのは現代を生きる自分自身です。視点や感情が入り込み、事実は必ず再解釈されます。だからこそ、過去と現在は循環的に結びつき、互いに影響し合いながら理解が深まっていくのだと思います。

誰もが、自分と異なるもの、違和感のあるものを排除しようとする傾向を持っています。これは国家も同じです。アメリカはアメリカ以外のものを、中国は中国以外のものを排除する方向に動きます。その中で、日本のように「常に誰かに従属する」姿勢をとり続ける国は、人類史の中でも珍しい存在です。

グローバル化と分断の歴史

近代の世界は、つながりと分断を繰り返してきました。19世紀末、産業革命が世界を加速させ、資本や人が国境を越えて移動する第一次グローバル化が始まります。しかし1914年、第一次世界大戦がその流れを断ち切り、各国はブロック経済とナショナリズムへと傾きました。

戦後には再び逆の動きが生まれます。GATTやブレトンウッズ体制のもとで貿易と資本の自由化が進み、1980年代以降はインターネットの普及によって世界が“フラット”になったかのように見えました。けれど、2008年のリーマンショックやパンデミックを経て、国境や経済圏の壁が再び強まりつつあります。

この「つながり」と「分断」の往復運動は、歴史の中で何度も繰り返されてきました。

次の秩序を描くのは誰か

歴史はコピーのように繰り返されるわけではありません。けれど、似たような構造や力学は形を変えて現れます。つながりの加速 → 格差やひずみの拡大 → 社会の緊張 → 境界の再構築 → 新たな秩序の模索――。いま、私たちはその再構築の入り口に立っているのかもしれません。

この先の秩序や安定のかたちは、過去の延長線からは生まれにくいでしょう。国家も企業も教育も、既存の発想に頼る限り、同じ結果しか得られません。異なる視点や世代からの発想が求められています。

未来世代への呼びかけ

地図のない場所を歩くことは、苦しくもあり、同時に面白くもあります。
未来は遠くにあるのではなく、日々の選択と学びの積み重ねの中に少しずつ現れてきます。

戦後80年を機に、その一歩をどちらに踏み出すか――それは私たち自身の手に委ねられています。  

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2025年8月10日日曜日

武蔵野市 ~ 知られざる歴史といま

           


カフェやギャラリーが並び、文化人やリベラルな思想の住民が集う街。それが東京・武蔵野市です。南北にはJR三鷹駅北口(玉川上水から北側)から西東京市や練馬区方面へ、東西には武蔵境から吉祥寺まで広がっています。しかし、この街が歩んできた80余年の歴史をご存じの方は、意外と少ないようです。

1944年11月24日、B-29の大編隊がサイパンを飛び立ち、日本本土初の本格空襲を行いました。その最優先目標は東京都心ではなく、三鷹駅北側──現在の武蔵野中央公園一帯にあった中島飛行機武蔵製作所でした。この工場は零戦のエンジンをはじめ、陸海軍機の心臓部を製造していたため、米軍の重要攻撃対象となっていました。

当時の武蔵野町(現・武蔵野市)の人口は、工場開設前後の数年間で急増しており、爆撃の頃には3万人程度に達していたといわれます。米軍はまず市内2か所の浄水場(東京都水道局と武蔵野市水道局)を狙い、水源を断った上で工場への集中爆撃を行いました。初回の空襲だけで57人が死亡、75人が負傷。その後、終戦までに計9度の空襲が繰り返され、犠牲者は数百人にのぼりました。

中島飛行機武蔵製作所が破壊し尽くされた後も、空からの脅威は終わりませんでした。1945年7月末からは、硫黄島を拠点とするP-51戦闘機による悪名高き機銃掃射が始まりました。それは、まるで騎兵隊がインディアンを追い立てるかのように、列車や市街地を容赦なく襲いました。さらに、原爆投下を担った特殊部隊によって、模擬原爆「パンプキン爆弾」が投下され、爆撃精度の訓練や被害データの収集が行われました。武蔵野の空は、終戦直前まで戦争の影をまとい続けたのです。

戦後、焼け野原となった工場跡は米軍に接収され「グリーンパーク」と呼ばれました。接収解除後には野球場が建ち(神宮球場が接収されていたため)、やがて団地や公園に姿を変えました。いまは穏やかな住宅地や憩いの場となっていますが、その地下には戦時の記憶が静かに眠っています。

そして現代。この4〜5年で外国人の流入は増え、ゴミ収集車にも外国人労働者の姿が見られます。多様性が進む一方で、街の歴史を語り継ぐ声は次第に少なくなっています。

過去を知り、語り継ぐことは、単なる「場所」ではない街の顔を守ることです。武蔵野市はいま、その分かれ道に立っているのかもしれません。

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2025年8月9日土曜日

明治の不平等条約を思い出す夏

銀座通り 1904年(ネットで拾ったフリー画像)


明治の不平等条約と聞くと、遠い歴史の話のように響くかもしれません。

けれど、令和の政治を見ていると、あの屈辱の記憶がふと胸をよぎるのです。幕末、日本は欧米列強と結んだ条約で治外法権を認め、関税自主権を失いました。国家の体面を失うというのは、こういうことだったのでしょう。そしてその屈辱が、明治維新を動かす大きな火種となったのです。

あれから157年。明治元年から数えれば、すでに日本は近代国家として老齢に差し掛かっているはずです。しかし今、政治家もメディアも知識人も、近代から現代への歴史を一望できるリーダーがほとんど見当たりません。地図も羅針盤も持たずに航海している船のように、日本は漂っている気がします。

明治から1975年ごろまで、日本には近代と真正面から格闘する知識人たちがいました。

福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石、芥川龍之介、小林秀雄、三島由紀夫、福田恆存、そして戦艦大和の生き残り士官である吉田満。彼らは本気で「日本はいかに欧米と渡り合うか」を考えました。ときに文明の本質を疑い、ときに日本人の魂を問いました。戦争を経験し、敗北を知った世代だからこそ、考えざるを得なかったのかもしれません。

しかし団塊世代の多くは、1945年8月15日を出発点として現代を見ています。それ以前の近代史を見ようとしない視野の狭さに、私はかねてから違和感を抱いてきました。これからの日本は、若い世代がどこまで「近代化の超克」を真剣に考えられるかにかかっています。

近代とは、何でしょうか。

西欧では、カトリック教会が支配していた世界が16世紀を境に崩れ、国家という新しい枠組みが生まれました。国民は防衛を国家に委ねる契約を結び、その見返りに命と財産を守られます。真理の探求も宗教の手を離れ、ニュートンの万有引力、ダーウィンの進化論を経て、近代科学が確立しました。それは必ずしもキリスト教と相容れない価値観でしたが、人類はそれを受け入れました。

日本の近代は、黒船のペリーが圧倒的な武力で開国を迫ったときに始まります。植民地化の恐怖は現実でした。宗教の力も、アヘン戦争の結末も知っていた日本は、一気に明治維新へと突き進み、文明開化を押し進めます。日清・日露戦争、第一次世界大戦を経て列強入りを果たしましたが、成り上がりの日本は世界情勢の腹黒さを読み切れず、ついには対英米戦争へと突入してしまいました。

21世紀に入った今、近代そのものが壁にぶつかっています。

冷戦後、資本主義は暴走し、格差は広がり、環境は破壊され、誰も止められなくなった。アメリカもまた、中産階級が崩壊し、かつての白人社会の安定は失われました。権力の中心も変わりつつあります。日本は今こそ、近代を単なる輸入概念としてではなく、自らの血肉として咀嚼し、新しい世界観を見つけ出すべきです。戦後70年、占領政策と自己欺瞞の中で「日本的価値」は自明ではなくなり、アイデンティティを問い直す声すら聞こえなくなりました。迎合ではなく、他国の文化を理解しながら、自国の基準で行動する覚悟。それを失えば、日本は形だけの国として漂い続けるでしょう。

日本は、かつて「近代」という大河を全力で泳ぎきろうとした時代があったように思います。その記憶と気概を、私たちは思い出す必要があるのです。

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2025年8月8日金曜日

献身という事 ~ 戦後80年の夏に思うこと

リンカーン(Wikiより)

8月15日が近づくたびに、私は必ず思い起こすことがあります。

私は「もはや戦後ではない」と言われた世代に生まれたため、1945年8月15日の記憶は持っていません。しかし、子どもの頃からこの日はどうしても嫌いでした。その理由は、三島由紀夫が述べた「限りなき悲哀」を、私は毎年感じるからです。

この日、私は常に戦後日本の教育が作り上げた歴史認識に違和感を抱きます。日本は敗戦後、過去を直視することを避け、まるでダチョウが目を閉じて現実を見たくないかのように、過去を無視してきたように思えます。

私はリンカーンの「ゲティスバーグ演説」を思い出さずにはいられません。

アメリカ人が深く愛してやまない言葉「devotion」は、この演説でも強調されています。リンカーンは、戦争で命を落とした人々が「無駄死にではない」と強く伝えたかったのでしょう。彼は、戦争の悲劇を慰霊しつつ、その犠牲が決して無駄ではなかったことを伝えたかったのです。

リンカーンが訴えた「人民の人民による人民のための政治」というフレーズは、単なる有名な言葉にとどまるものではありません。その本当のメッセージは、戦争で命を捧げた人々が決して無駄死にではなく、彼らの献身があって初めて、新たな誓いとして自由と平和を守るための政治が成り立つ、というものです。

戦後80年の今、私は戦没者の献身を無駄にしないことが私たちの責務であると強く感じています。日本の過去を見つめ直し、戦争の犠牲者への感謝と敬意を示すためには、自己批判的な歴史認識を超え、私たちの名誉を守るために立ち上がらなければなりません。リンカーンが訴えた「devotion」の真の意味を、今こそ深く考えるべきです。

この夏、国民が最も求めるべきは、戦没者を敬い顕彰することです。そのためには、国のリーダーには靖国神社への参拝が最も意義深い行為であると私は信じています。

さらに、民意を無視し、辞任を表明しない総理大臣に対して、私は強い不満を抱いています。政治家として、責任を果たさずその座にとどまり続けることが、いかに無責任であるかを再認識すべきだと思います。

私は誠実な歴史認識と、真摯な責任の取り方を信じています。日本の未来を守り、戦没者の犠牲に感謝するためには、自己批判的な歴史観を超え、日本の名誉を守り続ける姿勢こそが今、最も必要だと考えます。それが、今の日本の子どもたちに対する大人の責任です。

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ゲティスバーグ演説
ゲティスバーグ、ペンシルバニア州 1863年11月19日

87年前、我々の父祖たちは、自由の精神に育まれ、人はみな平等に創られているという信条に捧げられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。 今我々は、一大内戦のさなかにあり、戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、このようなあらゆる国家が、長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである。われわれはそのような戦争に一大激戦の地で、相会している。われわれはこの国家が生き永らえるようにと、ここで生命を捧げた人々の最後の安息の場所として、この戦場の一部をささげるためにやって来た。我々がそうすることは、まことに適切であり好ましいことである。 しかし、さらに大きな意味で、我々は、この土地を捧げることはできない。清め捧げることもできない。聖別することもできない。足すことも引くこともできない、我々の貧弱な力を遥かに超越し、生き残った者、戦死した者とを問わず、ここで闘った勇敢な人々がすでに、この土地を清めささげているからである。世界は、我々がここで述べることに、さして注意を払わず、長く記憶に留めることもないだろう。しかし、彼らがここで成した事を決して忘れ去ることはできない。ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きている我々なのである。我々の目の前に残された偉大な事業にここで身を捧げるべきは、むしろ我々自身なのである。 ――それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を 尽くして身命を捧げた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、我々が一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、我々がここで固く決意することである。)—Abraham Lincoln

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2025年8月5日火曜日

Oh, That's a RIP-OFF ‼


合意なき合意、責任なき交渉

例によってYouTubeで国会中継を2倍速で視聴しました(更にとばして)。

登場していたのは、いまこの国を動かしているはずの人たちです。ですが、突っ込みどころ満載でイライラしてしまいます。質問が届かない。答弁がかみ合わない。責任の所在も、言葉の重みも、どこかへ置き忘れてきたような印象を受けました。

なかでも象徴的だったのが、石破内閣による日米の関税交渉をめぐるやり取りでした。政府は「合意に達した」と胸を張りましたが、その合意には、文書が存在していません。署名も、共同声明も、読み上げもない。つまり、何も記録が残っていないのです。

民間のビジネスでいえば、「取引先を信じて発注書なしで仕事を進めました」と言っているようなものです。そういった関係が成立するのは、町工場の親方と昔ながらの得意先くらいでしょう。国家間の交渉においては、それは“信頼”ではなく“無防備”と呼ばれます。  

「Rip-off」の感覚を持っていたら

英語には rip-off という表現があります。
「ぼったくり」や「法外な取引」といった意味合いです。

たとえば、アメリカ側が強硬な関税条件を突きつけてきたとき、日本側が “Oh, that's a rip-off.” と返していたら、交渉の雰囲気は少し違っていたかもしれません。

もちろん、本気で怒る必要はありません。ニヤリと笑って、ブラックジョークを交わす程度でもよかったのです。本音がぶつかり合う場にこそ、交渉の入り口はあります。それをせず、ただ「Yes」と言えば場が収まると思っていたのだとすれば、それは交渉ではなく譲歩にすぎません。

書かれていない「Ts」= 義務

かつて先輩が、こんな話をしていたことがあります。

「契約には Terms and Conditions(Ts and Cs)がある。けれど、日本人は Conditions(条件)ばかり見て、Terms(期間や終了条件)を見ない」

これは、まさに今の日本外交にそのまま当てはまります。“合意”と呼ばれているものの、そこには期限がありません。終了条件も不明です。何が義務(terms)で何が義務でない(conditions)かが分かっていない。アメリカから見れば、「あとから都合よく解釈を変えるための余白」がたっぷりある、扱いやすい“合意もどき”と映っていることでしょう。

今後、アメリカはこう言い出すかもしれません。

「あの合意には期限がなかった」
「“努力する”と言っただけだ」
「国内事情が変わったので内容を見直す」

トランプ大統領の交渉は、まさにマンハッタンの不動産屋のものなのです。

鉄砲は、後ろから撃たれる

この“合意”の影響は、直接、産業の現場に降りかかります。とくに、自動車メーカーにとっては、まるで背後から撃たれたような衝撃だったはずです。

アメリカ市場での販売戦略は、関税やレギュレーションに左右されます。その重要な前提を、政治家の気まぐれで勝手に組み替えられてしまってはたまりません

本来であれば、トヨタの会長あたりが激怒してもおかしくない局面ですが、日本の大企業は「空気を読む」ことに関しては世界でも随一の対応力を持っています。今回はおそらく、静観して後で帳尻を合わせる、ということなのでしょう。しかし、その帳尻はあまりにも大きすぎるかもしれません。

「責任」は言葉ではなく、紙でとる

交渉の本質は、「書かれていること」で決まります。言った・言わないのやり取りは、交渉ではなく雑談の領域です。それにもかかわらず、今の日本政治は「説明責任」ばかりを強調して、「契約責任」にはほとんど関心を示しません。外交の現場に必要なのは理想論でも情熱でもなく、紙に残すという冷静な習慣なのです(紙に残しても反故にされる場合もあるのですから)。

もしこれが企業の案件であれば、社内の稟議書にはこう書かれるでしょう(アメリカの場合、稟議書にあたるのは「business case」です)。

「この案件、Ts(期限)なし。書面もなし。相手が強すぎる。リスク大」
「却下!」

ところが、いまの政府はそれを“成果”と呼んでいます。

紙のない外交に、未来はありません。そう言い切れるだけの見識と経験を持つ人が、もう少し政治の中にいてもよいのではないでしょうか。市町村議会じゃないんだから(ご無礼)。

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2025年8月4日月曜日

八月という季節に思う──戦後日本と私の違和感


人生の先が見えてきたからでしょうか、かつて強烈だった8月への拒否反応も、最近ではやや和らいできました。それでも20代の頃から、私は8月に日本にいることが本当に嫌でした。理由は明快です。テレビや新聞、雑誌など、メディアが取り上げる「戦争」や「終戦」の話題に強い強い不快感を覚えるからです。そうした報道の空気に触れるたび、日本人でいることが情けなくなるのです。

なぜ不快なのか。それは、どれもが「うわべ」だからです。日本の教育界やメディアには、 戦後に輸入されたアメリカ式教育思想を誤って解釈した影響が強く残っています。すっかり空疎な理想主義と責任転嫁の術だけを身につけてしまった。日本人としての自己認識も歴史的教養も欠けているように見えます。

私は40年以上前から、「もう日本人は戦後に喪失した主体性を、今こそ取り戻すべきだ。自らの足で日本を発見すべきときだ」と言い続けてきました。それは決して、戦前の独善性に回帰することではありません。むしろ、もっと広く、もっと深く、長所と短所を見きわめ、日本人とは何者かを考え、新しい時代へと進むための手がかりを見出すべきだという思いからです。

世界のあらゆる仕組みには、ルールがあります。なぜなら、多くの国が人間の本性を性悪説に立脚して理解しているからです。人間は不完全であり、禽獣の域を脱していない――その認識が、政治や外交の現実的な土台を支えています。国家間の摩擦は、文化、感情、認識のギャップから生まれます。日本の2000年以上に及ぶ文化と、17世紀以降のアメリカ的近代文明とは、人生観も倫理観も宗教観も根底から異なるのです。だからこそ、国家間の問題には抽象的なレベルにおける理解が不可欠です。

ところが日本では、議論は逆の方向に流れがちです。政府、官僚、企業を構成するエリートたちは、具体的議論には長けていても、抽象的な思考や全体像をレベルセットする能力に欠けています。現行の教育制度もその原因の一つです。教科ごとの知識(=柱)は立てるが、それらをつなぐ「梁」を架けることはない。つまり、体系性のある思考が育たないまま社会に出てしまう。

結果として、抽象と具体のバランスをとって思考・行動するという、もっとも基本的な知的態度が形成されない。「君子不器」――孔子のこの言葉が今こそ重みを持ちます。すなわち、君子たる者は一つの機能にとどまるなという教えです。現代の日本に欠けているのはまさにこの「全体性」への志向です。

若い人たちには、単に「人殺しは悪い」「戦争は悲惨だ」といった情緒的で抽象度の低い話だけではなく、「戦争論」としてのメタ的な視座から、ものの考え方を鍛えてほしいと思います。誰だって人殺しは嫌です。そんなことは言われなくても分かっているのです。問題は、なぜ人は戦争に踏み込むのか、 国家という単位で命が動員される現実がどうして発生するのか――そうした根本的な問いです。

日本のメディアは、8月になると「反戦」の情緒的メッセージを繰り返し流しますが、それがあまりにも浅く、そして自動化されていて、私はむしろ絶望すら覚えるのです。だからこそ、今の日本で残された道は、一人でも多くの若者に覚醒してもらうこと。そのためにも、「器にとどまらぬ君子」を育てることに尽きるのではないか。

この国がここまで堕ちたのだと痛感させる政治家の顔、、、頭がくらくらするのは、どうやら暑さのせいだけではないようです。   
    
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2025年8月3日日曜日

私の戦後80年談話

 
広島平和記念公園にある「原爆の子の像」(著者撮影)


近代史の影と未来への責任

―― 広島・長崎から福島まで、「核」と向き合うということ

広島と長崎への原爆投下から80年が経過しました。今もなお、私たちはその出来事とどう向き合い、どのように未来に継承していくのかを問われ続けています。しかし、この惨劇を自然災害のように扱い、「落ちた」のではなく「落とされた」のだという事実すら、どこか曖昧にされているように思えます。なぜ原爆が広島と長崎に投下されたのか。その背景を正しく理解し、語り継ぐことなしに、日本が真に戦後レジームを脱却し、自立した国家となることはありえません。

アメリカが核兵器を使用した狙いは何だったのか? ハリー・トルーマン大統領と側近のバーンズによる対ソ戦略や外交交渉の布石として、原爆が使用されたという見方は根強くあります。1945年8月6日、ウラン型爆弾「リトルボーイ」が広島に、8月9日にはプルトニウム型爆弾「ファットマン」が長崎に投下されました。同日の早朝にはソ連が満州・樺太に侵攻。スターリンは、日本の即時降伏を恐れて慌てて日ソ中立条約を破棄し、参戦を決断しました。

日本政府はソ連に和平の仲介を期待していたため、まさに戦略は裏目に出ました。8月10日、日本はようやくポツダム宣言の受諾を決定しましたが、すでに二発の原爆が使われた後でした。アメリカが原爆投下によってソ連の軍事的拡張を抑止しようとしたにもかかわらず、その後の歴史が示す通り、それは成功したとは言い難く、むしろ米ソ冷戦が加速しただけでした。

トルーマンとバーンズは、ポツダム宣言の文面から「天皇の地位保全」に関する条項を削除し、日本に最後通牒として伝わらないよう配慮したとも言われています。結果的に日本政府の判断をさらに迷わせることとなりました。この種の「外交上手」は、裏を返せば実に腹黒い計略とも言えるでしょう。

戦争の背景にある国際政治の複雑さや外交のデリカシーに対して、日本はあまりにも鈍感でした。いくら「過ちは繰返しませぬから」と誓ったところで、その背景を正確に検証しなければ、核兵器反対や原発反対を叫ぶ声も、列島の中だけで響く空疎な反復になりかねません。

原爆と原発は技術的には異なるものの、どちらも「核」という共通点を持ち、日本の歴史に深い爪痕を残しています。福島原発事故のような比較的新しい出来事でさえ、事故の根本的な原因(root cause)についてはいまだに見解が分かれています。この事実は、広島・長崎への原爆投下という、より複雑で多層的な歴史的事象の真相解明がいかに困難かを物語っています。

アメリカと日本の間には、単なる戦争の結果ではなく、思想的・哲学的な断絶があります。アメリカの近代国家主義は、アトミズム(原子論)という、「個」がバラバラに存在する世界観に基づいています。対して日本は、人と人が支え合う分子論的な共同体の価値観に基づいて社会が構成されてきました。その断絶は単なる文化の違いではなく、戦争やその後の占領政策、現在の国際政治にも影を落としています。

私たちが国際社会においてどう生きるかを考えるとき、世界には「共通の正義」や「普遍的な価値」など存在しないことを前提にすべきです。外交とは「キツネとタヌキの化かし合い」であり、自分の国は自分で守るという覚悟が必要です。国連の存在や国際法の限界は、朝鮮戦争やソ連の国連拒否権の扱いなど、歴史が既に証明しています。

だからこそ、私たちは過去の戦争や核の問題を、単なる過去の出来事として扱ってはなりません。今の政治家や教育制度が過去を十分に検証していないとしても、私たち一人ひとりが、歴史の真実に目を向け、未来への責任を果たすべきです。

未来の世代にとって、過去は単なる記録ではなく、「生きた教訓」として意味を持つべきです。原爆投下の本当の意味とは何だったのか? それに対する答えを、日本人自身が出す責任があるのではないでしょうか。
    
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2025年8月2日土曜日

「The Buck Stops Here」~ 責任とリーダーシップの空洞化

トルーマン大統領
The Buck Stops Here なのか Pass the Buck なのか?

昨日、臨時国会が召集され、新人議員たちが初登院しました。しかし、それを見ながら私は高揚感よりも深い虚無を覚えました。日本の政治家の威信は、もはや地に落ちたと言っていいでしょう。阪神淡路大震災、オウム真理教事件、東日本大震災——いずれの時も、私が感じたのは「この人たちが国を導いているのか?」という、苛立ちと不安でした。危機の場面に立たされた政治家たちの発言は、空虚な言葉を繰り返すだけで、そこに「責任」という重みはほとんど感じられませんでした。


こんなとき、私はいつも英語の表現「The buck stops here.(責任はここで止まる)」を思い出します。この言葉には、リーダーが自らに責任を引き受ける覚悟と決意がにじんでいます。翻って日本の政治家に、その「責任の止まり木」が果たしてあるのでしょうか。

私はただの老百姓です。けれど、凡人なりに、自分の生活と命を守るために危機感を持ち、慎重に生きてきました。それが私なりの「危機管理」でした。そして、それを国家レベルで行うのが、本来の政治家という存在のはずです。だが今や、政治家とは「口当たりの良い言葉を言い、無責任に去る者たち」になりつつあるのです。

特に今の総理に対する評価は、私の中で明確です。彼は明らかに、リーダーに最も向いていない「スペック」の人物です。確固たるビジョンもなければ、思想的バックボーンも見えない。かつて防衛大臣であった際の対応には、致命的な判断ミスがあったし、拉致問題においても、被害者家族の切実な思いに真に寄り添う姿勢は見られませんでした。

彼を見ていて感じるのは、「冷徹さ」ではなく、「リーダーとしての器の小ささ」です。発言に一貫性がなく、自分の言っていることの意味を自覚していないようにすら見えます。その場しのぎの言葉を重ねるだけで、明確な方向性や意志が伝わってこない。

にもかかわらず、なぜ彼を支持する層が存在するのか? それは、戦後日本の深層にある「現状維持の病理」にほかならないでしょう。特に高齢者層には、「変わらなくてもいい」「今のままでよい」と考える者が多い。自分たちの残りの人生が平穏であれば、それでよし。未来の日本より、自分たちの安定が大事なのです。私も高齢者の一人なのでよくわかります。

この姿勢は、まさにニーチェが『ツァラトゥストラ』で描いた「末人(the last man)」そのものです。自分で考えず、リスクを取らず、ただ「快適さ」だけを求める者たち。こうした国民に支えられたリーダーが、果たして未来を切り開けるだろうか?

思えば、日本のこのような風土は、近代以降の教育制度に端を発している。「自己本位」(selfhood)を育むことなく、「序列」と「従順」だけを教えてきた敗戦後80年の教育が、思考を放棄した末人を大量に生み出した。そして個人(individual)と社会(society)の関係性を問うことなく、ただ「世間」に適応する人間を作り続けたのです。

政治とは、自己保存の延長ではなく、公共への献身であるべきです。だが、公共空間が未成熟なこの国では、いまだに「世間」がすべてを支配しているかのようです。個人の意志よりも、空気の読み合いが優先され、政治家でさえもその空気の奴隷となる。

いま、私たちはもう一度問わなければなりません。
総理大臣は、「The buck stops here」という言葉を、果たして本当に知っているのか?

そして我々国民もまた、自分の「The buck」がどこに止まるのか、問い直す時に来ているのではないでしょうか。

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2025年8月1日金曜日

檸檬色の反抗 ―― 私とコペンの物語

 

私がコペンを選んだ理由は、単にユニークな軽自動車としての魅力だけではありません。その黄色――この色に込めた個人的な意味が、実はとても大きいのです。この黄色は、梶井基次郎の短編小説『檸檬』に登場する、あのレモンの鮮烈なイメージと重なります。

私は『檸檬』を、日本の明治以降の近代化が上滑りに進んでいったことへの批判として読み取っています。西洋的な価値観に流され、和魂洋才の精神を忘れてしまった日本。その姿を象徴するように、主人公の手に握られたレモンは、ただの果物ではなく、抑圧された精神の爆弾のように感じられるのです。そして物語の最後、そのレモンが爆発することで、鬱屈したエネルギーが一気に解放される。私の選んだコペンの黄色にも、まさにその爆発的なエネルギーが宿っている気がします。孤独や無力感のなかでも、心のどこかで静かに反抗を燃やしている自分自身を象徴しているようなのです。

思えば、黄色い車に惹かれる感覚は、今に始まったことではありません。

社会人になって数年たった頃、私は人生で初めての新車を購入しました。黄色のホンダ・シビックです。その頃、四国の徳島で暮らしていた私は、特に通勤に使っていたわけではないものの、休日のドライブなどでその鮮やかな黄色い車を走らせていました。地元の人たちからは「まっ黄色の車とはまた目立つね」と、少し奇異の目で見られていましたが、私はまったく気にしませんでした。むしろ、まだまだ封建的な当時の四国の社会に反抗心を燃やしていたのかも知れません。今思えば、あの時すでに、私は自分の中の「レモン」をどこかで感じ取っていたのかもしれません。

そして現在、私は黄色いコペンに乗って4年目になります。

この車は、ただの移動手段ではありません。運転そのものが楽しく、まるでゴーカートに乗っているかのような感覚を味わえます。年齢を重ね、免許返納のカウントダウンがそう遠くない将来に始まることを思えば、今乗れる車は限られてきます。だからこそ、毎日が貴重です。

コペンを選んだ最大の理由は、そのユニークさにあります。軽自動車でありながら、オープンカーとしての遊び心、そして日本らしい繊細な設計とデザイン。まさに「日本にしか作れない車」だと感じています。黄色という色もまた、梶井基次郎の『檸檬』が持つシンプルで力強い美しさと重なり、私にとってこれ以上ふさわしい色はありませんでした。

もちろん、ダイハツを取り巻く不正問題には、複雑な思いを抱かずにはいられませんでした。

企業の問題にとどまらず、国土交通省の試験プロセスそのものに問題があったのではないかという強い疑念もあります。安全性を担保する検査が機能していなければ、見過ごされた問題が消費者にとって致命的なリスクになりかねません。企業の不正が明るみに出たときこそ、行政側もその試験体制を精査し、改善すべきです。とりわけ交通安全に関わる問題は、個人の所有車であっても、社会全体に波及する責任を含んでいます。

そして何より、私が最も不満に思うのは日本のメディア報道の姿勢です。視聴率至上主義のような煽るだけの報道が横行しており、これは戦前の新聞やラジオが大衆を動かした構造とどこか通じています。今こそ、ジャーナリズムの精神を取り戻すべきではないでしょうか。

還暦を迎えてコペンを選ぶ人は意外と多いと聞きます。

真っ赤なコペンで還暦祝い――そんな話を耳にするたび、なんとも微笑ましい気持ちになります。年齢に関係なく、スポーツカーの魅力は「運転の楽しさ」に尽きる。その考えには私も共感しています。

ただし、日本の夏にトップダウンで走るのは、現実的にはなかなか厳しいものがあります。私はもっぱら、冬にシートヒーターを効かせて屋根を開け、冷たい空気のなかを走るのが好きです。長距離ツーリングをするわけではなく、近所の買い物に使う「お買い物車」として日常的に活用していますが、それでもこの車の小回りのよさ、駐車のしやすさは本当にありがたい存在です。

私にとってコペンは、単なる車ではありません。

日々の生活の中で「楽しさ」を思い出させてくれる、大切な存在です。軽自動車という枠を超えて、日本が持つ技術と遊び心が凝縮された一台。この黄色い小さな車を、私はこれからも大切に乗り続けていくつもりです。

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2025年7月31日木曜日

映画『侍タイムスリッパー』を観て

私は昔から時代劇のファンです。子どもの頃、家の本棚には池波正太郎、藤沢周平、司馬遼太郎の本がぎっしり並んでいました。通っていた東大阪の小阪中学への通学路には、司馬遼太郎の自宅がありました。ある日、庭の植木に水をやる白髪の老人を見かけ、それが本棚に並ぶあの名著の作者だと知ったときの不思議な気持ちは、今でもよく覚えています。

昨日、録画しておいた映画『侍タイムスリッパー』を観ました。とてもおもしろく、心に残る作品でした。

物語は、現代と江戸を結ぶ“時をかける侍”が軸となって展開します。簡単に言えばタイムスリップものですが、そこには思いのほか深い主題がありました。

それは、「責任の引き受け方」「武士の生きざま」といった、日本人がかつて大切にしていた精神です。今の日本社会に最も欠けているものではないでしょうか。今の政治家を見ているとよくわかりますよね。

この映画には、風情や心情、風習といった、いまや風化しかけている美意識が丁寧に織り込まれていました。一方で、私たちが生きる現代は、何が本物かも分からなくなる「シミュラークル(模像)」の世界。AIやテクノロジーが進化する一方で、私たちの感覚は鈍り、本物と偽物の境界があいまいになってきています。『侍タイムスリッパー』は、そんな世界に対して「本物とは何か」という問いを突きつけているようにも思えました。

高坂新左衛門(山口馬木也)「おれは情けない男だ。」

風見恭一郎(冨家ノリマサ)「おれたちは己の信じる道をせいいっぱい生きた。それでいいじゃないか。」

主演の山口馬木也は、四半世紀前に藤田まこと主演のドラマ『剣客商売』で、息子・大治郎を演じていた俳優です。久しぶりに彼の姿をスクリーンで見て、実にいい役者になったと感じました。年を重ねた分だけ、演技に深みがありました。デビュー直後に藤田まことと『剣客商売』で共演したのが良かったのでしょうか。
  
時代劇とは、過去を再現することではなく、過去を媒介として現在を照らす行為だと思います。この作品が描こうとしたのは、刀やちょんまげではなく、「人は何を拠り所に生きていくべきか」という普遍の問いでした。

時を越え、時代を越えて、私たちの心に問われるのは、結局、たったひとつ。「あなたは、どう生きるのか?」ということなのかもしれません。

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2025年7月30日水曜日

ブルスケッタとの邂逅

    
ブルスケッタという料理の名を、初めて聞いたのは1990年ごろのニュージャージーでした。

「ブルスケッタ」とはイタリア語で、表面をあぶって焼いたパンにオリーブオイルやニンニクを塗り、トマトなどの具材をのせた前菜です。見た目はカナッペに似ていますが、パンを焼いて少し焦げた香ばしさを加えるところが特徴的です。

当時私は、マンハッタンの営業所の一員として、トライステート(ニューヨーク、ニュージャージー、コネチカット)のクライアントを車で訪問して回っていました。ニュージャージーでは製造業のクライアントが多く、その日も日系企業をいくつか訪ね、昼食時にはイタリア系アメリカ人の同僚と小さなレストランに入りました。

カウンター席に座ると、彼は迷うことなくワインと前菜を注文しました。「ブルスケッタ」と聞こえた気がしたのですが、「プルスケッタ」なのか「ブルスケッタ」なのか、当時の私には正確に聞き取れませんでした。

田舎育ちでハイカラな食べ物に疎い私にとって、それは見るのも初めての料理でした。焼き目のついたバゲットの上に鮮やかなトマトがのり、香ばしいオリーブオイルの香りが漂っています。ひと口食べて、すっかり気に入ってしまいました。以後、我が家の食卓にもときどき登場するようになりました。

些細な出会いかもしれません。大人になってからの出会いでしたが、この小さな前菜は、確かに私の味覚と記憶に刻まれ続けています。

思えば、人生とはこうした「邂逅」の積み重ねなのかもしれません。食べ物にせよ、人にせよ、風景にせよ、自分の外に一歩踏み出したときにだけ訪れる、偶然のような、必然のような出会い。それを逃さず受け止めるには、多少迷子になる勇気も必要なのだと、若いころの私はどこかで独善的に思っていました。

あの焦げたパンの香ばしさは、いまでもふと記憶の中によみがえります。ブルスケッタとの邂逅は、私にそんな人生の断片を思い出させてくれるのです。

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2025年7月29日火曜日

ChatGPTとの付き合い方を考える ― 若い世代と教育の視点


ChatGPTのような生成AIは、使い方次第で非常に有効なツールになります。私自身もその利便性には大いに注目しています。ただし、このツールが持つポテンシャルには、同時に注意すべき側面もあります。特に、中高生といった学びの基礎を築いている段階にある若者にとっては、AIの使い方を誤ることで思考力の育成が妨げられるおそれがあるのです。

AIは、文章を自動で整えてくれる便利な機能を備えています。しかしそれが、「知識を自ら獲得し、それを言語化して自分の表現にする」という本来の学びの過程を短絡的に飛び越えてしまう危険性もはらんでいます。これは、言い換えれば思考停止を助長するリスクです。

本来、表現力や論理的思考力は、「絵日記」→「作文」→「小論文」→「論文」といったプロセスを経ながら、徐々に育まれていくべきものです。特に「作文」から「小論文」へと進む段階では、自分の主張を筋道立てて伝える力が必要になります。しかし、日本の教育制度ではこの部分が軽視されがちで、十分な訓練を経ないまま、多くの若者が受験という競争に巻き込まれていきます。

こうした背景のまま社会に出ると、実務や交渉の現場で「自分の意見を筋道立てて伝える」力が不足しがちです。例えば英語でのビジネスコミュニケーションにおいては、相手の理解に応じた言葉の選び方や論理的な構成が求められます。こうした力は、「小論文」や「論文」を書く中でこそ培われるものです。

残念なことに、こうした訓練が不十分なまま社会的な立場に就くケースもあります。発信力や判断力が弱いまま、重要なポジションに就いてしまうこともあり、それが社会全体の言語的思考力に影響を及ぼすことさえあります。公的な言説においては、個人的な感情ではなく、事実と論理に基づく発信が求められるのは当然のことです。

さて、話をChatGPTに戻しましょう。

若い世代にとっては、まず何よりも"「読書」や「実体験」”を通じて語彙や概念を蓄えることが大切です。こうした基礎があってこそ、ChatGPTのようなツールを本当に「学びの道具」として活かすことができるのです。

一方で、シニア世代にとっては、ChatGPTは気軽な「話し相手」や「情報補助ツール」として役立つ側面もあります。相手に気を遣わず、自分のペースでやりとりできる点は、とても心強い要素だと言えるでしょう。ただしこの場合も、ある程度の言語的な素地があってこそ、AIとの対話は実りあるものになります。

忘れてはならないのは、ChatGPTは「単語の並び方」を予測するしくみに過ぎず、本当の意味で思考しているわけではない、という点です。その限界を理解しつつ、適切な場面で使えば、これほど便利なツールはありません。しかし、学びの初期段階でその「便利さ」に依存してしまえば、逆に思考力や表現力を養う機会を失ってしまうことにもなりかねません。

だからこそ、私たちは今、AIツールとの距離の取り方について、一人ひとりが意識的に考える必要があるのだと思います。

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2025年7月28日月曜日

真贋を見抜く力を失った国へ

イラスト:いらすとや(https://www.irasutoya.com/)

小林秀雄と芥川龍之介に寄せて

ニセモノ天国とも言われた中国が、もしAIの主導権を握ったらどうなるのでしょうか。私はもう何十年も前から、「中国が先進国、あるいは世界のリーダーになりたければ、まず贋作をなくさなければならない」と考えてきました。

それは、単なる知的財産の問題ではなく、「真贋を見抜く力」を一つの文明の成熟度と捉えていたからです。

その一方で、戦後80年を迎える日本は、まさにその「真贋を見極める目」を急速に失いつつあるように見えます。何が本物で、何が模造品なのか。それを判断する感性や知性が、社会のあらゆる場面から消えつつあるのです。政治・政治家もしかり。

昭和25年、小林秀雄は随筆「雪舟」のなかで、次のような逸話を紹介しています。

「かつて上海の銭痩鉄さんの許で、顔輝筆『彗可断臂図』というものを見せてもらった事がある。雪舟の絵と全く同じ構図であり、恐らく雪舟は、この種のものに倣って作画したのであろうと思われたが、模倣によって如何に異なった精神が現れるかには驚くべきものがあった。顔輝の絵も見事だと思って眺めていたが、その間しきりに雪舟の絵が思い出され、どうも雪舟の方が立派だと思えて来てならなかったのである。」

ここで小林は、単なる構図の模倣を超えて、「精神の在り方」が作品に滲み出ることを説いています。本物とは、技術や形式ではなく、内側に宿る何かによって定まると。つまり、本物と偽物を分けるのは“精神の質”なのだと、彼は言っているのです。

この小林のまなざしに呼応するかのように、私の頭には芥川龍之介の随筆『西郷隆盛』も思い浮かびます。芥川は、後世の人々が語る西郷像に対して、静かな懐疑を向けていました。

「西郷隆盛という人間は、われわれの心の中にある、ある一つの理想の投影にすぎないのではないか。」

つまり、私たちが“本物の英雄”だと信じてきた西郷像は、実のところ、時代が作り出した幻想ではないかと問いかけているのです。芥川は、西郷を“本物らしい何か”として崇める大衆心理に潜む危うさを感じ取っていました。それは、まさに現代にも通じる警鐘です。人は、実像ではなく「本物っぽさ」に惹かれる。そしてその「っぽさ」が広がれば広がるほど、誰もが真贋の判断を怠るようになるのです。
  • 本物の中に潜む贋作を見抜く力。
  • 贋作のなかに光る本物の精神を見出す力。
この二つを持たなければ、私たちは情報の洪水やAIによる巧妙な模倣に翻弄され、ついには「何が真で、何が偽か」を判断できなくなるでしょう。

中国が確信犯的にニセモノを流通させる国であるとすれば、いまの日本は、その真贋を問う意志すら持たない、判断力を喪失した国になりつつあるのかもしれません。模倣すらしなくなった国。模倣ができるだけの美意識すら失われた国。それは本当に“豊かで平和な国”と言えるのでしょうか。

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2025年7月27日日曜日

合意なき合意

 昔の自分の日記に、こんな一節がありました。

「契約には Terms and Conditions(Ts and Cs)がある。世界では Ts(Terms)が Conditions より前に来るのが常識。ところが日本では、Conditions(条件)ばかりに目を奪われて、本当に大事な Ts——つまり ”いつ終わるか・どう終えるか” を見ていない」

これは、かつての先輩がよく語っていた契約の鉄則でした。彼は続けてこう嘆いていました。35年以上前の話です。

「日本のエリート政治家がこのレベルじゃ、世界の強者とまともに交渉なんて夢のまた夢だよ」

この言葉を、今あらためて思い出させてくれたのが、石破内閣によるアメリカとの関税交渉です。

合意文書が存在しないという異常

先日、日本政府は米国との交渉で「合意に達した」と胸を張りました。しかし、その合意の正式な文書はどこにも存在しません署名もない、共同声明もない、合意文の読み上げすらない。

これでは、国際社会のルールで言えば、「合意」ではなく「口約束」です。

民間企業でも、契約書がないまま進めるビジネスなどまずありません。なぜなら、書かれていない約束は守られないからです。

アダム・スミスもあきれる「契約観」の欠如

以前、上海で若い中国人スタッフにこんな話をしたことがあります。

「アダム・スミスは言った。経済社会を成り立たせるには、“正直であること”と“時間を守ること”の二つが前提だと」

この“時間”とは、契約における 期間や期限(=Terms) を指します。それが曖昧なまま交渉をまとめたと主張すること自体、契約の初歩が理解されていない証拠でしょう。


アメリカは「書かれていない約束」を武器にする

忘れてはならないのは、アメリカは“書かれていないことの意味”を熟知しているという点です。

今回、彼らがあえて文書化を避けたのは、将来的に自分たちの都合のいいように“合意”を再解釈できるようにするためです。

これからアメリカはこう言うでしょう:
  • 「あの条件には期限なんてなかったはずだ」
  • 「あれは“努力する”と言っただけだ」
  • 「我々の国内事情が変わったので、合意内容も当然見直される」(トランプ大統領の気分しだいで、、、)
つまり、「書かれていないからこそ」、解釈の余地が無限にあるです。これは、交渉における極めて冷静かつ合理的な戦略です。


書かれていない“合意”は、存在しないのと同じ

契約の基本とは、曖昧さを排除することです。それが外交でも同じであることは、国際交渉の常識です。

にもかかわらず、「合意できた」という言葉だけを国内向けにアピールし、肝心の「Terms(期限・終了条件)」を曖昧にしたまま、文書も作らずに交渉を終えたこの政府の姿勢は、正直に言って稚拙としか言いようがありません。

今後、日本はこの「合意なき合意」のツケを、一方的な解釈変更というかたちで支払い続けることになるでしょう。

外交は、言葉ではなく「紙」に残すことで初めて意味を持ちます。石破内閣の交渉は、契約とは何か、国家とは何かという根本への理解を、私たちに問い直させるものとなりました。

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2025年7月26日土曜日

日本とアメリカ、不平等の構造と「自発的隷従」

 マンハッタンのコープ


歴史が繰り返す日米関係の歪みと現代の危機

今回の日米関税交渉を見ていて、私はどうしても1985年の一連の出来事──JAL123便の墜落事故、そしてプラザ合意──を思い出してしまいます。あの年以降、日本は中長期にわたってアメリカ・ボーイング社から大量の航空機を購入していくことになります。さらに、円高誘導によるバブル経済、そしてその崩壊と長期停滞へと続く道筋が始まりました。
     
こうして見ていくと、当時から現在に至るまで、日米間には不均衡な構造が繰り返し再生産されてきたのではないかと思えてなりません。

今回の交渉も、その延長線上にあるように見えます。アメリカ側の要求は一方的で、日本側は譲歩を重ね、関税率や投資額、利益配分においてほとんど主導権を握れないままでした。これは果たして交渉と呼べるものだったのでしょうか。まるで、アメリカ経済の立て直しのために、日本が一方的にリソースを差し出しているようにすら感じます。恐らくトランプ大統領の意図はそこにあったのでしょう。

私自身、かつてマンハッタンでマンションを購入・売却した経験があります。しかも、マンハッタンの「コープ」という特殊なマンションの所有形態には、管理組合がとても強くて、個人の自由がかなり制限される構造がありました。誰が住めるか、売れるか、値段はいくらか……全部審査があって、自由市場とはとても言えません。こうした制度や感覚が、今のトランプ大統領の交渉にも根っこでつながっている気がします。まさに強引で感情的な、考える余地を与えない交渉スタイルです。そして、そうしたアメリカ側の押しに対し、日本政府は今回もまた抗うことなく飲み込んでいったように見えます。

思い返せば、真珠湾攻撃の前夜も似た構図でした。フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、意図的に世論を煽り、反日感情を醸成することで、第一次世界大戦後の自国の経済危機や政権維持のための対日圧力を強めていきました。もちろん、狂信的な日本軍部の暴走はありましたが、日本は外交による調整を試みていたのです。最終的に戦争という道に追い込まれていったことは、その過程の悲劇でした。アメリカ側の意図的な挑発や包囲網も決して見過ごせません。

そもそも1941年当時、日本はアメリカとの衝突を避けるため、粘り強く交渉を続けていました。政府も外交も、調和と平和的解決を模索していたのです。しかし、戦後80年が経った今、日本はあの時よりもさらに主体性を失ってしまいました。もはやアメリカの強圧だけが原因なのではありません。今回は、史上最低か、最低から二番目と言われるような内閣が、日本のかじ取りをしているのです。これほどアメリカにとって都合の良い状況はありません。

そして今の日本政府の姿勢は、明らかに「強制された服従」ではありません。これは、日本自身がすすんで服従している、「自発的隷従」なのです。


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2025年7月25日金曜日

大和の精神と国のかたち

タイとカンボジア国境地帯で本格的な軍事衝突、民間人ら12人死亡…砲弾とF16の応酬

【バンコク=水野哲也、プノンペン=竹内駿平】タイとカンボジアの国境地帯の複数箇所で24日、両国軍が交戦した。タイ政府によると、砲撃によりタイで民間人11人と兵士1人の計12人が死亡、31人が負傷し、タイ軍は戦闘機でカンボジア軍の拠点を攻撃した。両国軍は5月28日にも国境地帯で交戦しており、約2か月後に再び本格的な軍事衝突となった。

タイ・カンボジア紛争を見て思う大和の精神と国のかたち

私は奈良県橿原市を本籍とする者として、日本という国の始まりを常に意識しています。神武天皇が東征の果てにたどり着き、国を開いたとされる大和の地。そこは単なる地理的な「場所」ではなく、自然との調和によって文化を育んだ空間でした。

奈良盆地は、周囲を山に囲まれた天然の要害でありながら、狭すぎず、広すぎない。広大な平野は外敵にとっても好都合ですが、奈良のような地形は自らを護りながらも、人々が自然と共生するにはちょうどよいスケール感を持っていました。大和の人々は、森を切り拓くのではなく、森とともに暮らす道を選んだ。それは、防衛や利便性ではなく、調和と持続可能性を第一に置いた選択だったのです。

「大和は国のまほろば」。この美しい響きのなかに、現代の我々が見失いつつある叡智が込められています。木を切らなかった大和の精神。そこには、資源を無限に搾取するのではなく、未来へ残すという倫理観があった。言ってみれば、日本は持続可能性の元祖だったのです。

そして、それは偶然ではありません。藤原京、平城京、平安京――都が移ろっていった過程には、時代の要請と自然との折り合いをつけながら、確固たるビジョンのもとに柔軟に変化していく姿勢がありました。これこそが日本の国のかたちの本質であり、「和をもって貴しとなす」という言葉は、その理念の結晶です。

こうした視点で、現在のタイとカンボジアの国境紛争を見ると、複雑な思いにとらわれます。地続きであること、外敵の脅威が常に意識されること、国家が軍事と排除を前提に成り立つこと。それは、大和的な国づくりとは対極にある状況です。

そして日本は今、果たしてこの「大和の精神」を継承していると言えるでしょうか?

かつて「安全保障の専門家」として名前が挙がった石破茂氏、岩屋毅氏、中谷元氏といった政治家たちは、本当にこの国のかたちや、独立した安全保障のビジョンを語ってきたでしょうか?彼らは、戦略や歴史的文脈を語ることなく、アメリカ依存を当然視し、現状維持を繰り返してきただけではなかったか。何も考えずに、、、、。安全保障を語りながら、実際には国民を「考えさせない」方向に導いてきた責任は、軽くありません。

そして今、史上最低と思われるこの内閣が、日本国民の生死与奪を握っている現状に、私は深い危機感を抱きます。持続性も柔軟性も、和の精神も、すべて形骸化され、ただ「管理」される社会。このままでは、「大和」から始まった日本の原点が、霞のように消えていくのではないか。

いま必要なのは、過去の美化ではなく、国のかたちを問い直す誠実さと覚悟です。調和と変化の力をもって、自らの手で「次の日本」を描けるかどうか。それが、我々一人ひとりの問いとして突きつけられているのだと思います。






亡き父の写真集より

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2025年7月24日木曜日

「ヘイ・ジュード」と英語と、わたし

 

久しぶりにビートルズを聴きました。 80代になったポール・マッカートニーが『ヘイ・ジュード』を歌う映像を観たのです。声は少しかすれても、あの「Hey Jude」のフレーズが流れ出すと、不思議なもので、 時間が逆回転したようで、遠い記憶が胸に押し寄せてきました 。

たぶん、ビートルズの曲の中で一番好きなのがこの『ヘイ・ジュード』です。最初に出会ったのは、小学校の高学年。ちょうどグループサウンズから卒業し、“本場”の音楽――ビートルズやローリング・ストーンズ――に惹かれ始めた頃でした。『ヘイ・ジュード』のシングル盤を手に入れて、レコードが擦り切れるんじゃないかと思うくらい、何度も何度も聴きました。

そしてある日、ふと思ったのです。「この歌は、いったい何を言ってるんだろう?」

田舎の小学生では当然わからない。でも、どうしても意味が知りたくて、近所で英語を教えている先生を見つけて、個人レッスンに通い始めました。この先生は専業主婦だったのですが、イギリスで生活をしていたそうです。学校の勉強とはまったく関係なく、「ビートルズの歌詞が知りたい」という一点の思いだけで動いていたのです。おかげで、英語との最初の出会いはずっとワクワクするものでしたし、中学3年間の英語はほとんど勉強する必要がなかった。

振り返ってみれば、英語なんてものは「勉強する対象」ではなく、「好きなものを深く知るための道具」だったのだと思います。目的はいつも、歌詞の向こうにある彼らの気持ちや、背景の風景を想像することにありました。辞書を片手に、歌詞カードをにらみながら、「ペニーレインって、お金の”雨”が降るという歌なのか?」などと真剣に考えていたのも、今となっては良い思い出です(実際には、ポールの育った町の地名でしたが)。ちなみに、私が最初に買ったビートルズのLPが『マジカル・ミステリー・ツアー』で、B面3曲目がその『ペニーレイン』でした。A面とB面をひっくり返すのも、あの頃の儀式のひとつでした。

ビートルズの歌詞は難解です。時代背景やイギリスの空気を知らないと、文脈を誤解してしまう。でも、その謎を解きたくて辞書を引き、意味を考える。そうやって英語と向き合う時間が、私にとっての「勉強」だったように思います。

中でも、『ヘイ・ジュード』は、やはり特別な一曲です。後に、ポールがこの曲をジョン・レノンの息子ジュリアン(ジュード)を励ますために書いたと知りましたが、私は社会人になってから、プレゼンテーションの枕などでよくこの曲の一節を引用していました。少し皮肉を込めて、「これは日本のサラリーマンを励ます歌なんですよ」と言いながら。

特に、こんな一節――

So let it out and let it in, hey jude, begin,
(万物は流転なんだ、一歩前へ出ろよ)
You’re waiting for someone to perform with.
(誰かが助けてくれるなんて、待ってるんじゃない)
And don’t you know that it’s just you, hey jude, you’ll do,
(自分だけなんだぞ、自分でやるんだ)
The movement you need is on your shoulder.
(その一歩は、お前の肩にかかってるんだ)

「誰かがやってくれるのを待ってる場合か」「その一歩は、自分の肩にかかってるんだぞ」――そんなふうに、ポールが目の前で語りかけてくれているように響いたのです。私が込めたメッセージは、「自分の人生は、自分がプロデュースする」――ただそれだけでした。誰かに流されてばかりじゃ、What is the life for? なのです。 

英語は道具です。でも、良い道具には「物語」が宿ります。興味を持つきっかけは、何だっていい。私の場合は、レコードから流れてきた『ヘイ・ジュード』が、すべての始まりでした。

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2025年7月23日水曜日

焦げた醤油の記憶

 

私が焼きトウモロコシに初めて出会ったのは、小学校の低学年の頃、家族で阿蘇へドライブに出かけたときのことでした(昭和30年代)。草千里でたまたま観光用の馬がいて、ついでに乗ってみるか、ということになったように思います。馬の記憶は正直あまり残っていないのですが、そのとき風に乗ってふわりと漂ってきた、ある香りのインパクトだけは今でも鮮明です。

焦げた醤油の匂いです。

しかも、それがトウモロコシに染み込んでいるというのですから、子どもながらに「これはただ事ではない」と思ったわけです。

一本買ってもらい、高原の風に吹かれながらかぶりついた焼きトウモロコシ。あれは私の味覚の原風景となりました。脳のどこかに「本物」としてしっかり保存されたのでしょう。

その後、中国でもアメリカでも、トウモロコシは何度も食べました。けれど、あのときのような衝撃には、二度と出会っていません。焼いたものというより、茹でたものか、粒をスープに浮かべたものばかり。あの香ばしく焦げた醤油の香りは、日本人の食に対する異常なまでのこだわりの結晶だったのだと、あとになって気づきました。

人は、子どもの頃に出会った「本物」を無意識のうちに基準にして生きていくのだと思います。味覚もそうですし、読書や人間関係も同じです。脳のデータベースには、最初に登録されたものが「標準設定」として残る。もし最初にストアされたものがニセモノだったら、その後の判断も少しずつズレていくかもしれません。

だから、若いうちにどれだけ「本物」と邂逅できるかが大事です。 

本で言えば、手当たり次第に自己啓発書を読むよりも、まずは古典を一冊読んでみる。明治や昭和初期の文豪たちの作品に触れることで、現代の情報過多のなかで忘れがちな「重み」や「間」を感じることができます。そして何より、そうした古典は、読み手の年齢や経験に応じて違った顔を見せてくれる。十五歳のときに読んだ『吾輩は猫である』と、四十歳になって読み返すそれとでは、まるで別の小説のように響いてくるのです。

人との出会いも同じです。若い頃に「生きた教材」としての人物と邂逅できたかどうか。単なる有名人や高スペックの人ではなく、強烈な個性や矛盾を抱えながら、それでも一本筋の通ったような人。そうした出会いは、その後の人生の糧になります。

AIは便利です。世界中の情報を集めてくれる。でも、それは誰かが経験した知識の寄せ集めであって、自分の身体や感情を通したものではありません。焦げた醤油の香りを知らないAIに、あの焼きトウモロコシの味は語れないのです。

タコツボの中に閉じこもっていたら、「本物」との邂逅にも限りがあります。だからこそ、「迷子になること」を恐れないでほしいのです。それは、一歩踏み出す勇気であり、自分の世界を広げるための旅の始まりでもあるのです。

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2025年7月22日火曜日

責任という言葉の重さ

 

今村均将軍と今の日本政治を見つめて

今回の参議院選挙と、それに際して聞こえてきた総理の発言を通じて、私は改めて、戦後80年を経たこの国の「失敗の帰結」を突きつけられたように感じました。今の日本の政治の姿は、敗戦後の歩みの総決算のようにも見え、その象徴が、いま総理大臣の座にある人物なのだと思えてなりません。

これまでの人生で、私の身のまわりには、このような人物は一人もいませんでした。そんな「スペックの人」が、国のリーダーであるという現実に、ただ茫然とするばかりです。

そんなとき、ふと思い出したのが、40年ほど前に読んだ角田房子さんの『責任 ラバウルの将軍 今村均』という本でした。初めて読んだとき、私はとても強い衝撃と感動を覚えました。「責任とは何か」「リーダーとは何か」という問いに、ここまで明快に応えた人物が、日本の戦後にどれほどいたでしょうか。

今村均さんは旧日本陸軍の大将として、徹頭徹尾「責任を取る」ということを実行した人でした。戦局が悪化する中、ラバウルで数万人の兵を指揮しながら、玉砕も飢餓も許さず、終戦まで秩序を保ち続けたそうです。戦犯として収容されたあとも、自ら進んで責任を負い、帰国後は部下やその遺族の支援に奔走しました。その姿は、占領軍のマッカーサーさえも動かしたといいます。

「その時は責任を取ります」と言う人は今もたくさんいると思います。でも、実際に取った人は、ほんのわずかしかいません。今村将軍は、部下たちの苦しみを自分自身の問題として引き受け、帰国後も自らの意思で、ふたたびマヌス島の収容所に戻ろうとさえしました。それは、単なる義務感や軍人としての誇りではなく、「仁」の心に裏打ちされた、深い人間性の表れだったのだと思います。

それに比べて、今の日本の政治に「責任」という言葉は、本当にあるのでしょうか。たとえ総理の口からその言葉が出たとしても、どこか軽く、空虚で、胸に響いてきません。なぜなら、その人が「責任とは何か」を真剣に考えた形跡が見えてこないからです。政治家が、手段と目的を取り違え、ただ権力の座にしがみついている。そんな姿に、私たち国民は人質のようにされているのではないか――そんなふうに思えてなりません。

今村さんと同時代を生きた人々に直接話を聞くことは、もはや難しい時代になりました。でも、今村さんのような人が、かつてこの国にたしかに存在したこと。そして、その生き方が、丹念な記録として書き継がれていることは、私たちに希望と方向性を示してくれているように思います(角田さんが本書のために行った数々のインタビューは、まさに最後の生き証人たちとの貴重な対話でした)。

歴史は繰り返すと言われます。だとすれば、「今」という、このどこか敗戦にも似た空気のなかで、今村将軍の「責任」のあり方に学ぶことは、決して無意味ではないはずです。

私が総理に望むことは、たったひとつです。せめて今村均という人物の存在を、知っていてほしい。それすら難しいなら、どうか、軽々しく「責任」という言葉を口にしないでほしい。

責任とは、その人の生き方そのものを指す言葉なのですから。
  
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2025年7月21日月曜日

参議院選挙の結果と日本の政治

 7月20日の参議院選挙から日が変わり、大勢が明らかになったものの、私にとっては驚きはありませんでした。最初から大きな期待を抱いていなかったので、予想通りの結果と言えます。

今も変わらぬ問題は、ジャーナリズムの不在と国民のリテラシー(教育)の不足です。日本の政治は、視野の広いビジョン(未来図)を持ってこそ成り立つべきものですが、そのビジョンが曖昧であれば、教育にいくら力を入れても、実を結ぶことはありません。むしろ、日本の受験システムは教育とは言えず、ベクトルが間違っています。受験を目的とした教育は、個々の能力や創造性を育むことに向いていないのです。国家が目指すべき未来像が不明瞭なまま、教育システムはただ形式的に進行し、真の問題解決にはつながりません。

国家は努力して作り上げるものであり、教育はその実現のための重要なツールであり手段です。政治家もその手段の一部であるべきですが、現状では多くの政治家が手段と目的を履き違え、権力の座にしがみつくことが目的となってしまっています。そのため、政策の実現よりも、自己の立場や利益が優先され、国民のための政治が行われることは少なくなっています。メディアもまたその役割を果たせていません。ジャーナリズム精神は失われ、ただ視聴率や票を求めるだけの報道が繰り返されています。

これらの問題に対して、私が今回の選挙結果を見て思うことは、むしろ「もっと堕落しろ!」という坂口安吾の言葉に近いものを感じることです。敗戦直後に安吾が『堕落論』で述べたように、堕落することで逆に目覚める瞬間が来るのかもしれません。この国の国民が、いつ目を覚ますのか、そしてどこまで堕ちていくのか、そんなことを考えながら選挙結果を見つめていました。

この国の未来は、政治家やメディア、教育に委ねられているのではなく、最終的には国民一人一人の意識改革にかかっているのではないでしょうか。しかし、その目覚めがいつ来るのか、私にはまだ分かりません。たぶんもうこの世にはいないでしょうが、、、、。

  
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2025年7月20日日曜日

日本航空123便墜落事故

上野村「慰霊の園」の追悼施設(撮影者不明)


語られない記憶が残したもの、1985年の夏


この話題には、できれば触れたくありませんでした。

1985年8月12日、日本航空123便が群馬県・御巣鷹の尾根に墜落し、520人の方が命を落としました。単独機の事故としては、いまも世界最悪の犠牲者数となっています。

事故当日、私は中国・北京の商務省(Ministry of Commerce)のコンピュータ室にいました。アメリカのコンピューター会社の社員として、システムに関連する業務のために現地に赴いていたのです。翌13日は、中国人エンジニアたちと一日中、この事故について話しました。我々は、日本人として中国人として、そして一人の人間として、悲しみや運命について語り合ったことを、今でもよく覚えています。

この事故では、同じ会社の先輩も亡くなっています。そのため、今でもこの話題には自然と心が沈みます。それでも、こうして書いておこうと思う理由があります。

陰謀論として片づけられる“違和感”

この事故には、今もなお、多くの疑問が残っています。
  • コックピットのボイスレコーダー(CVR)やフライトデータレコーダー(FDR)が公開されていないこと(ボイスレコーダーやフライトレコーダー開示請求裁判は請求した側の敗訴)
  • 墜落直後に上空を飛んでいたはずの自衛隊機や米軍機の動きがはっきりしないこと
  • 操縦士・高濱機長による異例の対応や、通信記録の“断絶”
こうした点は、当時も今も「陰謀論」として片づけられてしまいがちです。でも、真相が明かされないまま「陰謀論」として封じ込められている状況そのものが、すでに異常なのではないかと感じています。語ること自体が「非常識」とされてしまう空気のほうが、かえってこの事故の闇の深さを示しているように思えます。

プラザ合意とその後の連鎖

この事故のわずか1か月後、1985年9月22日にプラザ合意が結ばれました。当時1ドル240円台だった為替は、120円まで一気に円高が進みました。輸出競争力を失った日本は内需拡大へと向かい、やがて未曾有のバブル景気が生まれました。

しかしそのバブルは崩壊し、そして何よりの転機となったのは、小泉政権による「構造改革」でした。郵政民営化をはじめとした改革には、アメリカ政府からの圧力があったと想像しています。そうした流れのなかで、日本経済は長い低迷期へと突入していきました。

この一連の出来事の因果関係を証明することはできません。ただ、それでも、あの事故と、それに続いた経済や政治の大きな転換が、一つの流れとしてつながっているように感じられるのは、私だけではないと思っています。

8月――沈黙と限りない悲哀の月

私は昔から、日本の「夏」が苦手でした。
  • 8月6日、9日 ― 広島・長崎への原爆投下
  • 8月15日 ― 敗戦記念日
  • そして8月12日 ― 日本航空123便の墜落事故
この時期に訪れるのは、単なる「喪失」ではなく、「限りない悲哀」だと感じています。戦争と同じように、JAL123便の事故もまた、「語られないまま風化していく」という意味で、日本社会の“忘れる仕組み”のなかに埋もれていってしまっているように思えます。

それでも書くことの意味

いま、あえてこの話を書き残そうと思ったのは、自分のためでもあり、「歴史に問いを残す」ためでもあります。

あの事故が象徴しているのは、単なる航空機の技術的トラブルや人災ではないと感じています。むしろ、「誰も真相にたどり着こうとしない社会」への問いかけなのだと思います。

語られないままの記憶を、少しでも掘り起こすこと。それが、今を生きる私たちにできる、ささやかな務めなのかもしれません。

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