2025年12月31日水曜日

子どもが巣立ったあと、なぜ心が落ち着かないのか ――40代・50代が感じる正体不明の焦りについて

人がいないダイニングテーブル
~ 不在は喪失ではなく静けさ ~

「このままで人生、終わっていいのか」

年末が近づくと、こうした言葉が胸に浮かぶ中年世代が増えているといいます。

子育てが一段落し、家庭内での役割が急に軽くなる。仕事は続いているものの、新鮮さも成長実感も乏しい。予定表は空白が目立ち、SNSを開けば、誰かの成功談や自己啓発の言葉が流れてくる。そんな中で、自分だけが取り残されているような感覚に襲われる――。これが、いわゆる「空の巣症候群」(empty nest syndrome)と呼ばれる状態です。

この症状は年末に強まります。周囲が帰省や忘年会、仕事納めで忙しそうにしている一方、自分には特に予定がない。その「静けさ」が、不安を増幅させるのだそうです。そして、MBTI診断のような性格分類に飛びつき、「自分は主人公タイプだ」と一瞬の高揚を得ながらも、現実との落差に虚しさを覚える。結果として、「何者かになりたい症候群」が静かに広がっていくそうです。

しかし私は、この「空の巣症候群」を、単なる喪失や不幸としてだけ捉えてしまうのは、少しもったいない気がしています。なぜなら、その不安の正体は「子どもが巣立ったこと」そのものではなく、それ以前から積み重なってきた問題だからです。

問題の本質は「空」ではなく「未完」

40代、50代になっても自己が確立されていない。自律できず、克己もできないまま、還暦を迎えてしまう人が少なくない――多くの人が感じているこの実感は、決して個人的な感想ではなく、社会全体の構造的な問題です。

多くの人は、人生の節目節目で訪れる試練から、無意識のうちに逃げてきました。逃げるというか、世間の波に流されてきた。受験では「正解」を選ぶことが重視され、仕事では「空気を読む」ことが評価される。失敗しないこと、波風を立てないことが最優先される中で、自分の意志で決断し、引き受け、耐え抜く経験が極端に少ないまま大人になっていきます。

その結果、「親」という役割に自分を預けることで、ようやく人生が安定する。子育ては確かに大変ですが、同時に「自分が何者かを考えなくて済む」時間でもあります。ところが、子どもが独立した瞬間、その仮面が外れる。そこで初めて突きつけられるのが、「自分は空っぽなのではないか」という感覚なのです。

つまり、空の巣症候群とは、巣が空になったことへの悲しみではなく、巣立ち以前から自己が育ってこなかったことへの遅すぎる気づきだと言えるでしょう。

なぜ自己啓発に走るのか

この不安に直面したとき、多くの人が自己啓発本やスピリチュアル、副業情報に惹かれていきます。それは怠惰だからでも、浅はかだからでもありません。「このまま終わりたくない」という切実な叫びがあるからです。

しかし、そこで提示される多くのメッセージは、「簡単に変われる」「今日から主人公になれる」といった、耳触りの良いものばかりです。本来、自己の確立や自律、克己とは、長い時間と痛みを伴う試練の積み重ねによってしか得られないものです。それを飛ばして結果だけを欲しがれば、失望するのは当然でしょう。

しかも、その姿を子どもは見ています。試練から逃げ、安易な答えを求める親の背中を見て育った子どもは、同じように育っていく。空の巣症候群は、個人の問題であると同時に、世代を超えて再生産される問題なのです。

空の巣症候群へのポジティブな反論

では、どうすればいいのでしょうか。

私は、「空の巣」を敗北や喪失として捉える必要はないと考えています。むしろそれは、人生で初めて与えられた「自分自身の課題に正面から向き合う時間」なのです。

大切なのは、「何者かになろう」としないことです。主人公になろうとするから苦しくなる。肩書きや成功を求めるから疲弊する。そうではなく、小さな責任を、自分の意志で引き受けることから始めればいいのです。

毎週決まった曜日に通う場所をつくる。頼まれごとをひとつ、途中で投げ出さずにやり遂げる。結果が評価されなくても、自分で決めたことを続ける。そうした些細な行為の中にこそ、自己は静かに立ち上がってきます。

試練とは、何か特別な挑戦ではありません。「逃げられる状況で、あえて逃げないこと」。「誰も見ていなくても、手を抜かないこと」。その積み重ねが、自律と克己を生みます。

空になった巣から、ようやく始まるもの

子どもが巣立ったあとに残る静けさは、確かに不安を呼びます。しかしその静けさは、人生の終わりを告げる鐘ではありません。むしろ、「これまで先送りしてきた自分自身と向き合え」という、最後の呼びかけなのかもしれません。

空の巣症候群とは、人生の失敗ではありません。試練を避け続けてきた人に、ようやく訪れた“本番”なのです。

このままで人生を終えていいのか。その問いを感じられること自体が、まだ終わっていない証拠です。答えは、自己啓発本の中にはありません。日常の中で、自分に課す小さな試練の中にこそあります

空になった巣から、ようやく人生が始まる。


良いお年をお迎えください!


2025年12月30日火曜日

「いい子」ほど危ない――日本の教育が生む見えない自己破壊

静かに座る「いい子」の背中に、私たちは何を背負わせてきたのだろうか。


2025.12.27 18:00
なぜ人は「上手くいき始めた瞬間」自らそれを壊すのか?
心理学者が教える4つの理由と対策

https://forbesjapan.com/articles/detail/87719


アメリカは育て、日本は壊す?
自尊心から見た日米教育の決定的な違い

Mark Travers の「自己破壊(self-sabotage)」記事の要約

Forbesに寄稿した心理学者マーク・トラヴァースは、人が自らの成功や成長を妨げてしまう「自己破壊(self-sabotage)」の心理構造を分析しています。

彼によれば、自己破壊の背景には不安定な self-esteem(自尊心)があります。失敗したときに「自分の価値そのものが否定される」と感じてしまう人ほど、無意識に挑戦を避けたり、直前で手を抜いたりする。失敗そのものよりも、「傷つくこと」から逃げるための防衛反応だ、というわけです。

ここで重要なのは、self-esteem が「行動を支える心理的エンジン」として位置づけられている点です。self-esteem が安定していれば、失敗は経験として受け止められますが、不安定であれば成功すら脅威になります。自己破壊とは、怠惰や弱さではなく、脆い自己価値を守ろうとする必死の行動なのです。

日本における「自己破壊」は見えにくい

一見すると、個人主義の強いアメリカの方が自己破壊は起きやすく、日本のような集団主義社会では起きにくいようにも思えます。しかし実際には、日本では「別の形」で自己破壊が起きています。

日本では、成功や挑戦が「和を乱す」「目立つ」「迷惑をかける」ものとして無意識に回避されがちです。その結果、チャンスを前にして黙って身を引く、問題を抱えても助けを求めない、あるいは心身を壊すまで我慢する、といった形で自己破壊が表出します。

これは個人の内面の問題というより、集団への過剰な同調圧力が生む構造的な自己破壊だと言えるでしょう。

自尊心はどう違うのか――USと日本

ここで日米の self-esteem 観の違いが浮かび上がります。アメリカにおける self-esteem は、「失敗しても自分の価値は揺るがない」という前提です。結果や他人の評価から距離を取るための心理的基盤として、教育の中核に置かれています。

一方、日本語の「自尊心」は、しばしばプライドや虚勢と混同され、「強すぎると鼻につくもの」「控えるべきもの」として扱われがちです。そのため、教育の中で正面から語られることがほとんどありません。

このズレが、日本では自尊心が育ちにくく、同時に自己否定や集団依存が温存される一因になっています。

謙虚さと自己肯定感は両立できる

日本では「謙虚さ」と「自己肯定感」は対立概念だと誤解されがちですが、本来は両立可能です。鍵となるのは、比較によらない自尊心、そしてセルフ・コンパッション(自分への思いやり)です。

謙虚さとは本来、自己卑下ではなく「他者から学ぶ姿勢」です。「自分は完璧ではないが、存在としての価値はある」と受け止められる人は、他者を尊重しつつ、自分の能力も正しく認識できます。これは傲慢さとは正反対の、成熟した自尊心です。

集団への配慮か、集団への依存か

日本社会の問題は、「配慮」という美名の下で、実際には集団への依存が強化されている点にあります。組織に属していなければ自分を定義できない。組織の存続が公共よりも優先される。これは官僚主義や大企業だけでなく、学校教育にも色濃く見られます。

自立した「個」が確立されていない社会では、「公共」もまた育ちません。結果として、責任は曖昧になり、組織全体が変化を恐れて自己破壊的な選択を繰り返す。これは個人の self-sabotage が、集団レベルに拡大した姿とも言えます。

教育の再定義が必要な理由

とりわけ学校教育は、社会から最も隔絶された業界の一つです。教師の多くが特定の世界しか知らず、その内側の論理で「教育」を完結させてしまう。そこに教育を丸投げすることには、明確な限界があります。

これからの教育に必要なのは、知識伝達ではなく、「自立した個」を育てることです。自尊心を、競争や比較ではなく、人格の基盤として再定義すること。学校を組織防衛の場から、社会とつながる公共空間へと開くこと。それなしに、日本社会が自己破壊の連鎖から抜け出すことは難しいでしょう。

自己破壊(Self-sabotage)は個人の弱さではありません。それを生み出す社会構造と、育てそこねた自尊心の問題なのです。

***

2025年12月29日月曜日

大学教育と世界観――ある隠居老人の違和感

19世紀は労働者、20世紀は消費者がカモにされた…
大企業が舌なめずりして囲い込む「21世紀のカモ」の正体

(PRESIDENT Online 掲載記事)


1970年代のアメリカの大学

隠居老人、最近の記事を読む

PRESIDENT Onlineに掲載された、ある大学教員による論考を読みました。大学の政経系学部で行われた講義をもとにした著書の一部だそうです。

私はその先生の本を読んでいません。
知ったのは、あくまでこの紹介記事だけです。
したがって、以下は「講義の全体像」を論じるものではなく、
公開されたテキストから受け取った印象に基づく感想です。

もっとも、古希を前にした隠居老人としては、人生もそろそろ先が見えてきました。今さら遠慮する必要もない。言いたいことは言っておこう――そんな心境です。

「21世紀のカモ」論の要点

記事の主張は明快です。

資本主義の歴史は、「誰がカモにされてきたか」の歴史である。
19世紀のカモは労働者。
20世紀のカモは消費者。
そして21世紀のカモは、「参加者」だ。

テック資本主義の時代、人々はSNSや検索サービス、各種プラットフォームに参加することで、自らの個人データ、注意力、時間を無償で提供している。それこそが21世紀の「資本」であり、巨大テック企業は、それを原材料に富を蓄積する。

赤い通知バッジ(notification badge)、スワイプ操作、色彩心理を利用したUI(ユーザーインターフェイス)。人間の生理的・心理的特性を前提に設計された仕組みによって、私たちは自由意思で行動しているつもりで、実は囲い込まれている――。

議論は刺激的で、比喩も巧みです。しかし、読み終えたとき、私は強い違和感を覚えました。

正しい。しかし、、、、


内容が間違っているとは思いません。テック企業が人間の注意力を資源として扱っていることも、行動科学がビジネスに使われていることも、事実でしょう。

それでも息苦しい。
なぜか。

それは、この論考が最初から完成された世界観として提示されているからです。

資本主義は搾取装置であり、
参加者はカモであり、
自由は幻想であり、
人間は檻の中のネズミである。

分かりやすい。しかし、分かりやすすぎる。共産主義国家の人民のような、、、。

そして、これが「大学の講義」をもとにしていると知ったとき、隠居老人は、少し背筋が寒くなりました。

「如何なものか」では足りない

最初、私はこう思いました。
「考えさせる前に、世界観を与えるのは、如何なものか」。

しかし、考え直しました。
これは「如何なものか」という話ではありません。

間違っていると思います。

あらゆる「観」―― 世界観、歴史観、国家観、人間観――は、人格形成の過程で、自分で身につけていくものだからです。

教育が提供すべきなのは、結論ではなく、思考の材料と摩擦です。

1970年代、アメリカの大学で起きたこと

この違和感は、私にある古い読書体験を思い出させました。

『The End of the American Era(アメリカ時代の終焉)』ハッカー(1970年)です。

アメリカの没落はベトナム戦争から始まった、という議論はよく知られています。しかしハッカーは、より根源的な問題として、大学と学問の劣化を挙げました。

アメリカ人が、自分たちを特別な存在だと錯覚し、謙虚さを失い、学問が凡庸になっていった。

彼は、こんな趣旨のことを書いています。

  • 平凡な学者が恐れるのは、他人から批判されることである。
  • だから彼らは、決して間違いを指摘されないことしかやらなくなる。
  • 凡庸な頭脳にとって最も都合がよいのは、
  • ルールが明示され、全員が同じ手続きを踏む研究である。

これは、1970年のアメリカの話です。しかし、今のアメリカでも続いている。そして、今の日本も、急速にそうなりつつある――隠居老人には、そう見えます。

福田恆存の警告

さらに思い出すのが、昭和29年の福田恆存の言葉です。

アメリカ視察から帰国した福田は、
「アメリカは貧しい」と言いました。

物質的には豊かでも、
精神的なバックボーンが痩せている、という意味です。

私は2001年、15年ぶりに香港、上海、北京を訪れ、「中国は1980年代より貧しくなった」と感じました。高層ビルが増え、生活は便利になった。それでも、精神的な安定は見えなかった。

「神」や「お天道様」がない文明は危うい。
多民族化が進み、「神」の力が弱まったアメリカも危うい。

そして今――

精神的な支柱が溶け、「お天道様」が隠れた日本は、福田恆存が憂慮した時代より、もっと崖っぷちに立っているように見えます。

大学は、世界観を配る場所ではない

大学がやってはいけないことがあります。

  • まだ経験の浅い若者に
  • 権威ある立場から
  • 感情に訴える完成形の世界観を
  • 代替的な視点を十分示さずに与えること

それは教育ではありません。思想のインストールです。

一度インストールされた世界観は、あとから疑うことが難しい。
これは、長く生きた者の実感です。

おわりに――隠居老人の譲れない一言

私はその本を読んでいません。この記事だけを読んだ感想です。

それでも、「大学の講義を本にした」と聞いて、この完成された世界観が前面に出てくることに、1970年代アメリカと同じ匂いを感じました。

あらゆる「観」は、人格形成の過程で、自分で身につけていくもの
それを、考えさせる前に大学が与えてしまうのは――
如何なものか、否、間違っている

隠居老人の、率直な違和感として、ここに書き残しておきます。

***

2025年12月28日日曜日

若者は従順になったのではない ― 時代がそうさせた ―

 早朝の豆腐屋@三鷹通り

まだ街が目を覚ます前に、黙々と今日の仕事が始まっている。
変化は派手ではないが、確かに時代は、こういう場所から動いていく。

The American family isn't collapsing, it's adapting to reality | Opinion

This is the shift that unsettles older generations: a vision of the American dream untethered from property or possessions, rooted instead in lived experience and personal autonomy.

Andrew Sciallo
Opinion contributor
Dec. 23, 2025Updated Dec. 24, 2025, 8:09 a.m. ET

https://www.usatoday.com/story/opinion/voices/2025/12/23/no-contact-family-estrangement-holidays-economy/87884305007/

変わりゆく時代の中で、若者は何を引き受けているのか

――10年前の大晦日の日記と、アメリカの若者たち――

10年前の大晦日、私は日記にこう書きました。
「自分はまだ運転席で運転手をやっている」。

世間が年末の慌ただしさに包まれるなかでも、自分の人生のハンドルは自分で握っている。その実感だけは失っていない、という意味でした。いま振り返ると、なかなかに傲慢な爺様です。

あの日記をいま読み返すと、不思議な既視感があります。
当時私は、日本人の課題として「社会性」「コミュニケーション」「独善性(こだわり)」の三つを挙げていました。大人になっても他者との関係に不器用で、母国語でさえ意思疎通が十分にできず、自分の安心できるルールに固執してしまう――そうした傾向は、社会に出れば自然に矯正されるどころか、日本の閉鎖的な組織の中で、むしろ増幅されていくのではないか、という危惧でした。

そして日記の最後に、私はこう書いています。
「主体的に、能動的に行動する。自分の人生だから」。

あれから10年。
世界はコロナのパンデミックを経て、経済環境はさらに厳しさを増しました。日本社会はますます余裕を失い、個人にかかる負荷は静かに、しかし確実に重くなっています。そんな中で目にしたのが、USA TODAY に掲載されていた、アメリカの若者と家族をめぐるオピニオン記事でした。

この記事は、「アメリカの家族は崩壊しているのではない。現実に適応しているのだ」と語ります。若者たちは、結婚や持ち家、子どもを持つことを軽んじているのではありません。そもそも、それを選べる経済条件が失われているのだ、という指摘です。

住宅、医療、教育、老後まで含めた生涯コストは、500万ドルを超えるとも言われています。日本円にすれば、いまのレートで7億円以上。生活を成り立たせるだけで精一杯、という感覚は決して大げさではありません。

仕事は不安定で、生活は「働く、寝る、また働く」の繰り返し。
ニューヨークでは、仕事仲間と過ごす時間が人間関係の中心になり、「あなたは誰か」より先に「何をしているのか」が問われます。仕事がアイデンティティを規定しながら、その仕事に満足している人は少ない――そんな矛盾した現実が描かれていました。

その結果、アメリカの若者のあいだでは、「物を持つこと」よりも、「経験すること」「自分の時間と心を守ること」に価値を置く動きが広がっています。家族との距離をあえて取る選択、いわゆる no contact も、わがままではなく自己防衛として語られるようになりました。アメリカの家族観は、音を立てて形を変えつつあります。

この話は、決してアメリカだけのものではありません。
日本の若者もまた、同じ経済的圧力の中にいます。ただし、日本ではそれがあまり言葉になりません。

日本の若者は「従順」「大人しい」と言われがちです。しかしそれは、性格の問題というより、合理的な判断の結果ではないでしょうか。賃金は伸びず、失敗のリスクは大きく、異議を唱えても状況が変わらない社会において、「目立たず、波風を立てず、生き延びる」ことは、むしろ賢明な戦略です。

アメリカでは、旧来のアメリカンドリームが若者を見放した、という言葉が使われます。日本では、その同じ現実が「仕方がない」「そういうものだ」という空気の中で、静かに受け入れられていきます。表現の違いはあっても、起きていることはよく似ています。

10年前の日記で私が危惧した「主体性の欠如」は、個人の性格や世代の問題というより、時代の構造が生み出したものなのかもしれません。若者が従順に見えるのは、従わなければならない圧力が強すぎるからです。

それでも、あの日記の最後に書いた言葉は、いまも色褪せません。少なくとも私は、いまもそれを信じています。

「自分の人生だから、自分で考える」。

アメリカの若者たちは、混乱の中でそれを言葉にし始めています。日本の若者たちは、まだ多くを語らず、静かに適応しています。

人は、自分の知っている言葉の範囲内でしか考えられません。言葉の豊かさがなければ、他者とつながることもできません。

時代が厳しくなるほど、「誰かに運転を任せる人生」は成り立たなくなります。山椒魚のように、自分の岩屋に閉じこもり、思考を生成AIにゆだねる――それは、時代の状況に逆行した動きです。

若者には、従順になってほしくありません。同時に、無理に声を荒げる必要もありません。

自分はどこに立ち、何を引き受けるのか。自由と責任を考える、と言い換えてもいいでしょう。その問いを手放さないこと――それこそが、この時代における本当の自立なのだと思います。

***

2025年12月27日土曜日

スキルと覚悟のバランス

 

前言

このスライドは、今から30年ほど前に作ったものです。人生一番生意気な40歳前後にまとめた資料ですが、いま振り返ると当時よりもずっと今の社会に切実に当てはまる気がしています。  

日本社会は相変わらず、いや以前にも増してスキル(能力)ばかりを追い求め、「commitment(覚悟)」はどうしても後回しにされがちです。資格や方法論は増えたのに、「どこまで引き受けるのか」という問いは軽くなった。そんな違和感があります。

もっとも、これを人生論として考えてほしいなどと言い出す時点で、すでに上から目線の自己中心的な高齢者の完成形かもしれません。それでもなお、組織の話としてではなく、自分自身の人生に引き寄せて考えてもらえたら――そう願って、あえてこの古いスライドを持ち出しました。

スキルと覚悟のバランス

――スキルだけでは、組織も人も強くならない――

私たちはしばしば「スキル不足」を問題にします。ITスキルが足りない、専門知識が弱い、コミュニケーションが下手だ――。確かにスキル(Capability)は重要です。しかし、それだけでは組織も人も強くなりません。

今回修正したスライドが示しているのは、極めてシンプルで、しかし見落とされがちな事実です。スキルと同等、いやそれ以上に重要なのが個人の「覚悟」である、ということです。

スキルとは何か ―― 図の左側

図の左側にある「スキル(Capability)」は、大きく二つに分かれます。

① 社会的スキル(ヒューマンスキル)
  • チームワーク
  • コミュニケーション
  • 意思決定
  • 他者との協働  等々
② 技術的スキル(テクニカルスキル)
  • ITスキル
  • 会計・税務などの制度的知識
  • 方法論、専門知識  等々
これらはいずれも「学べば身につく」能力です。研修やOJT、資格、経験によって、ある程度は後天的に獲得できます。しかし、ここで話を終えてしまうと、現場でよく見る“残念な光景”に行き着きます。

    、、、スキルはある。
    、、、しかし、誰も責任を取らない。
    、、、誰も本気で踏み込まない。

能力が足りないのではありません。覚悟が欠けているのです。


覚悟とは何か ―― 図の右側

そこで登場するのが、図の右側にある 「覚悟(Commitment)」 です。

英語で言えば Commitment。中国語で言うなら「承諾」が最も近いでしょう。「覚悟」という言葉が持つ精神論的な響きではなく、自分で引き受けると決める意思が核心です。

今回のスライドでは、覚悟を「組織に属する個人」ではなく、一人の人間として生きる覚悟として、次の4点に整理しました。

  1. 自分の立ち位置と価値観を引き受ける覚悟
    ─ どこに立ち、何を守り、何を引き受けるのかを自分で決める

  2. 自分の成長を止めない覚悟
    ─ 年齢や環境を理由に、可能性の更新をやめない

  3. 人との関係を育てる覚悟
    ─ 孤立を選ばず、信頼・尊敬・関心をもって関係に関与する

  4. 他者の人生に貢献する覚悟
    ─ 見返りを前提にせず、誰かの成功を本気で支援する

重要なのは、すべては個人の覚悟から始まるという点です。「会社が悪い」「環境が悪い」と言う前に、自分は何を引き受けると決めたのか(責任)が問われます。


スキル × 覚悟 = 相乗効果

このスライドの核心は、中央にある言葉です。

相乗効果(Synergy)

スキルと覚悟は、足し算ではありません。掛け算です。
  • スキルが高くても、覚悟がゼロなら成果はゼロ
  • 覚悟があっても、スキルがなければ空回りする
一人ひとりが
  • スキルを磨き、
  • 覚悟を引き受け、
スキルと覚悟が噛み合ったとき、人はようやく自分の人生を自分の足で進めるようになります。

人生と組織に共通するピラミッド構造


スライドは、成功を次のピラミッドで示しています。
  1. スキル × 覚悟
  2. 自分にしかできない貢献を通じて、人生で出会う人々と長く続く信頼関係を築く
  3. 楽しめる環境 ─ 自分も、周囲も
  4. 成功 ─ 組織においても、人生においても

ここで重要なのは、順序を飛ばせないということです。スキルと覚悟という土台がないまま、成功だけを求めても、それは砂上の楼閣になります。

スキルだけでは足りない理由

スキル偏重の組織や人生では、こうした現象が起きがちです。
  • 判断を先送りする
  • 責任の所在が曖昧になる
  • 「できる人」が静かに去っていく
これはスキルの問題ではありません。覚悟の欠如です。

逆に、覚悟を引き受けた人は違います。未熟でも学び、失敗しても前に出る。その姿勢が周囲の能力を引き出し、結果として組織も人間関係も強くします。

成功は、覚悟とスキルの上にしか積み上がらない

強い組織は、制度やスキルから生まれるのではありません。強い人生も、肩書きや運から生まれるのではありません。一人ひとりのスキルと覚悟の相乗効果から生まれます。
  • 能力を磨くこと
  • そして、それをどこに使うと引き受けるのかこの二つが揃って初めて、
信頼が生まれ、
人に囲まれ、
楽しめる環境が育ち、
結果として「成功」が積み上がっていくのです。

スキルだけがあっても、覚悟がなければ届かない。
覚悟だけでも、スキルがなければ形にならない。
だからこそ、スキルと覚悟のバランスが重要なのです。

***

2025年12月26日金曜日

年の瀬に考える「ユーモアの精神」

ユーモアの精神

Humor From Leaders Shouldn’t Cut
https://www.forbes.com/sites/forbesbooksauthors/2025/12/09/humor-from-leaders-shouldnt-cut/

By Leon E. Moores.MD,DSc,FACS, 
Dec 09, 2025, 11:38am EST

年の瀬に考える「ユーモアの精神」

――フォーブスの記事と大谷翔平が教えてくれること――

今年もクリスマスが過ぎ、年の瀬が近づいてきました。我が家では特に大きな変化もなく、例年どおりの静かな年末です。振り返ってみれば、大病をすることもなく、日々を無事に過ごせました。それだけで、十分にありがたい一年だったと思います。

そんな一年の中で、私が「良かった」と素直に感じた出来事のひとつが、大谷翔平選手、そしてポストシーズンでの山本由伸投手の活躍でした。彼らの結果や記録もさることながら、私の心に残ったのは、その振る舞いの中に垣間見える「ユーモアの精神」です。

先日読んだフォーブスの記事は、リーダーとユーモアの関係について非常に示唆に富む内容でした。要点は明快です。ユーモアはリーダーにとって不可欠な道具だが、使い方を誤ると一瞬で場の「心理的安全性」を壊してしまう。特に、立場や権威の差がある場面では、同じ冗談でも致命的な結果を生むことがある――その点を鋭く指摘していました。

記事では、友人同士の軽口と、医学生に向けられた指導医の冗談が対比されます。言葉自体は同じでも、前者は笑いで終わり、後者は相手を沈黙させ、チーム全体の空気を凍らせる。その違いを生むのが、リーダーの「心理的な大きさ」なのだと、筆者は述べています。

そして、結論として示されるのが、「リーダーに許されるのは自己卑下のユーモアだけ」という考え方です。笑いの“代償”があるなら、それを払うのは常にリーダー自身であるべきだ、と。

この議論は、いかにもアメリカ的です。多様な意見が前提にあり、発言すること自体が価値とされる社会だからこそ、「心理的安全性」が強く意識されるのです。しかし、ここで立ち止まって考えたいのは、日本におけるユーモアとリーダーシップは、そもそも同じ文脈で語れるのか、という点です。

私は以前から、リーダーの条件として「決断力(determination)」「イニシアチブ(initiative)」「ユーモアのセンス(sense of humor)」の三つを挙げてきました。しかし、日本社会では、この三つがそろって評価されることはほとんどありません。とりわけ、ユーモアは「不真面目」「軽い」と見なされ、排除されがちです。

その背景には、日本社会全体に蔓延する「余裕のなさ」があります。学校では要領の良さを求められ、会社では効率と成果に追い立てられる。無駄や寄り道は悪とされ、余裕は削ぎ落とされていく。しかし、本来その「無駄」や「余裕」こそが、コミュニケーションの緩衝剤となり、人と人との摩擦を和らげてきました。

私はかつて、アメリカのゴルフ練習場で中古ボールが experienced ball と呼ばれているのを見て、思わず笑ってしまいました。「使い古し」ではなく、「経験を積んだボール」。この言葉遊びひとつに、ユーモアと余裕、そして経験への敬意が込められています。こうした感覚が、日常に自然に存在するかどうかが、社会の成熟度を分けるのだと思います。

その意味で、大谷翔平選手の振る舞いは、日本社会にとって示唆的です。野次を飛ばし続けた観客に対し、ホームランを打った後にハイタッチをする。挑発でも、無視でもなく、ユーモアとリスペクトで受け止める。その行動には、勝者の余裕と、人間としての大きさがありました。

私は以前、「日本は優秀な人ほど余裕がない」と書きました。教育や社会が、余裕や無駄を悪だと刷り込んできた結果です。しかし、余裕がなければ、相手をセンス(感知)することも、状況に応じてレスポンス(反応)することも、難しくなります。知識や語学力があっても、ユーモアがなければ、コミュニケーションは決して深まりません。

さらに言えば、ユーモアは教育の問題でもあります。福沢諭吉が『学問のすすめ』で強調した「スピイチ」、すなわちアウトプットの力。アメリカの幼稚園で行われるショウ・アンド・テルのように、小さな頃から人前で話し、笑いを共有する経験が、ユーモアの感覚を育てていきます。ユーモアのセンスは、大人になって突然身につくものではありません。

江戸時代の日本には、落語に象徴されるユーモア文化がありました。身分や立場の違い、内外の緊張や葛藤の中で、人々は笑いを通じてバランスを取っていた。しかし、均一化された現代の日本社会では、葛藤(conflict)に慣れておらず、そこから学ぶ力も弱まっています。

フォーブスの記事が指摘する「ユーモアはチームの安全性を守るためのものだ」という考え方は、日本にそのまま当てはまるわけではありません。しかし、「リーダーが他者を萎縮させてはいけない」「笑いは人を開くものであるべきだ」という本質は、むしろ日本社会にこそ必要ではないでしょうか。

年の瀬にあたり、今年を静かに振り返りながら思います。健康で、無事で、そして時折、心から笑える。それは決して小さなことではありません。大谷翔平が示してくれたユーモアの精神は、スポーツの枠を超えて、私たちの社会やリーダーシップの在り方を問い直すヒントを与えてくれているように思います。

来年は、日本社会にも、もう少し「余裕」と「笑い」が戻ってくることを願いながら、今年を締めくくりたいと思います。
 
***

2025年12月25日木曜日

生活に浸透するAIと、その光と影

 

リチャード・ギア主演のミュージカル『シカゴ』(2002年)


生活に浸透するAIと、その光と影

――日本社会に潜む「目的と手段の逆転」という危険――

私が「AI(人工知能)」という言葉を初めて知ったのは、1988年、コンピュータ会社に勤めていた頃でした。隣の席にいた同僚のOさんが、AI製品の日本語化を担当していたのです。当時の私は、「図書館で使うような、少し高度な検索ツールなのだろう」くらいにしか考えていませんでした。

それから40年近くが経ち、AIは検索どころか、文章を書き、絵を描き、声を生成し、映像すら作る存在になりました。便利になった一方で、AIは今や「毒にも薬にもなる」存在になっています。しかも厄介なことに、フェイクを見抜くためにAIが使われ、同時にフェイクを作るためにもAIが使われる、「フェイクとフェイクの闘い」の時代に突入しています。

この変化に、ルール作りはまったく追いついていません。各国はAIの規制や標準化を巡って主導権争いを始めています。技術そのものではなく、「どの価値観で、どのルールを世界に押し付けるか」という戦いです。これは軍事や通商と同じく、国家戦略そのものです。 

AIは現代版「辣腕弁護士」になり得る

私はこの状況を考えるとき、ミュージカル映画『シカゴ』を思い出します。
辣腕弁護士ビリーが、記者会見でメディアを完全に操るあの場面です。

Understandable, understandable
Yes, it's perfectly understandable
Comprehensible, comprehensible
Not a bit reprehensible
It's so defensible!


論理は整い、感情にも訴え、疑う余地すら与えない。1920年代のシカゴでは、殺人を犯しても、金と腕のある弁護士がいれば、メディアも陪審員も味方につけ、無罪を勝ち取ることができました。

これを現代に置き換えてみてください。

言葉を操るのが人間の弁護士ではなく、AIだったらどうでしょう。原告も被告もAIが生成した証拠、AIが作った証言、AIが編集した映像や音声――。正義と虚偽の境界は、さらに曖昧になります。questionable(疑わしい)ものが、AIの力で defensible(正当)に見えてしまうのです。

だからこそ、今の世界で最も重要なのは「自己防衛」の意識です。情報を鵜呑みにしない、自分の頭で考えるという、ごく基本的な姿勢が、これまで以上に求められています。

日本特有の危険性――目的と手段の逆転

ここで、日本社会特有の危険性を指摘しておきたいと思います。それは「目的と手段の逆転」です。

AIはあくまで手段、ツールです。しかし日本では、いつの間にか「AIを使うこと」自体が目的化しがちです。
これは、仕事や教育でも繰り返されてきた問題です。

私は以前、「仕事が金銭を得るための手段と化したら人生はつまらなくなる」と書きましたが、教育も同じです。新渡戸稲造は1907年の講演『教育家の教育』で、教育を「飯を食うための手段」にしてしまった人間を厳しく批判しました。免状や肩書きがあっても、志がなければ教育家ではない、と。

AIも同じです。

「AIを導入すること」「AIを使っていること」が目的になった瞬間、そこに「志」や「観(価値観)」は消えます。何のために使うのか、誰のためなのかという問いが抜け落ちてしまうのです。 

Be Assertive――AI時代にこそ必要な姿勢

もう一つ、日本人にとって重要なのが「be assertive」という姿勢です。
アリストテレスは中庸(Golden Mean)の重要性を説きました。理性的であるとは、極端に走らないことです。

アメリカの小学校では、子どもたちに「Be Assertive!」と教えます。これは攻撃的になれという意味ではありません。人の話をよく聞き、自分の意見を持ち、それをきちんと表明しなさい、という意味です。

一方、日本人はリザーブド(控えめ)すぎる。相手に合わせ、空気を読み、自分の意見を言わない。その結果、何を考えているのか分からないと言われます。AIが生成した「もっともらしい意見」に流されやすい土壌が、ここにあります。

AI時代には、アグレッシブでもなく、リザーブドでもない、アサーティブな態度が不可欠です。AIの答えを参考にしつつ、「私はこう考える」と言えるかどうか。それが人間の役割です。 

日本のメディアは毒にはなるが、薬になっていない

残念ながら、日本のメディアはこの点で大きな問題を抱えています。

福澤諭吉は、文明とは「智徳と人間交際を高めること」だと言いました。智はインテリジェンス、つまり手段やツール。徳はモラルです。そして人間交際は、コミュニケーションであり、外交の基礎でもあります。

今の日本は、「どこへ行きたいのか(目的)」が曖昧なまま、手段やツールばかりを追い求めています。AIもその一つです。メディアは不安や対立を煽り、思考を深める材料を提供していません。毒にはなっても、薬になっていないのです。 

AIとどう向き合うべきか 

AIは間違いなく、私たちの生活に深く浸透していきます。避けることはできません。

だからこそ重要なのは、

・AIを目的化しないこと
・情報を鵜呑みにしないこと
・自分の意見を持ち、表明すること
・智と徳のバランスを意識すること

AIは強力な道具です。しかし、道具に使われるか、道具を使いこなすかは、人間次第です。

辣腕弁護士ビリーのように、言葉や論理で現実をねじ曲げる存在が、AIという形で現れた今、日本社会にはこれまで以上に「理性」と「志」が求められているのだと思います。

***

2025年12月24日水曜日

人生というプロジェクトを、どう見通すか

 

人生というプロジェクトを、どう見通すか

――高齢化社会に必要な視点としてのプロジェクトマネジメント――

「プロジェクトが泥沼化する」という言葉を、私たちはよく耳にします。
気がつけば当初の目的が見えなくなり、責任の所在も曖昧になり、誰も全体像を説明できない。そんな状態です。そして私は、プロジェクト管理という行為そのものが、日本人には実はあまり向いていないのではないか、と感じることがあります。

私は30代半ばから後半にかけて、プロジェクトマネジャーという仕事をしていました。正直に言えば、面白くて仕方がなかった。当時は、今のようなパソコンのプロジェクト管理ツールなど存在しません。ガントチャートは物差しと鉛筆で引くものでした。線を引き、消し、引き直す。その一つひとつが、プロジェクトの思考そのものだったように思います。

ステータスミーティングでのファシリテーションも嫌いではありませんでした。年上の、しかもクライアント企業の幹部が並ぶ会議の司会を任される。今思えば、ずいぶん生意気な若造だったのでしょうが、当時の私はそれをエキサイティングな仕事だと感じ、嬉々として引き受けていました。若気の至りですね……。今思い起こすと赤面ものです。

しかし、その経験を振り返ると、プロジェクトマネジメントの本質は「管理」ではなく、「見通す力」だったと強く感じます。先を考え、全体を俯瞰し、最悪の事態を想定しながら、関係者を不安に陥れないように進めていく。その営みは、実は人生そのものと驚くほど似ています。

人間が不安になる最大の原因は、「情報不足」にあります。場合によっては、概念の欠落と言ってもいいでしょう。自分がよく知らないこと、これまで経験したことのないことに直面すると、人は誰でも不安になります。だからこそ、正しい概念を常日頃から収集しておくことが大切です。

最近では、老後の不安を口にする人が増えていますが、その多くは、年金制度や日本の医療の仕組みについてほとんど知識を持っていませんし、老後の大まかな生活プランも描いていません。何も知らず、情報も持たないから、漠然とした不安だけが膨らんでいくのです。

これは、プロジェクトでもまったく同じです。

最悪の事態を想定するためには、日々プロジェクト関係者ときめの細かいコミュニケーションを重ね、さまざまな情報をできる限り集め、起こり得る問題を洗い出し、その発生確率を冷静に検討する必要があります。

詳細までは分からなくても、「どの程度のインパクトなのか」が見えていれば、人は過度に緊張せず、落ち着いて対処できるのです。

人生も同様です。

自分の人生を一つのプロジェクトとして捉えるなら、私たちは皆、自分自身の人生のプロジェクトマネジャーです。そのためには、情熱とビジョン、つまり「志」が前提として必要になります。

“What is your life for?” と自分に問い続けることです。

ここで思い出すのが、論語の「君子不器(くんしふき)」という言葉です。
私はこの「器」を、英語で言えば function(機能)だと解釈しています。縦割りの機能、専門分野のことです。君子たるもの、一つの機能に閉じこもるな。プロセスとして、全体として考えよ――そう言っているように思えるのです。

プロジェクト管理とは、まさに幅広く考え、先を読み、統合し、横断的に判断する行為です。プロジェクトも、企業も、政府も、そして個人の人生も、本質的には同じ構造を持っています。

世の中の仕事を乱暴に二つに分けると、一つは、決められた枠の中で定められたルールに従い、数字を並べていく仕事。もう一つは、曖昧模糊とした状況に対して、自ら枠を設定していく仕事です。前者の代表例は会計士や税理士でしょう。後者の代表格が、資格もライセンスも存在しないコンサルタントです。コンサルタントも若い頃は専門分野に特化しますが、年齢を重ねるにつれて、複数の分野や人、組織をまとめる役割を求められるようになります。

スペシャリストからゼネラリストへ。

「君子不器」とは、そのシフトを促す言葉なのだと思います。欧米では、マネジメントとは「スペシャリストとしての経験を持つゼネラリスト」が担うものです。

そして、マネジメントに欠かせないのが「気配り」です。

気遣いは今の感情への反応であり、時に自分のためのものでもあります。一方で、気配りは未来に向けた行動であり、相手に不安を感じさせないためのものです。相手に気遣いさせないように、こちらが先回りして動く。それが本当の意味での気配りなのだと思います。

リーダーやプロジェクトマネジャーは、メンバーを不安に陥れない責任を負っています。それは組織運営の技術であり、ピープル・マネジメントそのものです。明るく振る舞うこと、会話の後に相手が少し元気になること。それも立派なマネジメントです。

高齢化が進む日本社会において、私たちは「人生をどう生き切るか」という問いに直面しています。もしかすると、今こそ必要なのは、人生を一つのプロジェクトとして捉え、主体的にマネジメントする視点なのかもしれません。
  • 抽象度を上げて全体を俯瞰すること。
  • 最悪に備え、情報を集め、概念を蓄積すること。
  • そして、君子不器の姿勢を忘れないこと。
プロジェクトマネジメントは、単なる仕事の技術ではありません。
それは、生き方の技術なのだと、今の私は思っています。

***

2025年12月23日火曜日

人生後半の消費行動についての一考察

 

8年ぶりに携帯替えたんや。替える気? さらさらあらへん。
ただな、充電が怪しなってきてな。人も機械も、まず電源からガタくるんや。

「まあ相談だけしたろか」とショップ予約した時点で、もう負けやった。

人生初のiPhone。
言うとくけど、最新機能なんか要らん。
アプリ使わん。電子マネー使わん。QR? 老眼で見えへん。
写真と動画、それだけ撮れたら十分や。

……せやのに気ぃついたら、
えらい高い板切れ持たされとった。

値段聞いて思わず言いかけたわ。
「兄ちゃん、桁まちごてへんか?」

まちごてへんかった。
しかも店員4人、全員そろって高飛車。
親切ゼロ、説明早口、質問したら面倒くさそう。
年寄りはどうやら「お客」やのうて「処理対象」らしい。

時間かかる、説明長い、同意書多い、値段アホ高い。
――これ買い物ちゃう、儀式や。

本体で心折れたけど、ケースとストラップはアマゾン。
二つで1万円。もう一回言うで。紐で1万円や。

びっくりやけど、なぜか買うてもうた。
クリスマスやしな。歳とると、無駄遣いの理由を季節のせいにするんや。

今はそのiPhone、首から下げて歩いとる。
オレンジのケースに、頑丈な紐。
実用性? ある。落下防止? 完璧。見た目? ……派手や。

正直に言うわ。
ジージ、けっこうウキウキしとる。

高い、面倒、店員も気に入らん。
せやけど新しい道具持つと、ちょっと若返るんや。

首から揺れるiPhone見て、
「まだ枯れとらんで」と自分に言うとる。

合理性?
とっくにどっか行っとる。

せやけど人生の後半戦に要るんは、
合理性やのうて、ちょっとした嬉しさ
や。
たとえそれが、1万円の紐と、クソ高い板切れでもな。

***

2025年12月22日月曜日

前に出る大阪、凛として立つ神戸――高市早苗と北川景子から考える都市の在り方

 
ChatGPT作成のイラスト


大阪と神戸――高市早苗と北川景子

高市早苗さんと北川景子さん。このお二人を並べたとき、私は直感的に「大阪」と「神戸」という二つの街を思い浮かべます。高市さんは奈良のご出身ですが、その語り口や立ち居振る舞いには、どこか「大阪のおばちゃん」を思わせる直截さと図太さがあります。

一方、北川景子さんからは、はっきりと神戸、とりわけ阪急沿線から北の山手の空気を感じます。控えめで洗練され、前に出過ぎない。しかし、自分の輪郭は崩さない。その佇まいは、神戸という街が長年培ってきた美意識そのものです。

この二人を対比すると、大阪と神戸の違いが、非常に分かりやすく浮かび上がってきます。

前に出る大阪、距離を保つ神戸

大阪は基本的に「前に出る街」です。遠慮よりも実利、建前よりも本音。笑いとツッコミで一気に距離を詰め、場の主導権を握る力があります。時にはどぎつく、押しが強い。しかし、それは生き抜くために磨かれてきた社会的スキルでもあります。

大阪のおばちゃん、という言葉は揶揄として使われがちですが、実際には非常に高度な能力の塊です。相手の懐に踏み込みながら、同時に相手を見極める。損得に敏感で、理屈よりも現実を優先する。高市さんに感じるのは、まさにこの「腹で判断する大阪的合理性」です。

大阪は、よそ者を受け入れる街でもありますが、それは迎合ではありません。「入ってくるなら、こちらのルールでやれ」という強さがある。だからこそ異物も呑み込み、笑いに変え、時には排除する。その雑多さと生命力が、大阪の本質だと言えるでしょう。

一方の神戸は、同じ関西でありながら、どこか一線を引いています。神戸の人は、自分たちが関西であることを否定しませんが、「一緒にされたくない」という感覚も確かにあります。大阪、京都、奈良とは少し違う場所に立っている、そんな距離感です。

神戸は港町として、早くから外国文化と接してきました。しかし、過剰に迎合することなく、それを自分たちの生活圏の中で静かに選別してきた歴史があります。北川景子さんの佇まいに感じるのは、前に出て空気を支配するのではなく、一定の距離を保ちながら相手に「察させる」力です。主張は控えめでも、流されない。これは大阪的な強さとは別種の、静かな強度だと思います。

大阪の現状――失われつつある「日常の顔」

大阪ミナミの生まれの私は、九州福岡時代の10年を経て、10代後半を大阪ミナミで過ごしました。上本町六丁目の府立高校に通い、心斎橋や宗右衛門町が学区でした。千日前の寿司屋の娘や相生橋筋の喫茶店の息子が同級生にいる、そんな環境です。あの頃の心斎橋は、商売の街であり、生活の延長線上にある街でした。

しかし、今の心斎橋を歩く気にはなれません。外国人観光客ばかりで、街が「誰のものなのか」分からなくなっている。ドラッグストアと土産物屋が並び、かつての日常の顔は見えにくくなりました。正直に言えば、「もう手遅れかもしれない」と感じる部分もあります。

ただし、文化が完全に消えたわけではありません。大阪には今も「表」と「裏」があります。観光地として消費される場所と、地元民が日常を営む場所。その住み分けが、大阪文化をかろうじて支えています。この図太さもまた、大阪らしさの一部です。

大都市のたどる運命――NYと東京の経験から

私は海外生活が長く、特にニューヨークには約20年住みました。1980年代後半から2009年までのNYは、劇的に変わりました。WASPが実権を握っていた時代からユダヤ系へ、そして新たな移民層へと、街の構成も人種も大きく入れ替わった。資本主義の論理だけが強烈に働く、リベラルでコスモポリタンの都市です。

東京も、20〜30年遅れで同じ道をたどっているように見えます。均一化された街並み、世界共通のブランド、観光客を優先する都市設計。これは、世界中の大都市がたどる運命なのかもしれません。

それでも、大阪と神戸に期待する理由

だからこそ私は、大阪や神戸には文化を失ってほしくないと思っています。「外国勢力を跳ね返してほしい」と言うと、過激に聞こえるかもしれません。しかし、これは排外主義ではありません。「取捨選択」の話です。

大阪には、非効率な人情と厚かましさがあります。安さや便利さよりも、「馴染み」や「面白さ」を優先する感覚は、グローバル資本が最も苦手とするものです。神戸には、選別眼と自立した美学があります。流行に流されず、「自分に合うもの」を見極める力は、均質化への抵抗になります。

大阪的なたくましさと、神戸的な自律。そして日本の原点である奈良や京都、これらが共存している関西は、本来、異物に対して非常に強いはずです。何でもかんでも「グローバル」「多様性」と言って飲み込むのではなく、笑い飛ばし、値踏みし、時には突き返す。その力こそが、関西の文化的免疫力です。

高市早苗という大阪的な強さと、北川景子という神戸的な凛とした佇まい。この対照は、単なる個人差ではありません。関西という土地が持つ多層性そのものです。

世界中の大都市が似た運命をたどる中で、大阪と神戸には、最後まで「自分たちの街」を自分たちの手で守り抜く存在であってほしいと、強く願っています。

***

2025年12月21日日曜日

「取捨を断ずる力」を失った教育 ――福沢諭吉とAI時代の学問

(ChatGPT生成のイメージ)

紙とペンの時代も、AIの時代も変わらない。
思考とは、取捨を決断する行為である。

BBC News 2025/12/20

https://www.bbc.com/news/articles/cd6xz12j6pzo

Are these AI prompts damaging your thinking skills?

George Sandeman

2025年12月20日土曜日

被害から始まる平等、責任から始まる平等

 

“Men Are People, Women Are People”: Fukuzawa Yukichi’s Unfinished Revolution

James (Jim) H.
Associate Director of Georgia Tech Center for International Business Education and Research
December 18, 2025
論文の要約

本稿は福沢諭吉を、単なる先進的思想家や時代遅れの人物としてではなく、近代化の過程で日本社会が抱えた道徳的矛盾を直視した思想家として再評価しています。福沢諭吉が問題にしたのは法制度上の不平等ではなく、家庭内や日常生活において男性だけが道徳的規律を免除されてきた構造でした。

彼は「男も人間、女も人間」と明言し、平等とは同一化ではなく、道徳的責任を男女に等しく課すことだと考えました。『日本男子論』では、日本の男女問題の根源は女性の地位ではなく男性の私的行動にあると断じ、一夫多妻や妾制度を男性の特権として批判した。福沢諭吉にとって平等とは女性を引き上げることではなく、男性が自らの特権を引き受け直すことを意味していました。

福沢諭吉再考 ~ 私の感想

福沢諭吉のこの考え方は、実は現代の日本社会にもそのまま当てはまるのではないかと思いました(Unfinished Revolution)。日本では法律や制度の上では男女平等がかなり進みましたが、家庭や職場の日常に目を向けると、「空気」や「暗黙の役割分担」の中に、形を変えた不平等が残っているように感じます。

たとえば、育児や介護、職場での気配りや感情面のフォローといった、いわゆる「見えにくい労働」は、今でも女性に多く委ねられがちです。一方で男性は、「手伝う側」「サポートする側」にとどまっている場面も少なくないのではないでしょうか。福沢が鋭く指摘したのは、こうした不平等が法律や理念の問題というよりも、日々の振る舞いや生活習慣の中で繰り返し作られている、という点でした。

彼にとって平等とは、スローガンを掲げることではありませんでした。私生活の中で自分を律し、責任を引き受けること――とくに男性が、自分に与えられてきた無自覚な特権と向き合うことが不可欠だと考えていたのです。現代の日本が本当に問われているのも、女性を「支援する」姿勢そのものではなく、男性が自らの立ち位置を見直す覚悟なのではないか、そんなことを考えさせられました。

ここからは少し言いにくい点ですが、男性の私だからこそ、あえて書いておきたいことがあります。女性の側もまた、知らず知らずのうちに「被害者である立場」に安住してしまっている部分はないでしょうか。福沢諭吉が示したような、「責任をどう引き受けるか」という男女平等の視点は、日本のフェミニズムの議論の中で、十分に参照されてきたのか疑問に感じます。

とくに、日本でフェミニズムを牽引してきた知識人――たとえば上野千鶴子氏のような存在が、福沢の議論、つまり「不平等の根源を女性の被害ではなく、男性の道徳的な甘さや私的行動に見た視点」を、どこまで真剣に受け止めてきたのかは、検証されるべき問いだと思います。

日本のフェミニズムの議論には、被害者意識を出発点とする構造が強く見られるように感じます。それは抑圧を可視化するという点では大きな意味がありますが、その枠組みが固定化してしまうと、「男性=加害者、女性=被害者」という単純な対立から思考が始まり、そこで終わってしまう危うさもはらんでいます。

福沢諭吉が最も警戒していたのは、まさにそうした「道徳的な免罪符」が再生産されることでした。彼の平等論は、被害の正当性を競う思想ではありません。むしろ男性に対して、自分の特権を自覚し、日常生活の中で自制と責任を引き受けるよう、厳しく求めるものでした。しかもそれは、今から150年も前の明治時代に提示された考え方です。

福沢にとって平等とは、声高に権利を主張することではなく、行為と責任が一致しているかどうか、つまり「知っていることを実際に行う」こと――知行合一によってしか成立しないものでした。もし日本のフェミニズムが、制度批判や言葉の闘争に重心を置くあまり、日常の行動規範や私的領域での倫理の改革に十分踏み込めなかったのだとすれば、それは結果として、日本独自に変質したフェミニズムを生んでしまった可能性もあるのではないでしょうか。

福沢諭吉の思想は、女性を救済する物語ではありません。男性に重い責任を背負わせる思想です。その厳しさゆえに、現代のフェミニズム論は彼の問いを正面から引き受けてこなかったのかもしれません。しかし、日本のフェミニズムが次の段階へ進むためには、「被害から始まる思考(被害者意識)」ではなく、「責任から始まる思考」へと転換する必要があるように思います。

その問いを、福沢諭吉はすでに150年前に、私たちに突きつけていたのです。

***

2025年12月19日金曜日

イソップ寓話が日本に突きつける問い ~ 狼と仔羊

 
イソップの『狼と仔羊』が教える、現代への警告


昔から折に触れて考えてきたことがありますが、これまで文章にまとめる機会がありませんでした。忘れないうちに、ここに書き留めておこうと思います。それは、中国共産党の言動や行動を見ていると、どうしてもイソップ寓話の一つ『狼と仔羊』を思い出してしまう、ということです。

まず、この寓話を簡単に紹介します。

川の上流で水を飲んでいた狼が、下流で静かに水を飲んでいた仔羊に目をつけます。狼は「お前が水を濁したせいで、私は汚れた水を飲まされた」と言いがかりをつけます。しかし、仔羊は「私は下流にいますから、上流のあなたの水を濁すことはできません」と、冷静に事実を説明します。

すると狼は、「去年、お前は私を侮辱した」と別の罪をでっち上げます。仔羊が「その頃、私はまだ生まれていません」と反論すると、狼は「ならばお前の父親だ」と、さらに理屈をねじ曲げ、最後にはそのまま仔羊を食べてしまいます。

この物語が教えるのは、極悪非道な嘘つきの前では、どれほど正当で論理的な弁明をしても無力である、という冷酷な現実です。相手が最初から結論ありきで害意を持っている場合、理屈や正論は通用しないのです。

私には、この狼の姿が、現在の中国共産党の振る舞いと重なって見えます。仔羊が日本であったり、周辺の他国であったりする構図です。

中国共産党に対して、正当性や国際法、論理を積み上げた主張を行っても、それは彼らの前ではほとんど力を持ちません。共産党の支配と存続のためであれば、どれほど悪辣であっても、どれほど露骨な嘘であっても、ためらいなく使う──その姿勢は、まさに『狼と仔羊』の狼そのものです。

だからこそ、日本の政治家や経済界、そして教育界に携わる人々には、この寓話を単なる昔話として片付けず、現実の教訓として肝に銘じて対応してほしいと、切に願います。

正論を述べれば分かり合える、論理を積み重ねれば納得させられる、という前提は、相手によっては成り立ちません。狼に対して仔羊の理屈が無力であったことを、私たちは忘れてはならないのです。

イソップの寓話は短い物語ですが、そこには時代を超えて通用する、人間社会の本質が凝縮されています。『狼と仔羊』は、まさに現代を生きる私たちへの、重い警告だと感じています。

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2025年12月18日木曜日

1ミリの進歩――ブルースハープとサキソフォンのあいだで

 

10ホールのブルースハープちゅうもんをやね、
中学高校の頃から、ずーっと持っとんねん。半世紀以上やで、半世紀。

せやけどな、上手なったか言われたら、笑わしたらアカン。
そない立派なもんちゃうわ。

去年の秋からや。
アルトサックスちゅう、またややこしいモン始めてな、
一年ほど経って、久しぶりにハーモニカ吹いてみたんや。

……その時や。

「なんやこれ」
「前より、音が分かる気ぃすんで」

ほんの一ミリや。
せやけどな、その一ミリが、やたら重たい。

サックスとブルースハープ?
見た目は似ても似つかんわな。
片やピカピカ、片やポケットに突っ込む鉄クズや。
けどな、吹いたら分かる。
こいつら、根っこは一緒や。

まずな、息や。
息が全部や。
腹で息せんかったら、どないもならん。
浅い息やったら音フラフラやし、力入れたらすぐバレる。
押すんとちゃう。支えるんや。
流すんや、流す。

「力入れんな!」
「息止めるな!」
あれな、ハーモニカでも、そのまんま通用する話や。

誰かにエラそうに言われたわけやあらへん。
せやけどな、吹いてたら分かってくるんや。

「あ、これ力入れたらアカンな」
「ここで息止めたら、音が死ぬわ」

そういうことがな、
音そのもんから、じわじわ返ってくる。

それがな、ハーモニカ吹くときにも、
そのまんま通用する話やった。

それからな、息の加減そのもんが、表現や。
ブルースハープのベンドも、サックスの音程の揺れもな、
指ちゃうで。息や。

ちょっと圧変えただけで、
ちょっと角度ズラしただけで、
音がな、ニヤッと笑いよる。
生き物や、あれは。

正解?
そんなもん、あるかいな。
あるんはな、身体が覚えた感覚だけや。

それとな、決定的なんがこれや。
この二つの楽器、歌いや。

リトル・ウォルターはんの演奏、思い出してみ。
吹いとるんとちゃう。
しゃべっとる。
歌っとる。

音符並べてるんやない。
間ぁ取って、
ちょっと黙って、
言いよどんで、
腹立ったら、叫ぶ。

楽器やのうて、
喉の続きやな、ありゃ。

到達点?
そんなん言われたら、困るわ。

せやけどな、
サックス一年が、
ハーモニカを一ミリだけ前に押してくれた。

一ミリやで。
けどな、ワイには十分や。

音楽ちゅうのはな、階段ちゃうねん。
上がったり下がったりするもんやない。
循環的な解釈や。歴史みたいなもんやな。

遠回りして、
別の楽器通って、
ようやく昔の自分のとこ戻ってくる。

そん時な、
同じ場所立っとるはずやのに、
景色がちょっとだけ違う。

……その一ミリや。

それがあるさかい、
ワイは、まだ吹いとるんやろな。

***

2025年12月17日水曜日

ジミー・ライ事件が暴いた「嘘の体制」――香港から日本への警告

 
11年前の香港民主化運動


香港の教訓と、日本が見ようとしない現実


ジミー・ライ有罪判決のニュースは、日本では議員定数云々といったほど、大きな話題にはなっていません。しかし、この事件は単なる香港の一活動家の裁判ではありません。それは、中国共産党が長年かけて積み上げてきた「約束」「制度」「法の支配」という言葉の体系が、完全に嘘であったことを世界に露呈した出来事です。

ジミー・ライ氏は、中国が香港に導入した国家安全維持法の下で、「外国勢力と結託した罪」に問われ、有罪とされました。量刑次第では終身刑の可能性もあります。高齢で健康状態も懸念される中、この判決は事実上の人生の終焉を意味しかねません。

約束は、最初から守る気がなかった

中国共産党は、香港返還以降、繰り返し世界に向けて語ってきました。
  • 香港は高度な自治を享受する
  • 一国二制度は50年間変わらない
  • 法治と自由は守られる
しかし、ジミー・ライ事件は、これらがすべて守るための約束ではなく、利用するためのレトリックだったことを明確に示しています。

一国二制度は尊重されたのではありません。時間を稼ぎ、香港の経済的価値と国際的信用を吸い尽くし、十分に力を蓄えた後、段階的に解体されたのです。

これは失敗ではなく、計画の完遂でした。

「法の支配」という最大の嘘

中国政府と香港政府は、今回の裁判について「法の支配に基づく公正な裁判」だと主張しています。しかし、この言葉こそが、全体主義体制の本質的な欺瞞です。

国家安全維持法は、
  • 犯罪の定義が曖昧
  • 解釈は党の恣意に委ねられる
  • 実質的な遡及適用が可能
  • 政治的言動そのものを犯罪化する
という特徴を持っています。

「外国勢力との結託」という罪名は、その象徴です。

外国メディアに語ること、国際社会に支援を求めること、民主主義の価値を共有することが「国家への裏切り」とされる。これは法治ではありません。思想統制です。

本来、法は権力を縛るために存在します。しかし中国共産党の言う「法治」とは、

法が権力を縛るのではない
権力が法を道具として使う


という、正反対の構造を意味しています。

「安定」を口実にした恐怖政治

中国共産党は常に「安定」や「秩序」を口実にします。香港国家安全法も「混乱を防ぐため」「秩序回復のため」と説明されました。

しかし、冷静に見れば明らかです。

香港を不安定にしていたのは、ジミー・ライ氏ではありません。自由な言論と批判に耐えられなかった中国共産党自身です。

全体主義体制にとって最も危険なのは、暴力ではありません。事実を語る言葉であり、権力を笑う自由であり、「異論が存在する」という現実そのものです。

だからこそ彼らは、新聞社を潰し、経営者を投獄し、高齢であっても容赦しない。これは秩序維持ではありません。恐怖による沈黙の強制です。

香港は実験場だった

香港の30年は、中国共産党がどのように嘘を重ね、自由を段階的に解体していくかを示す実験場でした。約束を守らなくても、国際社会は最終的に強く出ない。経済的利益を理由に、多くの国が目を逸らす。

その読みは、残念ながら当たってしまいました。

なぜ日本のメディアは、この問題を避けるのか

最後に、どうしても触れなければならない問題があります。

それは、日本の主要メディアが、このジミー・ライ事件、そして香港で起きている現実を、意図的に深掘りしようとしないという事実です。

中国共産党の「法治」や「安定」という言葉の嘘を正面から検証し、「一国二制度」がいかに計画的に破壊されたのかを構造的に伝える報道は、ほとんど見られません。

そこにあるのは、
  • 中国への配慮
  • 経済関係への忖度
  • 「刺激的な報道を避けたい」という空気
  • そして「遠い国の話にしておきたい」という自己防衛
でしょう。

しかし、報じないことは中立ではありません。報じないこと自体が、現状を追認する態度です。

香港で何が起きたのかを直視しないことは、中国共産党の嘘を事実上黙認することに他なりません。そしてそれは、日本社会が自らの「知る権利」を静かに手放していることを意味します。

かつて香港の人々は、「ここは中国とは違う」「国際社会が見ている」と信じていました。日本のメディアもまた、「日本は民主主義国家だから」「中国とは違う」と無意識に思い込んでいるのではないでしょうか。

しかし、自由と法の支配は、信じているだけでは守れません。それを支えるのは、現実を直視し、嘘を嘘として言葉にする営みです。

ジミー・ライ事件は、中国共産党の嘘を暴いた出来事であると同時に、日本のメディアと社会が、どこまで現実から目を背けているのかを映す鏡でもあります。

香港の悲劇を、遠い国の出来事として消費するのか。それとも、日本自身への警告として受け止めるのか。

沈黙は、安全ではありません。
沈黙こそが、次の現実を呼び込むのです。

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2025年12月16日火曜日

誰も決めないという病

 

「空気を読む」文化が危機対応を壊す 
  ~ 臨機応変を許さない日本社会  

――準備・覚悟・責任という欠けたピース

「臨機応変に対応せよ」。

企業の現場でも、政治の世界でも、危機が起きるたびに繰り返される言葉です。しかし実際には、日本社会は臨機応変が得意とは言い難い。むしろ、非常時になるほど判断が遅れ、混乱が拡大する場面を私たちは何度も目撃してきました。

問題は個々人の能力や度胸の欠如なのでしょうか。今回は、臨機応変という言葉の本質を掘り下げながら、日本人がそれを苦手とする構造的理由、そして身につけるための条件を整理します。

1.臨機応変とは「思いつき」ではなく、準備と覚悟である

まず確認しておきたいのは、臨機応変とは決して「その場の思いつき」や「精神論」ではない、という点です。

本来の臨機応変が成立するためには、少なくとも次の三つが必要です。
  • 第一に、選択肢(オプション)を事前に把握していること。
  • 第二に、最低限守るべきライン、すなわちフォールバックやコンティンジェンシーを決めていること。
  • 第三に、現場で決断する権限と、その結果を引き受ける覚悟があること。
この三点がそろって初めて、人は不完全な情報の中でも判断できます。逆に言えば、どれか一つでも欠けていれば、臨機応変は単なる行き当たりばったりに堕してしまいます。

日本ではしばしば、臨機応変が「空気を読むこと」「その場を丸く収めること」と誤解されがちです。しかし本質はその逆です。臨機応変とは、空気に従う力ではなく、責任を引き受けて判断する力なのです。

2.日本人が臨機応変を苦手とする根本原因

① フォールバック・プランを持たない文化

日本社会の大きな特徴の一つは、「100%でなければ意味がない」という思考です。その結果、「50%でも続ける」「被害を最小化するために引き返す」という発想が嫌われがちです。

これは歴史を振り返っても同じです。昭和の十五年戦争においても、あるいは国際的なテロ事件や金融危機の際の企業対応においても、「最悪を想定しない」「引き返す最低線を決めていない」という共通点が見られます。

フォールバックを考えることは、敗北を認めることではありません。本来は、生き残るための知性です。しかし日本では、それが「弱気」「責任回避」と見なされ、忌避されてきました。その結果、状況が悪化しても止まれない構造が温存されてきたのです。

② 「サーバント適合型」リーダーの量産

もう一つの要因は、人材の育成と評価の問題です。日本の教育や組織は、長らく「言われたことを忠実に実行する人」を高く評価してきました。

その結果、
  • 自分で判断しない
  • 決断しない
  • 責任を引き受けない
管理職が量産されてきました。いわば「係長止まり」の優秀さです。彼らは平時には有能ですが、非常時には機能しません。

臨機応変ができないのは、個人の資質の問題ではありません。判断しない人ほど安全に生き残れる構造そのものが、臨機応変を不可能にしているのです。

③ 「村の掟」と精神主義

非常時になると、日本ではしばしば精神論が前面に出てきます。「気合」「一体感」「頑張ろう」という言葉が飛び交い、具体的な判断は先送りされます。

背景にあるのは、「村の掟」とも言うべき同調圧力です。協調性を乱さないこと、空気を壊さないこと、村八分に遭わないことが、合理的判断よりも優先されてしまう。

その結果、非常時ですら人間関係の維持が最優先され、判断は遅れ、全体がパニックに陥る。この構図は、現代の企業や政治の現場にも色濃く残っています。

3.臨機応変の前提条件①:基礎と引き出しの多さ

臨機応変は、誰にでもできる魔法ではありません。「守破離」や職人、演奏家の世界が示している通り、徹底した基礎の上にしか成立しないものです。

型を知らない人は、応用できません。
引き出しが少ない人は、状況に対応できません。

にもかかわらず、日本では「守」だけで止まり、「破」「離」に進めない育成が常態化しています。型に従うことと、型を超えることは矛盾しません。むしろ、型を極めた者だけが、自由になれるのです。

4.臨機応変の前提条件②:現場でのイニシアチブと決断

臨機応変に必要なのは、全員の合意ではありません。必要なのは、現場で主導権を持ち、決断する人間です。

コンセンサスを待ち、上司の顔色をうかがい、本社や東京の指示を待つ――その間に、状況は刻々と悪化します。

臨機応変とは民主的であることではなく、責任を引き受ける覚悟です。結果が失敗だったとしても、その判断をした人が組織として守られる。この前提がなければ、誰も動きません。

5.なぜ昭和の戦争でも、今でも同じなのか

以上、述べてきたように、日本が臨機応変を苦手としてきた理由は一貫しています。
  • 不都合な事態を想定しない
  • 引き返す線を決めない
  • 判断する人を育てない
  • 判断する人を守らない
その結果、状況が変わっても止まれない。

重要なのは、「臨機応変ができなかった」のではなく、臨機応変を許さない構造が存在していたという点です。この構造は、昭和の戦争から現代の政治・企業経営に至るまで、本質的には変わっていません。

臨機応変とは、空気を読む力ではありません。
最悪を想定し、最低線を決め、現場で責任を引き受ける力です。

その力を育て直さない限り、日本はこれからも同じ場所で立ち尽くすことになるでしょう。














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2025年12月15日月曜日

橿原の風土と国際感覚 ~ 高市早苗という政治家の多面性 

 
橿原神宮のイメージ画像

橿原の風土と国際感覚


――高市早苗という政治家の多面性

大阪を離れて半世紀近くが経とうとする今、故郷である奈良県橿原市に思いを馳せるとき、ふと一人の政治家の姿が浮かび上がってきます。日本の建国の地ともいえる橿原。大和三山を借景に持つこの特別な土地で、人格形成期である10代を過ごした高市早苗氏です。

私はこれまでニューヨークや上海に住み、国際都市の空気や、理屈だけでは割り切れない現実感覚を肌で知ってきました。一方で、本籍はいまも奈良県橿原市八木町に置いています。そうした立場から高市氏を見ていると、彼女の政治家としての個性は、単純なイデオロギーや党派性では捉えきれない、多面的なものに映ります。

彼女の姿は、時に「大阪のおばちゃん」を思わせる率直さを帯びながら、同時にニューヨーカーや上海人のような、ドライで合理的な国際感覚をも併せ持っているように感じられます。その併存する二つの顔は、偶然ではなく、彼女が歩んできた土地と経験の積み重ねから生まれたものではないでしょうか。

いわゆる「大阪のおばちゃん」的な感覚とは、物事を包み隠さず語り、時にユーモアを交えながら本質を突く、関西特有のコミュニケーション能力です。回りくどさを嫌い、腹を割って話すその姿勢は、東京中心の政治文化の中では異質に映ることもあるでしょう。しかし同時に、それは人の体温を感じさせる強みでもあります。

一方で、高市氏のシャープで合理的な判断力には、国際都市で生きるビジネスパーソンの気配があります。データや事実を重視し、感情論に流されにくい姿勢は、競争が常態化したニューヨークや上海の都市感覚と通底しています。私自身がそうした都市で働き暮らしてきた経験から見ても、その感覚には作り物ではないリアリティがあります。

この一見相反する二つの側面をつなぐ鍵が、神戸という土地です。

高市早苗氏の若き日々は、神戸・六甲の地で育まれました。奈良の実家から、親の経済的援助を受けずに神戸大学へ通い、学費も生活費もアルバイトで賄う――いわゆる苦学生(?)としての日々です。この経験が、彼女の性格形成に決定的な影響を与えたことは想像に難くありません。

神戸は、大阪の商業的な活気とも、奈良や京都の内向きな伝統とも異なる、開明的で国際色豊かな港町です。異なる文化や価値観が日常的に交差するこの街で、高市氏は自立心とともに、物事を多角的に捉える視野を身につけたのでしょう。「学費は出さない」という逆境は、彼女に甘えを許さず、強い意志と現実的な経済観念を刻み込みました。神戸六甲での四年間は、単なる学生生活ではなく、政治家としての原点となる時間だったに違いありません。

そして、その土台のさらに奥底に流れているのが、橿原という土地の記憶です。

橿原市は、日本初の本格的な都とされる藤原京が置かれ、神武天皇即位の地と伝えられる橿原神宮を擁する、「日本の起源」とも言うべき場所です。こうした歴史を日常の風景として育つことは、国家を長い時間軸で捉える感覚や、日本人としてのアイデンティティを、静かに、しかし確実に育てます。

大和三山に囲まれた橿原の風土は、派手さこそありませんが、地に足の着いた、ぶれにくい信念を育むには最適の環境です。高市氏の政策論の根底にある歴史観や国家観は、こうした土地の空気の中で自然に形成されたものではないでしょうか。

つまり高市早苗という政治家は、関西的な率直さと、国際都市的な合理性を併せ持ちながら、その深層には橿原が育んだ時間感覚と国家観が流れている――私はそう考えています。

私は決して彼女の熱心な支持者でもなければ、自民党支持者でもありません。ただ、日本が敗戦後に形作られた体制を、惰性のまま温存するのではなく、現実に即したかたちで少しずつ修正していく必要があるとは考えています。その文脈において、高市氏には一定の役割を果たしてもらいたい、という距離感のある期待を抱いています。

人の体温を感じさせる率直さと、AIやデジタル技術にも通じる論理的でぶれない正確さ。その二つが同居する彼女のキャラクターは、良くも悪くも、現代日本の政治家像の一つを体現しています。長年故郷を離れてきた者として、同じルーツを持つ政治家の存在は、日本の未来を考える上で、実に示唆に富んだ存在だと感じています。

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2025年12月14日日曜日

2番ドローに追いつけないまま


ブルースは完成せえへん。
せやから五十年、

2番ドローの途中に
居場所があった。

ブルースハープ(10穴のハーモニカ)っちゅうモンはな、まず 2番ドロー(吸音) をモノにせんことには始まらんのや。

ベンドっちゅう技は、音をグッと下げて、あのブルージーな“泣き”を出すための、いわば 魂の呼吸 や。せやけどな、そいつを自由に操ったら天下取れる。

なんでや言うたら、リトル・ウォルターちゅう男、あいつはもう 2番ベンドの化けモン やったからや。10穴しかないハープでもやな、ひとつの穴で3つの音、それに無限のニュアンスや。

デジタルちゃうで。全部、口と腹ん中と心ん中で作る“生(なま)の音”や。これがアナログのええところなんや。

ほんでな、『Juke』や。

ウォルターはんの全米No.1のあの曲や。あれの3コーラス目聴いてみい。2番ベンドを“散歩するみたいに”ヒョコヒョコと行ったり来たりしよるんや。通常吸い→半音落とし→全音落とし、この3つを、シャッフルに乗せて気持ちよ〜く揺らすんや。

あんなん、並の人間ができる芸やあらへんで。ワイはな、50年やってもまだでけへんのよ。

🎵 🎵 🎵 🎵 🎵

2番ドロー・ベンドのカラクリ

2番ドローは普通吸うたらCのハープで「ソ」っちゅう音が出るんやけどな、ベンド入れたら 最大全音下げて「ファ」まで潜れる んや。その間の「ファ#」? もちろん出せる。出せんとブルースにならんわ。あれはな、口ん中の空間いじって、ふたつのリードを同時に共鳴させるワザや。高いほうのリードだけやなく、低いほうのリードも鳴らして、無理やり音程を沈める。ほんで初めて、あの“泣き声”が出よるんや。

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2025年12月13日土曜日

阿Qの時代は終わっていない ~ 反抗を恐れる国家がつくる“従順の装置”

 

https://www.bbc.com/news/articles/c5y2qd1795yo

Tricked, abducted and abused: Inside China's schools for 'rebellious' teens

Mengchen Zhang, Jack Lau and Ankur ShahBBC Global China Unit and Eye Investigations


カミュの「反抗」と、中国における“問題児矯正”の構造

1. カミュが言う「反抗(révolte)」とは何か

カミュにとって「反抗」とは、人間が自身の尊厳を守るために、理不尽で圧制的な力に対して“ノン”と意志を示す行為です。これは暴力の肯定ではなく、「人間とは何か」を守る倫理的態度そのものです。

人間が“物”として扱われる瞬間に反抗は始まり、その核心には 自由・尊厳・境界線の意識 があります。

カミュは全体主義を批判し、個人の尊厳より体制維持を優先する社会では、反抗の精神はかならず抑圧される と喝破しました。

ちなみに、日本のメディアは「体制批判こそ正義」という美しい物語を好みますが、そこに自分たちの物語以外を排除する全体主義的傾向が潜んでいるのは興味深い点です。

2. 中国の「問題児矯正」学校——反抗の否定としての“規律”

BBCが報じた中国の矯正学校の構造は、カミュの「反抗」という概念を参照すると鮮明に見えてきます。

現れた「問題」とは本当に“問題”か?

矯正対象とされた若者の理由は、
  • 親との不和
  • ネット依存
  • 性的指向
  • 恋愛
  • 「反抗的」態度
  • 不登校
などです。

これらは犯罪でも反社会行為でもなく、「自分とは何か」を模索する、ごく自然な“反抗の芽” です。しかし中国では、その芽を「異常」扱いし、「矯正すべきもの」と断じ、体制にとって都合の良い“従順な若者”へ加工していきます。

日本でも、「正しい価値観」を押し付けがちな某公共放送や、朝の報道番組と称する“偽善的なショー”で司会者やコメンテーターが声高に異論を排除している光景を思い出します。

体制側の論理:反抗=秩序の脅威

中国の矯正学校では、軍事式訓練・監禁・体罰・性的暴行まで報告され、個性を消し“従順さ”を作り出すこと が目的とされています。

これは、カミュが批判した「個人を体制に適合させるための素材」とみなす、典型的な全体主義の論理です。

3. 「思想教育」としての反日教育の位置づけ

中国の義務教育が掲げる「愛国教育(愛国主義教育基礎)」は国家戦略として構築され、その中核が「抗日戦争物語」を軸とした歴史修正教育です。
  • 日本を一貫して“侵略者”として強調
  • 共産党が人民を救ったという物語を正当化(justification)
  • 国家への忠誠と民族感情を結びつける
これはカミュ的に言えば、個人の判断を“国家が望む物語”で上書きする行為 です。目的は、若者の反抗の精神を幼少期から弱める(去勢)ことにあります。

日本の歴史認識報道でも、特定の価値観だけを“良心的”“リベラル”と称し、異論に冷淡な空気が漂う点は、どこか似ています。

反抗の否定としての“愛国的感情”の動員

カミュは、権力が正統性を保つために“敵”を創作し、集団の憎悪を管理する 手法を批判しました。

反日教育は、
  • 中国国家の正統性(legitimacy)
  • 共産党の歴史的正義
を補強するために「外なる敵」を物語化し、若者が自分で考える力=反抗の精神を弱める仕組みとして作用しています。

注)中国共産党は、自分らに何ら正統性(legitimacy)がないことを知っているのです。

4. 「問題児矯正」と「思想教育」は連続している

異なる制度に見えて、両者は驚くほど似ています。

共通する構造
  • 個の尊厳より集団秩序を優先
  • 個性や反抗を“問題”として扱う
  • 国家や大人が一方的に「理想の人間像」を定義
  • 従わせるための身体的・精神的強制
  • 若者の「自分とは何か」という問いを封じる
つまりこれは、「人間とは反抗する存在である」というカミュの前提を否定し、管理しやすい若者をつくる教育装置 です。

なお、日本の大手メディアが“良心”や“正しさ”の名のもとに異論を封じる姿勢も、構造的にはこの装置と完全に無関係とは言い切れません。「報道しない自由」はその典型でしょう。

5. まとめ

カミュは「反抗する者は、同時に人間らしさを守ろうとする者である」と述べました。

中国の矯正学校も、反日教育も、人間が本来持つ“反抗=自分で考える力”を危険視し、都合のよい枠に押し込む点で同型 です。

カミュ的視点で見れば、そこで抑圧されているのは「問題行動」ではなく、人間にとって最も根源的な自由と尊厳 です。

魯迅もまた『阿Q正伝』で、封建中国が“人間そのもの”を変えない限り、革命も進歩も幻で終わると鋭く見抜きました。阿Qが「革命、革命」と唱えていれば何か良いことが起こると信じ、何も理解しないまま処刑される姿は、思考を放棄した社会が生む悲劇 を象徴しています。

結局のところ、問題の核心は指導者個人よりも、中国共産党という巨大官僚組織に根づく「自分たちの組織を守るためなら真実を捻じ曲げ、約束すら反故にする」官僚的メンタリティそのものにあります。

そしてその姿勢は残念ながら、日本の財務省をはじめとする官僚機構にも驚くほどよく似ているのです。

“唯一の正しい物語”を掲げたがる日本の大手メディアにも、同じ匂いを感じざるを得ません。反抗の精神は、どんな社会でも腐食しうるのです。

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2025年12月12日金曜日

哲学のない世界で上手に迷子になるために

 
薬師寺(亡き父の撮影)

哲学のない世界で上手に迷子になるために

――考えること・悩むこと・無知を自覚することのすすめ――

私たちはよく「哲学」と聞くと、ギリシャの白い石柱の下でひげを触りながら思索にふける老人の姿を思い浮かべます。しかし、私が哲学と言っているのは、そんな高尚なものではありません。哲学とは、実はもっと泥臭くて、もっと生活感のある営みです。考えること、悩むこと、そしてなにより――自分は無知であると自覚し続けること。これだけで、もう立派な哲学者なのです。

なぜそんなことが大事なのか?それは逆を考えればすぐにわかります。愚か者というのは哲学ができない人のことだからです。

哲学ができない人、つまり考えない人、悩まない人、無知を自覚しない人。他者の言葉をそのまま飲み込み、自分の足で立たず、他人の判断に乗っかって生きていく人。

こういう人が権力の座につくと、世界はだいたい不幸になります。歴史を見れば枚挙にいとまがありません。私が敬愛する水戸の黄門様も言っていました。

「こんな大変な時だからリーダーの足をひっぱるな」という人がいますが、いやいや、そもそも足を引っ張られるようなリーダーを選んだのは誰なんでしょうか。哲学をしなかった国民が、哲学をしない政治家を生み出したのだとしたら、それは悲劇ではなく必然です。

日本人は「無駄と余裕」が嫌いである

私は昔から日本人は「無駄」や「余裕」が大嫌いだと感じています。しかも困ったことに、それが文化レベルで染み込んでいる。会社で意味のない結論のでない会議を午後5時から延々とやるような無駄をやる割には「無駄は敵だ!」とばかりに余裕を叩き潰す。

完璧主義はさらに拍車をかける悪癖です。アメリカや中国なんて欠点だらけですよ。問題だらけの中から、“まあいいか”と前に進んでしまう。強引さもある。しかし日本は違う。

 問題が100%解決しない限り前に進まない。
 しかも誰かが少しでも余裕を見せたら、袋叩きです。

それでは新しい発想や魅力が生まれるはずがありません。私はずっと「無駄とか余裕から魅力が生まれる」と言い続けていますが、日本ではなかなか受け入れられません。そりゃあ長年日本を離れていたくもなるというものです。

ところで政治の世界で「仕分け」という言葉が持てはやされた時期がありますが、私は最初、「簿記の話?」と本気で思いました。政治の世界でまでコストカットとは、もはや笑うしかありません。アカウンティングとファイナンスのバランスが悪すぎる。 

人間とは矛盾そのもの

ソクラテスのギリシャ哲学からヘーゲル、マルクス、毛沢東まで、多くの思想家たちが「矛盾」を語ってきました。なぜ人間はこんなにも矛盾だらけなのでしょう。

 私は思うのです。
 人間は生まれてから死ぬまで、矛盾との戦いだからだ。

生きるということそのものが、自分の中にある無数の葛藤を引き受ける作業です。だから人間の作る政治や外交なんて、矛盾や葛藤の塊で当然なのです。「遺憾だ!」と列島の中だけで叫んでみたところで、矛盾は一ミリも減りません。

矛盾を解決する力こそ哲学であり、考える力なのです。

失敗を記憶するという智慧

リーダーに求められるものは、世界的な視野、歴史と文学への素養、そして責任感。この三つが揃わないと国はまともに運営できません。凡人が運命に逆らって国家権力を握ると、だいたい独裁になります。これは歴史が証明しています。

スペインの哲学者オルテガは言います。
 「人間の真の宝とは、積み重ねられた失敗である

人類は何千年という時間をかけて、失敗という名の宝石をため込んできました。そこから学ばないなら、もはや人間とは呼べません。

ニーチェもこう言いました。
 「超人とは、“もっとも記憶力の良い”人間である
 失敗を覚え、そこから学び、自分を更新し続ける者こそ強い。

日本では、歴史の失敗と向き合うことを避ける人が多い気がします。宗教の原理主義や独裁政治のせいではなく、単に無関心(虚無)と勉強不足でしょう。

「なんとなく信じてしまう」人々が大量生産される社会では、哲学は育ちません。問い続けることです。

日本の近代化の「精神的不徹底」

世界史の歩みは、ルネサンス、宗教改革、フランス革命を経て近代国家へと至ります。その中核は三つの精神です。
  • Humanism(人間主義)
  • Rationalism(合理主義)
  • Personalism(人格主義)
特に重要なのはこのPersonalismです。自分を自律的な主体として捉える態度。これが欠けている社会は、どんなに文明が進んでいても「近代」とは呼べません。

明治の文豪たち――漱石や鴎外――が明治政府の「上滑りの文明化」を批判したのは、この精神的近代化の遅れを感じていたからでしょう。鹿鳴館のドレスと燕尾服の下には、まだ「自律した個人」が育っていなかったのです。

150年経った今も、日本社会全体が自律した人格を確信できているかと言えば、どうにも怪しい。働き方改革の議論にしても、歴史の文脈を共有しないまま「効率」「生産性」と叫んでいるだけに見えます。

自律とは、迷路の中を歩く覚悟である

ニーチェは、「一人で迷路を歩く勇気こそ意志の力だ」と言いました。見える範囲だけでなく、遠くを見渡す目。新しい音楽を聴き分ける耳。そして、孤独に耐える力。これが哲学であり、自律の証です。

サルトルもまた、「実存が本質に先行する」と述べました。人間は、生まれた瞬間には何者でもありません。経験し、学び、出会い、失敗し、悩む。その積み重ねによって、自分の本質を形づくっていくのです。

つまり、自分の人生を自分の決断で生きるしかないということです。誰かの言葉を借りて生きているうちは、いつまでも「他者の人生」を生き続けるだけです。

いま、世界は「哲学のない世界」に突入している

SNSのタイムラインは瞬間的な反応の洪水で、人々は“考える前にクリックする”生活に慣れ切ってしまったようです。悩む時間を「非効率」と呼び、無知を自覚することを「恥」と思う世の中。生成AIは、さらにそういった状況を加速させる。

そんな社会で、哲学はますます軽視されます。考えない国民が増え、考えない政治家が選ばれ、そして考えない世界ができあがる。

私は今の世界が、まさにその段階に入ってしまったのではないかと思っています。

だからこそ、哲学なのです

哲学とは、別に難しい言葉や学術書を読むことではありません。

 考えること。
 悩むこと。
 無知を自覚すること。

それだけで、人は愚か者にならずに済みます。

日本のように「無駄と余裕を嫌う社会」でも、個人レベルで哲学することはできます。むしろ、哲学とは個人の営み以外の何ものでもありません。社会がどうであれ、自分が考え続けるかどうかは自分で決められるのです。

人類の歴史は、失敗の積み重ねでできています。 ならば私たちも、悩み、失敗し、考え続け、生きるしかありません。

迷路の中を進む一人の旅人として。
そして、自分の人生に責任を持つために。

以上が、極めて凡人である、私の考える「哲学」なのです。

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