2025年10月12日日曜日

知能と知性を混同する国

 
Silicon Valley is home to many major tech firms, including Apple's circular headquarters

(BBCの記事から借用です)

‘It’s going to be really bad’: Fears over AI bubble bursting grow in Silicon Valley” — BBC ニュース(2025年10月11日付)

https://www.bbc.com/news/articles/cz69qy760weo

この記事で報じられていたのは、OpenAI や Nvidia を中心に、AI関連企業の過熱感と、その先にある市場の崩壊リスクである。記事は、企業間の複雑な投資スキームが実需を曖昧化している点も指摘しています。

このニュースを読んで、私は改めて「AI の進歩」と「人間の知性」の関係を問い直したくなりました。

世界中がAIに熱狂し、巨額のマネーが動くなかで、本当に問われるべきは「人間の側の知性」ではないでしょうか。人工知能は人間を超えるスピードでデータを処理しますが、それが「知的」かどうかは別問題です。AIの能力に驚嘆する一方で、私たちは「知能」と「知性」を混同していないでしょうか。

人工知能は知能(intelligence)を拡張する道具であり、人間にできないことを可能にします。それは、大量のデータを高速に処理するという「計算能力」においてです。しかし、知性(intellect)とは本来、人間固有のものであり、反省や内省、振り返り、すなわち自己認識の営みの中にあるものです。

最近のアメリカを見ていて驚くのは、哲学のような本来「知性」の領域に属する学問まで、形式化・数量化しようとしていることです。AIの議論の根底に、「数値化できないものは存在しない」とする発想があるのです。

アメリカ社会の根本的な矛盾は、自分たちが「永遠にナンバーワンで不滅だ」と信じていることにあります。「More(もっと)」を無限に追い求める“足るを知らない病”です。金を持っている人間が神に祝福された人間であり、偉いのだという価値観。トランプ氏はその典型です。シンギュラリティという概念は、まさにそうしたアメリカ的な富と権力への信仰にぴったり合っているのです。

しかし、そのトランプ政権下で進められた徹底した不法移民の取り締まりと大規模な強制送還は、アメリカの本質的な強みを損なうものでした。問題は単に下層の労働力だけではありません。シリコンバレーを支えてきたのは、インド系や中国系をはじめとする世界各地から集まった優秀なエンジニアたちです。彼らの中には合法・非合法を問わず、才能を求めてアメリカにやってきた人々が少なくありませんでした。アメリカのベンチャー企業は、そうした移民たちのエネルギーと創造力によって支えられてきたのです。

その「懐の深さ」こそが、かつてのアメリカ経済を再生させた最大の要因でした。

アメリカ資本主義を支えてきたのは、合理性と多様性という二つの支柱です。合理的な仕組みと透明なルールのもとで、多様な人材が競い合うことで新しい産業が生まれてきました。1990年前後のアメリカ経済がどん底から復活したのは、まさにこの二つの力によってでした。ところが今、その合理性は投機的な「AIバブル」によって歪められ、多様性は排外主義的な政策によって損なわれつつあります。アメリカがかつて自らを支えた土台を掘り崩しているようにも見えます。

そして残念ながら、日本もまた同じ過ちを犯しています。新聞やテレビのコメンテーターが、表層的な理解だけでAIやシンギュラリティを語る光景は、滑稽とさえ言えます。ここでも、手段と目的の取り違えが起きているのではないでしょうか。AIという「知能の拡張」を目的化してしまい、「人間の知性」を磨くという本来の目的がすっぽり抜け落ちているのです。

知能と知性を混同する国は、アメリカであり日本でもあります。

AIに頼るほど、人間は何を失っていくのか。それを考える「知性」こそ、今いちばん必要とされているのではないでしょうか。

***

2025年10月11日土曜日

「移民国家ニッポン」を語る前に ~ 渋谷で見た日本の現在地

渋谷スクランブル交差点

先日、5~6年ぶりに渋谷に行きました。いやあ、びっくりしましたね。まるで空港のターミナル。スクランブル交差点を渡る人の7~8割が外国人。浅黒い肌の中東系、インド系、そして白人の姿も目立つ。パルコのレストランに入ると、店員さんまで外国人。しかもみんな日本語を話している――もっとも、流暢というよりは接客マニュアルの会話レベルですが。もはや「旅行者」ではなく、明らかに「居住者」なんですね。日本人の私が、なんだか田舎から出てきた高齢者のおのぼり観光客のような気分になってしまいました。エスカレーターに乗るのにも一苦労。突然立ち止まる人、写真を撮る人、スーツケースを引く人…。渋谷の街は、東京というより“人種と文化のカオス・ワールド”。その雑踏を抜けるころには、頭がくらくら、軽い時差ボケを感じたほどです。

そんなタイミングで、日本版『ニューズウィーク』を開いたら、フランス人ジャーナリストのレジス・アルノー氏の記事が目に飛び込んできました。タイトルは「なぜ日本は『移民』を語って『帰化』を語らないのか」。――まるで渋谷の雑踏から直接インスピレーションを得たようなテーマです。記事の趣旨は、「日本はすでに移民国家なのに、その現実を見ようとしない」というもの。たしかに数字だけ見れば説得力があります。日本に暮らす外国人は約380万人。飲食業も建設業も、今や外国人なしでは回らない状況に追い込まれた。法務局の帰化審査がブラックボックスだという批判も、正しいのかもしれません(詳しくは知りません)。

しかし、読み進めるうちに、どうにも違和感が湧いてきました。彼の論には、「時間」と「記憶」という、日本特有の文脈がすっぽり抜け落ちているのです。

日本は、戦前と戦後でまったく別の国になりました。敗戦後の80年で、日本は見事なまでにアメリカ化し、2000年以上かけて積み重ねてきた文化や風習――つまり「日本人の情緒」を、自らの手で手放してきた。しかも押しつけられたのではなく、むしろ喜んで。

「アメリカの保護者付きで生きるほうが楽だった」のです。考えなくていい、責任を取らなくていい、失敗しても誰かのせいにできる。そんな“戦後の知恵”が国民的習慣になった。私は、ここに戦後日本のストックホルム症候群的構造を見るのです。つまり、支配者を憎みながらも依存せざるを得ない心理(令和の現在、そういった意識さえ無くなった)。おかげで私たちは「独立国家のふり」をしながら、実際には「ごっこ」の中で暮らしている。―― これこそ、戦後最大の自己欺瞞ではないでしょうか。

だから私は、「日本は移民国家だ」というアルノー氏の断定には、少し首をかしげます。確かに街を歩けば外国人だらけ。でも、それで移民国家?いや、あれは“共生”というより“雑居”です。同じマンションに住んでいるけど、料理の匂いも文化も混ざらない。せいぜい「エレベーターでうなずき合う」レベルの共存です。フランスのように「生まれたら国民(出生地主義)」の国と、「血と文化を継ぐ(血統主義)」の国では、社会観がまるで違う。それを「どちらが進んでいる」と比べたがるのは、文明が文化を見下す傲慢というものでしょう。

むしろ今の日本は、「外」ではなく「内」を見つめ直す時期だと思います。私は極論を承知のうえで言いますが(何十年も言い続けています、、、)、いまこそ“精神的鎖国”をしてもいい。「日本とは何か」を、もう一度ゆっくり考える時期です。「和の感性」「間の美学」「自然との共生」―― これらは懐古趣味ではなく、未来への設計図です。それを忘れ、自らの「情緒」を経済合理性の奥底に押し込めてしまったのが、いまの日本人の姿でしょう。

だからこそ、必要なのは「反抗」です。

ただの反米ではなく、思想としての自立、文化としての自尊 ―― つまり、自分の足で立つという決意。移民政策の議論をする前に、私たちはまず「どんな日本に生きたいのか」を考えるべきです。国家とは制度ではなく、文化の器であり、精神の住処なのですから。

最後に、日記をつけることをお勧めします。“Inner Balance Notebook(内なる均衡ノート)”――自分の心のバランスを記すための小さな日課。毎日の気づきや感情をほんの数行でも書きとめる。それは、忙しい日常の中で“自分の中の日本”を取り戻す、ささやかな習慣です。渋谷の喧騒の中でも、静かに立ち止まる時間が生まれる。日本の再生は、そんな小さな自己対話から始まるのではないでしょうか。

移民国家かどうかを論じる前に ―― まず私たち自身が、どんな日本に生きたいのかをノートに書くこと。それが、未来へつながる本当の「文化の再構築」だと思います。

***

2025年10月10日金曜日

絵日記という原点 ~ 情緒と思考をつなぐ習慣づけ

 
ibg ノート

小学校で「絵日記」を書くことの意味を、私たちは意外なほど軽く見ているのではないでしょうか。印象に残った場面を絵に描き、その説明を短い文章でまとめる。単純な宿題に見えますが、実はこの作業こそが「情緒的な思考」と「論理的な思考」をつなぐ最初のステップなのです。


小学校のうちに、感情や経験を言葉に置き換えて表現する練習をしておかないと、後に論理的思考へと発展していきません。ましてや、抽象的な概念を使って論文を書くなど到底無理なのです。社会人になってから求められるのは、専門的な知識をもとに自分の考えを体系的にまとめ、他者に説得力をもって伝える力です。その基礎は、実は「絵日記」にあります。

柳田国男に学ぶ「ふりかえり」の力

民俗学者・柳田国男は「青年と学問」(岩波文庫)で次のように書いています。

自分たちの学問は、いつまでたっても改良と訂正とが必要である。これを印刷に付するのは、このまま信用せられんがためでなく、むしろ自分も読者諸君とともに後日虚心平気にもう一度これを批評せんがためである」。

自分の過去の考えを、年月を経て改めて見直す。これこそが「学び」の原点だと柳田は言うのです。私自身も、10年、20年、30年前に書いた日記を読み返すことがあります。そこには、変わった部分もあれば、相変わらず同じことをグダグダと繰り返している自分もいる。絵日記も同じで、「あの時自分は何を感じていたのか」をたどる手がかりになります。書くこと、描くことは、自己をふりかえる習慣なのです。

鉄人28号と絵を描く力

私が小学生低学年だったころ、夢中で「鉄人28号」の絵ばかり描いていました。リモコン次第で悪人の手先にもなる鉄人28号のほうが人間くさい鉄腕アトムよりも好きでした。音楽でいえば、ビートルズよりローリング・ストーンズが好きなのと似ています(本当は両方好きですよ!)。子どものころは、夢中で絵を描いては次々に興味が移っていったものです。
     
今思えば、あの頃に「描く」ということを通じて、無意識のうちに観察力や構成力を身につけていたように思います。文系・理系を問わず、絵を描くことは思考の基本です。頭の中のイメージを形にする力、つまり「構造化する力」です。ビジネスの世界でパワーポイントの図解をつくるのも、絵日記の延長線上にあります。絵心がある人は、複雑な情報を整理してわかりやすく伝えることができるのです。

絵日記はプレゼンテーションの原点

絵日記の構成をよく考えてみましょう。

「絵」=ビジュアルで印象を伝える要素。
「文章」=説明で補う言語的要素。

これはそのまま「ビジネスプレゼンテーション」の構成と同じです。

子どもが描いた絵を説明するとき、「どうしてそれを選んだの?」「何がいちばん印象に残ったの?」と聞いてあげると、子どもは自分の考えを自然と整理し、言葉にしていきます。このプロセスは、将来の「プレゼン力」を育てる練習です。しかも、親子の対話を通して進めることで、コーチングの実践にもなります。絵日記は、子どもの言葉を引き出す“家庭の小さなプレゼン研修”なのです。

「物語」としての自分を語る

人生とは、ひとりひとりの物語です。自分という主人公がどこに立ち、何を感じ、どう行動してきたのか――それを語る力が「大人になる」ということだと思います。

絵日記は、その第一歩になります。自分を少し距離を置いて見つめ、「あの日の自分はこう感じていた」と言語化する。この「布置化(ふちか)」、つまりコンステレーションの習慣が、自分の思考や行動を客観視する力を育てます。後にこれが、仕事での自己省察やチーム内でのコミュニケーション力につながっていくのです。

多くの人と関わり、語り、ふりかえる。その積み重ねが「人生のビジョン」を形づくります。信頼や尊敬は、時間を共有するなかで生まれるのです。絵日記は、その原型として自分と他者をつなぐ訓練の場でもあります。

感情を言葉にする力は一生の財産

「楽しかった」「きれいだった」だけでは、もったいない。絵日記では、限られた言葉で自分の気持ちを表現しなければなりません。「風が気持ちよかった」「心がドキドキした」――そうした表現の中に、子どもの感性が息づきます。短い中に情緒を込めるという点では、俳句や短歌にも通じます。短いと言っても、スマホによるチャットの交換ではないですよ。この訓練が、「自分の感情を言葉にする力」を養い、将来の社会生活で必ず役立ちます。

現代社会では、SNSやプレゼンテーション、自己紹介など、あらゆる場面で「自分を言葉で表現する力」が求められています。絵日記で育つ言語化能力は、一生もののスキルです。

「もう一人の自分」を持つトレーニング

カーリングの藤沢五月選手は、自分の心に「もう一人の自分」を宿すトレーニングをしているそうです。これは心理学で「メタ認知能力(meta-cognitive ability)」と呼ばれるもので、自分を客観的にふりかえる力のことです。スマホ依存が進む現代社会では、この力がますます重要になります。

実は、絵日記や日記を書くという行為そのものが、この「もう一人の自分」を育てるトレーニングでもあります。自分の思考や感情を見つめ直す時間を持つこと。それが人間の成熟に欠かせない要素なのです。

ibgノートという“ふりかえり”のツール

10年ほど前に、この考えをもとに「ibgノート」を作りました。A4横サイズ、白いダブルリング綴じ、KPT(Keep/Problem/Try)方眼フォーマット付き。ビジネスコンサルタント用に設計しましたが、実はお子さんの絵日記や雑記帳としても使えます。

上のページに絵を描き、下のページに「よかったこと」「よくなかったこと」、そして右に「やりたいこと」を書く。親子でふりかえる時間を持つことで、会話が生まれ、考える力が育ちます。絵日記は子どもの教育だけでなく、企業のコミュニケーションにも通じる――そんな思いを込めたノートです。

絵日記は、情緒と思考をつなぐ最初の架け橋です。
そしてそれを続けることが、「自分を語り、自分を成長させる」ための、最もシンプルで確実な方法なのです。

***

2025年10月9日木曜日

AIと教育 ― 便利さの幻想を超えて

出典:不明

デジタル化が進むほどに問われる「人間とは何か?」「生きるとは何か?」
教育の本質は効率ではなく、思考の再教育にある。


AIやデジタル技術の導入が加速する教育現場。

しかし、「便利」「効率的」という言葉の裏側で、教育の本質が見失われつつあります。
AIが生成する“知”の時代に、私たちは何を学び、どのように考えるべきなのでしょうか。

技術礼賛の先にある「思考の空洞化」

近年、「AI×教育」や「デジタル学習革命」といった言葉が教育現場を賑わせています。けれども、その多くは技術の導入を目的化した表層的な議論にとどまっているように思います。AIやデジタル機器を「効率を上げる道具」としてのみ語る言説は、教育の本質を見失う危険をはらんでいます。

記事や報道を眺めていると、傾向は大きく三つに分けられます。第一に、デジタルを「便利なツール」として礼賛する類。第二に、リスクを過度に強調する立場。第三に、AI導入事例を並べるだけの「技術紹介」型です。これらに共通するのは、教育を「技術の問題」としてしか見ていない点です。教育とは本来、人間の内面に関わる営みであり、AIが解決できるのは一部の作業的課題にすぎません。

デジタル化が変えるのは「知識」ではなく「情報の意味」

AI時代の教育において本当に問うべきことは、「何をどう教えるか」ではなく、「情報とは何か」という問いそのものです。
かつて情報は希少であり、それゆえに価値を持ちました。しかし今では、情報は溢れています。検索一つで誰もが入手できる時代において、価値の源泉は「情報の量」ではなく、「取捨選択・編集・解釈の力」へと移りました。学ぶべきことは、「情報を持つ力」から「情報を意味づける力」へと転換しているのです。

AIが生成する情報は無限に拡張します。けれども、それをどう読み、どう疑い、どう再構築するかという人間の思考が伴わなければ、知は空洞化します。デジタル化の本質とは、情報の洪水のなかで“意味”が相対化されることにあるのです。

教育の目的は「ツールの習熟」ではない

教育の目的は、技術の習得ではなく、思考の涵養にあります。
ある教育情報サイトが示したように、「情報を活用し、意味づけ、創造へとつなげる力」は、AI時代における人間の根幹的な能力です。重要なのは、AIを“使える”ことではなく、AIを通して「人間とは何か」を考えることなのです。

教育には次の五つの視点が求められます。
  1.  情報の真偽を見抜く批判的思考力
  2.  情報を再構成する編集力
  3.  文脈を読み取る理解力
  4.  デジタル(仮想)と実体験(現実)のバランス
  5.  技術格差に対する社会的配慮
これらはいずれも「便利さ」や「効率性」といった価値観の外側にあります。AIを使いこなす以前に、AIに使われない人間を育てることこそ、教育の使命ではないでしょうか。

「思考の再教育」こそAI時代の鍵

AIが文章を作り、画像を描き、問いに答える時代に、人間はどのように学び、考えるべきか――。
その答えは、単なる情報教育ではなく「思考の再教育」にあります。自ら考え、疑い、判断する力を養うこと。そこに教育の原点があるのです。

「デジタル教育」の喧噪のなかで、私たちはいま一度、教育の目的を問い直す必要があります。
AIが変えるのは学びの“手段”ではなく、人間の“意味”そのものなのです。

最後に

AI教育をめぐる議論は加速していますが、「効率」や「個別最適化」の言葉が独り歩きしています。

教育は、道具をどう使うかの問題ではなく、人間がどう生き、考えるかの問題です。その根幹を見失わないために――「便利さの幻想」を超えた教育の再定義が求められています。

***

2025年10月8日水曜日

フェミニズムと自由の原点 ― 高市総裁が映す“平等”のかたち

 
出典:Adobe Stock

自民党総裁選で高市早苗氏が新総裁に選出され、初の女性首相誕生の可能性が現実味を帯びてきました。これに対して、多くの国民からは期待や歓迎の声が上がっていますが、日本のフェミニズム研究の第一人者である社会学者・上野千鶴子氏は、「うれしくない」と率直な思いをX(旧ツイッター)で発信しました。

上野氏は、「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない」と投稿。さらに、スイスのシンクタンク「世界経済フォーラム」が毎年発表する「ジェンダーギャップ指数」に言及し、「来年は日本のランキングが上がるだろう。だからといって女性に優しい政治になるわけではない」と指摘しました。

特に上野氏は、高市氏が「選択的夫婦別姓」に慎重である姿勢を問題視。「これで選択的夫婦別姓は遠のくだろう。別姓に反対するのは誰に忖度しているのだろう?」と批判的な見方を示しました。もっとも、高市氏自身は旧姓の通称使用拡大に政治家として長年取り組んできた経緯があります。

一方で、立憲民主党の辻元清美参議院議員は、党派を超えて祝意を述べました。「高市さんと私は20代の頃から『朝まで生テレビ』で議論してきた対極の存在」としながらも、「ガラスの天井をひとつ破りましたね。たとえ意見や考え方が違っても、すべての人の幸福のために力を尽くす。その思いでしっかり熟議しましょう」と前向きなメッセージを送りました。

この辻元氏の発言には、普段彼女の政治姿勢に賛同しないと語る一部の有権者からも、「今回はよかった」「さすが大阪のおばちゃん」と評価の声があがりました。

高市氏の総裁就任を巡っては、社会的な立場や政治的な思想によって、評価が大きく分かれています。しかし、この議論から見えてくるのは、「女性であること」そのものよりも、「どのような価値観に基づき、どのような社会を目指すのか」という、より本質的な視点が問われているということです。

男であれ女であれ、魅力的な人は魅力的であり、家庭にいる女性もオフィスで働く女性も同じように尊重されるべきです。性別によって役割が決まるのではなく、互いの違いを認め合い、折り合いをつけながら共に生きていくことこそが、成熟した社会の姿といえるでしょう。

その意味で注目すべきなのは、社会主義者・北一輝の思想です。彼は社会主義者ですから、当然のごとく男女平等主義者でしたが、同時に「断じて同一の者に非ざる本質的差異」があることを認めていました。男と女は物理的に異なり、それぞれにしかできないこともある。互いに理解できない現実もある。にもかかわらず、人は努力して折り合いをつけながら共に生きていくものだ、という視点は、今日のジェンダー論にも通じる重要な視座ではないでしょうか。

ここで思い起こされるのが、アメリカ建国の精神です。

「すべての人は平等に造られている(All men are created equal)」という独立宣言の一節は、当初は女性や有色人種を含まない限定的なものでした。しかしその理念――「個人の自由と平等を守る」という普遍原理――が、のちの黒人解放運動や女性参政権運動、そしてフェミニズムの礎となっていきました。

つまり、フェミニズムとはアメリカ建国の「自由の精神」を、性の次元において拡張し、実践しようとする試みでもあるのです。性別を超えた「人間としての尊厳の平等」を求める思想こそ、民主主義の延長線上にあるべきものです。

とはいえ、今のアメリカ社会を見れば、その理想はむしろ遠のいているようにも見えます。分断と対立の構図は深まり、自由の名のもとに他者を排除する風潮すらある。皮肉なことに、アメリカ建国の理念は、最も古くに掲げられながら、最も実現が遅れている理想なのかもしれません。

もしかすると、「すべての人が平等に造られている」という思想は、日本が先に実現していたのではないか――そう感じる瞬間すらあるのです。

そして、そのような社会を目指すのであれば、「知ることと行うこと」が一致している(知行合一)、つまり「言っていることとやっていること」が一致している人物こそが信頼に値します。性別を盾にするのではなく、より抽象度の高い「平等」という理念にどう向き合うのかが、今まさに問われているのです。

フェミニズムとは、本来、性別を問わずすべての人が平等に扱われるべきだという思想です。日本ではしばしば誤解されがちで、「フェミニスト=女性を優遇する人」と捉えられることもありますが、それは本質ではありません。フェミニズムは、性差別をなくし、機会の平等を追求する考え方であり、男性でも女性でも支持しうる思想です。

つまり、「フェミニストは女性だけのもの」とするのではなく、性別に関係なく、すべての人がその理念を共有し得るものである――この視点が、これからの議論の出発点となるべきなのです。

なお、私自身は上野千鶴子さんについて深く知っているわけではありません。発言や立場を見る限り、非常に学者らしく、現実社会からはやや距離のある意識の持ち主であるように感じます。ときに、彼女のフェミニズムは「女性優位論」として映ることもあり、彼女の実生活と発言の間に乖離があるようにも見えます。つまり、「知行合一」とは程遠い印象を受けるのです。ファンの方には申し訳ありませんが、こうした違和感を覚える人も少なくないのではないでしょうか。

***

2025年10月7日火曜日

親子関係と情報の時代を考える

散歩


ワクチンよりも信頼 ― 親子関係と情報の時代を考える


アメリカの Washington Post に「ワクチンを受けずに育った若者たちが、大人になってから自ら接種を選ぶ」という記事が掲載されていました。宗教的理由や医療不信などから、親が子供に予防接種を受けさせなかったケースが多く、子が成人してから医療機関で「実はほとんど接種していなかった」と知って愕然とする例が紹介されていました。

記事で印象的なのは、「親を信じていたはずの子供が、成人してから自分の身体を守るために“親の判断を修正する”」という点です。ワクチン問題の背後には、単なる医療政策だけでなく、親子の信頼関係や社会への信頼の問題が深く関わっています。

日本の医療は、世界でも稀な充実度

日本に暮らしていると見えにくいのですが、日本の医療制度は世界的に見ても極めて手厚いものです。私自身、両親や義父母の介護を経験し、医療費や高額療養費制度など、国の支援のありがたさを痛感しました。アメリカでは、医療保険が不十分な家庭も多く、経済的理由で予防接種を受けさせられない親もいます。宗教や思想だけでなく、「医療費」や「制度の不備」もまたワクチン忌避の背景にあるのです。

日本のコロナワクチン接種については、私は初期の段階で区切りをつけました。裏で様々な思惑が交錯しているように感じられたからです。健康に関する選択は、国家や企業の方針に委ねるものではなく、やはり最終的には一人ひとりの判断にゆだねられるべきだと思います。

情報の時代における「親の限界」

いま世界中の若者たちは、スマホとSNSで育っています。情報の出所はもはや親ではありません。ワクチンに限らず、社会や政治の情報についても、親世代と子世代の間に大きな断絶が生まれています。

私の世代では、「朝日新聞の天声人語を読め」と先生に言われたものです。しかし今では、朝日新聞をはじめとする既存メディアの信頼度は大きく落ちています。テレビや新聞の情報を鵜呑みにするのは、私の上の世代か、同世代くらいまででしょう。

いま必要なのは「正しい情報をどう選び取るか」というリテラシーです。真贋を見極めることは容易ではありませんが、読んで・考えて・書くという営みを怠れば、思考力は確実に失われます。AIに思考を委ねるのではなく、日々の生活の中で自分の頭を使うことが、知性を守る最低限の防波堤です。

成人した後の「子育て」

何度も言及していますが、「子育て」には、二つのフェーズがあると思っています。

① 成人するまでの子育て
② 成人した後の子供との関係

多くの「子育て論」は①しか扱いません。けれども、親子関係は成人しても続くのです。
親の役割は「誠実で信頼できる存在であること」。それがすべてです。

子供は親の言葉ではなく、親の態度や行動を見ています。言葉と行動にギャップがあれば、信頼は失われます。信頼とは、教え込むものではなく、日々の言動の積み重ねから生まれるものです。

私は中学生の頃、教師のあら探しばかりしていました。信頼できない学校や先生とは距離を置いた。反抗的な傾向は高齢者になった今も変わりませんが、、、。誠実さのない大人は、子供にも社会にも信頼されないのです。政治家と国民の関係も、まったく同じ構図でしょう。

「自然体の親」であること

日本社会では、アダルトチルドレン的な傾向が強まっていると感じます。子供のころから親との信頼関係が築けず、大人になっても他者との関係がうまく結べない。会社では上司と部下の関係に置き換わり、仮面をかぶって生きる。

それを断ち切る第一歩は、親が自然にふるまうことです。立派な親でなくていい。言葉よりも誠実さ。形よりも態度。「信頼できる親」であることが、ワクチンよりも強い免疫になるのです。
  
***

2025年10月6日月曜日

日本初の女性総理誕生と「平等」という幻想

 
高市さんは橿原市の出身。

自民党の総裁に高市早苗さんが選ばれました。歴代初の女性総裁であり、事実上、日本初の女性総理が誕生したことになります。アメリカに先んじて女性リーダーを迎えたことは、国際社会に大きな驚きを与えるでしょう。しかし、この出来事を単なる「男女平等の象徴」として消費してしまうのは、やや短絡的ではないでしょうか。

はアメリカにほぼ20年暮らし、アメリカ企業で働いてきました。その経験から言えば、アメリカはあらゆるカテゴリーに差別が存在する社会です。格差の広がりも凄まじく、人種・性別・宗教・階層といった要因で壁が立ちふさがります。それに比べると、日本は驚くほど平等な社会です。格差社会へと少しずつ変貌してきたとはいえ、アメリカや中国と比べたら日本ははるかに公平で、格差の少ない社会だと断言できます。

近年はLGBT法案も注目を集めています。私がNYで働いていた頃、直属の上司がゲイの男性でした。しかし、その事実を特別に意識したことは一度もありませんでした。当時は「LGBT」という言葉すら一般的でなかったのにです。結局のところ、性的少数者は紀元前から存在してきたのです。アメリカが2000年以降、急速にジェンダーフリーに舵を切ったのは事実ですが、その副作用として優秀な人材が社会の表舞台から退くような現象も見受けられました。自由と民主主義の行き過ぎが、社会の健全なバランスを壊すこともあるのです。

こうした問題に対して、エマニュエル前駐日米大使は「同性婚は日本の未来への前進だ」と発言しました。しかし私は思います。日本には日本の価値判断の基準があるのではないか、と。欧米社会は「差別が前提」であり、そのために法律で規制するという仕組みをつくっています。けれど日本はそもそも差別の強度が弱く、自然と人間を二元論で分けるのではなく、自然と共生しながら独自の価値観を育んできました。そこに欧米型の「法律による規制」をそのまま持ち込むのは、むしろ違和感があります。

もちろん、日本にも課題はあります。事なかれ主義、当事者意識の欠如、危機に直面したときの脆さ。コロナ禍下でそれが露呈しました。また、日本人は「共同主観の模索」が苦手です。つまり、主観と客観を行き来しながら議論を深めることが不得手で、そのためリーダーシップの不在が際立ちます。それでも、欧米のように差別を「前提」にして制度を積み上げるのではなく、人間と自然の因果を一体として受け止める日本的発想を忘れてはならないと思うのです。

世界は本来、平等ではありません。程度の差はあれ、どこに行っても格差や差別は存在します。むしろ、日本は世界で最も平等に近い社会のひとつでしょう。その中で「何が何でも男女平等」と叫ぶ声には違和感を覚えます。人生を生きるということに男女の差はなく、それぞれが自らの美意識、人生の物差しを持てばよいのです。ビジネスの世界で優秀で魅力的な女性は、家庭でも有能な母であり、同時に社会を支える存在である。これは決して矛盾ではなく、日本の強みでもあります。

北一輝は男女平等を主張しましたが、それは「断じて同一の者に非ざる本質的差異」を前提としていました。男と女は物理的に異なり、それぞれにしかできない役割もある。互いに理解できない現実を認めつつ、それでも折り合いをつけて共に生きる努力をする――そこに本当の意味での「平等」があるのではないでしょうか。

一方で、男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法が掲げる「法律で男女を同一に扱う」という発想には危うさを感じます。それは本質的差異を無視し、国民を「全体主義の奴隷」として均一化してしまう危険があるからです。日本はもっと多様で柔軟な国柄であってよい。

教育に関しても同じです。子供たちには「世の中は平等ではない」という前提を教えるべきです。その中で試行錯誤し、失敗から学び、精神的に強くなること――Be Mentally Strong!――こそが必要なのです。立川談志師匠は「努力はバカに与えた夢だ」と語りましたが、師匠自身は人一倍努力を重ねました。天才でない限り、人と同じことをしていたら人と同じようにしか生きられない。だからこそ、自分の個性を磨き、強く生き抜くしかないのです。

高市総裁誕生という歴史的出来事を「男女平等」の勝利として称えるのも一つの見方です。しかし私は、それ以上に「日本には日本の平等観がある」という事実を大切にしたいと思います。日本的な価値観を思い出し、自然との共生、人間の差異を受け入れる感覚を未来へ引き継ぐこと。それこそが、これからの時代に必要な「平等」の姿なのではないでしょうか。

追)高市氏の出身高校は私の本籍地と同じ町内であり、橿原市の初代市長が私の親族であるという偶然の符合があります。とはいえ、私は特定の政治家を称賛する意図はありません。むしろ、この出来事を通して「日本的平等観」を改めて考える契機としたいのです。

*** 

2025年10月5日日曜日

「およげ!たいやきくん」とAI幻想社会 ― 居場所をめぐる考察

三鷹のたい焼き

昭和の大ヒット曲「およげ!たいやきくん」は、子ども向けの歌として知られていますが、大人になって歌詞を読み返すと、そこにあるのはサラリーマンの虚無感を描いた風刺です。

2025年10月4日土曜日

AIが生み出す幻想と「本物」の行方

出典:TECHGIG誌
 

OpenAIの動画生成AI「SORA2」がリリースされました。これを機に、私がこれまで懸念してきた「情報化」についての問題を整理しておきたいと思います。


情報化、つまりデジタル化が進むことは、世界のすべてが情報に還元されていくことを意味します。そこでは「本物」と「ニセモノ」という二元論はもはや成立しません。サイバースペースの世界は、誰もが自由に表現できる代わりに、多義的で収拾のつかない空間となりつつあります。その結果、私的所有権や表現の自由といった概念さえ揺らぎ、私たちが前提としてきた価値の多くが変容し始めています。

ここで「フェチ」という概念を思い起こします。フェティシズムとは、対象そのものの性質ではなく、そこに特別な意味や精神性を投影してしまうことです。たとえば、私はルイ・ヴィトンのカバンに特段の魅力を感じませんが、ある人々にとっては無上の喜びをもたらす存在です。これはまさにフェティシズムの一例です。さらに、学校の教師が児童の写真を隠し撮りして収集・共有するという事件もありました。これは異様な対象への執着、フェティシズムの歪んだ形に他なりません。

AIが進化する世界は、この「幻想」の力を加速させます。本物とニセモノの区別はますます曖昧になり、私たちは共同幻想の中で生きるようになります。すでに現代社会は、情報技術によって作られた虚構を「現実」として受け入れる方向に進んでいるのです。

とりわけ、世間の「空気」で行動を決めがちな日本人にとって、これは危険な状況です。気づかないうちに、国全体が存亡の崖っぷちに立たされることになりかねません。

答えはまだ見えていません。しかしだからこそ、現状を正しく認識し、法制度や教育のあり方を柔軟に更新していく必要があるのです。

***

2025年10月3日金曜日

総裁選と国慶節、吉祥寺で考えた無常

 
まだまだ安全な早朝の吉祥寺

自民党の総裁選が週末に結果発表されるそうですが、正直、まったく興味がありません。バカバカしくて、ただのお笑い種にしか見えないからです。一方で、今週の吉祥寺・三鷹界隈はやたらと人出が多い。不思議に思っていたら、中国の国慶節休暇で大量の観光客が押し寄せているのだとか。こちらのほうが、よほど生々しく時代の動きを感じさせます。

小林秀雄の『無常という事』(昭和17年)の最後の一行は、こう結ばれています。

「無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」。

この随筆はたった四ページですが、読むたびに考え込まされます。無常とは、時間が常に流れ、世界が常に変化し、人が老い、やがて死ぬという当たり前の真理です。国だって同じこと。小林がこの言葉を綴った背景には、ミッドウェー海戦を控えた当時の日本人への警告があったのかもしれません。

八十年後の日本。戦時中ではありませんが、精神的にはあの頃と大差ないように見えます。世界の空気を読むことなく、未来に対してただ自分の欲望と格闘しているような政治家たち。人生の無常をどれだけの人が意識しているのでしょうか。教育者は、生徒にどう伝えているのでしょうか。

では「常なるもの」とは何か。私は、人の基層にあるDNAだと思います。先人から受け継いだものを、今の私が次へと繋いでいく。それがかろうじての「常」なのでしょう。失敗もするし、立ちすくむこともある。しかし時は流れ、やがて老い、死ぬ。要は毎日を精一杯生きよ、ということです。

一方で、中国からの観光客ラッシュを目の当たりにしながら思い出したのは、「真贋」の問題でした。中国は「ニセモノ天国」と揶揄されてきました。私は昔から「中国が本当に先進国になりたいなら、まず贋作文化をなくさねばならない」と考えていました。それは単なる知財問題ではなく、「真贋を見抜く力」が文明の成熟度を示すと考えていたからです。

しかし、戦後80年を迎える日本もまた、その「真贋を見極める目」を失いつつあります。政治家もしかり。誰が本物で、誰がニセモノなのか。西郷隆盛像を「時代が生んだ幻想」と見抜いた芥川龍之介の冷静さは、今の日本に必要な視座です。

小林秀雄は言いました。模倣を超えて滲み出るのは「精神の質」だと。本物を見抜く眼を持たぬ社会は、AIによる模倣の洪水に飲み込まれ、何が真で何が偽かを判断できなくなるでしょう。

* * *

結局、総裁選の顔ぶれを眺めて笑い飛ばし、中国の観光客ラッシュに驚嘆する私の雑感も、突き詰めれば「無常」と「真贋」に行き着きます。国家経営も企業経営も、人の生き方すらも、そこからは逃れられません。

小林や芥川の言葉に背を押されながら、吉祥寺サンロードの人混みをすり抜けます。とはいえ、観光客の若者にぶつかりそうになってヨロけるばかりで、「精一杯生きよ」どころか「精一杯転ばないようにせよ」というのが実態です。

***

2025年10月2日木曜日

プロサラリーマンと起業家のあいだ

 
日本工業倶楽部会館(経済同友会)


近年、日本では「プロ経営者」という言葉がもてはやされています。大企業の経営を任され、企業改革を進めた人物は、しばしばその代表格として紹介されます。たしかに株主や市場の期待に応え、業績を立て直した手腕は評価に値します。しかし私は、その姿を見て「プロ経営者」というよりも「プロサラリーマン」と呼ぶ方がしっくりくると感じています。経営を委託されているようでも、株価を上げることを優先順位とされるアメリカのCxOと呼ばれる経営者とも違います。

なぜなら、その人の歩んできた道は、一貫してサラリーマンとしての成功の軌跡だからです。与えられた枠組みの中で成果をあげ、組織を率いて成果を出す。確かに難しい仕事ですが、そこには「ゼロから会社を立ち上げ、存続させる」という経験は含まれていません。トヨタやホンダの創業者とは異なります。

私は二十年、自ら起業した会社の経営を続けてきました。いつまでたっても零細企業です。経営者とは言えないレベルです。だが、自分の会社を存続させることは容易ではありません。単に売上を伸ばすだけでなく、会社のビジョンを明確に描き、そのビジョンを共有できる人材を集め、独自の企業文化を育てなければならないからです。サラリーマン経営者と起業家の違いは、まさにこの「文化を育てる」経験にあると思います。

プロサラリーマンは既存の仕組みをうまく操る達人です。一方、起業家は仕組みそのものをゼロから創り、価値観を共有する土台を築かなければなりません。両者はどちらも社会に必要ですが、その重みや意味は本質的に異なります。政府や教育の目標として「起業家の育成」がスローガンのように掲げられていますが、起業の現実を理解していないのであれば、どれほど立派な言葉を並べても実際には機能しません。ここに私は大きな隔たりを感じます。

日本社会が「プロサラリーマン」を英雄視するあまり、起業家の営みを軽視してはいけないと思います。組織文化を生み出すこと、ビジョンを社会に問うこと。そうした営みこそが、社会に新しい息吹を与えるのです。

20年たっても我が社は全く拡大していません。奇跡的に倒産していない、というのが唯一の実績です。でもまあ、20年もやっていれば“我が社っぽさ”みたいな文化は出てきました。あとは、これを伝承できるかどうか ― そこが一番の山場です。

自民党の総裁選が10月4日に投開票されるようです。

制度や慣習の枠に収まる「安定的な運営」しかできない政治家ばかりだと、日本のような停滞国家は抜本的に変わりません。政治家もまた、修羅場を経験し、既成概念を打破する挑戦が必要だということです。

***

2025年10月1日水曜日

若者への提言 ~ 井伏鱒二の山椒魚にならないために

 

楽譜を書くのも楽しみの一つ


私が長く働いたアメリカと日本を比べて痛感するのは、社会のルールそのものが大きく違うということです。経営者の役割も、社員の在り方も、税や年金の仕組みも異なります。二十年アメリカで納税をした私が最後に思ったのは、「もうアメリカで税金は納めたくない」ということでした。問題だらけの日本ですが、日本には日本のルールがある。いまは、「もう日本で税金なんか納めたくない(怒!)」です。

組織にはその組織のエコノミーがあり、その本質を理解したうえで結果を出す。それが第一歩なのです。

もちろん、ルールが旧態依然として変更が必要な場合もあります。しかし成果を出して周囲に認めさせてからでなければ、ルールを動かす力にはなりません。転職してきたばかりの人が「この会社の仕組みはおかしい」と訴えても、耳を貸す人はいないでしょう。日本は転職そのものが難しい社会ですから、なおさらです。結果として、成長の機会がアメリカより圧倒的に少なくなっているのです。

同じような人材が、変わらない組織の中で長く働き、気心の知れた仲間と「あうんの呼吸」で仕事を回す。表面上は快適ですが、それはまさに井伏鱒二の『山椒魚』の世界です。成長のために広い世界へ出られるはずなのに、自ら小さな穴に閉じこもっている。その状態を「コンフォートゾーン」と呼ぶならば、日本社会全体がそこに安住してしまっているのです。世間をしらない、世襲を繰り返す政治家が多数を占める日本の政治も同じですね。

しかし今や、そのコンフォートゾーン自体が壊れ始めています。サファリパークで安全に「ジャングルごっこ」をしていられた時代は終わりました。フェンスは破られ、外敵は潜入し、決まった時間に餌も出てこない。もはや守られた環境ではなく、リアルなジャングルで生き延びるしかありません。

未来を明るくできるのは、やはり若い世代です。私はもう十分に歳を重ねましたが、去年からアルトサックスに挑戦しています。ジェームス・ブラウンを支えた名サックス奏者メイシオ・パーカーに、一ミリでも近づきたいと日々練習を続けています(一年経っても進歩はありませんが、まだまだ気持ちは前向きです)。

いまの日本は、もはや安全なサファリパークではなくなりつつあります。フェンスは壊れ、外敵は入り込み、餌も約束通りに出てこない。ならばフェンスを立て直すのか、それともジャングルで生きる力をつけるのか。選ぶのは、これからの世代です。

***

2025年9月30日火曜日

未来の大人を育てる教育の再設計

 
Business Week 誌 1998年5月号

現代の日本社会において、私たちは現役世代の社会人に頼って技術や戦略を築くことが難しい状況に直面しています。半導体や原発の分野でも、日本はシステム思考や統合的視野、抽象度を高くして全体を俯瞰する力に欠けるため、世界の最前線で主導的役割を果たすことができません。では、どうすれば30年後の日本人が、技術と社会を結びつけ、戦略的に立ち回る大人になれるのでしょうか。答えは教育を変えることにしかありません。

まず、小学校の段階では、子どもたちにシステム思考の芽生えと協働力の基礎を植え付ける必要があります。地域や自然の課題を題材にしたプロジェクト型学習や、観察と因果関係(原因と結果)を理解する体験型学習を通じて、子どもたちは物事を構造的に理解する力を育みます。同時に、自国の文化や歴史を正しく学び、日本という国がどのように成り立ち、どのような価値観を受け継いできたのかを理解することが不可欠です。決して自虐史観を植え付けない。国家と国民の意味を知り、自分が社会の一員であるという自覚を持つことが、この段階の教育の基礎となります。

中学校に進むと、抽象化と統合思考、自己決定力を身につける段階となります。社会や科学技術の問題を図式化するマインドマップ学習(中心のメインテーマから放射状に連想されるアイデアや情報を枝分かれさせていく、思考や情報を視覚的に表現する手法)や、学級運営や地域プロジェクトを通じた小規模な意思決定体験は、物事を多層的に捉える力を育てます。この時期には、民主主義の仕組みとその限界を学ぶことも重要です。民主主義は万能ではなく、多数決の危うさやポピュリズムの落とし穴を理解することで、健全な市民意識を育てることができます。さらに、家計や社会の仕組みを通じた経済やファイナンスの基本を学び、「お金の流れ」と「社会の仕組み」の関係を理解することも欠かせません。

高校では、戦略的視野とエコシステム思考(ビジネス分野では異なる企業や製品、サービスが互いに連携し、協力し合うことで、特定の分野全体が活性化し、新たな価値を生み出すシステムや共同体のこと)を身につける教育が求められます。科学・技術・社会・芸術を横断して取り組む統合型課題や、オンライン国際交流などを通じて、複雑な課題に対して意思決定する力を養います。また、小規模な起業体験や地域プロジェクトへの参画を通じて、計画力や資源配分、責任遂行の経験を積むことも重要です。この時期には、歴史を単なる過去の出来事として学ぶのではなく、「現在を形づくる原因」として振り返り、そこから未来に活かす視点を持つことが求められます。AIやクラウド、データの応用を体験することで、技術を社会に実装する感覚も身につけます。

大学に進むと、専門性の統合とグローバルな視野が教育の中心となります。企業や研究機関、国際団体と連携した複雑課題解決型のプロジェクトを通じて、実務に近い経験を積みます。チームプロジェクトやスタートアップ型活動では、リーダーシップと責任の取り方を実践的に学びます。海外インターンや国際共同研究を通じて世界標準の知識と視野を獲得し、AIや量子、通信技術などを社会実装の視点で理解することで、戦略的判断力を養います。この段階で培った歴史的視野や民主主義理解、経済・ファイナンスの知識は、専門分野の応用に厚みを与えるでしょう。

そして社会人初期(30歳くらいまで)には、現場での実践力とエコシステム構築力を深める段階が待っています。複数組織や国際チームでのプロジェクト参画は、システム思考と協働力を現実の場で体得する機会となります。失敗を許容し学ぶ文化の中で意思決定と責任遂行を経験し、スタートアップや大学、海外企業との共同プロジェクトを通じてネットワーク構築力を養うことも不可欠です。また、技術や経済、政策の変化に応じて個人で学び続ける習慣を身につけることが、未来の大人の戦略的柔軟性を支えます。

日本が未来のデジタル覇権争いで存在感を高めるためには、個別の技術力や知識だけでは不十分です。自国の歴史と文化を理解し、国家と国民の意味を学び、民主主義の価値と限界を踏まえ、経済やファイナンスの基礎を身につけること。そのうえで統合的に考え、責任を持って行動し、他者と協働できる大人を育てることが必要です。教育を変え、30年後の社会人に託すしかありません。これこそが、次世代で一目置かれる存在として生まれ変わる唯一の道であると考えます。

***

2025年9月29日月曜日

森と文明、そして祖父からの教え

奈良飛火野(撮影は亡き父)

環境考古学という分野があります。気候や地理条件などの環境が人間の文明にどんな影響を与えたかを探る学問です。ある教授は「森を切り開くと文明は衰退する」と説きました。ローマ帝国が森を失い砂漠化していく過程で、多神教から一神教へと変わり、やがて多様性を失って衰亡したという指摘です。森と文明の関係は単なる資源利用を超え、思想や世界観のあり方にも結びついているのだという視点は新鮮でした。

私自身も、宗教というより「森や木や石や水に命が宿る」と感じる日本的な感覚に惹かれてきました。自然の繰り返しや循環を重んじる心は、経済至上主義では測れない価値を持っていると思います。

そんな考えに思いを寄せるのは、森とともに生きた祖父の存在があるからかも知れません。祖父は奈良の林野庁営林署から樺太に赴任し、1920年代から戦前戦後を通じて森林事業に生涯を捧げました。山野を歩き、林道を拓き、木を育て、森と共存する知恵を体現した人でした(国立国会図書館のデジタルアーカイブに記録が残っていました)。晩年の物静かな祖父の姿しか記憶にありませんが、山と森の情熱を生活に溶け込ませていたのかも知れません。 

近年、「木育」という言葉が広まりました。子どもたちが木に触れ、森に親しむ教育です。しかし祖父のように実際に森を歩き、木と格闘しながら学んだ人の経験に比べると、木のおもちゃだけで森を語ることに私は一抹の物足りなさを覚えます。森の匂い、木肌の感触、木陰の風──現場の体験があって初めて自然への畏敬は育まれるのではないでしょうか。

一方で、北海道などでは再生可能エネルギーの名の下に森林伐採が進んでいます。太陽光パネルや風力発電の持続可能性を掲げながら、実際には森を犠牲にしている矛盾も目立ちます。森を破壊して未来を守れるのか──この問いは重くのしかかります。

自然を征服するのではなく、人と自然が一体となること。これは環境考古学が示唆する文明の条件であり、祖父が生涯をかけて体現した姿勢でもあります。森は文明の礎であり、私たちが未来へ引き継ぐべき原点なのだと、改めて思います。

***

2025年9月28日日曜日

会社依存から自立した生き方へ 

 
井の頭公園

会社か、人生か?

最近ある大学教授が「キャリアとは会社をどう使うかで決まる」という趣旨の記事をビジネス誌に連載していました。賃金は若年層を厚くし、中高年を薄くする形に変動してきた。長期停滞のなかで賃下げが格差を拡大した。だからこそ企業は積極投資を、個人は「脱・会社頼み」を進めるべきだ――そうした論旨です。

一見もっともに聞こえますが、この記事には大きな前提があります。すなわち「会社」とは、日本の大企業をモデルにした組織であるという点です。しかし現実の「会社」は国や文化によってまったく異なり、その違いを見落としてしまうと、キャリア論は極端に視野の狭いものになってしまいます。

会社のかたちの違い

まず、日本の典型的な大企業、いわゆる「カイシャ」は、入社自体がキャリアの第一歩とされ、どの会社に入るかで人生が決まる構造を持っています。職務よりも所属が重視され、個人は「会社人間」として組織に埋め込まれていきます。高度成長期には有効な仕組みでしたが、今は通用しにくくなっています。

次に、日本に存在する外資系企業です。看板は「グローバル」でも、実態は日本的な年功序列や横並びの文化に引き寄せられがちです。そのため欧米流の実力主義と日本流の組織文化が中途半端に混じり合い、キャリア形成の軸を見失いやすい。

一方、米国の大企業、いわゆるコーポレーションは、契約と役割分担が明確で、個人は専門性を発揮する「歯車」として位置づけられます。終身雇用の概念はなく、スキルと実績で勝負する世界です。

さらに米国の中堅・中小企業では、役割が柔軟で、個人はゼネラリスト的に動くことが求められます。会社の存続自体が課題であり、社員は単なる雇用者ではなく、共に組織をつくる存在でもあります。

つまり「会社」という言葉の中身は国や文化によって大きく異なります。大学教授の記事が暗黙に前提としているのは日本の大企業型ですが、それだけを基準にキャリアを語るのは片手落ちと言わざるを得ません。

キャリアは人生そのもの

では、キャリアとは何でしょうか。私は「会社との関係性」ではなく「人生そのもの」だと考えています。

どの会社に勤めたかよりも、何を経験し、どう自分の道をつないできたか。その軌跡がキャリアです。職業に限らず、家庭、地域活動、社会貢献も含めた生き方全体を指すのです。

若いうちは専門に集中し、やがてゼネラリストへと転換する必要があります。その過程で必ずトレードオフと機会費用が生じます。だからこそ、自分で情報を集め、自分の意見を持ち、意思決定して行動できる人材が生き残る。

キャリアは学校や政府、会社が保証してくれるものではありません。自分の責任でつくり上げていくしかない。私はそれを「森の中に置いたパンくず」に例えたいと思います。たとえ遠回りに見えても、自分の歩いた跡をつないでいくことが、やがて確かな道筋になるのです。

終わりに

会社に自分を合わせて生きるのか。あるいは人生の中に会社を位置づけて生きるのか。これは小さな違いではなく、人生そのものを左右する問いです。

安定を求めても安定は存在しません。不安定な中で挑戦し、折り合いをつけて進む。その連続がキャリアなのです。結局のところ、キャリアとは一生「普請中」というわけです。

***

2025年9月27日土曜日

英語必修の虚構とリテラシー不足の現実

 
東洋大学のホームページより(本文とは関係ありません)


英語という大きな問題

文部科学省はここ20年ほど、「グローバル人材の育成」を掲げて英語教育改革を繰り返してきました。小学校で英語を必修化し、大学入試に外部試験を導入しようとした試みもありました。4技能をバランスよく伸ばすという旗も掲げられましたが、現場の教師に十分な能力や指導法が伴わず、成果は限定的です。

それでも、改革のたびに「これで日本人も英語ができるようになる」と宣伝されます。背景には、国際競争力を高めたいという政府の焦り、グローバル化への漠然とした不安、そして英語教育産業の利害が見え隠れしています。つまり、英語教育は「誰のためにあるのか」を見失ったまま、制度改正ばかりが繰り返されてきたのです。

しかし現実には、日本人の英語力は国際的な調査で依然として低位にとどまり、「誰もが少しは学んだけれど、誰も実際には使えない」状態に陥っています。私は、英語は興味のある人、必要な人だけが真剣に学べばよいと考えています。義務教育で必須にした結果、中途半端な教育が広がったにすぎません。本当に必要ならば、人は社会に出てからでも必死に学びます。そのときこそ本気になれるのです。

ビジネス現場での実感

私は30年以上、英語や中国語を使ってビジネスをしてきました。英語で会議やプレゼンテーションを行い、採用面接や人事評価もこなしました。アメリカ人の上司に評価され、部下を評価し、ときには解雇も通告しました。オフィスに日本人が私一人、という時期も長くありました。

それでも正直に言えば、私の英語など「箸にも棒にもかからない」レベルです。例えば、朝出勤して秘書に気の利いた一言を英語で投げかけることはできなかった。私は日本文化を背負った日本人であり、アメリカ流の軽妙な日常会話は何とも照れくさく、身につかなかったのです。

それでもビジネスは回りました。なぜか。インド人や中国人が独特の発音で堂々と話すように、国際ビジネスの世界では「正しい発音」よりも「中身」が重視されるからです。中学生レベルの単語でも、相手に理解されるまで言い切れば交渉になる。逆に、いくら流暢でも主張が無茶苦茶なら意味がないのです。

本当に欠けているもの

むしろ日本のビジネスマンに決定的に不足しているのは、リテラシーです。概念を整理し、抽象度の高いレベルで物事を考える力が弱い。そのため会議では細部の言葉尻を突くばかりで、構造的な議論に進めません。これは語学以前の問題であり、母語である日本語教育を軽視してきた結果ではないでしょうか。

ここで言う「引き出し」という考え方が重要です。

会話や議論を成立させるには、相手の言っていることを理解するための教養や経験の引き出しが必要です。たとえば、歴史、文学、科学、日常生活などから少しずつ情報を引き出して、適切に組み合わせて考える力が求められます。若い時は引き出しの中は空っぽかガラクタばかりかもしれませんが、引き出しが豊かであればあるほど、複雑な問題でも理解し、自分の意見を構造的に組み立てることができます。もちろん、引き出しの中身は時には棚卸も必要です。  

母語の言語空間が育っていなければ、外国語も砂上の楼閣です。夏目漱石や三島由紀夫のように豊かな日本語を持っていれば、思考の幅は広がる。逆に、貧しい日本語で育てば、英語を学んでも浅い言葉しか出てきません。

学びの動機は情熱から

言語は結局、情熱によって支えられます。プロのギタリストが一日中楽器を手放さないように、好きで好きでたまらないものを24時間365日追いかける中で英語が必要になれば、人は自然に学びます。私自身、子どもの頃にアメリカのドラマやビートルズを通じて英語に興味を持ちました。それが仕事で英語を使う原点になったのです。

日本の英語教育改革が何度繰り返されても成果を上げないのは、日本語による思考力を育てる教育をおろそかにし、見栄えの良い「グローバル人材育成」のかけ声に振り回されてきたからです。英語必修の虚構が浮き彫りにしているのは、実は日本人のリテラシー不足という現実です。

ですので、英語の成績やTOEFL/TOEICの点数が良くても、引き出しの中身が空っぽだと、会議で「What do you think?」と聞かれるたびに自分の頭も一緒に固まってしまいます。

***

2025年9月26日金曜日

学歴社会の果てに ~ 思考できないエリートたち

 
読書の最初は漫画から?

私は自民党の総裁選にまったく興味がありません。メディアが連日大騒ぎして報道している姿には、むしろ狂気すら感じます。候補者が誰であるかも把握していませんでしたが、試しにYouTubeで各候補者の演説を短縮版・倍速で飛ばし飛ばし観てみました。

候補者の力量には大きな差がありましたが、全体として感じたのは「人間的魅力の乏しさ」と「政治家としてのリテラシーの不足」です。彼らは皆、立派な学歴を持っています。しかし、学歴の象徴である“有名大学卒”という経歴を見て、多くの親御さんはどう感じるのでしょうか。子どもを小学校低学年のうちから塾に通わせ、必死に受験勉強をさせてきた先に現れる姿が、この総裁候補たちの姿だとしたら。そこに教育の成功例を見出せるのでしょうか。

私は教育にこそ問題があると思っています。日本の今と未来を形作るためには、まず教育を考え直さなければならない。これは、学生時代に“落ちこぼれ”で、授業をサボって大阪ミナミの街を彷徨していた私が、長い海外生活を経て高齢者となった今だからこそ言えることです。

教育の根幹 ― 母国語と思考力

中国やアメリカで暮らした経験から痛感したのは、母国語で「読み・書き・思考」がしっかりできることの大切さです。それは単なる言語能力にとどまりません。情緒的な作文から始まり、概念を収集し、抽象度の高い議論を展開できるリテラシーが必要です。

そう考えると、日本の受験中心教育はこのリテラシー形成にほとんど寄与していないのではないでしょうか。総裁選候補者の演説を聞いても、概念理解の浅さや抽象的思考の不足を強く感じます。小学生の作文段階から、高校・大学に進むにつれてより抽象的・概念的な思考へと進化していくはずが、日本の教育は形式的な作文教育にとどまり、思考を深める訓練が欠けているのです。

国語教育とリテラシーの課題

日本の国語教育は「読み書き=リテラシー」と単純化しがちです。文学鑑賞に偏り、論理的文章や評論文を用いた訓練が不足してきたという指摘は以前からあります。結果として、文章はそれなりに書けても、抽象的な概念を扱うことや自分の頭で深く考えることが苦手な人材が育ってしまいます。

本来のリテラシーは、読み書きを超えて、文化的背景の理解、社会人としての価値観形成、さらには「日本人として生きる」ことを考える基盤であるべきです。しかし、今の教育はそこに至っていません。

AI導入が突きつける問い

さらにここへAIが導入されつつあります。生成AIは便利ですが、思考を外部化しすぎる危険を伴います。答えをAIに委ねることに慣れれば、批判的思考や問題解決能力は育ちません。つまり、国語教育が本来担うべき「論理的・概念的な思考力」の育成が、AIの影響でさらに後退する恐れがあるのです。

もちろん、AIの導入には可能性もあります。思考のルーチンを代替することで、創造的な活動に時間を割けるようになる。学習を個別化し、一人ひとりに応じた課題を提示できる。そのような利点を活かせる余地もあります。問題は、AIを道具として賢く使いながらも、生徒自身が思考し判断する力をいかに育てるかにかかっています。

教育を変えなければ未来は変わらない

自民党総裁選を眺めていて改めて痛感したのは、日本の政治家の質の問題というより、その背後にある教育の問題です。学歴や受験偏差値は揃っていても、概念を扱う力、抽象的に考える力、文化的背景を踏まえて議論する力が欠けている。

政治家に限った話ではありません。私たち一人ひとりが「日本人としてどう生きるか」を考えるには、教育のあり方を根本から問い直す必要があります。母国語で考える力を育て、抽象的な思考を鍛え、AI時代にあっても自らの頭で判断できる人を育てる。

総裁選よりも大事なことはそこにあります。教育を変えなければ、日本の未来は変わらないのです。

***

2025年9月25日木曜日

迷い続ける人生と幸福の条件

 

主体性と教育の本質

東洋経済educationの記事「その主体性、非認知能力は誰のため? 道具として子どもが消費される未来にNO」では、教育トレンドとして語られる「主体性」や「非認知能力」に対して、警鐘を鳴らす視点が提示されています。

筆者は主体性を「内から湧き出る欲求にもとづく自己選択・自己決定を行い、他者・環境との関わりのなかで行為を表現し、その責任を引き受けること」と定義しています。しかし現場では、「大人がやらせたいことを自発的にやらせる」ような誤用が広がっており、本当の主体性を引き出すにはもっと自由度を高める必要があると指摘しています。通知表における評定反映の制限や、非認知能力の定量化への懸念も、同様の問題意識に基づいています。

私自身、この記事を読んでまず「何を当たり前のことを言うのだろう」と思いました。言葉そのものを軽視しているわけではありません。むしろ、安易な議論や政策が横行する現状は、教育の本質に踏み込めていないことの表れであり、問題の核心は制度設計や教育政策を担う人たちの判断にあると感じます。教育が社会を変えるのではない。世界や日本社会が変化しているのだから、それに対応して教育もダイナミックに対応すべきなのです。新しいリテラシー(いま必要とされる能力)とは何かが問われているのです。

私がこれまでブログや色んな場面で語ってきたことを整理すると、教育や受験の現場には根本的なベクトルの誤りがあります。「日本の受験システムは教育ではなく、目標が偏差値や点数に偏っている」という言葉は、教育制度の目的設定そのものを問い直す視点を示しています。知識偏重の教育では教養が育ちにくく、文化との断絶が続く限り、主体性も育まれません。また戦後教育は、理性・理論と感性・直観のバランスを欠いたまま進められてきました。この流れのなかで、主体性を外部評価しようとする制度的傾向は、過去の欠落を再生産する危うさを孕んでいます。

主体性とは、迷いや不安を含めて自らの選択を引き受ける力です。「幸福の定義は人それぞれであり、政府が一律に決めるものではない」「幸せに生きるとは、一人ひとりの自由意志に基づくものだ」という立場は、制度化された教育観や外部評価に従うだけでは得られない主体性のあり方を示しています。制度や政策は、主体性を育むための条件を整えるものであって、主体性そのものを代替するものではありません。

東洋経済の記事が呼びかける「言説の前提を問え」という視点は重要です。しかしより根源的には、教育制度や国家・文化の力学、戦後改革の構造まで見据えて議論する必要があります。教育の管理・評価に偏る背景には、文化や思想の断絶、効率化や測定可能性を優先する価値観が存在します。主体性を制度や評価に従属させるのではなく、無駄や余白を残しながら、自らの選択を引き受ける自由を守ることこそ、教育の本質的課題ではないでしょうか。

私の考える主体性とは、「誰かのため」に測られるものではなく、自分自身の人生に責任を引き受け、不安や迷いを伴いながら生き抜く力です。教育政策や制度は、この力を支える自由と余白を保障する方向で設計されるべきであり、それこそが真の議論の出発点だと考えます。

***

2025年9月24日水曜日

キャリアとは何か?

 

キャリアとは何か ― パンくずをたどるように

「ヘンゼルとグレーテルは、ある森のなかへ入りました。その道中迷わないように持ってたパンのクズを落としながら進んだ」。

みなさんご存知の童話です。英語でパンのクズ(breadcrumb)は、キャリアアップの道筋を示す比喩として使われます。

例えば今の仕事をあとどれくらい経験したら、次にどんなポストに就けるのか。上司や人事部の指示に従うのか、それとも自分の生涯キャリアを考えながら選び取るのか。どんな仕事をしてきたか、これからどんな仕事をしていくのかは、20代から30代前半に意識したほうがいい。他人任せにすれば、50代後半で後悔します。履歴書は一貫性があるほうがいい。なにより、自分の人生の運転席に座っているのは自分自身なのです。

キャリアとは人生そのもの

キャリアとは、自己発達(成長)の中で報酬を得る職業と、人生の他の出来事や役割をつなぐものです。報酬を得る職業が中心であっても、報酬を伴わない日々の生活や社会貢献もまたキャリアの一部。要するに、キャリアとはその人の人生そのものです。

学校と社会にはギャップがあります。入社した会社と世の中のギャップもあるでしょう。宗教が絶対的規範となる社会と違い、日本は別の枠組みで動いています。結局、キャリアに責任を負うのは、政府でも学校でもなく、自分自身です。

日本型キャリアの限界

日本の就職は「自分が何をしたいか」ではなく「会社の名前」で決まる。ブランド名で人生を決め、入社後は営業になるのか経理になるのかすら問われない。有名企業の一部になれたというプライドがドライバーとなる。

この構造は高度成長期には有効でした。しかし今の日本、世界の混迷を考えると通用しません。そう言われて久しい。大企業ですら先を読むのは難しい。新入社員の「安定志向」はあまりにナイーブに見えます。これからは「自分で考え、自分で行動し、自分で修正できる人材」が生き残るのです。

「自分で考える」とは何か

「自分で考える」という言葉は学校や企業研修でよく使われますが、私はこう思います。

それは「自分で情報を収集し、自分の意見を持っておくこと」。人から与えられた情報ではなく、自分で集め、取捨選択し、軽信しない。そのうえで意思決定と実行ができること。

大組織ではどうしても「上の指示を下に伝える」「下の報告を上に伝える」構造になります。役員ですらその繰り返しです。だからこそ、自分自身の物差しを持たなければなりません。

君子不器 ― スペシャリストからゼネラリストへ

私が好んで使う言葉に「君子不器」があります。君子は器(うつわ)にあらず。優れた人物は、一つの専門分野だけに閉じ込められず、幅広く対応できる。

キャリアはまずスペシャリストから始まります。若いうちは専門分野に専念しなければなりません。しかし、ある年齢になればゼネラリストへの転換が求められる。マネジメント、組織、人をまとめる力です。

日本ではゼネラリストが「何でも屋」と揶揄されますが、欧米では違います。マネジメントはスペシャリストを経たゼネラリスト。キャリアの一段階上の姿です。

選択にはトレードオフと機会費用がある

キャリアの選択は常に「トレード・オフ」と「機会費用」を伴います。ある選択をすれば、別の可能性を捨てることになる。MBAで習うことではなくて、アメリカの中高生が公立の学校で最初に習うことです。 トレード・オフとは、人は欲しいものすべてを手にすることはできないために、欲しい物、つまり、選択肢の中から一つを選び出すことです。 アメリカの中高生は、10代の早い時期から意思決定プロセスを学んでいくのです。  

機会費用とは「ある行動を選択したために、結果として諦めることになった別の行動から得られたはずの利益のうち最大のものをコストと見なすこと」です。 例えば、日本での就活を優先して海外での出会いや学びを失うとすれば、それが「機会費用」です。数値化は難しい。しかし、全く考えずに付和雷同で動くのは危険です。


迷い続ける人生と教養の価値

多くの人は孔子のように「三十にして立つ」ことは難しい。40歳は人生で一番迷う時期、だから mid-life crisis という言葉がある。50歳で天命を知る人もいれば、むしろ欲望が強くなる人もいる。60歳になっても人の話を聞かない人は多い。結局、人は年齢に応じて迷い続ける存在なのです。

最近「静かな退職(Quiet Quitting)」が注目されています。最低限の仕事だけをして会社に心を置かない働き方です。ワークライフバランスを重視するように見えても、老後はどうなるでしょうか?

教育は知識を与えますが、教養は文化の中でしか培われません。日本の戦後教育は文化を切り離し、理性・理論と感性・直観のバランスを欠いてきました。人生100年時代、退職後に役立つのは教育よりも教養かもしれません。

幸福の定義は人それぞれです。政府が一律に決めるものではありません。幸せに生きるとは、一人ひとりの自由意志に基づくもの。だからこそ「No Pain, No Gain」。不安を恐れて自由を放棄すれば、長い人生は厳しいものになるでしょう。

終わりに

ニューハンプシャー州のモットーは「Live free or die」。福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」も同じ精神です。世界は混迷の時代を迎えています。安定を求めても、もはや安定は存在しません。不安定な中で自由を求め、試行錯誤を繰り返すしかないのです。

キャリアは森の中のパンくずのように、過去の足跡をつなぎながら進むもの。ときに消え、ときに道を示す。その道筋を決めるのは誰でもない、自分自身です。

幸せに生きるとは、一人ひとりの自由意志のもとにあるということを忘れてはいけません。自由や挑戦には不安がつきまといますが、その不安と折り合いをつけながら進むことで、人生100年時代をより豊かに生きられるのだと思います。

高齢者の私自身も、いまだに自分とは何者かを模索中です。キャリアとは、結局のところ、一生『普請中』なのかもしれません。

***

2025年9月23日火曜日

コロナ禍は何を問いかけたのか?

 

コロナ禍を忘却してよいのか ― 日本と世界をめぐるポストモダン的考察

新型コロナウイルス感染症が世界を襲ったのは2019年12月。WHOが「終息」を発表したのは2023年春でした。3年3か月という、短いとは言えない時間でした。終息から2年あまりが経った今、コロナ禍が示唆することを私たちはどう受け止めるべきでしょうか

欧米では社会や思想のあり方に深刻な揺らぎを残し、中国はむしろ統制を強化し、そして日本は「なかったこと」にしつつある。各国の反応を振り返ると、近代やポスト近代の議論にまで広がる大きな問題が浮かび上がります。

欧米:ポストモダニズムの加速

コロナ禍は欧米社会において「モダニズムの限界」をあらわにしました。

  • 絶対的真理の揺らぎ ― 科学的知見の不確かさや専門家の意見対立が露呈し、「科学が唯一の真理」という信仰が揺らぎました。その隙間に陰謀論や多様な解釈が拡散しました。
  • 中心の喪失と分断 ― 政府や国際機関の対応の不手際、ワクチンやマスクをめぐる対立は国民を分断し、とくにアメリカでは党派対立をさらに激化させました。
  • 「大きな物語」の終焉 ― 経済成長やグローバル化といった従来の物語が停滞し、未来への不安が社会全体に広がりました。

こうした現象は、モダニズム的な一元的世界観への懐疑を加速させ、まさにポストモダンの加速として現れたのです。

日本:「忘却」と「同調」の社会

日本では欧米のような激しい分断や論争は起こりませんでした。その代わり、社会全体が「きれいさっぱり忘れた」かのように、日常へと戻っています。

  • 無意識のポストモダン的受容 ― 日本文化はもともと絶対的な真理を求めず、「空気を読む」ことで調和を保ちます。感染対策も、強制ではなく同調によって徹底されました。
  • 「無かったこと」にする力学 ― 政府の不手際や医療体制の限界について深い議論をするよりも、安定を優先し日常に戻ることを選んだのです。
  • 内面化された変化 ― 表面上は忘却が進んでいるように見えても、マスクや衛生観念の定着など、人々の生活習慣には確かに変化が残っています。

つまり、日本は「忘却」と「同調」によってポストモダンを吸収し、表面には出さないという独自の姿を見せていると言えるでしょう。

中国:国家主導の「超モダニズム」

一方の中国は、ポストモダン的な価値観とは真逆に進みました。

  • 国家による真実の一元化 ― ゼロコロナ政策は、国家が唯一の正解を示し、徹底的に人々を従わせるモダニズムの極端な例でした。
  • 利己主義のモダニズム ― 自国中心主義を強め、国際社会への情報開示を制限し、統制を外交にも持ち込みました。
  • 監視社会の強化 ― パンデミックを口実に監視技術を社会に浸透させ、個人の自由を犠牲にしました。

中国は、ポストモダンを拒絶し、むしろ最強のモダニズムへと突き進んだと言えます。

一元化と二元化 ― 哲学的な補足

私は「一元化」という言葉を、自然と人間の一体化と捉えています。これに対して「二元化」は、人間が自然を支配する、主体と客体を分ける考え方です。

哲学では、一元論(世界は一つの原理で説明できる)と二元論(精神と物質の二原理で説明する)があり、近代西洋は二元論を前提として自然支配の思想を築きました。ポストモダンは、その近代的な一元論と二元論の両方を批判し、「絶対的な正解はない」という多元性を提示しました。

この点で、日本の「一体化」の感覚は、ポストモダンに批判された近代的二元論とは別系統の思想であり、独自の位置を占めていると言えるでしょう。

忘却ではなく教訓へ

コロナ禍から2年、日本ではその記憶が急速に風化しています。しかし、この「忘却」は本当に望ましいのでしょうか。阪神淡路大震災、オウム真理教事件、東日本大震災といった過去30年の出来事も、時間とともに忘却されがちです。

私たちは、歴史の痛みや経験を「なかったこと」にするのではなく、未来への教訓として活かすべきではないでしょうか。コロナ禍の3年3か月は、単なる「災厄」ではなく、社会の在り方を根底から問う鏡でもあったのです。

________________________________

こうしてみると、コロナ禍はそれぞれの国の文化や思想の土壌を照らし出すものでした。欧米は分断と懐疑によってポストモダンを加速させ、日本は同調と忘却によって経験を沈め、中国は逆に超モダニズムへ突き進んだ。世界が暗中模索を続ける今こそ、私たちは「忘れ去る」のではなく「振り返り、教訓とする」姿勢が求められているのではないでしょうか。

隠居からの提案

教育が社会を変えるのではありません。むしろ教育は、現実社会から最も遠い場所にあり、会社で言えばバックオフィスのような存在です。社会が変化すれば、それに対応して教育も変えていかなければなりません。もちろん、変えるべき部分と、決して変えてはいけない根幹の部分があります。不易流行(松尾芭蕉『奥の細道』)です。

教育の変遷は社会の変化の結果である――ある社会学者もそう述べています(名前は失念しましたが)。教育は社会を説明するものにほかならないのです。

では日本の教育はどうでしょうか。受験システムに偏った教育をこれからも続けますか? 政治家や教育者は、もっと真剣に考えなければなりません。


***