ChatGPTを使ってみて考えたこと──「言葉」と「思想」を育てるとはどういうことか
ChatGPTを使って、自分の過去の文章を見直す機会がありました。文法的な誤りや構成の無駄を整えてくれる点ではとても便利で、特に文章の体裁を整える作業においては優れていると感じました。しかし同時に、ある種の違和感も覚えました。整いすぎた文章からは、自分らしさが抜け落ちてしまうように思えたのです。さらに言えば、言葉の背後にあるはずの感情や思想が削ぎ落とされてしまうような印象を受けました。
たとえば、日記やエッセイといった文章においては、自分が見た風景や、そのとき感じた微細な感情こそが文章の生命です。ChatGPTはそれらを“平準化”し、“論理的に整え”、結果として“あたりさわりのない”ものにしてしまいます。けれども、言葉の中に潜む矛盾や未整理な思考こそが、その人の思索の揺れであり、個性であるはずです。AIはそれをノイズとして処理してしまうのです。
もちろん、AIをどう使うかによって結果は変わります。こちらが意図を明確に伝え、文脈や思想的背景を共有すれば、ある程度はそれを踏まえた出力をしてくれます。そういった意味では、「自分の思想を形にする補助ツール」として活用することも可能です。しかし、AIがどれだけ整った文章を生み出せたとしても、「思想」そのものを生成することはできません。なぜなら、思想とは知識の寄せ集めではなく、多くの概念を理解し、それらを統合するという長い思考の蓄積によってのみ形づくられるものだからです。
このことは、日本の教育の問題とも深く関係しています。小学校で作文(低学年では絵日記)を書き、高校生になると小論文が書けるようになるという教育が必要です。しかし、実際にはそのような過程はほとんど意識されておらず、文章表現のレベルが劇的に深化することは稀です。高校生や大学生の小論文も小学生の作文の域を出ず、つまり感想文や個人的な意見の域を出ず、そこに思想の形成や哲学的な概念理解が求められることはあまりありません。
文章を書くとは、単に論理的に言葉をつなぐことではありません。自分の中にある思想の構造を、たとえ未熟であっても、言語によって他者に提示する営みなのです。思想は、突然に生まれるものではなく、歴史、倫理、社会、自然、文化、宗教といった多様な領域にわたる概念の理解を通じて少しずつ形作られていきます。そして、それらが結び合うことで、抽象度の高い統合的な論文を書くことができるようになるのです。
その基盤となるのが、言語です。言語は単なる情報伝達の道具ではありません。日本語という母語は、私たちの思考の骨格そのものであり、思考は言葉を通してしか深まっていきません。だからこそ、小学生の作文も、中学生の意見文も、高校生の論文も、「考える道具」としての日本語をどう鍛えるかという視点から見直す必要があると考えています。
しかし現実には、受験に求められるのは予測可能な解答、効率的な要約、テンプレートに収まる文章です。思索は削られ、言葉は効率化され、まるでAIの文章生成に近づいていくようです。けれども、そうした文章からは、読み手の思考を揺さぶるような力は感じられません。
私たちは、子どもたちが自分の言葉で世界を捉え、自分の思想で社会と向き合えるような教育を構築し直すべきだと考えています。そのためには、小学生のうちから読書によって語彙と概念に触れ、感情と言語の接点を育み、中学生では複数の視点を持って構造的に考える力を養い、高校では「思想としての言葉」を立ち上げる訓練が必要です。それがあってこそ、大学や社会に出て本当の意味で「書く」ことが可能になるのではないでしょうか。
ChatGPTは便利な道具です。しかしそれは「考えること」の代替にはなりません。むしろ、AIを活用することで、私たちは「本当に考えるとは何か」「言葉を使って生きるとはどういうことか」を、もう一度問い直す必要があるのだと思います。
教育においても、社会においても、そして家庭においても、子どもたちにただ「書かせる」のではなく、「思想を育てる言葉」を育ませること。今、私たち大人に求められているのは、そのための土壌を、もう一度耕しなおすことなのではないでしょうか。