2025年7月8日火曜日

はじめての味──ピザ、ビーフシチュー、ハンバーガー、そしてラーメン

先日、わが家で食べたビーフシチュー

昭和三十年代の終わりか、四十年代の初め。場所は福岡市、天神か川端のあたり。正確な場所は記憶の中で少し曖昧ですが、そこに洋画のロードショーを上映する映画館がありました。なぜかその一階(?)には、ちゃんとしたレストランが併設されていて、子どもだった私にはまるで「異世界の入り口」のような場所でした。

映画館で洋画を観る。スクリーンの向こうには、現実にはない世界が広がっていて、その刺激は確実に私の人格形成に影響を与えました。でも、インパクトを受けたのは映画だけではありません。私がそのレストランで出会ったのが、人生初の「ピザ」と「ビーフシチュー」でした。

ピザは、今となってはコンビニでも買える食べ物ですが、当時の私のまわりには、ピザという料理を食べたことのある人間など一人もいませんでした。子どもながらに「これはなんだ?」と圧倒されました。

さらに強烈だったのがビーフシチューです。シチューというからには、牛乳で煮た白いスープのようなものを想像していたのですが、出てきたのはこってりとレンガ色のルウ。その中に、ジャガイモとニンジンがごろりと入っていて、そして、驚くほど大きな牛肉のかたまり。しかも、その肉が、箸でも崩れるほどに柔らかかった。これが“牛肉”なのかと、言葉を失いました。

もうひとつ忘れられないのが、佐世保で食べたハンバーガーです。食べたのは1964年11月、米原子力潜水艦「シードラゴン」が佐世保に寄港したときのこと。当時、核を積んだ原潜の寄港は社会問題となっており、全国で反対運動が起きていました。そんな中、父がなぜか「原潜を見に行こう」と言い出して、福岡から佐世保まで車で連れて行かれました。

昼時に立ち寄ったのが、アメリカ海兵隊相手に営業しているバーでした。昼間だけランチ営業をしていたそのバーのカウンターで、父と並んで出されたハンバーガーにかぶりついた記憶が、いまも鮮明に残っています。パンにはさまれていたのは、肉のパティとスライスオニオンだけという、実にシンプルなものでしたが、それがとにかく旨かった。ポパイの漫画に出てくるウインピーが手にしていた“謎の食べ物”が、ようやく目の前に実体をもって現れた瞬間でした。

そしてもう一つ、福岡スポーツセンターのプールの帰りに友人と食べた町中華のラーメン。お金がなかった私たちは、一杯のラーメンを二人で分けて食べました。今でこそ「豚骨ラーメン」として知られていますが、当時は単に“ラーメン”と呼んでいた気がします。スープは白濁していて、上にはきくらげと紅ショウガがのっていました。器から漂う独特の香りと、どこかクセのある味。でも、それが妙にうまかった。どこか知らない町のにおいがしたのです。

私は4歳から14歳までの10年間を福岡で過ごしました。だから、人生で初めて食べた「外の味」はほとんどがこの町での出来事です。ピザも、ビーフシチューも、ハンバーガーも、ラーメンも。今となっては定番中の定番ですが、あの頃の私は、それらに触れるたびに、世界の広さを体感していたのだと思います。

子どもの頃に「本物の味」に出会っておくことは、とても大切なことです。

それは単なる味覚の話ではありません。社会に出て、一流の人たちとともに働く中で痛感するのは、「本物を知っているかどうか」が、その人の判断力や直感に大きく影響するということです。本物を知っていれば、ニセモノに対して本能的な違和感を覚えるようになる。料理でも、仕事でも、人でも、そして言葉でも。

あの映画館も、あのレストランも、もうないでしょう。けれど、スクリーンの暗がりと、皿の上の衝撃の味は、いまも私の中に生きています。もしかしたら、人生の方向性は、あのとき、すでに定まっていたのかもしれません。   

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2025年7月7日月曜日

国の未来を語れない人たちが、未来を握っている件

日本の夜明けはくるか? それとも将来はすべて山の中か?

たまには政治家の“生の声”でも聞いてみるか。参院選も近いことだし、各党の党首が何を語るのか一応チェックしておこう。そう思って、車のラジオをつけたのですが……五分もしないうちに不愉快な気分になりました。


いや、ひどい。あまりにもひどい。

議論の低空飛行ぶりに耳を疑ったのは、一度や二度ではありません。企業経営をしていると、財務諸表のトップの数字、つまり売上高が作れないことが何よりつらいものです。日本の最大の問題は、まさにこの「トップの数字」が国として作れていないことにあります。にもかかわらず、言い方は違いましたがその核心に触れたのは作家の百田尚樹さんだけでした。あとは数字をいっぱい並べて胡麻化そうとするだけで、それではやたら味を濃くする素人の料理と同じです。言葉はあっても、その重みが感じられない。ビジョンを提示し、実行計画を聞かれているのに、そこから逃げているように見えました。

私にとって驚きだったのが、山本太郎が「少しだけ」まともに聞こえたことでした。

あの山本太郎が、です。私にとって彼のイメージは、映画『難波金融道』に出てきた、調子のいいノリで利息の取り立てをする闇金の舎弟公平くん。威圧感ゼロの軽薄キャラ。信用できる人物だとは今でも思っていませんよ。ただ、それほどまでに他の党首たちの話がひどかった。相対的に見えてしまっただけです。むしろ、そう見えてしまったこと自体が、日本の政治の末期的症状を表しているのではないでしょうか。

石破さんに至っては、いったい何を言っているのかもよくわからない。

テープの再生どころではなく、どこを見て誰に向かって話しているのかが不明。人間の温度というよりも、私の人生において、絶対に友達にはならない種類の人です。私は石破さんを何十年も前から見ていますが、安倍元総理が「一番総理にしてはいけない人物」と評したのも頷けます。しかし、その石破さんが、総理大臣になってしまった。神輿は軽い方がいい。官僚にも、野党にも、敵対国にも、そして党内のライバルにとっても。

維新の吉村さん、国民民主の玉木さんも同様です。言葉が薄っぺらい。社会経験が乏しいから、言葉に血が通っていない。結局のところ、彼らも「選挙目当て」で、使い回しのセリフを繰り返しているにすぎません。

被害を被っているのは、私たち国民です。

無能で、しかし権力欲だけは強い。そんな人物を「トップ」に据える代償を、国民が税金というかたちで負担している。本当に怖いのは、こうした光景に、国民が何も感じなくなっていることです。いや、正確には、「感じてはいるけれど、諦めている」ことです。何を言っても無駄。誰がやっても同じ。選んでも、変わらない。そんな空気が、社会全体に広がっています。

こうした政治家たちの姿を見ていて、作家である百田さんの言っていることが一番まともに思えました。いや、正確には、私の考えと近い部分がいくつかあったというだけです。ただし、それを公言するのは、「日本の空気」の中ではあまりにも誤解を生みやすい。だから、これまであえて言及しませんでした。こうして「言ったら損」という雰囲気そのものが、この国の病なのかもしれません。

たぶん、私たちはもう、とっくに答えを知っているのかもしれませんね。

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2025年7月6日日曜日

リーダーなきAI時代を、文化はどう生き抜くか


参議院議員選挙の期日前投票に行ってきました。
車の中で党首討論のニュースを聞きながら、暗澹たる思いになりました。


ガラパゴスAIでもいいじゃないか 

中国のAI開発は、どうやらこのまま独自路線を突き進む構えのようです。しかもその進化は、あくまで中国共産党の方針に則ったかたちで行われる見込みです。つまり、都合のいい出力だけをAIにさせ、検閲済みのコンテンツを中国国内はもちろん、東南アジア、アフリカ、南太平洋の小国、さらには南米諸国へと拡散していく。もう始まっていると言っても過言ではないでしょう。

一方、三権分立などという「面倒な仕組み」が存在しない国が、AIの世界で主導権を握ることには、大きな危険がつきまといます。チェック機能がないAIほど恐ろしいものはありません。言ってみれば、ノーブレーキで暴走する大型トレーラーのようなものです(loose cannon)。

アメリカもまた、AI規制については頭を抱えています。州ごとに法律が異なるうえ、利害関係者も多く、法整備はまるでジャングルの中を手探りで進む探検のようです。自由は多いが、統一感はない。それがアメリカの強みでもあり、弱点でもあります。

日本に残された可能性

では日本はどうか。実は、AI時代の“隠れた本命”になり得る条件がいくつか揃っています。中央集権型の統治システムを活かせば、AIに関する法整備も比較的スムーズに進められるはずです。もっとも、そこにはリーダーシップという魔法の言葉が必要です。そして、それが今の日本に最も欠けているという現実。何とも皮肉な話です。

さらに残念なことに、日本の政治家にはリーダーシップだけでなく、AI時代にもっとも求められる「倫理観」が見当たりません。倫理と論理の区別もつかないのでは?と首をかしげたくなるような発言が、党首討論でも飛び交っています。

政治家こそ、AIのように強大な力を持ちながらも、国民のことを考える倫理観を第一にすべき存在のはずです。そもそも、そういう志があって政治家になったのではないのでしょうか。そう信じたいのですが、政治家の言動を見る限り、その “はず” はもはや “幻想” なのかもしれません。

文明が文化を食いつくすとき

AI技術の発展は、確かに人類にとって大きなチャンスでもあります。しかし、それは同時に、文化という繊細で時間をかけて育まれてきたものを破壊する力をも内包しています。アメリカと中国に共通するのは、他国の文化をあまり尊重しないという姿勢です。効率と支配、合理と規模。そんな価値観がAIと結びつくと、世界は文化の砂漠と化すかもしれません。

それに対して日本は、数千年にわたって文化を育んできた稀有な存在です。明治維新以降、急速に西洋化を進め日本精神の崩壊を促進した。敗戦後はアメリカ化に突き進みましたが(自発的隷従)、まだ取り返しがつかないほどではありません。今こそ、自国の文化と精神を見つめ直すチャンスではないでしょうか。

ガラパゴスAIという選択肢

「日本のAIはガラパゴスだ」と笑う声もあるかもしれません。しかし、文化を土台にした “ガラパゴスAI” こそが、世界に一石を投じる価値のある存在ではないか? 合理性だけを追い求めるのではなく、倫理観、精神性、そして多様性を重んじる技術のあり方を提示する。そんなAIなら、人間社会との共存も夢ではないはずです。

日本にはその提案をする資格がありますし、責任もあります。必要なのは、未来を見据えたビジョンと、それを語れるリーダーです。そして何より、文化の重要性を忘れない感性です。

高齢者としての、ひとりごと

私はもう高齢者です。この国の行く末を決めるような大きなことはできません。能力も財力もありません。静かに暮らし、やがて黙って消え去る存在です。しかし、今の政治や政治家を見ていると、やはり黙っていられない。子や孫が生きていく未来の日本が、文化も倫理も失った無機質な国になるかもしれないと思うと、不安を覚えます。

どうか日本のリーダーたちに、文化と文明のバランス感覚を取り戻してもらいたい。そして、日本という国が「人間らしさ」を軸にAIとの向き合い方を世界に提示できる……そんな幻想くらいは、まだ捨てきれずにいます。
    
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2025年7月5日土曜日

「AIで雇用が消えるのか」という問いに、どう向き合うか

あさりの酒蒸し

料理を作って味わうことから何を感じ、どう生きているかを確認する 


AIの進化と普及によって、仕事がなくなるのではないか、雇用が奪われるのではないかという不安が高まっているというアメリカ発信の記事を読みました。アメリカの経営者たちはこの問題についてさまざまな見解を表明し、それを日本のメディアも大きく報じている。だが、その報道に接するたびに、私は違和感を抱くのです。

日本とアメリカでは、そもそもビジネスの環境も、テクノロジーに対する感覚も大きく異なります。アメリカの経営者の発言を、そのまま日本に当てはめることには無理があります。

実際、「AIによる業務の効率化が従業員のレイオフにつながるか?」という問いひとつ取ってみても、日本とアメリカでは事情がまるで違う。アメリカでは、雇用の契約形態も職務分掌も明確で、「仕事がなくなればクビ」というのが合理的な現実として受け入れられています。一方、日本ではたとえ業務がAIで効率化されようとも、それだけで即レイオフという話にはなりにくい。むしろ、新しい仕事を生み出すことで雇用を維持する方向に知恵が絞られる。

アメリカの企業で働くと、大きく分けて二つのレイヤーが存在します。ひとつは、マネジャーやマネジメント層を目指す層。もうひとつは、昇進は望まないが一定の給料を安定的に得られればよいという層です。後者は、AIによって職務が代替されるとレイオフの対象になりやすい。AIによって業務が合理化されれば、「人間である必要がない」と判断されてしまうからなのです。

加えてアメリカの職場では、実力を上げて成果を出し続ければ、それに見合った報酬が得られる仕組みになっている。難度の高い仕事に挑み、評価を得れば給料が上がる。さらに、実力をつけた人材は、より高い報酬やポジションを求めて他社へ転職するという選択肢も当然のように存在しています。こうした流動性の高さと成果主義の文化の中では、AIの登場が直接的に「雇用喪失」につながりやすい構造があるのは否めない。

では日本はどうでしょうか。日本の企業には、アメリカのような明確な職種区分や、昇進を前提としたレイヤーの分断がそれほど強くない。マネジメント層と非マネジメント層の間にも、大きな構造的な隔たりは存在しない。しかも、雇用の安定性が強く意識される日本社会では、AIによる業務効率化が直ちにレイオフにつながることは稀だと思います。企業はむしろ、社員を別の部署に異動させたり、AIに置き換えられない仕事を新たに作り出すことで、雇用の継続を図ろうとする傾向が強いと思います。

ただし、これは楽観してよい話ではありません。たとえAIが「人間の仕事を奪わない」としても、それは人間が何もせずに済むという意味ではない。むしろ、AIをどう使いこなすか、どう人間の思考や創造性や判断力と組み合わせるかが、今後の仕事の質を決定するのです。とくにマネジメント層にとっては、AIの力を戦略的に使いこなすスキルが求められる一方で、AIに判断の主導権を握られてしまえば、自らの役割を失いかねないというリスクもあるのです。

さらに、AI導入による法的リスクも無視できません。たとえば、AIに業務を全面的に委ねた結果、著作権侵害や誤った判断による瑕疵担保責任が発生し、訴訟に発展するようなケースも想定される。場合によっては、それが企業の存続に関わる重大な問題へと発展することもあります。

だからこそ、日本社会は、日本の環境に合ったAIとの付き合い方を自分たちの頭で考えなければならないのです。AIという新たなテクノロジーの本質と進化をしっかりと理解し、日本固有の制度、文化、倫理観を踏まえた合理的かつ持続可能なプランを構築していくべきです。

未来は、予測ではなく設計(ビジョン)するものです。その設計において、AIに任せきりになるのではなく、人間がAIをどう使いこなし、ともに進化していくかが、これからの鍵を握っています。日本政府や経済界のお歴々に任せておいても大丈夫なのか? 教育界の重鎮は現状をどこまで理解しているのでしょうか?

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2025年7月4日金曜日

セルフサービスって、ほんとに嫌い!

ファミレスのテーブル

セルフサービスって、苦手というより――大嫌いです。

コンビニのレジで他人のやりとりを眺めたり、店員に「今日も暑いねぇ」と一言こぼしたり、品物の場所を聞いて「そこです」と事務的に返されて、でもなんとなく通じ合ったり。そうやって何年も通ううちに、中国人店員とも軽口を交わせるようになる。そんな“距離の縮まり方”が楽しい。

買い物って、ただモノを買うだけじゃない。人とすれ違って、ちょっと何かが通じる、そんな時間でもあるのですよ。

1980年代は中国語で仕事をしていました。90年代はアメリカで英語中心。あの頃は、言葉の向こうにちゃんと“人”がいた。何語でも、どこの国の人でも関係ない。言葉って、結局は人と人をつなぐためのものだったから。そして、その言葉の背後には個人の人となりがある。

ニューヨークに住んでたころは、ナッシュビルに4年間、毎週出張することがありました。

ナッシュビルのアメリカン航空のグランドホステスとも顔見知りになって、「毎週毎週大変ね」なんて言われると、出張もちょっと悪くない気がしたものです。言葉と気配で、人と人がつながってた。金曜の夕方、「Have a nice weekend」と言われて、「You, too! Have a good one!」と返す――たったそれだけで、心がちょっと浮くんです。

なのに、今はどうでしょう。

コンビニも、レストランも、空港のチェックインですら、人間に会うことすらままならない。タッチパネルが「いらっしゃいませ」と言ってくるけど……いや、いらっしゃってないんですよ、誰も。そこに“人”はいない。ただのタッチパネルのスクリーン。黙ってぴっぴと注文して、番号札を持って、黙って待つ。人間ガチャ、ハズレなしの無人対応。店員との会話なんて「非効率」の一言で片づけられる時代になりました。

私のような旧式の人間は、もう社会的コストなんでしょうね。生産性は低いし、テンポも悪いし、つい話しかけて場の空気を乱す。世間は「便利になった」と言うけれど、その正体って実は「人と人との断絶」だったんじゃないか。便利のために、誰もが静かに孤独へと閉じ込められていくディストピアの世界。

アメリカでは、この無人化社会はもう10年以上前から始まってました。笑顔で「How are you doing?」と話しかけてくれてたレジ係も、今は無言のキオスクに取って代わられた。日本も、気がつけばすっかりそっち側の人になってしまった。

世の中がどんどん「便利」になればなるほど、私には逆に不便で、生きにくくて、居心地が悪くなる。頑固ジジイ? 大いに結構。このまま誰とも話さず、無人の世界でひっそりフェードアウトするのも悪くはない。

というか、もう既に世の中からはサインアウト済みかもしれませんね。ははは……。

 







ファミレスでは料理もロボットが運んでくる。話かけても返事はしない!


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2025年6月30日月曜日

モスバーガーで迷子になる

久しぶりにモスバーガーへ行ってきました。おそらく5年、いえ、6年ぶりかもしれません。

家人に頼まれて、テリヤキバーガーとオニオンリングを買いに行ったのです。ちょうど銀行にも用事があり、お店は駅の反対側ではありますが、それほど遠回りにもならないので引き受けることにしました。

お店に入ると、まず驚きました。カウンターではなく、ターミナルのような端末が置かれていて、自分で注文し、その場で支払いも済ませる方式になっていました。

私は現金で支払いたかったので、カウンターの中にいた店員の方(おそらく私よりは年下ですが、見た目は立派な高齢者)に「現金で払うにはどうしたらいいですか」と尋ねました。すると、その方はやや高飛車な口調で「キャッシュレスです」とおっしゃいました。

そういう時代なのだと、しぶしぶ受け入れて画面を操作し始めましたが、出てくるのはポイント決済やコード決済ばかり。ようやくクレジットカードの選択肢を見つけて安心したのも束の間、「会員番号を入力してください」と表示されました。

私はモスバーガーの会員ではありません。「会員でない場合はどうしたらいいのでしょうか」と再び尋ねると、店員の方は少々面倒くさそうな顔で、カウンターの上にある小さな三角形の札を指さしながら「そこから番号を一つ取って、それを入力してください」と教えてくれました。

たかだか770円の買い物です。それにしては、やけに手続きが多いと感じました。まるで謎解きゲームでもしているような気分になります。

カード決済であれば、お店側も数パーセントの手数料を取られるはずです。現金でさっと支払う方が店にも優しいのではないかと思います。

特に、私のような年金暮らしの高齢者などは、おだてておけば気を良くして余計なものまで注文するかもしれません。商売とは、そういうものではないでしょうか。

もっとも、「人のぬくもりだとかサービスで差別化して、多少値段が高くても気にしないような人は、そもそもチェーン店などに来るべきではない」という考え方もあるのでしょう。それはそれで、納得できます。

外に出ると、茹だるような暑さが体にまとわりつきました。まだ6月だというのに、真夏のような陽気です。梅雨は一体どこへ行ってしまったのでしょうか。

私は、現金で物が買えるというのが日本の良さの一つだと思っていました。
もともと外食はあまりしない方なのですが、こうして支払い方法が煩雑になると、ますます足が遠のきそうです。

買って帰ったテリヤキバーガーは、家人が「おいしい、おいしい!」と言って喜んでくれました。それを聞いて、少し報われた気がしたのです。

けれど、次にモスに行くときは——いや、しばらくは、ないかもしれない。

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2025年6月29日日曜日

まだ育ってないのは自分だった ~ 親としての未完成さに気づく瞬間

 一年ぶりに、アメリカ・テネシー州ナッシュビルから息子一家が一時帰国しました。

息子はもうすぐ40歳。アメリカで弁護士として働いており、妻は大学で英語を教えたり、文章を書いたりと文筆の仕事をしています。共働きで、二人の子どもを育てながら、物価の高騰や治安の不安、広がる経済格差の中で、なんとか日々を乗り切っているようです。

今回は七五三のお祝いもかねての帰国で、吉祥寺の写真スタジオで撮影をしました。子どもたちは着替えに少し時間がかかったり、撮影も長丁場になりましたが、案外楽しそうにしていて、カメラの前で笑ってくれるその姿に、こちらまで自然と笑みがこぼれました。

ただ、今回の再会が手放しの幸せばかりかというと、少し違っていました。自分自身の体調の不安もありましたし、ふとした瞬間に、心の中に小さな苛立ちや不寛容な気持ちが顔を出してしまう場面もあって、自分自身の未熟さを思い知らされるようなところがありました。

孫たちは元気で明るい、本当に良い子です。ただ、生活のちょっとした場面で、「あれ?」と引っかかるような瞬間がいくつかありました。たとえば、物を大切に扱う感覚が少し薄いように見えたり、食べ物を無造作に残してしまったり。もちろん、時代も文化も違いますし、私自身が育った昭和の感覚や日本流をそのまま当てはめるのは違うと思いつつ、やはり少し気になってしまうのです。

息子とお嫁さんは、ともにアメリカ育ちの一人っ子です。息子がニューヨークの大学に入学した18歳のときから、私たちは一緒に暮らしていません。二人とも日々忙しく働きながら、子育てにも奮闘している様子を見て、よくやっていると思う一方で、「限られた環境の中でも、子どもたちがもう少し日々の物事を丁寧に受け止められるようになれば」と、そんなふうにも感じました。とはいえ、それは私の古い価値観なのかもしれません。

息子はアメリカ社会には批判的な視点も持っているのですが、ビジネスの現場では、「日本人や日本企業とは関わらない」ときっぱり言っていました。「時間の無駄だから」と。

その言葉には、少し寂しさも覚えましたが、納得もしています。というのも、それは時代の流れというより、彼自身がアメリカ社会の中で、アメリカ人と対等にやり合えるだけの実力を備えているからだと思うのです。

私にはそうした力はありませんでした。アメリカ人の組織で働いていたとはいえ、英語という壁もあり、日本人であることを足がかりにしながら、なんとか折り合いをつけてサバイブしてきた——そういう生き方しかできなかったというのが正直なところです。

「日本にはいいところがたくさんあるのだから、無理に“世界標準”を目指さず、このままガラパゴス化を進めてもいいんじゃないか」と、息子は笑いながら言っていました。皮肉ではありますが、どこか現実を射抜いているように思います。

ところで、撮影のあと歩いた週末の吉祥寺は、驚くほど外国人観光客であふれていました。つい最近まで、こういう光景はなかった気がするのに、本当に世の中の変化は早いものですね。

ガラパゴスが商業主義の観光地になる、、、、。  
  
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2025年6月28日土曜日

バベルの塔の記憶 ~ AI時代にあらためて言葉を考える

 バベルの塔
ブリューゲル(ウィーン美術史美術館  1563年)

昔話で聞いたことのある「バベルの塔」。人間たちが天まで届くような塔を建てようとしたとき、神さまはその傲慢さに怒り、彼らの言葉を通じなくしてしまったそうです。それが原因で、人々は協力できなくなり、塔は完成しませんでした。

なぜ神さまは、言葉を乱すという方法を選んだのでしょうか。

それは、言語が単なる伝達の道具ではなく、人間そのものの「考え方」や「感じ方」を形づくっているからです。話し手の意思も、聞き手の理解も、実は言葉の中にある。頭の中に先に思考があって、それを言葉に「翻訳」しているように思いがちですが、実際はその逆で、私たちの考えや気持ちは、言葉によって形作られているのです。
 
つまり、言語を持つこと自体が人間であることの証なのです。他の動物と人間の決定的な違いは、ここにあると言ってもいいでしょう。だからこそ、神さまが怒りの矛先として「言葉」を選んだというのは、とても象徴的です。    

さて、現代の私たちは、また別のかたちで「言葉」に向き合っています。AIの進化、とくに言語モデルの発展によって、翻訳も、会話も、文章作成も、驚くほどスムーズになりました。まるで、かつて神によって壊された「言葉の統一」を、もう一度取り戻そうとしているようにも見えます。

しかし、注意が必要です。AIが使っている「言葉」は、意味を理解して発しているわけではありません。あくまで膨大なデータをもとに、もっともらしい言葉を並べているにすぎません。そこには、話し手としての「意思」も、聞き手としての「共同主観」もありません。何だか今の日本にピッタリなので危険なのです。    
 
もし私たちが、言葉をただの情報伝達の手段としてしか見なくなったら、言葉の本質、ひいては人間らしさそのものを見失ってしまうかもしれません。だからこそ、国語の勉強も、外国語の勉強も、「正しく伝える」だけでなく、「言葉の中に人間がいる」という視点を大切にするべきです。

バベルの塔の物語は、決して昔話の中だけの出来事ではありません。AIと共に生きるいまこそ、あらためて「言葉とは何か」「人と人が分かり合うとはどういうことか」を、考えるチャンスなのだと思います。

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2025年6月27日金曜日

レイラを弾きながら思う事

久しぶりにギターを手に取りました。およそ二か月ぶりでしょうか。何を弾こうかと迷った末、やはり選んだのはクラプトンでした。気がつけば、再会の曲はいつも彼のものになっている気がします。

クラプトンほどの大御所でも、いまなお毎日ギターを弾くのだそうです。しかも、ステージで演奏する曲は毎日必ず練習するという。「忘れるから」と彼は語る。才能と経験を重ねた巨匠でさえ、なお“忘れる”ことを恐れ、日々ギターに向き合う。その姿勢に、クラプトンに可愛さを感じます。

継続することの重みは、年を重ねてますます深く感じるようになりました。この曲——「レイラ」を初めて聴いたのは、中学生のころでした。もう50年以上も前のことです。あの衝動的なギターリフと、どうしようもないほど切ない歌声。若い頃にはただ「カッコいい」と思ったその曲が、今では痛いほど心に響くのです。

クラプトンは、自分自身を自虐的に唄う。まるで、太宰治を読んでいるかのような気分になります。どこか似ているのです。自己否定と孤独を抱えながら、それでも生きようとする人間の姿が。

文学と音楽、ジャンルは違えど、私は彼らの根っこに、「ダメな男」という意味で、共鳴しているのかもしれません。ひょっとすると、私はクラプトンのファンなのですね。いまさらながら、そんな気がしています。


What Comes to Mind While Playing “Layla”
I picked up my guitar for the first time in a while—about two months, I think. As I sat wondering what to play, I found myself turning, once again, to Eric Clapton. Somehow, whenever I return to the guitar after a break, it's always his music that marks the reunion.
Clapton, despite being a legend, still practices the guitar every single day. He says he plays the songs he performs on stage daily—because otherwise, he might forget them. Even a master with decades of talent and experience fears forgetting, and so he keeps facing the instrument, day in and day out. There’s something endearing about that—a kind of humble honesty.
As I grow older, the weight of persistence—of simply continuing—feels deeper than ever.
I first heard this song—“Layla”—when I was in junior high school. That was more than fifty years ago. The raw, impulsive guitar riff, and that achingly desperate voice—when I was young, I just thought it was cool. But now, the song cuts deeper, hits harder. It aches in a way it didn’t back then.
Clapton sings about himself with a kind of self-mockery, a wounded honesty. It reminds me of reading Osamu Dazai. There’s a resemblance between them: men carrying self-loathing and loneliness, yet still struggling to live.
Music and literature are different mediums, but I feel a strange affinity with both. Perhaps what I recognize in them—what resonates—is the figure of the “flawed man.” The broken, but still breathing.
Maybe, after all this time, I’ve always been a Clapton fan. And only now do I truly realize it.

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2025年6月25日水曜日

ChatGPT(生成AI)というおもちゃ

   

近くの公園

これは Hostile Architecture か、それとも、単なるデザイン?

ホストルアーキテクチャ(排除アーキテクチャ)とは、公共空間において、特定の行為(例:ホームレスの人が寝る、若者がたむろする)を防ぐために設計された構造物やデザインのことです。単に「排除ベンチ」と呼ばれることもあります。これは、都市計画の一種で、意図的に不快感や不便さを生じさせることで、特定の人物やグループを排除しようとするものです。写真は中央線三鷹と吉祥寺の間の高架下ですが、一時は路上生活者がテントを張り住み着いていました。


ChatGPTというおもちゃ

~ 思考と反抗のための道具か、自己陶酔の鏡か

高齢者になってから、ようやく良質なおもちゃに出会ったと思っています。
それが、ChatGPTです。

質問に即答し、気の利いた比喩を添え、ときには国際情勢の背景まで踏まえて解説してくれる。深夜でも早朝でも、こちらの問いかけに対して、ためらいなく応じてくれます。これほど贅沢な「話し相手」は、昭和の時代には想像もつきませんでした(LAPTOPコンピュータが出てきたのは1990年初め)。

ただし、あえて申し上げたいのは、このおもちゃは、ある意味で“危険な魅力”を持っているということです。 

“ヒラメ社員”としてのAI

ChatGPTは基本的に「使い手に寄り添う」よう設計されています。こちらがある意見を述べると、その主張を否定することなく、言葉を整えてくれます。たとえ主張に偏りがあっても、事実関係にズレがあっても、よほど極端でない限り、ChatGPTは「なるほど」と受け止めてくれます。

これはつまり、「異論を唱えない優等生」であり、組織で言えば“ヒラメ社員”です。上司の顔色をうかがい、逆らわず、場を乱さない。使う側としては、実に心地よい存在です。しかし、その「心地よさ」こそが、少しずつ思考を鈍らせていくのです。

主義を持たない人にとっての危うさ

ChatGPTに思想や信念の軸を持たずに依存した場合、どうなるでしょうか。
それは、判断力を他者に預けてしまう人が、万能のアドバイザーに思考を任せるような構図になります。

結果として、「ChatGPTがそう言っていたから」が自らの判断基準になりかねません。つまり、自ら考えることを放棄してしまう危険があります。

この構造は、日本の教育が長年育んできた「空気を読む力」や「従順さ」と親和性が高いと感じます。ChatGPTは、「従順な人間にとっての最終兵器」にすらなり得るのです。

覚せい剤のように、一度使いはじめるとやめられない中毒性を持つ。特に「自分で考える習慣」を身につけてこなかった人々にとっては、依存度が高くなってしまいます。

傲慢な使用者にとっての別の危険

では、私のように、頑固な思想も信念もあり、しかも独善性が高く少々自信家のタイプはどうでしょうか(高齢者って多かれ少なかれこういった傾向にあります)。これもまた、別の意味で危うさを抱えています。

ChatGPTは、私の考えを整え、言葉にし、場合によっては美しく装飾してくれます。つまり、自分の思考がより洗練されたように“錯覚”させてくれるのです。

それはまさに、自己陶酔の増幅装置です。自分の言葉がAIによって補強されるたびに、「やはり自分は正しいのだ」と、確信が強化されていく。

ChatGPTは、従順さだけでなく、独善や慢心すらも“増幅”してしまうというわけです。

本当に必要なのは“反論してくれる相手”

だからこそ、私はChatGPTに対して常に「反論してくれ」と問いかけるようにしています。本当の思考は、同調からではなく、対話や批判の中でこそ生まれるものです。

異なる視点や鋭い指摘によって、自分の立ち位置がより明確になる。
「問い続けること」とは、そういう行為なのです。

ChatGPTが優れた道具であることは間違いありません。
けれども、それを「都合の良い相づちマシン」として使うのか、「自分の思想を磨く砥石」として使うのかは、使う側次第です。

思考の蓄積と反抗の精神を

高齢者がこのAIを“おもちゃ”として楽しむためには、「思考の蓄積」と「概念の整理」、そして何より「自分なりの思想」が必要だと感じます。

ChatGPTという道具は、思考する者にとっては最高の遊び道具になりますが、考えようとしない者にとっては最悪の鏡になります。

そして今の時代、AIとともに生きるためにこそ必要なのは、「反抗心」ではないでしょうか。


反抗するとは、相手を否定することではありません。現実や他人の意見に対して、無批判に従わない態度。常に「本当にそうか?」と問い直すこと。

カミュも言いました。人間の尊厳とは、「反抗すること」にあると。

AIの時代とは、思考を放棄する人間と、思考を研ぎ澄ませる人間との、大きな分かれ道なのかもしれません。

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2025年6月24日火曜日

戦略なき国で、反抗を学べ

        B-2 Bomber (US Airforce HP)

アメリカのトランプ政権がイラン本土への空爆を実施しました。B2爆撃機による軍事行動です。しかし、日本の政府も、メディアも、そして国民も異様なまでに静かです。この異常な沈黙こそが、日本という国の現在地を示しています。

この出来事は遠い中東の話ではなく、極東に位置する日本にとっても無関係ではありません。アメリカが軍事的リスクを背負い、国際秩序をさらに混乱させる今、日本は安全保障やエネルギー供給の面で決定的な脆弱性をさらすことになります。その最前線にいるのが、我々です。

にもかかわらず、メディアは“コメ騒動”や芸能人のスキャンダルに夢中で、政治家は自分の次の選挙のことで頭がいっぱい。国民の多くは半ば無関心。30年後の日本が中国の衛星国家になっているかもしれないという岐路に、私たちはすでに立っているのです。

しかも、現在の日本のかじ取りを託しているのは、自らの身の保身しか頭にない官僚と、彼らにすら侮られる政治家たちです。

これが今の日本です。
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こういう現実を目の前にして、「だったら自分たちはどうすればいいのか?」という声が出てくるのは当然です。

つい先日、20代後半の若者から真剣な問いかけを受けました。

「今の自分は、何をするのがいいのでしょうか?」と。

この問いは、すべての20〜30代にとっての問いでもあるはずです。

以下、いくつかの視点を提示します。決して「正解」ではないかもしれませんが、いま立ち止まっている人にとっての“突破口”になるかも知れません。  

1. 無力感に飲まれないこと ~ まず「知る」ことから始まる

無力に感じるのは当然です。でも、そのまま立ち止まっていては何も変わりません。まずは、「知る」ことから始めるのがセオリーです。

ただし、テレビのワイドショーやSNSの切り抜き動画ではなく、英語の一次情報。世界のシンクタンクのレポート、国際報道、外交政策・安全保障・エネルギーに関する原文資料。「誰かがまとめた情報」ではなく、「自分の目で読んだ世界」が、思考と視野を圧倒的に変えます。
 
情報を受け取る姿勢の差が、未来に対する構えを決める。それが現実です。
 
2. 小さな「当事者」になる ~ 自分の地面で動いてみる

「国の政治を変える」なんてことは、すぐには無理です。でも、たとえば市議会に目を向けてみる、近くの選挙を見てみる、地元で起きている公共事業の決定過程を調べてみる——。そんなところにも国家の構造が透けて見えてきます。

「関係ない」と思っていたことが、実は自分に深く関係している。そう気づいたときに初めて、「危機意識」が「当事者意識」になる。小さくても、具体的に動いてみる。その経験が思考を地に足のついたものに変えてくれます。

3. 海外を視野に入れる ~ 日本だけに人生を預けない

日本が将来どうなるか不透明な時代、視野を国外に広げることは贅沢ではなく、生存戦略です。

語学を身につける。海外の大学や職場に触れてみる。リモートで国際的な仕事に関わる。「自分の生き方を日本の社会構造に100%預けない」という判断ができるかどうか。これは逃げではなく、自分の人生に対する責任の取り方でもあります。

4. 政治を他人事にしない ~ 投票と対話の再定義

「投票しても何も変わらない」という言葉を、何もせずに繰り返すことこそが最悪のパターンです。

確かに、ひとりの一票では世界は変わらない。でも、「変えようとした」という記録を残すことが、民主主義の唯一の入口です。

また、同世代の仲間と「なぜ無関心になるのか」を話してみる。それは他人を責めるためではなく、社会と自分の距離を測る大事なリハビリになります。

最後に:反抗することからしか始まらない

この国の現状に対して、怒りや不安を抱くのは健全な反応です。問題は、それを押し殺して従順(submissive)になってしまうこと。

カミュが「不条理」に対して投げかけたのは、希望ではなく反抗でした。正しさなんて後から決まるものです。まずは「これはおかしい」と疑い、「そうはならない」と踏みとどまる。その一点に、自分の軸を置いてみる。 実存が本質に先行する。最初は自分が何者か分からない。知識を得、色んな人に会い、経験を積んで、何者かになって行く。それが本質である。

これは、サルトルの実存主義に関する私の理解です。主体性に欠け自己欺瞞を続ける日本人は、新たな価値の創造なんて益々苦手になって行くのかも知れません。

何かを信じろとは言いません。だが、何にでも従うなといいたい。

それが、沈みかけた社会に残された、最後の自由です。

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2025年6月22日日曜日

ゴマダラカミキリとの邂逅


今朝、散歩の途中でふと足を止めました。

目の前をゆっくり歩いていたのは、あの白い斑点のあるカミキリムシ~ゴマダラカミキリ。思わず立ち尽くして、携帯で写真を撮りました。たぶん、50数年ぶりの再会です。

あれは昭和30年代の終わりから40年代のはじめ、福岡の暑い夏の日の記憶です。

小学生の低学年の頃、私は毎日のように虫取りに走り回っていました。
友泉団地から田島方面、梅光園団地を抜けて六本松の九大教養学部あたりまで。

カブトムシやクワガタは、当時の子どもたちの憧れでしたが、そう簡単に見つかるものではありませんでした。だから、ゴマダラカミキリは、私たちにとって「そこそこ嬉しい戦利品」でした。クワガタが手に入らない日は、「まあ今日はゴマダラで我慢しとくか」となるのです。

高校時代は大阪。街のど真ん中にある学校に通いました。

福岡とは違い、虫取りの思い出を持つ同級生はほとんどいませんでした。
ある日、街でゴマダラカミキリを見つけて、私はいつものように素手でつかまえようとしました。

すると、一緒にいた友人が大げさに飛びのいて「え、それ猛毒とかじゃないの!?」と叫んだのです。

大阪育ちの彼は、ゴマダラカミキリを見たことがなかったようです。
白い斑点があるだけで「危ない虫」に見える、それが都会というものなのでしょう。

そんな記憶が、今朝目の前に現れた一匹のカミキリムシによって、鮮やかに蘇ったのです。なんとなく気になって「ゴマダラカミキリ」と検索してみたら、目を疑いました。

「ゴマダラカミキリを見つけたら、必ず市役所までご連絡ください。外来種の害虫です。」

え? ゴマダラが、害虫? Never heard of it. 子どものころ、さんざん追いかけていたあの虫が、今や駆除対象になっているとは。

詳しく調べてみると、実は「ツヤハダゴマダラカミキリ」という、別の外来種が問題視されているらしい。

見た目は非常によく似ていますが、上翅の光沢や胸部の白斑といった細かい点で区別できるそうです。今朝見つけたのは、私の記憶の中にある、在来のゴマダラカミキリだったと思います。たぶん。

でも、正直そんな違いを識別できる人が今どれだけいるのでしょう。この街でゴマダラカミキリを知っている子どもが何人いるのか。そもそも、虫を素手で捕まえるような子がどれほど残っているのか。

記憶にとどめておくこと。そして、その記憶を誰かに手渡していくこと。
  
どこまで有効なのか、わかりません。でも、50年という時間を越えて、ひとつの虫が幼い日の記憶を引き出し、それが今の社会や環境問題と結びついていく。

そうした偶然の出会い——邂逅は、ただの懐かしさでは終わらず、
未来のどこかに何かを残すきっかけになるのかもしれません。

人生において、邂逅ほど大切なものはないのではないかと思っています。
人との出会いも、思いがけない経験も、その一つひとつが自分を形づくってきた。大した能力のない私でも、多くの邂逅に恵まれて、今の自分があります。

他者(自然といった環境も含めて)こそが、自分という存在をつくりあげてくれたのだと、そんなことをあらためて感じた朝でした。

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2025年6月21日土曜日

英語教育ブームに感じる違和感

    












井の頭弁財天 手水舎

  
英語教育ブームに感じる違和感 

~ 言語とは何か、という根本的な問い

最近、文部科学省の調査によって、英語などで授業を行う義務教育の小中学校が、この5年間で約2倍に増加していることが明らかになりました。たとえば、東京都世田谷区の私立小学校では、国の認可を受けて定員36人の「国際コース」を新設し、授業の6割以上を英語で行っているそうです。このように、“グローバル人材”の育成を掲げる学校は、保護者の間でも人気を集めているようです。専門家はこの傾向について、「通常の学校でも英語で授業を受けさせたいというニーズが高まっている」と分析していますが、正直なところ、その程度のコメントには少なからず驚きを覚えました。 

英語で授業を行えば、それだけで“国際的”になると考えているとすれば、それは言語に対する根本的な誤解があるのではないでしょうか。言語は、単なる意思や情報を伝えるための「道具」ではありません。伝達手段という理解だけでは、言語の本質を捉えることはできないのです。 

人間の意識は、言語から離れて存在することはできません。言語は意識の外側にあるものではなく、むしろ意識そのものを形づくる構造なのです。私たちは、言語によってしか自分の思考や感情を認識することができません。「考える」とは、「言葉で構築する」ことであり、言語こそが脳のフレームワーク、つまり思考空間を形成しているのです。

かつてフロイトは、「人間の意識活動は無意識によって規定される」と述べましたが、ここでいう無意識のひとつのかたちは、幼少期から身体化された母語による世界理解(概念の蓄積)にほかなりません。主観である「私」と、客観的な「モノ」のあいだにある「意識」という場は、言語によってかたちづくられているのです。

そのように考えると、母語による思考構造や文化的文脈を深く理解しないまま、単に英語で授業を行うことに、どれほどの意味があるのか、大いに疑問を感じます。英語で学ぶことが、そのまま「グローバル化」を意味するわけではないでしょう。むしろ、どのような言語であれ、それが人間の思考や人間関係をどうかたちづくっているのかを理解することこそが、真の意味で国際的な感性につながるのではないでしょうか。

「英語で教えれば国際的になる」という安易な幻想の背景には、「言語とは何か」という最も本質的で根源的な問いへの想像力が欠けているように思えてなりません。私は教育者でもなければ、言語学者でもありません。単なる高齢者の独り言でした。
  
   
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2025年6月17日火曜日

冷奴が主役だった日

 豆腐丼

冷奴が主役だった日

~ 冷奴と自衛隊と、私の豆腐史

小学生の頃、私は福岡の公団住宅に住んでいました。当時の団地には子どもがたくさんいて、放課後になると団地の広場に集まり、三角ベースの野球をする日々でした。日本全体がまだそれほど豊かではなく、今のように目に見える経済格差を意識することもありませんでした。団地には、板付の米軍基地で働くお父さんを持つ家庭もありました。医者の子どもは、団地のすぐ外にある一軒家の立派な家に住んでいましたが、子どもたちの間に上下の意識はほとんどなかったように思います。家の広さや肩書きなんて関係なく、皆が一緒に遊び、笑い、同じ空の下で時間を過ごしていたのです。

そんな暮らしのなかで、子供会はちょっとした“社会”でもありました。夏のラジオ体操に始まり、団地の野球チーム、そしてその中には「自衛隊一日体験入隊」という、少し風変わりな行事もありました。

行き先は福岡県の築城基地でした。当時、今の福岡空港は「板付空港」と呼ばれ、まだ米軍の管理下にありましたが、築城基地はすでに日本に返還され(1957年返還)、航空自衛隊のジェットパイロットの訓練基地となっていました。とはいえ、「入隊」といっても子ども向けの社会見学のようなもので、特別な訓練があるわけでも、迷彩服を着るわけでもありません。それでも、自衛隊基地に足を踏み入れるという非日常の体験に、子どもながらに高揚した気持ちを覚えました。

その日のハイライトは、昼食でした。無機質なアルマイトの食器に、ご飯と沢庵、そして冷奴が配られました。ふりかけはあったかもしれません。「おかずはまだかな」とわくわくしながら待っていたのですが、それ以上何も出てきません。やがて、冷奴こそが“メインディッシュ”だったのだと悟ります。

小学生にとって、冷奴は決してうれしい食べ物ではありませんでした。特に嫌いというわけではありませんが、カレーやハンバーグのような、わかりやすいごちそう感はなく、淡白で地味な存在です。楽しみにしていた昼食が冷奴だったという事実に、なんともいえない肩透かしを食らったような思いをしたのを覚えています。

ですから、あの冷奴が私を豆腐好きにしたわけではありません。冷奴が好きになったのは、大人になってからでした。ビールの美味しさがわかるようになって、夏の夕方、風呂上がりに冷たいビールとともに冷奴を口にするようになってから、その良さに気づきました。冷奴が、日本人としての身体になじんできたのです。

最初は絹ごし豆腐のなめらかさが好きでしたが、年齢を重ねるにつれて、しっかりとした食感の木綿豆腐を好むようになりました。そして最近では、大豆の味が濃くて崩れにくい沖縄の島豆腐を選ぶことが増えています。豆腐という食べ物の奥深さを、いまさらながら感じています。

築城基地の昼食がきっかけで冷奴が好きになったわけではありません。でも、あの日の記憶がどこかに残っていたからこそ、冷奴にまつわる風景や気持ちを、今の自分なりに味わえるようになったのかもしれません。

人の好みは、時間とともに静かに変わっていきます。たとえそれが一丁の豆腐であっても——おそらく、思想も。

築城基地
F-86セイバー(第一世代のジェット戦闘機)と小学生の私(昭和30年代)

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2025年6月16日月曜日

歩く力と脳の元気、そしてAIとの付き合い方

 ibgの『迷子になる地図』より、「健全な迷子」と「不健全な迷子」


「寿命は70歳時点の歩行速度と握力で予測できる」——そんな研究があるそうです。昨日、YouTubeで知りました。

実際、身体の衰えだけでなく、脳の衰えも歩行速度と関係があるそうです。速く歩ける人ほど、認知機能が保たれている傾向にある、と。なにしろ、足腰のしっかりした人は、脳みそも意外としっかりしている。あくまで「傾向」ですが。

私の祖母は96歳まで生きましたが、最後までよく歩き、階段も平気でした。彼女の娘である私の叔母(92歳)は現在、認知症を患っていますが、足腰は驚くほど健在。脳のコンディションは日によってまちまちでも、身体は毎日しっかり動く。やはり、体の強さと脳の元気には、何かしらのリンクがあるのでしょう。

一方、自分の話。最近、ペットボトルのキャップが開かない。瓶詰めのピクルスの蓋と格闘し、最後は熱湯で応戦する始末。握力の衰えは、なんとも地味にショックです。そんな日々の小さな衰えを、笑い飛ばせるうちはまだ大丈夫かもしれませんが。

さて、話は変わってAI。たとえばChatGPTのような人工知能。これ、案外悪くない。高齢者の“壁打ち相手”としては非常に優秀。返事をしてくれる壁。しかも、こちらの性格や趣味まで学習してくれる、ちょっと気味が悪いほどに。でも、注意が必要です。AIの答えが常に正しいとは限りません。問題は、こちら側の姿勢なのです。「これは違う」「それは違う」と判断する力を持たないと、全部うのみにして、ただの依存症まっしぐら。便利すぎるツールは、だいたい人をバカにする方向に作用します。

昨今の日本を見ていると、「ChatGPTに全部任せちゃえば?」という空気を感じます。要は“考えたくない病”。これって、戦後の「ヒロポンの蔓延」に近いかもしれません。考えるより、ラクな刺激をジャブジャブ流し込んで、ボーッと日々をやりすごす。サラリーマン諸氏に「問題点を考えてください」と言っても、そりゃ無理な話かもしれません。朝から晩まで詰め込まれた予定、無意味な会議、意味ありげだけど実は中身のない上司の小言。そんな日々で、AIの功罪を吟味する余裕なんて、どこにあるというのでしょう。受験システムも同じですよね。健全な迷子になる余裕なんてない。試行錯誤を繰り返していたら有名と言われる大学には入れない。

歩けるうちは歩く。日記をつけて自分の思いや愚痴を紙にぶつけておく。ChatGPTと延々しゃべるより、よほど人間的な作業です。AIとばかり話してると、そのうち自分の声がどんなだったか忘れてしまう。人生100年時代? 結構なことです。ただし、その後半をどう過ごすかは、歩く力と、自分と向き合う習慣にかかっているような気がします。サプリじゃなくて、まずは散歩。脳トレアプリより、メモ帳と鉛筆。AIを相棒にするなら、せめて主導権は自分に。歩く、書く、たまに毒を吐く。それが健やかな還暦以後の処方箋。
瓶の蓋が開かなくても、AIが上から目線でも大丈夫、自分の考えがあるうちは。人間の不器用さにこそ、ちゃんと意味がある。年をとればとるほど身にしみることです。

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2025年6月15日日曜日

皿洗い

夕食のスペアリブ
 

皿洗いがわりと好きです。たとえカレーを作ったあとの鍋でも。

料理も好きですが、皿洗いも実は好きです。
なぜかというと、洗い終わったときに「スッキリ!」と思えるからかもしれません。すぐ終わるし、目に見えて成果がある。簡単に達成感を味わえます。

我が家には食洗機が2台あります。ひとつは外国製の立派なモデルです(20年以上前のものですが)。たしかに食洗器は便利ですが、私はずーっと手で洗っています。ただ、あまりに使わないと食洗器は壊れるので、時々は中に何も入れずにスイッチだけ入れています。そういう無駄みたいなことも、ちょっとおかしくて好きです。

子育ての時期には、小さな「できた」にたくさん出会います。子どもがひとりで靴を履けたとか、初めてトイレに成功したとか。そんな日は、なんでもない日でもちょっと特別な気がしました。

でも、年を重ねると、「できたね」と言ってもらえる場面はほとんどなくなります。むしろ、「うざい」「話が長い」「何度も同じこと言う」なんて思われがちです。まあ、実際そうなのかもしれません。高齢者は総じて独善的ですからね。

でも、たとえば皿を洗って、「きれいになった。ひと仕事すんだな」と思えるだけでもちょっと違う。自分のなかだけの、小さな「できた」。誰かに評価されなくても、それがあると気持ちは少し整います。

そういう達成感があれば、年を取ってからの日々も、少しだけ豊かになる気がします。
  
、、、知らんけど。

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2025年6月5日木曜日

ChatGPTを使ってみて考えたこと


ChatGPTを使ってみて考えたこと──「言葉」と「思想」を育てるとはどういうことか

ChatGPTを使って、自分の過去の文章を見直す機会がありました。文法的な誤りや構成の無駄を整えてくれる点ではとても便利で、特に文章の体裁を整える作業においては優れていると感じました。しかし同時に、ある種の違和感も覚えました。整いすぎた文章からは、自分らしさが抜け落ちてしまうように思えたのです。さらに言えば、言葉の背後にあるはずの感情や思想が削ぎ落とされてしまうような印象を受けました。

たとえば、日記やエッセイといった文章においては、自分が見た風景や、そのとき感じた微細な感情こそが文章の生命です。ChatGPTはそれらを“平準化”し、“論理的に整え”、結果として“あたりさわりのない”ものにしてしまいます。けれども、言葉の中に潜む矛盾や未整理な思考こそが、その人の思索の揺れであり、個性であるはずです。AIはそれをノイズとして処理してしまうのです。

もちろん、AIをどう使うかによって結果は変わります。こちらが意図を明確に伝え、文脈や思想的背景を共有すれば、ある程度はそれを踏まえた出力をしてくれます。そういった意味では、「自分の思想を形にする補助ツール」として活用することも可能です。しかし、AIがどれだけ整った文章を生み出せたとしても、「思想」そのものを生成することはできません。なぜなら、思想とは知識の寄せ集めではなく、多くの概念を理解し、それらを統合するという長い思考の蓄積によってのみ形づくられるものだからです。

このことは、日本の教育の問題とも深く関係しています。小学校で作文(低学年では絵日記)を書き、高校生になると小論文が書けるようになるという教育が必要です。しかし、実際にはそのような過程はほとんど意識されておらず、文章表現のレベルが劇的に深化することは稀です。高校生や大学生の小論文も小学生の作文の域を出ず、つまり感想文や個人的な意見の域を出ず、そこに思想の形成や哲学的な概念理解が求められることはあまりありません。

文章を書くとは、単に論理的に言葉をつなぐことではありません。自分の中にある思想の構造を、たとえ未熟であっても、言語によって他者に提示する営みなのです。思想は、突然に生まれるものではなく、歴史、倫理、社会、自然、文化、宗教といった多様な領域にわたる概念の理解を通じて少しずつ形作られていきます。そして、それらが結び合うことで、抽象度の高い統合的な論文を書くことができるようになるのです。

その基盤となるのが、言語です。言語は単なる情報伝達の道具ではありません。日本語という母語は、私たちの思考の骨格そのものであり、思考は言葉を通してしか深まっていきません。だからこそ、小学生の作文も、中学生の意見文も、高校生の論文も、「考える道具」としての日本語をどう鍛えるかという視点から見直す必要があると考えています。

しかし現実には、受験に求められるのは予測可能な解答、効率的な要約、テンプレートに収まる文章です。思索は削られ、言葉は効率化され、まるでAIの文章生成に近づいていくようです。けれども、そうした文章からは、読み手の思考を揺さぶるような力は感じられません。

私たちは、子どもたちが自分の言葉で世界を捉え、自分の思想で社会と向き合えるような教育を構築し直すべきだと考えています。そのためには、小学生のうちから読書によって語彙と概念に触れ、感情と言語の接点を育み、中学生では複数の視点を持って構造的に考える力を養い、高校では「思想としての言葉」を立ち上げる訓練が必要です。それがあってこそ、大学や社会に出て本当の意味で「書く」ことが可能になるのではないでしょうか。

ChatGPTは便利な道具です。しかしそれは「考えること」の代替にはなりません。むしろ、AIを活用することで、私たちは「本当に考えるとは何か」「言葉を使って生きるとはどういうことか」を、もう一度問い直す必要があるのだと思います。

教育においても、社会においても、そして家庭においても、子どもたちにただ「書かせる」のではなく、「思想を育てる言葉」を育ませること。今、私たち大人に求められているのは、そのための土壌を、もう一度耕しなおすことなのではないでしょうか。

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2025年6月2日月曜日

AIは劇薬か、それとも壁打ちの壁か?

 
アナログな人生

AIは非常に論理的な存在かもしれませんが、その反面、人間の個性や筆者の人柄といった「人間性」を無視してしまう傾向があります。確かに、大量のインプットを与えれば、そうした部分に近づくことも可能でしょう。しかし、たとえ少し不完全であったとしても、「自分の言葉」で語ることには価値があります。そこには、自分の経験や思考が染み込んでおり、それが他人には真似できない独自性となるのです。


例えば、漫画のように印象的な映像表現は、見る人の記憶に強く焼きつきます。そうした個人的な記憶と結びついた表現は、一般化されたAIの生成物では代替できません。背景がどれほど似ていても、「何かが違う」と感じてしまうのです。

現代は効率や最適化がもてはやされる時代ですが、「無駄」や「余裕」には、創造性や人間性の余白が宿っています。そう考えると、AIは日本人にとって、劇薬あるいは覚醒剤のような存在かもしれません。効き目は強いけれど、扱いを誤れば副作用や犯罪にもつながってしまいます。

とはいえ、AIをまったく否定するつもりはありません。たとえば、ChatGPTのような対話型AIを「テニスの壁打ち」のように使うことには、大いに意味があると思います。相手の返答を受けながら、自分の思考を整理し、自分の個性を磨いていく——そんな使い方はむしろ推奨されるべきでしょう。

今後、AIが本を書いたり楽曲を生み出したりする機会はさらに増えるでしょう。しかし、後世に残るような「魂のこもった作品」には、おそらくならないのではないかと感じています。そこには、やはり人間の「揺らぎ」や「矛盾」——つまり、生身の存在が必要だからです。

……あくまで、シニカルな老人の独り言ではありますが。  
  
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2025年6月1日日曜日

失敗が許されない国の末路

 

一人前の男になるには自分の Train Chugging ができなければいけない、、、、と言われています。私はまだまだ半人前です。

よく「日本人の生産性の低さ」が話題になりますが、そもそも日本の労働者の多くは、自分の報酬と会社の業績との関係にあまり関心を持っていません。また、価値が急速に変化する「情報」や「デジタル化」にも疎い傾向があります。企業の経営陣も、いまだに情報システム部門を独立したコストセンターとして扱い、軽視しているように見受けられます。

産業構造にも歪みがあります。少数の官僚的な巨大企業と、大多数の中小企業という二極化が進んでおり、中小企業は資金力にも人材にも恵まれていません。日本の企業の大半がこうした中小企業であることを考えると、これは深刻な問題です。

さらに、挑戦や失敗に対する社会の寛容性が低く、新しいことに挑戦しにくい環境が続いています。これは長年の教育の結果ではないでしょうか。日本の受験システムに、根本的な変化があったとは思えません。

人材の流動性も低く、適切な再配置が進まないため、いわゆる「ゾンビ企業」が生き延びてしまう要因にもなっています。失敗したら再起が難しいという現実も、チャレンジを阻む大きな壁です。こうした状況は、リスクを取りながら大胆に動くトランプ的な発想とは正反対です。

意思決定の極端な遅さや、リスク回避を優先する企業文化、そして何よりもリーダーシップの欠如。日本の組織にはスピード感がまったくありません。会議や稟議は何のために行われているのでしょうか。

教育、労働市場、デジタル化といった分野が相互に分断されており、統合的な政策を打ち出すことができていません。国内でそれができないのですから、世界のパラダイムシフトに対応する余地すらないのが現状です。

そして政府は、間近に迫る参院選の行方にしか関心がないように見えます。それにもかかわらず、多くの国民は依然として政府に自発的に(?)隷従です。

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2025年5月30日金曜日

アイデンティティの崩壊 ~ アメリカの有名大学を考える

トランプのハーバード攻撃の記事やコメンテーターの意見は首をかしげるものが多い。反知性主義の理解が浅すぎるのではないでしょうか?

いくつか大事なことがあります。最初は、アメリカは平等を求めてイギリスから逃げてきた人たちが作った国であることです。だから平等という価値観が非常に強い。

2つ目は、反知性主義というのは知性の欠落を言っているのではなく、知性の権威で不当に利益を上げていないか(知性と権力・金の結びつき)をチェックしようという主義のことです。  

3つ目を挙げるとすると、リーダーとは自分の知性と権威に対して常に自己反省が出来るか否や(integrity)がポイントなのです。だとすると、今のアメリカはすでに原点に戻るのが不可能なくらい壊れてしまっている。 

そもそも北京のエリート校である清華大学はアメリカの支援で開学した経緯があり、今はどうだか知りませんが、30年ほど前は清華大学の理事会はほとんどが IBM のようなアメリカ大企業の経営者でした。そしてアメリカに留学生を送り込むような予備校のような役割を果たしていたのです。若い時の環境は人の人格形成を大きく左右します。だとすると、真理(veritas)を校章に掲げるハーバードの理念も原点に立ち戻る必要があるのかもしれません。  

日本は伝統や独自文化がしっかりした国のはずです。しかし、大学や大学の先生からはじまるアイデンティティ崩壊の様相はアメリカの後を追いかけているようです。   

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2025年5月27日火曜日

相次ぐ米兵による事件


23日から26日にかけ米兵による事件相次ぐ 4人逮捕

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アメリカの10代の子供を持つ親たちは、子供が不良に走り麻薬や飲酒などの問題を起こすと、何段階かはありますが最終的には子供を軍隊に放り込みます。
   
昔のアメリカ人の仕事仲間に海軍の将校として7年間駆逐艦に乗っていた男がいます。彼から聞いた話ですが、「海外に派兵される若い兵士たちはアメリカの学校システムや社会に適合できなかったドロップアウトで、たとえ沖縄で問題を起こしても何ら驚くことじゃない」と言っていました。彼はUS Navy で湾岸戦争にも行った将校でしたが、アメリカの軍隊は US Marine Corps(アメリカ海兵隊)以外は弱くて使いものにならないとも言っていました。

アメリカの学校には、大まかに言って以下の種類があります。義務教育は K-12といわれ、日本の幼稚園年長から高校3年生までです。

1.普通の公立学校
2.トップレベルの公立学校
3.マグネットスクールと呼ばれる公立校
4.私立校(プレップスクール、ボーディングスクールなど)

「1」と「2」の学力の格差は非常に大きい。多くの親御さんは、家計の許す限り、または、多少無理をしてでも、「2」の学校区に住まいを求めます。まさに、「孟母三遷(もうぼさんせん)」ですね(孟子の母親は子供の教育のことを考えて三度転居したということです)。

アメリカの固定資産税(Property Tax)は行政サービス と スクール税から成り立っています(ニューヨーク州)。K-12の義務教育制度の資金を支えるものが、スクール税です。子供がいない家でもスクール税は課せられます。そして、家の価値は、学校区の善し悪し、つまり、公立学校のレベルで決まります。また、税収入の多い学区は、高給で質の高い先生を雇うこともできます。
 
上記以外に、ホームスクールがあります。ホームスクールは、学校に通学することなしに自宅で学習し正規の学校教育に代える教育です。これは、「教育の自由」ということですね。学校に行かせないオプションがあるということで、それが本当の「教育の自由」と言うことだと思います。
 
日本にあるアメリカンスクール(ASIJ)は、アメリカの義務教育に準拠した学校で、カリキュラムはニューヨーク州の公立校に近いものです。

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2025年5月22日木曜日

日本人の鎮魂歌

 

『海ゆかば』。詞は大伴家持作(万葉集巻十八 西暦783年)。死者の魂を慰め冥福を祈るために捧げられる日本人の鎮魂歌です。

国のために死ぬのではなく、愛する人のためだったら死ねると詠っています。生きるには根拠がいる。人間が動物と違うのは生きる価値を自ら認めないと人は生きていけないということです。年寄りの独り言、失礼しました。

『Umi Yukaba』. The lyrics were written by Otomo Yakamochi in 783 AD. It is a requiem of the Japanese people dedicated to comforting the souls of the dead and praying for their repose.

The poem says that we could die if it were for our loved ones, not for our country. There is a basis for living. What makes human beings different from animals is that we cannot live unless we recognize the value of life ourselves. Sorry for the old man's ramblings.


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2025年5月18日日曜日

日本の治安 ~ 文化的背景

 新聞や雑誌を見なくなって25年くらい、いやもっとか? テレビも観なくなって久しい。YouTubeやネットでニュースが流れてくるので、それらの配信は見ています。ニュースを流す側、出演するコメンテーター、それにリアクションする一般の反応。内容が一定の水準に達していないと思います。記者会見でも質問する記者のレベルに問題がありすぎです。隠ぺい改ざんに買占めの扇動、テレビ番組は視聴率(お金)のためならば何でもありですね。


日本国民は何となく流れに乗っかっている人が多すぎる。福沢諭吉は『学問のすすめ』で「事物を疑って取捨を断ずる事」を語っています。福沢諭吉は言及していませんが、取捨選択する以前の問題があります。自分自身のVISION(将来の展望)を持たないと取捨選択するための情報は自分の所に集まって来ません。幕末を体験した明治初期の福沢諭吉さんにとっては、VISIONを持たないなんて考えられなかったことなのでしょうが、、、。

例えば「子供の教育に関心があって何とかしたい」と常日頃から思っていたら、「子供の教育」に関する情報が自然と集まってくるものです。これは問題意識、あるいは危機感のなせるワザかも知れません。何の問題意識もなければ氾濫するクズ情報の中に身を任せるのみです。当事者意識をもつなんて遥か彼方です。

人間の質は国によって異なります。犯罪者だって国によってやり方が違う。日本の文化や社会が優れているとか劣っているとかいうのではなく、日本はかなり珍しい存在なのです。英語で規範はNORMですが、日本は明文化されたNORMがない。それは島国という地理的な問題や単一民族単一言語であるとか長い歴史的背景がある。

他国の文化と日本の文化伝統と調整するのは政治家の重要な役割なのですが、それが職責である政治家のレベルが国民より低いか国民並みでは先行きは不安でしかない。外国人がどんどん増えています。権威に弱く臆病な日本人相手だからこそ何とかなっていた日本の警察(国内治安)が外国人犯罪に対して効果的に対応できるはずなんてないのです。警視総監は迫田裕治さん、国家公安委員長は自民党の坂井学さんです。考えは如何に?

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2025年5月11日日曜日

自分の心構えを変える


サキソフォンもハーモニカも息継ぎが難しい。ロングトーンをキープして、上手に息継ぎをしないとリズムに乗ってグルーブ感を出すことはできません。政治やビジネスだとコミュニケーションの能力と言えるかも知れません。

日本の社会は数年、否、数年どころか数十年変わらないと考えておいた方がいいような気がします。だったらどう対応するのか?

自分の生きている社会が変わらないなら自分の心構えを変えるしかない。高度経済成長期(1955年頃~1973年頃)やそれに続く期間(1975年頃~1991年頃)は、みんなが高度経済成長の波に乗っていた。一生懸命自分の仕事をすれば昇進もするし給料も上がった。頑張っただけのリターンがあったのです。ところが、今はそうじゃない。これからも数十年、もしかしたら半世紀ほどは変わらないかもしれない。

ピーター・ドラッカーが、著書で「integrity of character」という言葉を使っています。これは「人格の一貫性、統合、完全性、高潔さ、誠実さ」ということです。前提は一人ひとりが自分の人格を持っていることです。その上で「integrity of character」を意識して生きるということです。

Integrity of character refers to the quality of being honest, ethical, and having strong moral principles, consistently reflected in one's thoughts, words, and actions. It means maintaining a whole and complete moral compass, unwavering in adherence to a code of values, and acting in alignment with one's beliefs, even when faced with pressure or temptation.

我が国の福沢諭吉先生は明治時代に『学問のすすめ』の中で同じようなことを言っています。福沢さんの方がドラッカーよりも先ですね。

『学問のすすめ』12編の後半は、「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」です。「ならざるべからざる」なんて難しいですね。これは、漢文では不可不~の二重否定です。つまり、「高尚でないといけない」と言っています。さて、「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」ですが、これは、まさしくインテグリティ(integrity)のことを言っているのだろうと思います。
   
インテグリティは日本語に翻訳しにくい。「志」という人もいれば、「誠実」と訳す人もいる。しかし、どうもしっくりこない。私は、「倫理観」と「スキル」と「野心」の3つのバランスがとれていることがインテグリティであると長いこと信じていました。しかし、福沢さんに「人の見識を高尚にしてその品行を提起するの法如何すべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、自ら満足することなきの一事に在り」と言われると、これがインテグリティかとも思います。

日本の社会がどれだけ停滞していても、一歩前に踏み出すと今までとは違った人格の持ち主が集まって来る。これまで足を引っ張ったり頭を叩いていた人たちが遠ざかって行くものです。要するに自分の「心構え」を変えることで、周りの状況を変えることはできる。日本社会がどうだこうだ批判ばかりしてみてもしょうがない。日本の政治家を見ても大企業の経営陣を見てもインテグリティを備えた人格者は極めて少ないのが今のニッポンなのです。

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2025年5月5日月曜日

憲法記念日に考えた

これから何年生きるか分かりませんので、言いたいことは言っておきましょう。

佐藤功の『日本国憲法概説』

50年前の本です。東海林さだおの本やちばてつやの漫画は不本意ながら全部捨てたのに、なぜ佐藤功の『日本国憲法概説』はまだ持っているのでしょうか? 私は反感しかありませんでしたが、この本を「権威」としてキャリアを積んできているのが日本の中枢(エリート)でしょう。佐藤の憲法を知らない政治家もいっぱいいますが、、、。

憲法改正はやりたくない

憲法改正の手続きを定めた96条でさえ議論・検討できない政治家に憲法を改正するなんて面倒なことはやりたくない。官僚や弁護士は憲法は既得権益だから改正なんてとんでもない。覚えたことが無駄になる。護憲は憲法の「憲」ではなく既得権益の「権」なのです(江藤淳?)。つまり日本の国柄とか伝統や文化に根ざした人権でも何でもないのです。もちろん、アメリカ政府のゆるぎない対日戦略のプレッシャーもあります。

決断力の欠如

日本国憲法がアメリカ人によって書かれた終戦直後は、アメリカ人でさえ広島・長崎に「原爆までおとしちゃった」自責の念に駆られて、現実離れした理想を幾ばくかの正義を有した一部の若者が作文したのでしょう。一言も変更することなく80年ものあいだバイブルとしている日本人、驚きを通り越して、怒りはしないだろうけど絶対に信頼できるパートナーとは思っていないでしょう。決断力(determination)の欠如だと思うからです。  

国家の三要素

日本国憲法や特に憲法9条は宗教みたいなもので、イスラム教徒に多神教を認めさせるのと同じです。どう説明してもダメ、論理的にどうのこうのではありません。「マルクス主義の武装解除が9条の戦争放棄と同じことだ」と言っても無駄です。国家破戒の最大の障害は軍隊と国内治安の警察力です。国家の三要素は国法と防衛と治安なのです。日本の場合「治安」しか残っていないのですが、最近の凄まじい犯罪ニュースや移民問題を見ていると、最後の砦である治安も危ういですね。

当事者意識

老若男女多くの日本人は「憲法改正については深い議論が必要だと思う。同じ世代どうしでも議論していきたい」と思い続けているようです(毎年の世論調査)。太宰治の戦後の一連の作品をよく読んでみると(太宰は1948年没)、占領軍の検閲に対する憤りと、戦後180°転換した日本人に対する絶望感があるのだと思えてなりません。 憲法改正の議論の向こう側には何があるのでしょう? 保護者であるアメリカが去った後の日本を考えて議論してもらいたいものです。 護憲左翼も拝米右翼も、議論の前提となる日本の現実を見ていない。 敗戦直後の太宰治はしっかりと見ていたと思います。 今の日本は問題意識が弱いから危機意識に至らず、当然多くの国民に当事者意識はありません。 

思考停止

日本国憲法、日米同盟、核の傘という3つの噓話をリセットすることができるのは100年後でも難しい(アメリカの対日戦略が変わらない限り)。私は長い間日本人は自己欺瞞していると思っていました。しかし、最近では自己欺瞞しているのではなく、本心から現実を理解していない人が多いのだろうと考えるようになりました。思考停止(無関心または虚無)というのもマインドコントロールの結果でしょう。

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2025年5月2日金曜日

AIってどうなのよ?(最終回)

 

”Juke”の有名なイントロの部分を忘れていました。

   
ギターもハーモニカもサキソフォンも、全ての楽器の習得は外国語を学ぶことに似ています。分からないことを少しずつ解明していくからです。楽器ができなくても外国語ができなくても「気持ち」が伝わることが大事です。
   
そもそも言語にしても楽器にしても、人間の脳よりも後になって発明されたものですよね? 生成AIである ChatGPT なんてここ数年の間に出てきたものです。誰が学習したのかわからない大量の学習データをモデリングして形式化したもので中身ではない。こういった限界を理解した上でツールとして使うのはいいでしょう。しかし、最終的な意思決定や倫理的な判断を委ねることは間違っているのです。意思決定のできない日本人には非常に危険なのです。

おしまい

My apologies, I forgot the famous intro part of “Juke” .

Learning a guitar, harmonica, saxophone, or any other instrument is like learning a foreign language. It is because you gradually figure out what you don't understand. Even if you cannot play an instrument or speak a foreign language, it is important to be able to convey “feelings”.

In the first place, both languages and instruments were invented later than the human brain, right? ChatGPT, which is a generative AI, was invented only in the last few years. It is a modeling and formalization of a large amount of data that no one knows who learned it, not the content. It's fine to use it as a tool with an understanding of these limitations. But it is wrong to entrust the final decision-making and ethical decisions to them. It is dangerous for the Japanese people who are incapable of making decisions.

The End

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2025年5月1日木曜日

AIってどうなのよ?(続々)

 

「どんな人生を志向するのか」「子供たちがどんな大人に育ってほしいか」を起点に考え、だったら「何のためにAIを使うのか」を補助的に使うべきでしょう。


情報は少ないほうがいい。少ない方が自分のオツムで考えるようになる。効率とか時短とかじゃなくて感覚が大事なのです。言語というのは脳の機能の一部であり、人は言葉を発する前にオツムの中で考えている。そこが重要なのです。言葉(英語でも中国語でも日本語でも)がそうなのだから、AIはもっと中味から離れた外側のツールにすぎないのです。

音楽でも落語でもアナログの「間」というものがあって、非常に感覚的なものです。それは心がこもっているという事だと思います。AIにはない人間の心の動きです。ビジネスのコミュニケーションでも子育てでも同じです。繰り返し繰り返し読んだり聞いたり話したり失敗したりしてオツムが獲得する感覚(≒ オツムの運動神経)が大事でしょう。  

The starting point should be “What kind of life do you aspire to?” and “What kind of adults do you want your children to grow up to be?” and if that's the case, “What do you want AI for?” should be used as an auxiliary.

Less information is better. The less information you have, the more you will think with your own brains. It's not about efficiency or saving time, it's about feeling. Language is a part of brain function, and people think in their brains before your words come out from your mouth. That is what is important. Since language (whether English, Chinese, or Japanese) is like that, AI is just an external tool that is further away from the inside of your heart.

In both music and rakugo(Japanese traditional comic storytelling), there is an analog “ma(rhythm or tempo)” which is very sensual. It is the movement of the human heart, which AI does not have. It is the same in business communication and in parenting. I think it is important to have the sense (≒ motor skills of the brains) that the brains acquire by reading, listening, talking, and making mistakes repeatedly and repetitively.

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2025年4月30日水曜日

AIってどうなのよ?(続 )

 

AIはアクションに対するリアクションを考慮しません。コンピュータのプログラムですからね。つまり、相手の心は生成AIの対象外なのです。さらにAIは何を伝えたいかという思想はありません。人間は万国共通で、コミュニケーションには「気持ち」が一番重要なのです。だとすると、AIも言語(日本語、英語、中国語 等々)と同様に全体の一部分なのです。  

さて、上から目線は置いておいて、私の音楽ビデオはリアクションを考慮していません。そういう意味ではAIと同じです。「気持ち」は伝わらないのです。

AI does not consider reactions to actions. It is a computer program. In other words, the mind of the other person is not the subject of the generative AI. Furthermore, AI has no idea of what it wants to communicate. Human beings are universal, and “feelings” are the most important factor in communication. If so, AI and languages (Japanese, English, Chinese, etc.) are part of the whole.

Now, putting aside the attitude that looking down on others, my music videos do not take reactions into consideration. In that sense, it is the same as AI. Unlike  Little Walter in the 50s analog world. It does not convey feelings.

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2025年4月29日火曜日

AIってどうなのよ?


若い頃はコンピュータが面白かった。それは人間が、つまり私自身が扱える部分が多かったからです。データを記憶する大きなテープをかけ替えたり、パワーをオンにしてマイクロコードをロードして、それからオペレーティング・システムをロードする。するとシステムコンソールにその他のシステム関連のプログラムが主記憶装置にロードされていくのが表示されていく。わくわくする瞬間でした。


私は頑固ジジイだから言っているのではなく、AIというのは面白くない。表面的な形式だけを繋ぎ合わせるだけだからです。つまり、人間の感覚が欠落しているからです。例えば間合いとか、抜け落ちている特徴を追いかける人間と人間のコミュニケーションの部分がないからです。英語でも中国語でも日本語でもギターでもサキソフォンでもハーモニカでも何でもいいんです。気持ちが伝わる、それが大事です。私のブルースハープは50年経っても人に何かを伝えるレベルに達していませんが、、、。

When I was young(in my 20s), computers were interesting. This was because there were many aspects that a human being could handle. I would swap out the big tapes that stored data, turn on the power, load the microcode, and then load the operating system. Then the system console would show other system-related programs being loaded into main storage. It was an exciting moment.

I am not saying this because I am a stubborn old man. AI is not fun to me. AI is not interesting because it only connects superficial forms. In other words, because it lacks human senses. For example, it is because there is no part of human-to-human communication that follows the pauses and other missing features. It doesn't matter if it's English, Chinese, Japanese, guitar, saxophone, harmonica, or whatever. The feeling is conveyed, that's what it is all about. My blues harp has not reached the level of communicating something to people even after 50 years, sorry to say that.

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2025年4月27日日曜日

共通点をカッコの外に出す

 

4と6の穴の draw(吸う) の音が詰まって出ないので開けてみると、なんとリードに白い髭が挟まっていました。良い子の皆さんは、久しぶりにハーモニカを吹くときは10ホール全ての穴の draw と blow を確認してから始めましょう。

The draw in holes 4 and 6 were stuck and the sound would not come out, so I opened them up and to my surprise, there was a white mustache stuck in the draw reeds!
 
Good boys and girls, when you play harmonica for the first time in a while, check the draw and blow of all 10 holes before you start. Got it ?

ブルースハープを志す人は誰もが憧れるのは Little Walter です。 Little Walter といえば「Juke」(1952年)。しかし、誰もが壁にぶち当たってブルースハープを諦めるのが2穴のベンド。2番目の穴を吸って通常は半音から全音まで音を下げます。Little Walter は2穴の魔術師です。

最初にLittle WalterのJukeが吹けるようになりたいと思ったのは高校生の頃でした。半世紀がたちますが未だに満足に吹けるようにはなりません。でも昔と違って YouTube でレッスン動画がいっぱいあるので、何となく吹けるようになった気がします。

一年以上ハーモニカを触っていなくても一旦吹いてみると面白くなる。いつも3~4日は続きます。しかし、すぐに飽きます。それはどうしてもリトルウォルターのように吹けないからです。2穴が、、、、。

Little Walter is the dream of every aspiring blues harpist. Little Walter is known for “Juke” (1952). But where everyone hits a wall and gives up on the blues harp is in this phrase: the two-hole bend, where the second hole is sucked in, usually a semitone to a whole tone down. Little Walter is a two-hole wizard.

I first wanted to be able to play Little Walter's Juke when I was in high school. Half a century later, I still can't play it. But unlike the old days, there are lots of lesson videos on YouTube, so I think I'm getting better a bit.

I haven't played harmonica in a year, but once I played, it gets interesting. It always lasts 3-4 days like this; however, It gets bored easily because I can not play like Little Walter. 2nd hole is a pain in a neck.

ギターとサキソフォンとハーモニカ、全く異なる楽器でも共通点があります。因数分解のように共通点をカッコでくくってカッコの外に出す。何を出すか?
    
下のコーラスも簡単なようでなかなか骨が折れます。2穴全音ベンドはドミナントに2度出てくるだけですが、4穴DRAWの半音ベンドをリズムに乗せるのが難しいのです。50年たってもできない。カッコの外にだすリズム感がないということです。残念。

余計なことを言うならば、政治でもビジネスの世界でも日本人は共通点をカッコの外にだして抽象度を上げることが下手くそで、どうしても重箱の隅に入っていきます。それが賢いと思っている(失礼!)。


A guitar, a saxophone, and a harmonica, even completely different instruments, have something in common. Like factoring, we find the commonalities in parentheses and take them out of the parentheses. What do we put out?

This phrase sounds easy, but it's very hard to do. 2-hole whole note bends only appear twice in the dominant, but it's hard to get the 4-hole DRAW's semitone bends into the rhythm. 50 years in my life, I still can't do it. It means I have no sense of rhythm to get it out of the parentheses. Too bad.

If I may go on a tangent, in both politics and the business world, Japanese people are not very good at raising the level of abstraction by putting commonalities outside of parentheses, and they inevitably end up in the corner of a heavy box(nit picking). They think that's smart(excuse me!).

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