玉川上水緑道

私がアメリカでの暮らしを引き払い、日本へ帰国したのは2009年の夏でした。ニューヨークへ赴任した1989年から数えると、丸20年の歳月が流れていました。
2025年の現在、武蔵野市で暮らす身として、街を歩いていると、あの20年前のNYの空気が胸の中でよみがえることがあります。もちろん、武蔵野はマンハッタンのように摩天楼が立ち並ぶわけではありません。しかし、物価の上昇、税・社会保険料の負担増、外国人労働者が支えるサービス産業、そして“中間層の薄まり”の気配――。こうした「じわじわ来る変化」が、どこか既視感を伴って迫ってくるのです。
NYで見た「二つの消失」──中間層とWASP
1989年のNYには、まだ街のどこかに「中間層の気配」が残っていました。しかし2000年代に入る頃、その中間層は砂がこぼれるように消えていきました。
そしてもう一つ、はっきりと消えたものがあります。それは、WASP――白人アングロサクソン・プロテスタントの富裕層です。NY郊外の街々に漂っていた“古き良きアメリカの残り香”(我々よそ者にとっては非常に排他的で、どこかsnobbishな世界)は、気づけばどこにも存在していませんでした。
代わって街を支えるようになったのは、外国からの移民(合法・不法を問わず)と、要職を静かに押さえていったユダヤ系コミュニティでした。NYの「力の中心」が気づかぬうちに入れ替わり、街の顔つきがまったく違うものへと変貌していったのです。
マンハッタンから黒人が消え、武蔵野から“余裕”が消える?
もう一つ、当時強く感じていた変化があります。それは、マンハッタンから黒人がいなくなったことです。彼らは家賃や食料品の高騰に押し出されるように、どんどん郊外へ追いやられていきました。
同じ現象が、いまの日本で静かに起こっています。武蔵野で黒人が消えたわけではありませんが、感じるのは「街の余裕」が消えていくような窮屈さです。
・物価は上がる
・税金も社会保険料も上がる
・所得は上がらない
・若い世代には貯蓄も結婚も子育ても重荷
・外国人の急増
この「余裕の消失」は、いつかNYを飲み込んでいった社会変容の前兆によく似ています。
日米物価比較:数字で見れば、日本は“安い国”…のはずだった
アメリカの物価は日本の1.2〜1.5倍。都市部ではそれ以上です。肌感覚では数倍から5倍ということも珍しくありません。レストランで食事をすれば一日100〜150ドルは覚悟。家賃は月40万円を超えるのも珍しくなく、NY市では60万円を超えます。
ただしアメリカには「所得の高さ」という裏付けがあります。平均年収は日本の3倍。しかし、あの収入を得るには、日本のビジネスパーソンの“3倍の精神力と体力”が必要なことも事実です。高収入になればなるほど、クビになるリスクが上がるのです。
日本は長らく“物価が安い国”と信じられてきました。しかし2025年、状況は明らかに変わりました。食料品のインフレ率は8%超。米や魚や肉は、感覚的にはコロナ前の“倍”の値段です。価格設定に品質(人の対応も含めて)が追い付いていない状況です。これでは、年金生活者が苦しくなるのは当然で、若い人は――言うまでもありません。
税金と社会保険料:日本はいつの間にか“消費できない国”に
多くの人が気づき始めています。「日本の税金は、もしかするとアメリカより高いのでは?」と。
実際、国民負担率は45.8%に達しました。所得の半分近くが、税と社会保険料として天に召されていくわけです。
もちろん、日本は医療制度がしっかりしています。アメリカのように救急車に乗るだけで破産しかねない世界ではありません。しかし、年金受給額は物価ほどは増えず、“実質的な目減り”が起きています。
「年金だけで余裕のある暮らし」――これはすでに、ドラマの中でしか見かけないファンタジーになりつつあります。
子育て世代はどう生きるのか?
東京のサラリーマンが年収1000万円を超えることは稀です。しかし食費は2倍、税金は増税、保育料・習い事・住宅ローンは天井知らず。
若い世代は、どうやって生活設計を立てれば良いのでしょうか。私がもし20代だったら、「子育ては人生の冒険」ではなく「子育ては経済的ギャンブル」と感じてしまいそうです。
与野党の“足引っ張り合戦”はもう終わりにしませんか?
本来なら、こういう時こそ政治の出番です。しかし現実はどうでしょう。
与党:改革はしたいが、票を失いたくない
野党:批判はするが、現実的な提案はしない
そして国民だけが、じわじわと生活が苦しくなる。これは、アメリカの二極化と同じ構図です。
与野党は危機意識がなさすぎる。「日本が沈むかどうか」という一点で、そろそろ協力した方がいいのではないかと。“揚げ足取り政治”は、もはや国益どころか国民生活すら守れません。
日本はどこへ向かうのか
1989年から2009年のNYで見たのは、中間層の消失と、社会構造の静かな地殻変動でした。2025年の日本にも、その影が迫っています。もちろん、日本はアメリカではありません。文化も、制度も、価値観も異なります。
しかし――格差の拡大、生活の圧迫感、社会の余裕の喪失という点では、日本はNYの2000年代に驚くほど似てきていると私は感じています。
大胆な政策転換と、政治的協力。そして国としての方向性の再定義。それを怠れば、20年前にNYで起きた“失われた中間層”のドラマを、今度は日本が自分自身で演じることになるかもしれません。
私は、そんな未来だけは避けたいと願っています。「安い日本」ではなく、「誇りある魅力的な日本」に戻るために。
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