1979年春、Boston Public Gardenにて
ルームメイトのマホムド・サファリと。
背後はJohn Hancock Tower。イラン革命のニュースが連日流れていた頃。
まだ20代の、日本から来たばかりの遊学生でした。
アメリカに憧れ、深い知識も覚悟もないまま渡米した、ごく普通の日本人学生でした。当時の私は、イランやイスラム教についてほとんど知りませんでした。知的な大学生の象徴のように日本では『朝日ジャーナル』を小脇に抱えて電車に乗り、中東特集の記事を読んでは、半分も理解できずにいました。
そんな私がBoston市内の14 Marlborough St でルームシェアを始めたのが、イラン人のマホムド・サファリでした。
彼はテヘランのスーパーマーケットの店員でしたが、祖国の役に立とうと英語を学ぶためにボストンに来ていました。私と出会った頃、彼はほとんど英語が話せませんでした。お金もなく、食事にも困る状態でした。
私は自炊をしていましたので、自然に二人分を作るようになりました。
あの頃の私たちは二人とも異国の若者でした。
言葉は十分に通じなくても、それだけで十分だったのかもしれません。
私の人生の中でも、特筆すべき「邂逅」だったと思います。
イスラムの戒律に戸惑いながら食材を選び、料理をしました。言葉は通じなくても、なぜか馬が合いました。彼は穏やかで倫理観が強く、そして少し誇り高い青年でした。
やがて、イラン情勢は日々緊迫していきました。
パーレビ国王に対する抗議運動が激化し、1979年、革命は頂点に達しました。アメリカのニュースではテヘラン市内の混乱が連日報じられていました。マホムドは家族を案じていました。
私たちはボイルストン・ストリートの公衆電話から、25セント硬貨を山ほど握りしめ、テヘランへ国際電話をかけました。奇跡的につながりました。
受話器の向こうで母親の声を聞いた瞬間、彼の大きな目から、ひげに伝って大粒の涙がこぼれ落ちました。
あの光景は、今でも忘れられません。
私はマホムドからイランの歴史を学びました。多くは筆談でした。
1953年、イランでは首相 モサッデク の政権が倒れました。
石油国有化を進めた首相は、英米の関与によるクーデターで失脚しました。
その後、アメリカが構築したのがパーレビ傀儡体制でした。冷戦下、イランは「安定」の名のもとに管理され、民主的選択の機会は奪われていきました。
それをマホムドは、静かに、しかし強い言葉で語りました(筆談と片言の英語でしたが)。
1979年の革命は、宗教革命ではありません。
長年蓄積された屈辱と介入への反発でもあったのです。マホムドはパーレビを「シャー」と呼び、その名を口にするだけで顔をしかめるほど嫌っていました。
その後も歴史は複雑に絡み合います。イラン・イラク戦争。中東における代理戦争。支援と制裁の応酬。そして現在に至るまで続く緊張。
アメリカは自由と民主主義を掲げる国です。
しかし同時に、自らの利益のために他国の政治構造に介入してきた国でもあります。今でもそうです。
私は1989年から2009年までアメリカで生活し、アメリカ人の組織の中で働きながら、アメリカを見てきました。アメリカから日本も見ていました。
やがて、イラン情勢は日々緊迫していきました。
パーレビ国王に対する抗議運動が激化し、1979年、革命は頂点に達しました。アメリカのニュースではテヘラン市内の混乱が連日報じられていました。マホムドは家族を案じていました。
私たちはボイルストン・ストリートの公衆電話から、25セント硬貨を山ほど握りしめ、テヘランへ国際電話をかけました。奇跡的につながりました。
受話器の向こうで母親の声を聞いた瞬間、彼の大きな目から、ひげに伝って大粒の涙がこぼれ落ちました。
あの光景は、今でも忘れられません。
私はマホムドからイランの歴史を学びました。多くは筆談でした。
1953年、イランでは首相 モサッデク の政権が倒れました。
石油国有化を進めた首相は、英米の関与によるクーデターで失脚しました。
その後、アメリカが構築したのがパーレビ傀儡体制でした。冷戦下、イランは「安定」の名のもとに管理され、民主的選択の機会は奪われていきました。
それをマホムドは、静かに、しかし強い言葉で語りました(筆談と片言の英語でしたが)。
1979年の革命は、宗教革命ではありません。
長年蓄積された屈辱と介入への反発でもあったのです。マホムドはパーレビを「シャー」と呼び、その名を口にするだけで顔をしかめるほど嫌っていました。
その後も歴史は複雑に絡み合います。イラン・イラク戦争。中東における代理戦争。支援と制裁の応酬。そして現在に至るまで続く緊張。
アメリカは自由と民主主義を掲げる国です。
しかし同時に、自らの利益のために他国の政治構造に介入してきた国でもあります。今でもそうです。
私は1989年から2009年までアメリカで生活し、アメリカ人の組織の中で働きながら、アメリカを見てきました。アメリカから日本も見ていました。
アメリカは理想と現実の間で揺れ続けています。自由を語りながら、力で秩序を作ろうとする側面もあります。
今回のイランをめぐる緊張を見ながら、私はボストンの公衆電話を思い出します。
国家と国家の論理の背後に、
母親を心配する一人の青年がいました。
歴史は理念だけでは動きません。
感情と誇りと記憶が積み重なって動きます。
そして、ここからが日本の問題です。
日本はどう振る舞うのでしょうか。
アメリカの論理をそのまま受け入れるのか。
それとも、自分自身の問いを持つのか。
アメリカの論理をそのまま受け入れるのか。
それとも、自分自身の問いを持つのか。
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