今年も桜の季節がやってきます。
桜を見るたびに思うのですが、人生は不可逆的な変化であるのに対して、四季は循環的変化です。人は一度きりの人生を生きますが、春は毎年必ず戻ってきます。
在原業平の
世の中に たえて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
という歌があります。
桜があるからこそ人は心を乱される。しかし、その儚さゆえに、桜は人の心を深く揺さぶるのでしょう。
毎年、桜が咲き始めると、カメラを持って早朝の井の頭公園を歩きます。咲き始めた桜を見ながら、新渡戸稲造のことを思い出します。私の不可逆的な人生の中にある、ささやかな循環的変化です。
新渡戸は『武士道』の中で、武士道を日本社会の精神の象徴として、桜の花にたとえています。
ヨーロッパ人がバラを賞賛するのに対し、日本人は桜を愛する。
バラは華やかで香りも強く、しかし棘を隠し持っています。
それに対して桜は、淡く静かに咲き、そして潔く散ります。
新渡戸は、桜の美しさとは、自然の呼び声に従っていつでも命を手放す覚悟を持つことだと書きました。
新渡戸稲造の『武士道』は、明治三十三年に英語で書かれた本です。彼はベルギーの法学者から「日本には宗教教育がないのに、どうやって道徳教育をするのか」と問われました。
そして考えた末、自分に善悪の観念を教えたのは武士道であったことに気づいたのです。
武士道は成文化された宗教ではありません。
しかし、日本人にとっては精神的な支柱のようなものです。
『武士道』は十七章からなり、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己といった徳目が体系的に説明されています。なかでも「義」は武士道の中でもっとも厳格な教えであり、「卑劣な行動ほど忌むべきものはない」とされています。
新渡戸はこれを The Soul of Japan、つまり日本の魂だと表現しました。
私はアメリカで生活していた頃、ユダヤ人社会に接する機会がありました。宗教や民族を強く意識しながら社会が成り立っていることを肌で感じました。
それに比べると、日本人は宗教を表に出すことはほとんどありません。しかし、新渡戸が言うように、日本人には宗教に代わる精神として「大和魂」があったのだと思います。
その精神を端的に表すのが、吉田松陰の有名な歌でしょう。
かくすれば かくなるものと知りながら
やむにやまれぬ 大和魂
松陰はペリーの黒船に乗り込もうとして捕まり、江戸へ護送される途中でこの歌を詠みました。自分の行動が死につながることを知りながら、それでもやらずにはいられないという覚悟です。
新渡戸は『武士道』の最後の章で、こう問いかけています。
Is Bushido Still Alive ?
武士道はまだ生きているのか。
日本の政治家が、会派離脱や離党を繰り返すときに「やむにやまれぬ行動だ」と言うことがあります。しかし、「やむにやまれぬ」という言葉は、そんなに軽く使ってほしくないと思います。
桜は毎年咲き、毎年散ります。
それは循環する自然の姿です。
しかし、人の人生は一度きりです。
松尾芭蕉は
さまざまの事おもひ出す桜かな
と詠みました。
春になると、誰しもいろいろなことを思い出します。
芭蕉の人生哲学は「不易流行」です。変わらないもの(不易)と、時代とともに変わるもの(流行)の両方を見極めることが大切だという考え方です。
国の成長も、人の成長も同じでしょう。
流行ばかり追いかけていては、本当の意味での成長はありません。
春は、一歩踏み出すにはちょうどいい季節です。
人生は不可逆的に進んでいきます。しかし、桜はまた来年も咲きます。
アメリカで Commencement が卒業式を意味するのは、この言葉が「始まり」を意味するからです。学業の終了は、新しい人生の始まりでもあるのです。
日本人こそ、春は commencement です。
桜を見ながら、日本人としての The Soul of Japan を、もう一度思い出してみてもいいのではないでしょうか。
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