2026年3月15日日曜日

文学的カーライフ ――黄色い檸檬と、暁の赤



我が家の駐車場は、家を挟んで右と左に分かれています。

右側には、黄色いコペン。
左側には、黒いハリアー。

そして私は、黄色いコペンのことを、ずっとこう呼んできました。

「これは檸檬だ」

もちろん、私の勝手な解釈です。
しかし私には、梶井基次郎のあの小説は、こう読めるのです。

近代化の勢いに精神が追いつかなかった時代。
その鬱屈を、丸善の本の上に置かれた「黄色い檸檬」で爆発させた。

もちろん爆発はしません。
しかし主人公の心の中では、確かに爆発している。

だから私にとって、黄色いコペンは
少しばかりの反抗の象徴なのです。

その感じは、芥川龍之介が
『ある阿呆の一生』で書いた

本屋の二階は洋書、一階は日本の本

という違和感や、
彼が晩年に残した「ぼんやりとした不安」と、
どこか通じるものがある気がします。

だから私にとって、黄色いコペンは
ちょっとした反抗の象徴
なのです。

日本から世界への小さな爆弾。



人生の終盤の色とは、何でしょう。

私は、それが「赤」だと思っています。

還暦の赤ではなく、
むしろ古希の赤。

頭に浮かんだのは、三島由紀夫の
『豊饒の海』、とくに『暁の寺』でした。

暁とは、夜が終わり、新しい太陽が生まれる瞬間。
そのとき空は、鮮烈な赤に染まります。

三島はこの四部作で、
魂が姿を変えながら生き続ける輪廻を描きました。

私のカーライフも、
どこかそれに似ている気がするのです。

ポルシェもありました。
BMWもありました。
アウディやボルボ、アメリカの車にも乗りました。

欧州もアメリカも一通り巡って、
最後に帰ってくるのが、日本の車。

それが、赤いクラウンです。

「いつかはクラウン」
そんな宣伝文句も、昔ありましたね。

外車の魂が巡り巡って、
日本の技術の中に輪廻して帰ってきたような気がするのです。

もちろん合理性はありません。

古希の年金生活者に、車が二台ある合理性など、
まったくない。

それでも想像してみてください。

右の駐車場には、梶井基次郎の檸檬。
左の駐車場には、三島由紀夫の暁。

黄色と赤が、家を挟んで並んでいる。

若い頃の反抗の色と、
人生の終盤の色。

もしその景色が実現したなら、
私の長いカーライフは、

ほんの少しだけ
文学的に完結する気がするのです。

さて、問題はただ一つ。
妻が、この赤を許してくれるかどうかです!


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