その中で紹介されていたのが、「分断支配(Divide and Rule)」という考え方です。弱い立場の人々を互いに競わせることで、支配する側が統治しやすくする古典的な戦略です。帝国主義の時代には、宗教や階級で住民を分断することがよく行われました。日本の江戸時代の「士農工商」も、似たような構造を持っていたと言われています。
筆者は、現在の日本社会には、この「分断」の仕組みが偏差値という形で広がっているのではないかと指摘していました。誰もが少しでも上へ、少しでも「勝ち組」へと競争することで、社会の枠組みそのものを疑わなくなるというわけです。
この指摘には、私も基本的に賛成です。
そして筆者は、その対抗策として「他人と比べない」という姿勢の大切さを語っています。人はそれぞれ違う環境で生まれ育ち、持っている資質も違うのだから、他人と比較すること自体があまり意味のないことだというのです。
これも、まったくその通りだと思います。
ただ、ここで私は一つだけ言いたいことがあります。
「他人と比べない」という精神論だけでは、日本の教育は変わらないのではないか、ということです。
そもそも日本の子どもたちは、偏差値による序列の中で育っています。入試も就職も、基本的にはその延長線上にあります。「他人と比べるな」と言いながら、「一点でも高い点を取れ」と言われ続ける。これは子どもたちの責任ではありません。明らかに社会の仕組みの問題です。
学校、教師、文部科学省、受験制度、塾産業、そして親。すべてが相互にもたれ合う形で、この仕組みを維持しています。誰もが「仕方がない」と言いながら、結果として何も変えようとしない。ある意味で巨大な既得権益構造になっていると言ってもいいでしょう。日本の政治もよく似ています。
もちろん、教師個人の努力不足や経験不足という問題はあると思います。しかし、それを教師だけの問題にしてしまうと、本質を見失います。問題は教育システムそのものです。
私は長い間、海外で働いてきました。アメリカでも中国でも、多くの若い人たちと仕事をしました。そこで感じたのは、教育の違いというよりも、「主体性」の違いでした。自分で考え、自分で決めるという感覚が、日本の若者よりもずっと強いのです。
その背景には、もちろん社会の構造があります。日本のように、若い頃の試験の結果がその後の人生を大きく左右する社会では、どうしても「失敗しないこと」が優先されます。結果として、挑戦よりも安全な選択をする人が増えてしまうのです。
記事の最後に、帰国生の少年のエピソードが紹介されていました。彼はよく「It is what it is」と言っていたそうです。最初は「現状を受け入れるだけでは何も変わらない」と叱ったそうですが、実は彼の意味は違っていました。「自分に与えられた条件を最大限に生かす」という意味だったのです。
周りに合わせるつもりはない。自分の良心に従って生きる。
まだあどけない顔の少年のその言葉に、筆者は励まされたと書いていました。
私も、その話には希望を感じます。
ただ同時に思うのです。
こういう若者に期待するだけではなく、私たち大人の世代こそ、もう少し教育の構造そのものについて声を上げるべきではないかと。特に教育に従事している大人は。
子どもたちに「他人と比べるな」と言いながら、社会の入口では偏差値による序列を強制する。この矛盾を放置したままでは、日本の教育は変わらないと思います。
戦後80年が過ぎました。そろそろ私たち大人が、教育の仕組みそのものについて本気で考え直す時期に来ているのではないでしょうか。
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