2025年9月8日月曜日

埋もれた日本と「政党政治」という病

 
甲陽軍鑑(ネットで見つけた画像)

甲斐の戦国大名である武田氏の軍学書です


昭和の15年戦争に至った原因の一つは、政党政治家の責任だったと言われます。そして残念ながら、その本質は今もあまり変わっていないようです。政党間や政党内で繰り広げられるのは、国の未来を賭けた真剣勝負というより、どろどろとした泥仕合。政党だけが滅びるならまだしも、政党の崩壊はそのまま国の凋落につながります。だからこそ、マスメディアも政治評論家も、そして私たち国民自身も、もう少し真剣に「自分たちの未来」を考えたほうがいいのではないでしょうか。

そんな中で石破総理が昨夜、ついに辞意を表明しました。とはいえ、次の総理が誰になろうと、日本の政治が劇的に変わるとは思えません。なぜなら、責任と権限の「概念」を理解しないまま、言葉だけで場を取り繕うという芸風が、この国の政治家のDNAに刻まれているからです。

ここで私が言う「埋もれた日本」とは、和辻哲郎が『埋もれた日本』(1951年)で論じた世界観・日本観から来ています。和辻は、応仁の乱から江戸初期にかけての多様な思想が、徳川の長い鎖国体制の中で摘み取られ、日本の思想的可能性が「埋もれてしまった」と指摘しました。民衆の一揆や下克上に象徴されるエネルギーが、本来は社会を変える多様性の芽であったのに、それを抑え込んだ結果が「埋もれた日本」なのです。

和辻はまた、『甲陽軍鑑』に触れています。そこでは、国を滅ぼす大将のタイプとして、(1)うぬぼれの強い「バカなる大将」、(2)見栄っぱりな「利根すぎる大将」、(3)道義心の弱い「臆病なる大将」、(4)他人の意見を聞かない「強すぎる大将」を挙げています。理想の大将は、仁慈に富み、人を見る明(あきらかさ)を備えた人物だと。うぬぼれや虚栄を去って得られる「明」を持つリーダーが現れて初めて、組織は強く揺るぎないものになるのだと説いています。さて、今の日本にそんな「明」を持つリーダーはいるのでしょうか。

私は15年ほど前の日記に、こう書いたことがあります。――ブログや日記は「自分が何を考えているかを知るためのツール」だ、と。私自身、自分がこの世で一番信用ならない人物だと思っていますからね。そんな私から見ても、今の日本社会は相当に“自分を知らない”。流行のスキルをハウツー本や就活セミナーで身につけることが、プロフェッショナルやグローバル化への近道だと信じてしまう。けれど本当は、知らない人と交わり、自分を試し、自分が何者であるかを理解するところから始めなければ、一生「漂流者」のままです。

小林秀雄は『私の人生観』でこう語りました。

「知性の奴隷となった頭脳の最大の特権は、何にでも便乗出来るという事ではありませんか」。

なるほど。便乗の知性だけなら、この国は世界屈指の資源大国でしょう。ですが、反骨精神やロック魂はどこへ行ったのか。江戸後期の武士の気概が、いつのまにか蒸発してしまったのかもしれません。信義や名誉を重んじ、自らの命をかけて責任を果たす姿勢。敵に対しても「敵ながらあっぱれ」と認める潔さ。そうした武士の強い精神の代わりに、詰め腹を切らされる総理大臣が量産されているのが現状です。

政治家たちは「誠実」を声高に語りますが、誠実とは本来「自分のやっていることに一生懸命である」ことです。嘘つきや詐欺師と不誠実を同じ袋に入れてしまうような言葉遊びで誠実を語られても、国民はますます白けてしまうでしょう。

結局のところ、日本の課題は「自分を知ることなく世間(空気)に身を任せる」姿勢にあります。その延長線上に「埋もれた日本」がある。そして、その象徴が「課題がある限りやめられない」と言い放ち、結局は詰め腹を切らされた総理大臣の姿だったのかもしれません。
    
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