2025年9月10日水曜日

責任の再定義 ― 日本政治と公共性のゆくえ



ゴシップレベルの主要メディア

首相続投の根拠として持ち出された世論調査はまったく当てにならないものです。マスメディアは自らの報道に反省の弁はないのでしょうか?世論調査を「民意」とすること自体、あまりにリテラシーが低く、真剣に議論する価値がないと考えます。したがって、「石破おろし」そのものを批判する必要はありません。

問題なのは、石破政権の功罪や政界再編の議論において、評論家やメディアの見方が浅く、抽象度が低いという点です。そこにこそ、現代ニッポンの本質的な問題があります。

責任の喪失と国民の変化

現代日本では、社会全体に規範意識が薄れ、個人も確固たる信念やアイデンティティを失いつつあります。戦後の集団主義に依存したシステムはもはや機能せず、組織は個人を守らず、政治も国民を護らない状況です。国民自身も国家や政府との距離を置き始めています。

その中で、石破政権が国民に投げかけた唯一の貢献は、「責任」という概念を再考させたことだと思います。つまり、個人が自己決定権を持ち、自らの生き方を自立的に選択せざるを得ない社会に移行しつつあるという事実です。

民主主義と自由主義のねじれ

民主主義は全員一致と均質性を理想とし、自由主義は多様性と自己責任を前提とします。日本はこの二つの思想をどのように宥和させるかという難題に直面しています。

日本的リベラリズムは「平等」に過剰に傾き、「責任を伴う自由」を後景に追いやってきました。その結果、自己中心的な高齢社会と、公共性の急速な喪失を招いています。

プラトンは『国家』において、民主主義の致命的な欠陥は「個人が独立してバラバラに考えだすこと」にあると述べました。いまのアメリカ社会はまさにその姿を映し出しています。日本も同じ危機に直面しているのではないでしょうか。

日本的公共性の復権へ

現代社会において問われているのは、自己統治の道徳と共同主観の構築です。つまり、
  • 個人が自分を律する道徳性(個)、
  • 共同体の一員としての公共意識(公共)、
そのバランスが「自己責任」の本質だと考えます。

日本のリーダーは、西欧思想をそのまま輸入するだけでは不十分です。日本の歴史や精神に根ざし、ときにはプラトンまで立ち戻って、責任・公共・自由の新たな均衡を構想することが求められています。

責任の再定義

石破政権をめぐる政界再編は確かに注目されますが、真に重要なのはその政局運びではありません。日本社会全体が「責任」をどう再定義し、個と公共のバランスをどう築いていくのか、ここにこそ論点があります。

パターナリズムに安住していた時代は終わりました。これからは国民一人ひとりが、自己統治と公共意識を備えた主体となれるかどうか。それこそが、日本の政治と社会を再生させる最大の課題なのです。

日本の政治家は責任を知らず、国民は自由を誤解している。その結果、自由と責任の均衡が崩れ、公共性が失われつつあります。石破政権が提示したものは、まさにその再定義の必要性だったのではないでしょうか。

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