公共放送とは何かを問い直させる象徴的な風景
先日、NHKの日曜討論を観て(実際は、車の中で音声だけを聞いて)、いくつかの点を強く感じました。
第一に、そもそも「討論」になっていないということです。各出演者が持論を述べるだけで、相互に問い質し、論点を深めていく場にはなっていませんでした。第二に、ファシリテーターの問題です。議論を整理し、論点を掘り下げていく役割が十分に果たされていないと感じました。第三に、現実と経済指標分析とのギャップです。専門家がデータを提示しても、それが市民の日常感覚とあまりに乖離しており、議論はかみ合いません。
このように考えていくと、最終的に行きつくのは「公共放送とは何か」という問いです。公共放送は政府広報や娯楽の提供ではなく、民主主義社会における「公共」を維持するための機関であるはずです。ところが現実には、NHKは「公共」の理念を十分に体現できていないのではないでしょうか。
そして、この「公共放送とは何か」という問いは、やがて「個と公共」の関係の問題へと広がります。日本社会では、個人が自立した市民として公共の問題に主体的に関わる意識が弱いと指摘されてきました。戦後の高度経済成長を経て、家族や地域共同体が相対化し、個の自立が進む一方で、国家や社会とどう関わるかという意識は希薄化しました。結果として、「国家は政府が管理するもの」「公共は官の領域」という思考が根強く残ってしまったのです。
今の政治ごっこの象徴のような内閣のおかげで、国民はかなり底辺を知ったのではないでしょうか? それとも、まだまだ堕落する必要があるのでしょうか? 電車ごっこの乗客のまま堕落し続けるのでしょうか?
このことは、NHKのあり方にも影を落としています。公共放送を国民が主体的に支えるのではなく、「政府が与えるもの」と捉える意識が強いために、NHKが公共性を十分に果たさなくても大きな問題提起が生まれにくいのです。娯楽と公共放送の分離を求める声が広がらないのも、その一例でしょう。
結局のところ、NHKを考えることは、国家とは何かを考えることに直結します。個と公共の関係が希薄であることは、日本社会の「国家意識の欠落」と表裏一体です。そしてこの欠落は、政治への無関心や公共制度への不信感、さらには将来への悲観と結びついて、今後の社会の持続可能性に深刻な影響を及ぼしかねません。
経済成長一辺倒の時代が終わり、社会が成熟段階に入った今、私たちは日本という「国家」をどう定義し、一人ひとりがどのように関わっていくのかを再定義する必要に迫られています。NHK討論は、そのことを逆説的に突きつけているのだと思います。
このように考えていくと、最終的に行きつくのは「公共放送とは何か」という問いです。公共放送は政府広報や娯楽の提供ではなく、民主主義社会における「公共」を維持するための機関であるはずです。ところが現実には、NHKは「公共」の理念を十分に体現できていないのではないでしょうか。
そして、この「公共放送とは何か」という問いは、やがて「個と公共」の関係の問題へと広がります。日本社会では、個人が自立した市民として公共の問題に主体的に関わる意識が弱いと指摘されてきました。戦後の高度経済成長を経て、家族や地域共同体が相対化し、個の自立が進む一方で、国家や社会とどう関わるかという意識は希薄化しました。結果として、「国家は政府が管理するもの」「公共は官の領域」という思考が根強く残ってしまったのです。
今の政治ごっこの象徴のような内閣のおかげで、国民はかなり底辺を知ったのではないでしょうか? それとも、まだまだ堕落する必要があるのでしょうか? 電車ごっこの乗客のまま堕落し続けるのでしょうか?
このことは、NHKのあり方にも影を落としています。公共放送を国民が主体的に支えるのではなく、「政府が与えるもの」と捉える意識が強いために、NHKが公共性を十分に果たさなくても大きな問題提起が生まれにくいのです。娯楽と公共放送の分離を求める声が広がらないのも、その一例でしょう。
結局のところ、NHKを考えることは、国家とは何かを考えることに直結します。個と公共の関係が希薄であることは、日本社会の「国家意識の欠落」と表裏一体です。そしてこの欠落は、政治への無関心や公共制度への不信感、さらには将来への悲観と結びついて、今後の社会の持続可能性に深刻な影響を及ぼしかねません。
経済成長一辺倒の時代が終わり、社会が成熟段階に入った今、私たちは日本という「国家」をどう定義し、一人ひとりがどのように関わっていくのかを再定義する必要に迫られています。NHK討論は、そのことを逆説的に突きつけているのだと思います。
***
0 件のコメント:
コメントを投稿