京都大学デジタルアーカイブより(昭和初期の泊居)
私の亡き父(1930-2013)は、かつて日本領だった南樺太の北端・泊居(トマリオル)で生まれました。祖父が奈良の営林署(現在は林野庁森林管理署)から樺太に転勤したのが理由です。なぜ奈良出身の祖父が奈良から樺太への異動なのかは分かりません。1920年代のことでした。父が泊居尋常小学校の高学年の時に一家は樺太庁の置かれた豊原(樺太最大の都市)で暮らしており、昭和16年には祖父が奈良の営林署へ戻る形で内地へ復帰しました。迫って来る戦禍を考えると、このタイミングの帰還はまさに絶妙だったと思います。
祖父は明治33年生まれで、戦前から戦後にかけて日本の森林事業に生涯を捧げました。若い頃には後備役将校として編入された記録が残っており、当時の知識人に求められた軍歴をきちんと持っていた人でした。極寒の山野を駆け、山林を歩き、営林署員(技手)として職務に励んでいました。戦後は林野庁の前身である営林局を経て、森林開発公団に籍を置きました(現在の森林整備センター)。公団は高度経済成長期の林業インフラ整備を担い、林道建設や造林事業を推進していました。祖父はそこで記事を執筆したり、後進の指導にあたったりもしていたようです。国会図書館デジタルコレクションで、当時の政府職員録を閲覧することができます。立法、行政、司法の各機関や、地方公共団体などの公務員の人事情報が掲載されています。更に、森林開発公団時代の祖父の名前を冠した論文がいくつか残っています(1950年代)。
私にとっての祖父は、もっと日常的で、少し不思議な存在でした。明治の男でありながら、自らラーメンやポテトサラダを挟んだサンドイッチを作り、片付けまできっちりやる几帳面さを持っていました。決して声を荒げることなく、淡々とした生活を送りながらも、山と森への情熱を静かに燃やし続けた人だったのでしょう。昭和44年、69歳で亡くなりましたが、私は祖父が台所に立つ姿を今でもはっきりと覚えています。
そんな祖父の姿を思い出すたびに、最近話題の「木育」が気になります。2004年に北海道で発祥した木育は、子どもたちが木製遊具や木のおもちゃを通じて木や森に親しむことを目的とする教育運動です。今では全国各地に木育広場やおもちゃ美術館が広がり、子どもが実際に木に触れること、森の存在を感じること、その情操的な側面が強調されています。
もっとも、木育指導者の中には実際に現場の森を歩いたことがない人もいます。木のおもちゃだけで祖国の森や林業に誇りを持たせられるのかどうか、そこには疑問が残ります。祖父が自ら極寒の樺太の森を歩き、林道を拓き、木を見て手を動かしてきたことを考えると、「現物体験」の重要性は揺るぎないものだと思います。
皮肉なことに、その木育発祥の地である北海道では「再生可能エネルギー」の名のもとに自然破壊が進んでいます。例えば、北海道内の風力発電導入量は、福島第一原発事故以降の大型プロジェクトが進んだ結果、直近3年で2.3倍に拡大し、2024年度末時点で累積出力は136万キロワットに達しています。
また、釧路湿原の近くではメガソーラー施設が計画されており、開発面積は約27ヘクタール、出力は21メガワット規模。国立公園やラムサール条約湿地の隣接地で森林伐採・造成工事が進められています。計画されているパネル枚数は約36,579枚。環境保全の観点から希少生物の営巣問題などとも衝突しています。
このような再エネの拡大は、脱炭素や持続可能性という大義名分がありますが、それが必ずしも「森を守る」という祖父の仕事と整合しているとは言えません。森を切り開いてパネルを敷設することは、森林の生態系や生物多様性を損なう可能性があり、景観や地元の自然との共生という視点が軽視されがちです。
時代は違えど、人と森をつなぐ営みの重要性は変わりません。祖父が山を駆け、林道を造り、木を育ててきた体験は、私にとって「現場の教育」の原点かもしれません(「邂逅」と言ってもいい)。木育がその原点を忘れず、子どもたちに森の匂い、木の肌触り、木陰の風を伝えるきっかけとなってほしいと思います。そして、再生可能エネルギー事業もまた、自然を消費するのではなく、次世代へ自然を引き継ぐ形で行われるべきだと強く感じます。
自然を征服するのではなく、人間と自然とが一体となること。それこそが、祖父が生涯を通じて示してくれた姿勢であり、私たちが未来へ受け継ぐべき基本だと思います。
そんな祖父の姿を思い出すたびに、最近話題の「木育」が気になります。2004年に北海道で発祥した木育は、子どもたちが木製遊具や木のおもちゃを通じて木や森に親しむことを目的とする教育運動です。今では全国各地に木育広場やおもちゃ美術館が広がり、子どもが実際に木に触れること、森の存在を感じること、その情操的な側面が強調されています。
もっとも、木育指導者の中には実際に現場の森を歩いたことがない人もいます。木のおもちゃだけで祖国の森や林業に誇りを持たせられるのかどうか、そこには疑問が残ります。祖父が自ら極寒の樺太の森を歩き、林道を拓き、木を見て手を動かしてきたことを考えると、「現物体験」の重要性は揺るぎないものだと思います。
皮肉なことに、その木育発祥の地である北海道では「再生可能エネルギー」の名のもとに自然破壊が進んでいます。例えば、北海道内の風力発電導入量は、福島第一原発事故以降の大型プロジェクトが進んだ結果、直近3年で2.3倍に拡大し、2024年度末時点で累積出力は136万キロワットに達しています。
また、釧路湿原の近くではメガソーラー施設が計画されており、開発面積は約27ヘクタール、出力は21メガワット規模。国立公園やラムサール条約湿地の隣接地で森林伐採・造成工事が進められています。計画されているパネル枚数は約36,579枚。環境保全の観点から希少生物の営巣問題などとも衝突しています。
このような再エネの拡大は、脱炭素や持続可能性という大義名分がありますが、それが必ずしも「森を守る」という祖父の仕事と整合しているとは言えません。森を切り開いてパネルを敷設することは、森林の生態系や生物多様性を損なう可能性があり、景観や地元の自然との共生という視点が軽視されがちです。
時代は違えど、人と森をつなぐ営みの重要性は変わりません。祖父が山を駆け、林道を造り、木を育ててきた体験は、私にとって「現場の教育」の原点かもしれません(「邂逅」と言ってもいい)。木育がその原点を忘れず、子どもたちに森の匂い、木の肌触り、木陰の風を伝えるきっかけとなってほしいと思います。そして、再生可能エネルギー事業もまた、自然を消費するのではなく、次世代へ自然を引き継ぐ形で行われるべきだと強く感じます。
自然を征服するのではなく、人間と自然とが一体となること。それこそが、祖父が生涯を通じて示してくれた姿勢であり、私たちが未来へ受け継ぐべき基本だと思います。
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