洋服のハンガーをオンラインで購入しました。アコースティックギターのギターケースを立てるのが目的です。同時にアマゾンで、信越シリコンと金属磨きのピカールもオーダーしました。20~30年経過したギターケースは太平洋も数回渡っていますが、一回も磨いたことがなかったのです。カビが生えています。
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新学期を迎える季節、教育関係者から届いたメールにこうありました。「新しい環境で元気よく学び始める子どもがいる一方で、学校に馴染めない子どもも少なくありません。『不登校』や『非登校』の子どもにどう寄り添うのかが大きな課題です」
数字も示されます。2023年度の調査で、不登校の小中学生は34万人、高校生でも7万人近い。アメリカでは不登校はネグレクトと見なされ、通報があれば警察が動くという話も添えられていました。さらに「オルタナティブスクール」や「ホームスクール」という選択肢の増加に触れ、「教育の多様化」に光を当てています。
問題提起そのものはまさに重要で、教育現場の第一線に立つ方ならではの視点だと思います。ただ同時に、教育の専門家だからこそ、「不登校か非登校か」といった枠組みを超えて、「そもそも教育とは何か」「今の日本に必要な教育は何か」という根本的な問いにも光を当ててもらいたかった。つまり、私が感じるのは、議論の抽象度がまだ低いということです。問いかけるべきは、「不登校か非登校か」ではなく、「そもそも教育とは何か」「今の日本に必要な教育は何か」という根源的な問題です。そういった議論が別途行われているのかも知れません。
私たちの社会は、すでに教育の多様なオプションにあふれています。しかし依然として受験制度に象徴される官僚型の教育システムが中心にあります。偏差値という一つの物差しに縛られる限り、教員も子どもも自律的な学びを育みにくいのです。教育を「学校教育」と同一視する思考こそを、いま疑わなければなりません。
教育は、単に知識を伝える仕組みではなく、未来をつくる人材を育む体系であるべきです。柳田国男が指摘したように、数学や理科は世界に共通する学びですが、国語や歴史は文化や国民のアイデンティティを育む科目です。つまり教育は、個人の能力を磨くと同時に、共同体の価値観を継承・更新する営みなのです。ところが現在の日本では、教育が序列化の道具に矮小化され、社会全体が相対性を理解できないまま硬直しています。
ここに、新しい要素としてAIが加わりつつあります。生成AIは使い方次第で強力な学習補助になりますが、同時に思考停止を助長するリスクも抱えています。子どもたちが「自分で考え、自分の言葉で表現する力」を養う前にAIへ依存してしまえば、本来の教育の基盤は崩れてしまうでしょう。だからこそ、教育の専門家自身がAIを試し、その可能性と限界を自分の頭で判断することが必要です。
教育は制度や道具によって決まるものではありません。一人ひとりが倫理的主体として成長できるように、自由と責任のバランスをどう設計するか。新学期のこの時期にこそ、教育関係者には、現場の現象に目を配りつつも、より大きな視野で教育の未来を構想してほしいと思います。
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