緊張の中でバランスをとる ― 日本社会の現状
日本人は個人としてのバランス感覚を磨かない限り、多様性の中で社会を成熟させることはできない。
海外での長年の生活やアメリカ人組織での仕事経験、そして中国ビジネスの経験から感じることがあります。生活していると毎日さまざまなニュースが耳に入りますが、かつては取るに足らないと思っていたことが、今では社会を大きく揺るがす問題として取り上げられる。経験上、その多くは現代社会のあり方や人々の価値観の違いに起因しているように思います。
時間に流され、対岸の火事としてやり過ごすこともできます。しかし、問題を先送りせず、時には誠実に向き合うことが大切であり、そのためには一人ひとりの意識や価値判断の基準の見直しが不可欠です。
最近の教育現場や社会に目を向けると、この傾向は顕著です。帰国子女や外国人と接する場面では、日本人の善悪の感覚や価値観と異なる行動や主張に直面することがあります。こうした場面に対して「When in Rome, do as the Romans do」と適応するのが基本なのですが、なかなか解決には至りません。それは、今の日本では、日本独自の価値判断の基準自体が揺らいでおり、「日本のやり方はこうです」と自信をもって示すことが難しくなっているからです。
本来ならば、まずは「日本人の価値判断の基準とは何か」「日本人の人生観、死生観、規範とは何か」を押さえることが不可欠です。その理解なしに、多文化共生や外国人への対応を語るのは順序が逆です。
このことは、個人の成長や組織の成熟とも深く関わっています。例えば、新入社員の「五月病」も端的な例かもしれません。西部邁氏は『知性の構造』(1996年)で、日本は個人主義と集団主義の間の葛藤が少なく、平衡感覚が未熟であるため、突発的な危機の中で右往左往すると指摘しています。五月病は新入生や新入社員だけの問題ではなく、大人になる過程で緊張や葛藤に身を置く経験が不足していることが背景にあると強く感じます。
そもそも日本は単一民族の島国であり、国全体が「ウルトラ過保護」になっているため、葛藤を経験する機会が乏しい。組織の中でも、葛藤を避けて効率性を優先するか、逆にコンフリクトが多すぎて互いに避け合うかの両極端になりがちです。こうした環境では、個人も組織も強くなれません。いざ国外との対立や予期せぬ緊張に直面すると、パニックを起こすのです。要するに、対応のためのバランス感覚が足りないのです。
「葛藤」は学校や会社の中に日常的に存在しています。だからこそ、それを避けるのではなく、意識的に認識し、上手に活用することがバランス感覚を鍛える鍵になると思います。
日本人は穏やかで温厚な民族である一方で、極端から極端に走りやすい傾向がある。軽信しやすく、軽佻浮薄なテレビや新聞の一見もっともらしい言葉にコロッと騙される。つまり、多様性の中でバランスをとることが苦手なのです。本来、個人としての多様性が集団としての多様性を生み、ひいては国家としてのダイナミズムにつながるはずです。外国人をこの狭い日本列島に招き入れて「多様化だ」と言う前に、日本人自身が個人としての多様性――すなわち「私」と「公」のバランス感覚を身につけることが先決でしょう。
全世界で起こっている大きな価値観のうねりは、我々が生きるうえでの価値判断の大前提の変化であり、人類が歴史の中で積み上げてきた「知の構造」をも揺るがしています。机上の理論ではなく、臨床的で総合的に考える必要がある。自らの判断と行動を見つめ直し、一人ひとりが意識を変えることによってのみ、日本という社会全体が変わり得るのだと、私は考えています。
海外での長年の生活やアメリカ人組織での仕事経験、そして中国ビジネスの経験から感じることがあります。生活していると毎日さまざまなニュースが耳に入りますが、かつては取るに足らないと思っていたことが、今では社会を大きく揺るがす問題として取り上げられる。経験上、その多くは現代社会のあり方や人々の価値観の違いに起因しているように思います。
時間に流され、対岸の火事としてやり過ごすこともできます。しかし、問題を先送りせず、時には誠実に向き合うことが大切であり、そのためには一人ひとりの意識や価値判断の基準の見直しが不可欠です。
最近の教育現場や社会に目を向けると、この傾向は顕著です。帰国子女や外国人と接する場面では、日本人の善悪の感覚や価値観と異なる行動や主張に直面することがあります。こうした場面に対して「When in Rome, do as the Romans do」と適応するのが基本なのですが、なかなか解決には至りません。それは、今の日本では、日本独自の価値判断の基準自体が揺らいでおり、「日本のやり方はこうです」と自信をもって示すことが難しくなっているからです。
本来ならば、まずは「日本人の価値判断の基準とは何か」「日本人の人生観、死生観、規範とは何か」を押さえることが不可欠です。その理解なしに、多文化共生や外国人への対応を語るのは順序が逆です。
このことは、個人の成長や組織の成熟とも深く関わっています。例えば、新入社員の「五月病」も端的な例かもしれません。西部邁氏は『知性の構造』(1996年)で、日本は個人主義と集団主義の間の葛藤が少なく、平衡感覚が未熟であるため、突発的な危機の中で右往左往すると指摘しています。五月病は新入生や新入社員だけの問題ではなく、大人になる過程で緊張や葛藤に身を置く経験が不足していることが背景にあると強く感じます。
そもそも日本は単一民族の島国であり、国全体が「ウルトラ過保護」になっているため、葛藤を経験する機会が乏しい。組織の中でも、葛藤を避けて効率性を優先するか、逆にコンフリクトが多すぎて互いに避け合うかの両極端になりがちです。こうした環境では、個人も組織も強くなれません。いざ国外との対立や予期せぬ緊張に直面すると、パニックを起こすのです。要するに、対応のためのバランス感覚が足りないのです。
「葛藤」は学校や会社の中に日常的に存在しています。だからこそ、それを避けるのではなく、意識的に認識し、上手に活用することがバランス感覚を鍛える鍵になると思います。
日本人は穏やかで温厚な民族である一方で、極端から極端に走りやすい傾向がある。軽信しやすく、軽佻浮薄なテレビや新聞の一見もっともらしい言葉にコロッと騙される。つまり、多様性の中でバランスをとることが苦手なのです。本来、個人としての多様性が集団としての多様性を生み、ひいては国家としてのダイナミズムにつながるはずです。外国人をこの狭い日本列島に招き入れて「多様化だ」と言う前に、日本人自身が個人としての多様性――すなわち「私」と「公」のバランス感覚を身につけることが先決でしょう。
全世界で起こっている大きな価値観のうねりは、我々が生きるうえでの価値判断の大前提の変化であり、人類が歴史の中で積み上げてきた「知の構造」をも揺るがしています。机上の理論ではなく、臨床的で総合的に考える必要がある。自らの判断と行動を見つめ直し、一人ひとりが意識を変えることによってのみ、日本という社会全体が変わり得るのだと、私は考えています。
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