奈良飛火野(撮影は亡き父)
環境考古学という分野があります。気候や地理条件などの環境が人間の文明にどんな影響を与えたかを探る学問です。ある教授は「森を切り開くと文明は衰退する」と説きました。ローマ帝国が森を失い砂漠化していく過程で、多神教から一神教へと変わり、やがて多様性を失って衰亡したという指摘です。森と文明の関係は単なる資源利用を超え、思想や世界観のあり方にも結びついているのだという視点は新鮮でした。
私自身も、宗教というより「森や木や石や水に命が宿る」と感じる日本的な感覚に惹かれてきました。自然の繰り返しや循環を重んじる心は、経済至上主義では測れない価値を持っていると思います。
そんな考えに思いを寄せるのは、森とともに生きた祖父の存在があるからかも知れません。祖父は奈良の林野庁営林署から樺太に赴任し、1920年代から戦前戦後を通じて森林事業に生涯を捧げました。山野を歩き、林道を拓き、木を育て、森と共存する知恵を体現した人でした(国立国会図書館のデジタルアーカイブに記録が残っていました)。晩年の物静かな祖父の姿しか記憶にありませんが、山と森の情熱を生活に溶け込ませていたのかも知れません。
近年、「木育」という言葉が広まりました。子どもたちが木に触れ、森に親しむ教育です。しかし祖父のように実際に森を歩き、木と格闘しながら学んだ人の経験に比べると、木のおもちゃだけで森を語ることに私は一抹の物足りなさを覚えます。森の匂い、木肌の感触、木陰の風──現場の体験があって初めて自然への畏敬は育まれるのではないでしょうか。
一方で、北海道などでは再生可能エネルギーの名の下に森林伐採が進んでいます。太陽光パネルや風力発電の持続可能性を掲げながら、実際には森を犠牲にしている矛盾も目立ちます。森を破壊して未来を守れるのか──この問いは重くのしかかります。
自然を征服するのではなく、人と自然が一体となること。これは環境考古学が示唆する文明の条件であり、祖父が生涯をかけて体現した姿勢でもあります。森は文明の礎であり、私たちが未来へ引き継ぐべき原点なのだと、改めて思います。
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