子供の頃の福岡で出会ったケチャップの味は、ナポリタン以上に鮮烈でした。貧しかった昭和の食卓、デパートの食堂、そしてアメリカ暮らし――ケチャップはいつも私の食の記憶をつなぐ役割を果たしてきました。
ナポリタンは、ときどき無性に食べたくなります。懐かしい味だからでしょう。しかし、思い返してみると、私には「ナポリタンそのもの」の思い出はあまりありません。むしろ心に残っているのは、ケチャップにまつわる記憶です。
昭和30年代から40年代前半の福岡。日本はまだ貧しい時代でしたが、多くの人は「明日は今日より良くなる」と信じて暮らしていました。小学生も塾などに通わず、ただ遊びに夢中になっていました。食卓も質素で、卵ひとつが貴重な時代でした。
当時の福岡空港は板付(Itazuke)と呼ばれ、周辺には米軍施設が広がっていました(板付の日本への返還は1972年)。小学校のクラスには、基地で働く人の子供たちもいました。そのひとり、米軍食堂でコックをしていた父を持つS君の家に遊びに行くと、彼がサンドイッチを作ってくれました。パンに炒り卵をのせ、ケチャップをかけて食べる――これが衝撃的でした。おにぎり文化で育った私には、ケチャップよりもサンドイッチそのものが新鮮だったのかもしれません。
志賀島周辺には、戦前に雁ノ巣飛行場があり、敗戦後は米軍に接収されて雁ノ巣エアステーションとなっていました。さらに志賀島周辺は「キャンプ・ハカタ(ブレイディエアベース)」と呼ばれ、ゴーカート場のようなレクレーション施設まで整備されていました。もちろん日本人は立ち入り禁止でしたが、近くに海水浴場があったため、父に連れられてよく出かけました。フェンス越しに、やたらスピードの出るゴーカートが走るのを夢中で眺めたことを覚えています。こうした環境もあり、基地関連の仕事に就く日本人は少なくなく、クラスメートの中にも米軍施設で働く親を持つ子供が多くいました。
ナポリタンと出会った記憶はさらに曖昧です。デパートの岩田屋や玉屋の食堂で、ハンバーグの付け合わせとして皿の片隅に少しだけ盛られていたのが最初の印象です。どちらかといえば、当時はナポリタンよりもオムライスのほうが一般的でした。給食にナポリタンが出たこともなく、年に数回出るビニール袋入りのパスタはカレーをかけて食べるものでした。
喫茶店のナポリタンをちゃんと食べるようになったのは、高校生の頃です。授業をさぼって大阪難波の喫茶店で長居するようになってからでした。昭和40年代後半、日本が豊かになり、食卓にさまざまな料理が並ぶようになった頃でした。
本格的にケチャップを好むようになったのは、むしろアメリカに住んでからです。最初はマクドナルドでフレンチフライにケチャップをつけるアメリカ人を冷ややかに見ていました。塩がついているのに、なぜさらにケチャップを?と不思議に思っていたのです。ところが、仕事が忙しく慌ただしかったある時期、三回に一度くらいはどうしてもケチャップ味が欲しくなるようになりました。気づけば「ケチャップのないフレンチフライは、ワサビ抜きの寿司のようなもの」と感じるまでになっていました。
アメリカ人が紙トレイの上にケチャップを絞り出し、フライの先っぽだけをつけて食べる所作は、寿司に醤油をちょんとつけて口に運ぶ日本人の所作に似ています。ケチャップまみれにするのは子供だけであり、大人はほんの少しを添えるのが作法なのです。フレンチフライも、実は奥の深い食べ物なのかもしれません。
振り返れば、私の記憶の中でナポリタンはいつも脇役で、主役はケチャップでした。ケチャップは、子供時代の驚きであり、喫茶店での青春の味であり、そしてアメリカ暮らしの必需品となりました。だからこそ、私がナポリタンを食べたくなるのは、料理そのものではなく、ケチャップが引き出す時代の記憶を味わいたいからなのかもしれません。
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昭和30年代から40年代前半の福岡。日本はまだ貧しい時代でしたが、多くの人は「明日は今日より良くなる」と信じて暮らしていました。小学生も塾などに通わず、ただ遊びに夢中になっていました。食卓も質素で、卵ひとつが貴重な時代でした。
当時の福岡空港は板付(Itazuke)と呼ばれ、周辺には米軍施設が広がっていました(板付の日本への返還は1972年)。小学校のクラスには、基地で働く人の子供たちもいました。そのひとり、米軍食堂でコックをしていた父を持つS君の家に遊びに行くと、彼がサンドイッチを作ってくれました。パンに炒り卵をのせ、ケチャップをかけて食べる――これが衝撃的でした。おにぎり文化で育った私には、ケチャップよりもサンドイッチそのものが新鮮だったのかもしれません。
志賀島周辺には、戦前に雁ノ巣飛行場があり、敗戦後は米軍に接収されて雁ノ巣エアステーションとなっていました。さらに志賀島周辺は「キャンプ・ハカタ(ブレイディエアベース)」と呼ばれ、ゴーカート場のようなレクレーション施設まで整備されていました。もちろん日本人は立ち入り禁止でしたが、近くに海水浴場があったため、父に連れられてよく出かけました。フェンス越しに、やたらスピードの出るゴーカートが走るのを夢中で眺めたことを覚えています。こうした環境もあり、基地関連の仕事に就く日本人は少なくなく、クラスメートの中にも米軍施設で働く親を持つ子供が多くいました。
ナポリタンと出会った記憶はさらに曖昧です。デパートの岩田屋や玉屋の食堂で、ハンバーグの付け合わせとして皿の片隅に少しだけ盛られていたのが最初の印象です。どちらかといえば、当時はナポリタンよりもオムライスのほうが一般的でした。給食にナポリタンが出たこともなく、年に数回出るビニール袋入りのパスタはカレーをかけて食べるものでした。
喫茶店のナポリタンをちゃんと食べるようになったのは、高校生の頃です。授業をさぼって大阪難波の喫茶店で長居するようになってからでした。昭和40年代後半、日本が豊かになり、食卓にさまざまな料理が並ぶようになった頃でした。
本格的にケチャップを好むようになったのは、むしろアメリカに住んでからです。最初はマクドナルドでフレンチフライにケチャップをつけるアメリカ人を冷ややかに見ていました。塩がついているのに、なぜさらにケチャップを?と不思議に思っていたのです。ところが、仕事が忙しく慌ただしかったある時期、三回に一度くらいはどうしてもケチャップ味が欲しくなるようになりました。気づけば「ケチャップのないフレンチフライは、ワサビ抜きの寿司のようなもの」と感じるまでになっていました。
アメリカ人が紙トレイの上にケチャップを絞り出し、フライの先っぽだけをつけて食べる所作は、寿司に醤油をちょんとつけて口に運ぶ日本人の所作に似ています。ケチャップまみれにするのは子供だけであり、大人はほんの少しを添えるのが作法なのです。フレンチフライも、実は奥の深い食べ物なのかもしれません。
振り返れば、私の記憶の中でナポリタンはいつも脇役で、主役はケチャップでした。ケチャップは、子供時代の驚きであり、喫茶店での青春の味であり、そしてアメリカ暮らしの必需品となりました。だからこそ、私がナポリタンを食べたくなるのは、料理そのものではなく、ケチャップが引き出す時代の記憶を味わいたいからなのかもしれません。
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