会社か、人生か?
最近ある大学教授が「キャリアとは会社をどう使うかで決まる」という趣旨の記事をビジネス誌に連載していました。賃金は若年層を厚くし、中高年を薄くする形に変動してきた。長期停滞のなかで賃下げが格差を拡大した。だからこそ企業は積極投資を、個人は「脱・会社頼み」を進めるべきだ――そうした論旨です。
一見もっともに聞こえますが、この記事には大きな前提があります。すなわち「会社」とは、日本の大企業をモデルにした組織であるという点です。しかし現実の「会社」は国や文化によってまったく異なり、その違いを見落としてしまうと、キャリア論は極端に視野の狭いものになってしまいます。
会社のかたちの違い
まず、日本の典型的な大企業、いわゆる「カイシャ」は、入社自体がキャリアの第一歩とされ、どの会社に入るかで人生が決まる構造を持っています。職務よりも所属が重視され、個人は「会社人間」として組織に埋め込まれていきます。高度成長期には有効な仕組みでしたが、今は通用しにくくなっています。次に、日本に存在する外資系企業です。看板は「グローバル」でも、実態は日本的な年功序列や横並びの文化に引き寄せられがちです。そのため欧米流の実力主義と日本流の組織文化が中途半端に混じり合い、キャリア形成の軸を見失いやすい。
一方、米国の大企業、いわゆるコーポレーションは、契約と役割分担が明確で、個人は専門性を発揮する「歯車」として位置づけられます。終身雇用の概念はなく、スキルと実績で勝負する世界です。
さらに米国の中堅・中小企業では、役割が柔軟で、個人はゼネラリスト的に動くことが求められます。会社の存続自体が課題であり、社員は単なる雇用者ではなく、共に組織をつくる存在でもあります。
つまり「会社」という言葉の中身は国や文化によって大きく異なります。大学教授の記事が暗黙に前提としているのは日本の大企業型ですが、それだけを基準にキャリアを語るのは片手落ちと言わざるを得ません。
キャリアは人生そのもの
では、キャリアとは何でしょうか。私は「会社との関係性」ではなく「人生そのもの」だと考えています。
では、キャリアとは何でしょうか。私は「会社との関係性」ではなく「人生そのもの」だと考えています。
どの会社に勤めたかよりも、何を経験し、どう自分の道をつないできたか。その軌跡がキャリアです。職業に限らず、家庭、地域活動、社会貢献も含めた生き方全体を指すのです。
若いうちは専門に集中し、やがてゼネラリストへと転換する必要があります。その過程で必ずトレードオフと機会費用が生じます。だからこそ、自分で情報を集め、自分の意見を持ち、意思決定して行動できる人材が生き残る。
キャリアは学校や政府、会社が保証してくれるものではありません。自分の責任でつくり上げていくしかない。私はそれを「森の中に置いたパンくず」に例えたいと思います。たとえ遠回りに見えても、自分の歩いた跡をつないでいくことが、やがて確かな道筋になるのです。
終わりに
会社に自分を合わせて生きるのか。あるいは人生の中に会社を位置づけて生きるのか。これは小さな違いではなく、人生そのものを左右する問いです。
安定を求めても安定は存在しません。不安定な中で挑戦し、折り合いをつけて進む。その連続がキャリアなのです。結局のところ、キャリアとは一生「普請中」というわけです。
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