2025年9月3日水曜日

「石破辞めろ」デモと日本政治・メディアの堕落

  

8月31日、首相官邸前で「石破辞めろ‼デモ」が行われ、主催者発表で約4000人が参加しました。参院選での大敗にもかかわらず続投の姿勢を崩さない石破首相に対し、参加者は「辞めねば日本が滅びる」と声を上げました。小学生から社会人まで幅広い層がマイクを握り、海外への資金ばらまき、移民政策、主張の一貫性の欠如などを批判しました。デモの列は800メートルにも及びました。しかし、この大規模な動きはNHKを含む主要メディアではほとんど報じられず、参加者の一人も「なぜ大々的に伝えないのか」と不信を口にしていました。

ここに浮かび上がるのは、戦前と同じ構造であると私は思います。昭和の15年戦争で軍部の専横を許した原因を、石橋湛山元総理は「政党の責任」と喝破しました。政党間の泥仕合と権力闘争に明け暮れた政治家の低レベルさが、五・一五事件以降の体制逆転を招き、日本は破滅への道を歩んだのです。そしてメディアもまた、大衆を煽り、売上至上主義に走り、民主主義を守る責任を放棄しました。

現在、私たちの目の前で起きていることは、それと酷似しているのではないでしょうか。政党政治は自己保身に堕し、メディアは国益を忘れ、国民に必要な事実すら伝えません。民主主義は「大衆を扇動する仕組み」へと悪用され、無反省の政治家と無責任なメディアが情報弱者の国民を操っているのです。そこには倫理観念のかけらも感じられません。

石橋湛山は昭和26年にこう語りました。「遠くない将来において、必ず再び興隆するに違いない。日本人が日本に住する限り、日本は興隆せずにはおかない」。その前提として彼が強調したのは、「過去を深く考え、反省すること」でした。

しかし、現代の政治家や元総理の発言には反省が見られず、メディアにも深い思考は感じられません。この国のリーダーと報道機関が自らの堕落に向き合わない限り、日本の再興はあり得ないと考えます。歴史から学ばずして、未来を築くことは決してできないのです。

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2025年9月2日火曜日

新学期を迎えて考える

洋服のハンガーをオンラインで購入しました。アコースティックギターのギターケースを立てるのが目的です。同時にアマゾンで、信越シリコンと金属磨きのピカールもオーダーしました。20~30年経過したギターケースは太平洋も数回渡っていますが、一回も磨いたことがなかったのです。カビが生えています。

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新学期を迎える季節、教育関係者から届いたメールにこうありました。

「新しい環境で元気よく学び始める子どもがいる一方で、学校に馴染めない子どもも少なくありません。『不登校』や『非登校』の子どもにどう寄り添うのかが大きな課題です」

数字も示されます。2023年度の調査で、不登校の小中学生は34万人、高校生でも7万人近い。アメリカでは不登校はネグレクトと見なされ、通報があれば警察が動くという話も添えられていました。さらに「オルタナティブスクール」や「ホームスクール」という選択肢の増加に触れ、「教育の多様化」に光を当てています。

問題提起そのものはまさに重要で、教育現場の第一線に立つ方ならではの視点だと思います。ただ同時に、教育の専門家だからこそ、「不登校か非登校か」といった枠組みを超えて、「そもそも教育とは何か」「今の日本に必要な教育は何か」という根本的な問いにも光を当ててもらいたかった。つまり、私が感じるのは、議論の抽象度がまだ低いということです。問いかけるべきは、「不登校か非登校か」ではなく、「そもそも教育とは何か」「今の日本に必要な教育は何か」という根源的な問題です。そういった議論が別途行われているのかも知れません。

私たちの社会は、すでに教育の多様なオプションにあふれています。しかし依然として受験制度に象徴される官僚型の教育システムが中心にあります。偏差値という一つの物差しに縛られる限り、教員も子どもも自律的な学びを育みにくいのです。教育を「学校教育」と同一視する思考こそを、いま疑わなければなりません。

教育は、単に知識を伝える仕組みではなく、未来をつくる人材を育む体系であるべきです。柳田国男が指摘したように、数学や理科は世界に共通する学びですが、国語や歴史は文化や国民のアイデンティティを育む科目です。つまり教育は、個人の能力を磨くと同時に、共同体の価値観を継承・更新する営みなのです。ところが現在の日本では、教育が序列化の道具に矮小化され、社会全体が相対性を理解できないまま硬直しています。

ここに、新しい要素としてAIが加わりつつあります。生成AIは使い方次第で強力な学習補助になりますが、同時に思考停止を助長するリスクも抱えています。子どもたちが「自分で考え、自分の言葉で表現する力」を養う前にAIへ依存してしまえば、本来の教育の基盤は崩れてしまうでしょう。だからこそ、教育の専門家自身がAIを試し、その可能性と限界を自分の頭で判断することが必要です。

教育は制度や道具によって決まるものではありません。一人ひとりが倫理的主体として成長できるように、自由と責任のバランスをどう設計するか。新学期のこの時期にこそ、教育関係者には、現場の現象に目を配りつつも、より大きな視野で教育の未来を構想してほしいと思います。

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2025年9月1日月曜日

稚拙な外交の代償 ― パワーバランスを見誤る日本

    

Trump's rebuke, Xi's handshake, Putin's oil: India's foreign policy test

Soutik BiswasIndia correspondent

https://www.bbc.com/news/articles/c80d2nvzg72o


BBC記事の要約

BBCの記事は、インドのモディ首相が直面する外交の難しさを描いています。インドは「多極秩序」の一角を自任し、アメリカ・ロシア・中国の間で巧みにバランスを取ろうとしてきました。
  • 米国とはインド太平洋戦略で協調しつつも、トランプ政権からはロシア産石油の輸入で批判を浴びています。
  • ロシアとはエネルギー安全保障のため深い関係を維持。
  • 中国とは対立を抱えながらも、経済関係や地域安全保障で「対話」を続けざるを得ない。
つまり、インドの外交は「選ばない」という選択をしており、それは弱さではなく戦略的自律だと擁護する声もあります。しかし同時に、その綱渡りは危うさを孕んでおり、世界のパワーバランスが揺らぐ中で、インドの立場は決して盤石ではない、というのが記事の骨子です。


日本に置き換えた場合

こうした背景を踏まえると、モディ首相が日本を訪れ、石破総理と会談したことは、インドの戦略的立ち回りの一環と見るべきでしょう。本来ならば、日本にとっては貴重な外交の場であり、アメリカ・ロシア・中国・インドの間でどう動くかを示すチャンスだったはずです。

ところが、現実はどうでしょうか。宮城県での半導体工場視察や新幹線の同乗といった「見せ場」はありましたが、これは単なる観光的パフォーマンスに過ぎません。半導体や鉄道技術をPRすることが、インドの複雑な外交方程式にどれだけ影響を及ぼすでしょうか。むしろ世界のパワーバランスを見据えた議論を交わすべき場面で、日本側が深い戦略的構想を提示できなかったことの方が問題です。


稚拙な外交の構図

能力と使命感の両方を欠いた総理に外交を任せるのは狂気の沙汰です。石破総理が主導したTICAD 9もそうですが、果たしてアフリカの国々の現実をどこまで理解しているのでしょうか。名前と位置すらおぼつかない国々を相手に、真の戦略的関与ができるとは到底思えません。

器がなければ、使命感すら空回りします。ダメなものはダメ。そしてダメな人間ほど、自分がダメだということに気づかない。これは紀元前から哲学者たちが繰り返し説いてきた人間の真理です。


結語

インドのように複雑な外交空間を泳ぎ切るには、戦略眼と胆力が必要です。日本はその隣にいながら、自国の総理が稚拙なパフォーマンスに終始するのを許している。これでは国益どころか、国際社会での信頼をも失いかねません。

いま求められているのは「見せかけの親善」ではなく、「世界の現実を直視した戦略的外交」です。果たして日本にその準備があるのか――その問いを突きつけるのが、今回のモディ訪日の本当の意味なのではないでしょうか。

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