2025年7月10日木曜日

「文化」と「文明」のあいだで ── 今、教養とは何かを問う

 1980年代初期に北京の内部書店で購入した日本語版『毛主席語録』(初版)。




前書きは、毛沢東暗殺に失敗し謎の死を遂げた林彪です。



「文化」と「文明」のあいだで  ──  今、教養とは何かを問う

教養ある中国人とは誰か?

平川祐弘さんは「権威に盲従しない人」と言います(産経正論2025年7月8日)。なるほど、それは実に納得のいく定義です。だとすれば、日本における「教養ある知識人」とは誰のことを指すのでしょうか。

AIが急速に一般化し、「知識」へのアクセスがかつてないほど容易になった今こそ、本当の意味で問われるべきは「文化と文明」のバランス感覚だと思います。科学技術が文明を前に進める一方で、それをどう使うのかという価値判断は、つねに文化に根ざした教養に依拠せざるをえません。

私は、来年古希を迎えます。思い返せば、私の思考の支柱になってきたのは、学校でも教師でも教科書でもありませんでした。むしろ、明治から昭和初期にかけての知識人──いわゆる「文豪たち」の言葉でした。福沢諭吉、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治……。彼らが直面していたのはまさに「文化と文明の相克」という現代的なテーマだったのです。

平川さんの記事でも指摘されていたように、かつての日本では「教養」とは漢籍に通じることを意味し、それに代わって西洋古典が読まれるようになってからも、文学や思想の素養は知識人の証でした。けれど今では、教養の中身そのものが曖昧になり、英語すら手段としてしか扱われず、学ぶべき「日本の近代古典」すら忘れられつつあるように思います。

一方、中国では『四書五経』が国民的古典としての地位を失い、かつて毛沢東の語録がそれに取って代わるかに見えた時期がありました。だが結局、『毛沢東語録』は読まれる古典にはなりきれず、現代の中国においても「敬意をもって読むべき本」が不在のままです。皮肉にも、教養ある中国人とは「語録を読まない人」と定義される時代になっているというのです。

日本においても、教養は形骸化しつつあります。全集を揃える家庭は減り、本棚の存在感はスマートフォンの画面に取って代わられました。それでも、私たちは「本を読む民族」から完全に堕ちてしまったわけではないと信じたいのです。

難解な古典に無理に立ち返らなくとも、たとえば明治の知識人の書いたものに立ち戻ることは可能です。彼らは「日本」という国家が急激に近代化するさなかで、何を守り、何を捨て、何を受け入れるかを懸命に考え、悩み、書き残しました。その営みこそ、現代を生きる私たちにとっての「教養」の原点になるはずです。

AIの時代だからこそ、人間の軸を持たなければならない。平川さんの言葉を借りれば、明治の古典を「カリキュラムの核」に据えること。それはノスタルジーではなく、未来への選択なのです。


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