2026年2月12日木曜日

子どもを“情報の受信機”にしないために ― 小林秀雄『スポーツ』とAI時代の教育

 
生成AIは、可能性を広げる。

だが――「好き嫌い」に責任を持つのは、誰か。
教育は、子どもを“情報の受信機”にしていないか。

衆議院選挙が終わり、与党の歴史的な大勝という結果が出ました。そして間を置かずに冬季オリンピックが始まりました。政治とスポーツという二つの大きな出来事が重なったとき、私は小林秀雄の1959年のエッセイ『スポーツ』を思い出しました。

小林はそこで、「リアリストとは、好きなものは文句なく好き、嫌いなものは文句なく嫌いだという信条のうえに知恵を築いている人だ」と書いています。これは一見単純な言葉ですが、実はきわめて重い意味を持っています。私たちはいつの間にか、「好き嫌い」を軽いもの、未熟なものとして扱い、「データ」や「世論」や「専門家の解説」によって判断することを賢さだと思い込んできたのではないでしょうか。

小林が問題にしたのは、まさにその点です。スポーツ観戦においても、観客は自分の目で見て「すごい」と震える前に、解説者の理屈で理解しようとします。新聞の評価や統計の裏付けがあって初めて安心する。そこでは、自分の身体が発する直観は後景に退きます。小林は、私たちがこの「好き嫌い」という心の動きの価値をひどく下落させてしまったと言いました。

今回の選挙結果を見て、私は日本がさらに「情報の受信機」になったのではないかと感じました。信条よりも議席、理念よりも安定。空気を読み、無難な選択をする。その姿は、主体的な判断というよりも、与えられた情報の中で最適解を探す態度に近いように見えます。

そして今、その延長線上に生成AIの時代があります。もし私たちが自分の「好き嫌い」を持たず、責任を負うことを避け、効率的で正しそうな答えを機械に委ねていくとしたらどうなるでしょうか。生成AIは膨大なデータから「次に来る確率の高い言葉」を選びます。そこにあるのは統計的な整合性であって、お腹の底から突き上げてくる「これが好きだ」という身体的な確信ではありません。

AIにとって、人間の「熱量」は計算不可能な偏差に過ぎません。理屈を無視して「これがいい」と言い切る瞬間は、統計的予測を裏切るノイズです。しかし実は、その予測不可能性こそが、人間にしか持ち得ない価値です。AIは巨大な鏡のようなものであり、人間が過去に残した熱の痕跡を映し出すことはできますが、自ら燃えることはできません。

もし人間が主観を捨て、「AIがこう言っているから正しい」と同調するだけになれば、新しい文化も思想も更新されなくなります。高度な模倣の堂々巡りが続くだけです。計算不可能な主観的熱量を持つことは、AIに対する人間側の最後の砦であり、責任の引き受けでもあります。

小林秀雄の言う「好き嫌い」は、単なる感情論ではありません。それは「自分の命に対する誠実さ」です。自分の心がどう動いたかを、誰のせいにもせず引き受けることです。客観的な正解に寄りかかれば、間違っても責任は分散されます。しかし、「私はこれが嫌いだ」と言い切るとき、その人は孤立するかもしれない代わりに、自らの判断に責任を負います。そこに主体が生まれます。

高齢者が経験豊富であることと、主体的であることは同じではありません。政治家もまた同じです。世論の風を読むだけでは、主体とは言えません。今の日本社会が、自分の好き嫌いを語らずに安定や多数派に寄り添うだけならば、私たちはやがて運命の判断すら機械に預けてしまうかもしれません。

スポーツの祭典を見ながら、理屈を超えて胸が熱くなる瞬間こそが、人間が生きている証だと改めて思います。その感覚を信じられる社会でなければ、政治も文化も痩せ細ります。

これからが日本の正念場でしょう。情報を受け取るだけの国でいるのか、それとも一人ひとりが「好き嫌い」という主観に責任を持つ国になるのか。小林秀雄の『スポーツ』は、半世紀以上前の文章でありながら、生成AI時代の私たちにこそ、鋭く問いかけているのです。

「私はこれが嫌いだ。理由は私だからだ」。

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