2026年1月21日水曜日

AIが嘘を作る時代に、国語は何を育てるべきか

 

正解を探すのではなく、関係を読み直す。
AI時代に、国語が本来育ててきたはずの力。

AIが嘘を作る時代に、国語は何を育てるべきか

~ 共通テスト現代国語と、ある事件をきっかけに)

「性的ディープフェイク」で女性芸能人に似せたわいせつ画像を作成し、会員制サイトに掲載した疑いで、警視庁が31歳の男を逮捕した――そんなニュースを目にしました(2026年1月20日、読売新聞)。

AIを使って実在人物の性的画像を生成し、販売していたという内容です。いわゆる「性的ディープフェイク」と呼ばれる、新しい形の性暴力犯罪だとされています。映像や画像そのものはAIが作り出した虚構ですが、被害を受けるのは現実の人間です。技術の進歩が、人の尊厳を踏みにじる形で使われてしまったという事実に、私は強い違和感と不安を覚えました。

このニュースをきっかけに、今年の大学入学共通テストの現代国語の問題を読み返しました。

出題文は、桜井あすみ氏の「贈与としての美術・ABR」です。そこでは、美術とは作者が意味を一方的に伝えるものではなく、鑑賞者や社会との関係の中で「贈与」として成立する営みである、という主張が語られていました。私はこの考え方に深く共感しました。意味は作品の内部に閉じているのではなく、人と人、人とモノとの関係性の中で立ち上がるものだ、という視点です。

この「関係性の中で意味が生まれる」という考え方は、美術鑑賞に限らず、情報を受け取る態度そのものにも通じるのではないでしょうか。フェイク情報の多くは、単独で提示され、文脈や他の視点から切り離された形で流通します。一枚の刺激的な画像、一つの断定的な言葉だけが孤立して提示される。だからこそ、それが事実であるかのように見えてしまうのです。

逆に言えば、複数の情報源、異なる立場、反証の有無などを照合し、情報を関係性の中に配置し直すことで――いわばコンステレーションを描き直すことで――初めて見えてくるものがあります。これは、桜井氏の言う「贈与としての美術」と同じ構造ではないかと感じます。つまり、フェイクを見破るには、個々の情報の真偽だけでなく、その背後にある関係性まで含めて考える必要がある、ということだと思います。

コンステレーション

「コンステレーション(constellation)」は主に「星座」という意味ですが、転じて「多数の人工衛星群」や「一群の要素が構成する配置・まとまり」などを指し、ユング心理学やデジタル通信分野でも使われる言葉です。

ただし、この話を国語教育、とりわけ大学入試の現場に当てはめてみると、話は少しややこしくなります。

高校の現代国語は、本来、価値観の多様性に触れ、思考の幅を広げるための教科だったはずです(これは私の独自解釈かもしれません)。ところが、受験の現場では、思考をできるだけ限定し、設問の意図に最短距離でたどり着くスキルが求められます。予備校の現代国語講座を見ても、効率よく点数を取るための「型」が前面に出ています。自由に考える力は、むしろ邪魔者扱いされているようにも見えます。

最後に、改めて考えたいと思います。AI時代に本当に必要なのは、あらかじめ用意された正解を素早く当てる力ではなく、断片的な情報を文脈の中に置き直し、関係性を組み替えて意味を立ち上げる力ではないでしょうか。そして、それこそが本来、国語教育が担ってきた、あるいは担うべき役割だったのではないか――教育の素人の私はそう感じています。

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2026年1月20日火曜日

国語教育、本当に“考える力”を育てていますか? ――共通テスト現代国語から考える

点数にならない思考の痕跡

今年の大学共通テストの現代国語を見て、正直なところ、複雑な気持ちになりました。

出題された桜井あすみ氏の「贈与としての美術・ABR」は、限られた抜粋からでも、きわめて示唆的な文章だと感じました。美術とは、意味を一方的に伝達するものではなく、他者との関係の中で「贈与」として成立する営みである、という主張には、私は全面的に同意します。これは美術論にとどまらず、深層心理学で言うコンステレーション、すなわち関係性の中で意味が立ち上がるという考え方にも通じるものだと思います。

ところが、その文章を素材として作られた設問を見たとき、私は強い違和感を覚えました。文章の思想の深さと、設問の性質との間に、あまりにも大きなギャップがあるのです。もちろん、全国一斉試験である以上、採点の公平性や効率性が最優先されるのは理解できます。しかし、その結果として、著者が本当に語ろうとしている核心部分――関係性の中で意味が生成されるという動的な思考――は、ほとんど切り落とされてしまっているように見えました。

私は共通一次試験以前の世代で、センター試験も共通テストも経験していません。したがって、これはあくまで外野からの、しかも無責任な高齢者の感想にすぎません。それでも、昨日あらためてYouTubeで予備校の現代国語講座をいくつか見て、違和感は確信に近いものになりました。そこでは、文章をどう読むかよりも、どう「処理」すれば7〜8割の点数を短期間で取れるか、というテクニックが前面に出ていました。効率的ではありますが、高校の国語教育や、出題者が掲げているはずの理念とは、どうも別の方向を向いているように感じました。

整理すると、高校の授業、受験準備(塾・予備校)、試験問題、大学での4年間、そして社会人生活の間には、いくつもの断絶があります。高校で学んだ内容は、受験の段階で「点数」に変換され、管理しやすい形に加工されます。そして入試が終わった瞬間、その多くは泡沫のように消えていく。これは、ある意味で日本文化らしいとも言えますが、あまりに惜しい話です。さらに言えば、授業設計と現場の教師の間にもギャップがあり、現代国語と歴史など他教科との統合、いわば「梁」が存在しないため、知は柱のまま、やがて一本一本倒れていきます。

高校の現代国語の教科書と、予備校の国語講座を比べてみて、決定的な違いにも気づきました。高校国語は、本来、視野を広げ、価値観の多様性を学ぶためのものだったはずです。一方、入試問題で求められるのは、思考の幅を狭め、型にはめ、正解を一つに収束させるスキルです。自由な思考は、序列化しにくく、管理しにくいからです。

こう考えると、現行の受験制度は、高校国語教育の目的を事実上否定しているようにも見えます。皮肉なことに、いまのAI時代に本当に必要とされている「考える力」や「統合的な知」は、高校国語が本来目指していた方向にこそあります。それを受験が真逆の方向に引っ張っている。この矛盾を、学校も塾も、ある程度わかっていながら、システムを変えない。どこか、見て見ぬふりをしているようにも感じます。無責任だとは思いませんか?

拙宅の近くには、教育評論家の有名人が住んでいます。つかまえて聞いてみたい気もしますが、たぶん武蔵野警察に通報されるでしょう。冗談はさておき、日本の教育問題は、それほど根が深いのだと思います。そしてAIの時代だからこそ、点数化できない思考や、人と人、人とモノとの関わりの中で、少しずつ育っていく理解や気づきを、もう一度大切にする必要があるのではないでしょうか。
 
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2026年1月19日月曜日

なぜ教育は、劣等感を手放せない人を育ててしまうのか ――「理想との距離」では測れないもの

最近、劣等感について「理想の自分と今の自分のギャップが劣等感だ」と説明する文章を目にしました。アドラー心理学に基づく整理であり、劣等感を前向きな成長のエネルギーとして捉え直そうとする姿勢には、一理あると思います。劣等感それ自体は悪ではなく、解釈と行動次第で人生を前に進める力にも、足かせにもなる。事実は一つでも、解釈は無限である、という指摘も納得できます。

ただ、私はこの説明にどうしても引っかかりを覚えます。劣等感を「理想の自分」と「今の自分」の差として一般化してしまうと、見落とされるものがあると感じるからです。


比較しない人生と、「自分の軸」

私はこれまでの人生で、特別に優れた能力を持っていたわけでもなく、運動ができたわけでも、芸術的才能に恵まれていたわけでもありません。容姿もごく普通です。それでも致命的な失敗をせず、高齢者になるまでやって来られた理由を考えると、自分は劣等感も優越感も、人より弱かったのではないかと思うのです。

その理由は単純です。他者と比較して生きてこなかったからです。

中高生の頃の自我の成立に、他者の影響が比較的少なかったのかも知れません。十代の半ばには、すでに自分なりの価値観や人生観、死生観のようなものがありました。それは完成された思想ではありませんが、「自分はこう生きる」という軸のようなものです。通信簿のコメントには、「協調性がない」と共に、「競争心に欠ける」と書かれていました。

この軸があったため、他人の成功や評価を自分の尺度に持ち込まずに済んだ。結果として、「理想の自分」と「今の自分」を常に見比べる必要もなかったのだと思います。

劣等感と優越感は、同じ根から生える

劣等感が厄介なのは、それが個人のマインドを支配してしまうときです。劣等感は、往々にして他者との比較から生まれます。比較が始まると、人は自分の内側ではなく、外側の序列に価値判断を委ねるようになります。

そしてこの構造は、劣等感と優越感を同時に生み出します。どちらも同じ根から生えている感情です。

政治家でトップに上り詰める人たちを見ていると、この「劣等感と優越感の混合物」、つまりコンプレックスに強く支配されている人が少なくありません。総理大臣という地位にまで執着する背景には、理念や使命感よりも、内面の欠落感や承認欲求が透けて見えることがあります。

これは決して珍しい話ではありません。

国家と教育に埋め込まれた「比較の構造」

日本社会全体を見渡しても、この構造は繰り返されています。明治以降、日本は西欧に対する劣等感と優越感の間で揺れ動き、敗戦後はそれがアメリカに置き換わりました。夏目漱石がロンドンで精神を病んだ時代から、ほとんど変わっていません。

国家としての総括や学習を怠り、三百万人以上が亡くなった戦争の原因すら曖昧なまま、記憶喪失のように現代に至っている。この土台の弱さが、個人のコンプレックスを増幅させているように思えます。

福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、envy を「怨望」と訳し、これを人間にとって最も害のある徳の欠如だと述べました。他人と幸福の水準を比較し、自分のほうが不幸だと感じたとき、自分を高めるのではなく、他人を引きずり下ろそうとする心。それが怨望です。これは劣等感が歪んだ形で固定化した状態と言えるでしょう。

教育の問題も、ここに直結しています。日本の教育は知識量を重視する一方で、概念を育てる訓練が不足しています。概念とは、世界をどう捉えるかという思考の枠組みです。

これが育たないと、自分の価値観や判断基準を内側に持てず、外部の評価や序列に過剰に適応するしかなくなります。その結果、劣等感と優越感の間をメトロノームのように揺れ続ける人間が量産されてしまう。


同じ条件を与えること(平等)と、同じ結果に到達できるよう条件を調整すること(公平)は、似ているようで本質的に異なる。この図は、教育を点数や順位で比較する仕組みにしてしまうと、子ども一人ひとりの違いや背景が見えなくなり、上位には優越感を、下位には劣等感を同時に生み出してしまうことを象徴的に示している


「未熟さ」を生きるという態度

私はこれまで、「自分は未熟である」という前提で生きてきました。しかし、それは劣等感ではありません。未熟であるという事実を受け入れたうえで、そこに可能性を見るという態度です。

未熟さにコンプレックスを感じる必要はないと思う。未熟であるということは、まだ余白があるということです。楽しめばいいのです。死ぬまで。

劣等感を「理想とのギャップ」として捉える発想は、成長を促す場合もあるでしょう。しかし、それ以前に必要なのは、他者との比較から距離を取り、自分なりの世界観や価値観を持つことです。

劣等感をどう使うか以前に、劣等感に支配されない構造をどう作るか。そこにこそ、教育と個人の生き方の本質的な課題があると、私は考えています。

少し、大げさですかね?

AIという鏡の前で、人間は何を問われているのか

ここで、AIの存在を考えてみる必要があります。AIは、人間よりも速く、正確に、そして大量に「正解らしきもの(ハルシネーション)」を提示します。知識量、処理速度、網羅性――そうした指標で見れば、多くの分野で人間はすでにAIに劣っています。

この事実だけを切り取れば、AIは新たな「比較対象」となり、人間の劣等感を刺激する存在に見えるかもしれません。

しかし、ここでも問題は能力差そのものではなく、「比較の構造」にあります。AIは序列を気にせず、承認も欲しがらず、劣等感も優越感も持ちません。ただ与えられた条件のもとで応答する存在です。

人間がAIに対して劣等感を覚えるとすれば、それはAIとの比較によって、自らを序列の中に置こうとする発想から生じています。

むしろAIの登場は、人間に問いを突きつけています。
「あなたは、何を基準に自分の価値を測っているのか」と。

他者との比較、社会的評価、数値化された成果――そうした外部基準に依存してきた生き方は、AIの前では容易に崩れます。だからこそ、これからの時代に重要になるのは、AIに勝つことでも、AIを恐れることでもありません。比較から自由になり、自分なりの世界観や価値基準を持つことです。

劣等感とは克服すべき欠陥ではなく、自分が何者であり、どこへ向かおうとしているのかを静かに問い返してくる、内なる羅針盤なのかもしれません。

AIという鏡の前に立たされた今こそ、人間はようやく、比較ではなく思想によって生きることを求められているのだと思います。

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2026年1月18日日曜日

子どもに“自由”を教えられていますか? ――人生の自由度ランキングを読んで、親として考えたこと

人生の自由度ランキングと、日本人の「自由」

先日、あるビジネス誌に「人生の自由度ランキング」という記事が掲載されていました。世界価値観調査をもとに、「自分の人生をどの程度自由に動かせると思っているか」という問いへの回答を国別に比較したものです。結果は、日本が世界で下から3番目。レバノン、ギリシャに次ぐ低さだそうです。

https://diamond.jp/articles/-/380018

この数字を見て、「やはり日本は不自由な国なのだ」と絶望する人もいるかもしれません。一方で、記事の筆者は慎重です。この調査は社会制度としての自由度を測っているのではなく、日本人の人生態度、つまり慎重さや期待値の低さを反映しているにすぎない、と説明しています。人生が自由だと感じていなくても、日本人は比較的幸福であり、「不自由でもあまり嘆かない国民性」があるのだ、というわけです。

なるほど、統計の読み方としては誠実だと思います。ただ、私はこの記事を読みながら、どうしても引っかかるものが残りました。

私は、アメリカ企業で働き、アメリカで20年ほど家族とともに暮らしました。子どももアメリカで育てています。また、中国で働いた経験もあります。ですから、ここで述べることは、全くの想像や伝聞ではありません。もちろん、私の見解が正しいと主張するつもりもありませんが、少なくとも実体験に裏打ちされた感覚ではあります。

高校一年のとき、夏目漱石の『私の個人主義』を読みました。それが直接のきっかけだったかどうかは分かりませんが、私はその頃から「自由と責任」という言葉について、妙に考えるようになりました。もっとも、学校の勉強とは一線を画し、正直に言えば、授業をサボって喫茶店に行くための言い訳に使っていた面もあったと思います。学校をサボって大阪ミナミの喫茶店にいると、不安になる。その不安を打ち消すために、哲学的なことを考えている「つもり」になっていた、というのが実態でしょう。

それでも、漱石の言葉はいまも頭のどこかに残っています。漱石は講演の中で、次のように述べています。

「自己本位といふ事は、利己主義といふ意味ではない。
他人の自由を認めた上で、はじめて成立つものである。」


この一文は、私にとって長いあいだ、自由を考える際の基準のようなものになっています。

ビジネス誌の記事が扱っている「自由」は、「人生を自由に動かせると感じているか」という主観的な感覚です。しかし、私がアメリカで感じた自由は、それとは少し異なるものでした。自由とは、選択肢が多いこと以上に、「選んだ結果について自分で引き受けること」を求められるものだったからです。転職も、異動も、教育も、失敗も、基本的には自己責任です。自由である分、常に緊張があり、安心はありません。

一方、日本では、人生を「自由に動かせるとは思っていない」人が多いにもかかわらず、幸福度はそれなりに高い。これは美徳とも言えますが、別の見方をすれば、「自由を行使しなくても回ってしまう社会」にうまく適応してきた結果とも言えるのではないでしょうか。

自由を感じないことと、自由がないことは、本来は別の問題です。

健全な迷子と、不健全な迷子
――自由とは、正解を与えられない状態に耐え、考え続ける力でもある

しかし、自由を使わずに済む状態が長く続けば、やがて自由そのものを求めなくなります。漱石が警告したのは、自由を奪われることよりも、「自由を扱えなくなること」だったのではないか、私はそう思います。

人生の自由度ランキングは、日本社会を断罪するためのものではありません。ただ、「自由をどう感じるか」ではなく、「自由をどう使い、どこまで責任を引き受けてきたか」を、私たち一人ひとりが考え直すきっかけにはなるはずです。数字そのものよりも、その数字を前にして何を考えるのかが、いま問われているのだと思います。

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2026年1月17日土曜日

AI時代に露呈する日本教育の構造的欠陥

 
AIに何を教えるかではなく、AIの答えをどう疑い、どう判断するか。
その力を、日本の教育は育ててきただろうか。

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/40097

フェイクニュース時代に必要な“科学リテラシー”とは?AI、SNS全盛で混沌とする社会を生き抜く術
横上菜月( Wedge編集部)


日本の教育は、なぜ思考力を育てられないのか

生成AIとSNSが日常に浸透し、真偽不明の情報が瞬時に拡散する時代において、「科学リテラシー」の重要性が改めて問われています。Wedgeの記事で石浦章一氏が指摘するように、科学的判断とは「絶対的な安全/危険」を断言することではなく、不確実性を前提に、確率と根拠をもとに考える態度であるということです。

しかし、こうした思考態度を日本の教育は本当に育てているのでしょうか?

日本の教育は考える訓練になっているか?

日本の初等・中等教育では、理科であれ国語であれ、「どう感じたか」「どう思ったか」という情緒的な反応が重視されがちです。観察結果から因果関係を考え、仮説を立てて説明する訓練は、十分に行われているとは言い難いと思います。実は、as-is を調査して因果関係を考え、仮説検証するのはコンサルティングの王道です。

欧米では、原子力や放射性廃棄物といったテーマを扱う際にも、「技術が社会にどのような影響を与えるか」「利点とリスクをどう評価するか」といった価値判断を含む議論が教育の中に組み込まれているようです。一方、日本の教科書は、放射線の種類や半減期といった事実説明にとどまり、社会的意味や判断のフレームワークをほとんど扱わない。

この差は、単なるカリキュラムの違いではないと思います。「考える訓練」をどこまで教育の中心に据えているかという、思想の違いなのです。

受験システムが破壊する思考の連続性


さらに深刻なのは、日本の受験システムが、教育内容そのものを無効化している点です。

直近30年の高校「現代国語」を見れば、その教材は明らかにポストモダン以降の世界観、価値観の多様性、不確実な社会をどう生きるかというテーマと重なっています。ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」とオーバーラップしています。(ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」、つまりあらかじめ用意された正解ルートが存在せず、立ち止まり、迷いながら考えることが求められる時代認識とオーバーラップしています)。

つまり、教科内容自体は「これからの世界」を見据えて設計されているのではないでしょうか?

ところが、その背景となる世界観は、入学試験において完全に無視される。入試が終わった瞬間、それまで読んできたテキストや思考の枠組みは「点数を取るための材料」として消費され、ゼロリセットされる。そのまま社会人になり、年は流れて定年を迎えるのです。

これは偶然ではないし、必然でもない。受験を頂点とする制度設計の中で、思考よりも選別を優先してきた結果なのです。

国語教育と受験の致命的な乖離

問題は、
  • 現代国語の内容を設計した人々
  • 受験テクニックを教える塾・予備校
  • 現場の教師
この三者の間に、埋めがたい断絶があることです。
教科内容の設計者は、おそらく現代国語を通じて
  • 思考のフレームワーク
  • 抽象化する力
  • 異なる価値観を往復する知性
を育てたかったはずです。

しかし、受験は「いかに効率よく正解を選ぶか」がすべてであり、塾や予備校はそのための思考を狭める技術を短期間で教え込む。入試問題は「選択する力」、つまり思考の幅を意図的に削ぎ落とす能力を要求する。

結果として、
  • 学校で習う国語:視野を広げ、多様な考え方を学ぶ
  • 受験で求められる国語:思考を限定し、迷わず切り捨てる
という正反対のベクトルが同時に存在することになる。

善意に解釈すれば、学校教育は「自由に考える力」を育てようとしていると言えます。しかし受験は、それを全面的に否定している。これはもはや矛盾ではなく、構造的破壊と言ってよいのです。

AI時代に露呈する日本教育の弱点

生成AIは、この問題をさらに露わにします。

AIは「それらしい答え」を瞬時に生成します。だが、根拠を吟味し、確率で判断し、社会的影響まで考える責任は人間側に残されています。にもかかわらず、国語教育が本来担うべき論理的・概念的思考力が、受験によって骨抜きにされてきた日本では、AIの出力を批判的に読む力が育ちにくいのです。

コロナ禍のワクチン議論や原発問題で露呈したのも、「ゼロリスク」を求める非科学的態度でした。これは理科の問題ではなく、言語と思考の問題です。

教育を変えなければ、未来は変わらない

日本の政治家に感じる「人間的魅力の乏しさ」や「政治的リテラシーの不足」は、個人の資質の問題ではない。受験を頂点とする教育システムが、概念を扱う力、抽象的に考える力、文化的背景を踏まえて議論する力を削いできた結果なのです。有名大学の卒業証書が水戸黄門の印籠になっている。

フェイクニュースとAIが溢れる時代に必要なのは、
  • 母国語で深く考える力
  • 科学的根拠を確率として評価する態度
  • 思考の幅を広げたうえで判断する知性
です。

教育を変えなければ、日本の未来は変わらない。

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2026年1月16日金曜日

AIハルシネーション政治 ――考えている「ふり」の世界

 

考えているように見える。
だが、何も考えていない。

イアン・ブレマーの2026年の世界10大リスク

イアン・ブレマーは、アメリカを代表する国際政治学者であり、世界の政治・経済リスクを分析するコンサルティング会社「ユーラシア・グループ」の創設者です。国家間の軍事衝突や金融危機だけでなく、テクノロジーや社会変化が民主主義に与える影響を読み解くことで知られ、各国政府やグローバル企業の意思決定に大きな影響を与えてきました。

毎年発表される「世界10大リスク」は、未来予測というより、世界が見落としがちな「構造的な危うさ」を可視化する警告として注目されています。

イアン・ブレマーは、2026年の世界的リスクの一つとして「ユーザーを食い尽くすAI」を挙げました。

彼が最も警戒しているのは、AIが人間を超えることではありません。人間が考えなくなることです。おこがましいですが、これは私がコロナ禍のころから言い続けてきたことでもあります。

ここで重要なキーワードがあります。
「AIハルシネーション」です。

ハルシネーションとは、AIが「それらしく聞こえるが、事実でも理念でもない答えを、もっともらしく作り出してしまう現象」を指します。一見、筋が通っているように見える。言葉も整っている。ところが、よく見ると根拠も責任も現実認識も欠けている――それがAIハルシネーションです。特に現実認識、いわゆる as-is に弱い。原因と結果の間に立ち、同じ目線で丁寧に考えるようなことは、基本的にしません。

考えている「ふり」をする新党結成の正体

昨日発表された、野党同士による新党結成のニュースを聞いた瞬間、この言葉が頭をよぎりました。

立憲民主党の野田佳彦代表は、「200人近く擁立しなければ比例票が出てこない」と語ったそうです。一方、公明党の斉藤鉄夫代表は、「選挙目当てではない」と述べるにとどまり、目標数すら示しませんでした。
  • 理念は語られない。
  • 国家像も語られない。
  • 政策の一致点も検証されない。
あるのは、「それっぽい言葉」と「選挙にかかわる数字」だけです。

これは熟議の結果なのでしょうか。それとも、「野党が勝つための最適解を出せ」と入力し、AIが吐き出したハルシネーション的アウトプットなのでしょうか。私のこの疑問、なかなか面白いと思いませんか?

ブレマーが警告するAIの最大の危険性は、エンゲージメント――つまり人を動かす効率――を最大化するために、意味や真理を切り捨ててしまう点にあります。そこでは、「正しいかどうか」ではなく、「反応を得られるかどうか」だけが価値基準になります。少し立ち止まって、よく考えてみてください。

今回の新党構想は、まさにそれと同じ構造を持っています。
  • 勝てそうかどうか
  • 数が取れるかどうか
  • 動員できるかどうか
これらはすべて「出力」であり、「目的」ではありません。にもかかわらず、政治の中枢がそこだけを語っているように見えます。

AIハルシネーションの怖さは、「間違い」よりも「空虚」にあります。完全な虚構ではない。しかし、そこに責任を引き受ける主体がいない。――日本の政治に、実によく似ていませんか?

今回の新党結成も、同じ匂いがします。失敗したとき、誰が何を誤ったのかを説明できない。なぜなら、最初から「なぜそれをやるのか」が存在していないからです。日本の大規模な業務改革プロジェクトを思い出す方も多いでしょう。

ブレマーはこう言います。

熟議民主主義には、独立して考え、情報を持ち、積極的に関与する市民が必要だと。しかし今、日本の政治が示しているのは、その正反対です。考えず、感じず、ただ「それらしい回答」を並べる。これはAIに支配される未来ではありません。AIの振る舞いを真似てしまった人間の劣化です。

AIには理念もビジョンもありません。しかし、人間までそれを放棄したとき、民主主義は単なるアルゴリズムになります。理念もビジョンもない日本の政治とは、残念ながら相性がいい。

今回の新党結成は、政治的決断とは言いにくいでしょう。政治を装ったAIハルシネーションなのです。

ブレマーの警鐘は、シリコンバレーだけに向けられたものではありません。すでに、日本の政治状況そのものに、はっきりと響いています。

――人間は、まだ自分で考えているのでしょうか。

この問いに答えられない政治に、未来を語る資格はありません。

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2026年1月15日木曜日

寛容さという、いちばん難しい技術

 
20年ほど前、ニューヨーク郊外タリータウンにて。
いま思えば、このときも、Yさんは変わらぬ距離感で隣に立っていました。


寛容さという、いちばん難しい技術
――Yさんの十回忌に寄せて

先輩であり、友人でもあったYさんが亡くなって、今年で十回忌を迎えます。同じ会社にいたのは1983年ごろからですから、付き合いは三十年以上になります。1990年ごろ、ドイツ駐在中だったYさんご一家が、ニューヨークの私の家に遊びに来てくれたこともありました。

振り返ってみると、いちばん強く思い出されるのは、Yさんとの散歩です。
私たちは何度も、お茶の水の聖橋で待ち合わせました。そこから湯島へ、谷中へ、時には上野まで、特に行き先を決めるでもなく、さまざまな話をしながら歩きました。仕事の話、技術の話、時事の話、ときには取り留めのない雑談。歩く速度も、会話の間も、いつも不思議と心地よかった。

途中で、Yさん行きつけの蕎麦屋に立ち寄り、ヘギ蕎麦を食べるのも楽しみの一つでした。向かい合って蕎麦をすすりながら交わす、とりとめのない会話が、なぜかとても心地よかったのです。

Yさんと最後に話したのは、亡くなる数日前の電話でした。

会話の内容は、ほとんど覚えていません。
ただ、そのときの自分の態度だけが、妙に鮮明に残っています。私は年下のくせに、Yさんに対していつもダメ出しをしていました。電話口でも、些細なことでつっかかる。すると空気は一気に重くなり、電話を切ったあと、決まって自己嫌悪に陥っていました。最後の電話も、結局そんな感じでした。

それでもYさんは、私の話を遮ることなく、最後まで聞いてくれました。
意見が違っても、声を荒らげることも、表情を変えることもない。ただ、受け止めてくれる。今思えば、あれは「我慢」ではなく、「寛容」だったのだと思います。なぜ、あのときもっとYさんの話に耳を傾けられなかったのか。聖橋から谷中まで、あれほど一緒に歩いた時間がありながら、その意味を十分に受け取れていなかった気がします。

Yさんは、ITのスペシャリストでした。
企業の現場で技術を磨き続け、晩年には農林水産省のCIO補佐官として、行政の中枢にも関わっていました。理屈に厳しく、技術や制度には妥協しない。その一方で、人に対しては驚くほど柔らかかった。その両立こそが、Yさんの本質だったように思います。

今はAIの時代です。

10年が経ち、生成AIが当たり前のように使われる時代になりました。
フィジカルAIやロボットの話題も現実味を帯びてきています。こうした変化を前に、寛容さとは何か、人間はAIとどう向き合うべきか――そうしたことを、Yさんともう一度、歩きながら議論してみたかったと思います。
けれども、それはもう叶いません。

AIは間違える、信用できない、といった声も多く聞かれます。しかし、異なる仕組みで考える存在を、私たちはどれほど理解しようとしているでしょうか。思えば私は、生きている人間であるYさんに対してさえ、理解する前に裁いていたのかもしれません。今になって思えば、ずいぶん傲慢でした。

社会は、異質な存在や新参者に対する一定の寛容さによって成り立ってきました。それは甘さではなく、責任であり、強さでもあります。排除ではなく、筋を通す。その姿勢を、Yさんは言葉ではなく、態度で示していました。

高齢者になって振り返ってみると、自分の最大の欠点は「寛容さが足りないこと」だったと痛感します。年を重ねるほど、それは簡単には身につかないものだと分かってきました。

けれども、聖橋から湯島へ、谷中へと一緒に歩いたあの時間と、Yさん、あなたの変わらない態度は、十年経った今も、私に問いを投げ続けています。寛容さという、いちばん古くて、いちばん難しい技術を、私はまだ学び続けているのだと思います。

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2026年1月14日水曜日

カレーライスの夜に――遠藤賢司の誕生日

 
細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、松本隆(ドラム)
結成したばかりのはっぴいえんどのメンバーが演奏に参加している

遠藤賢司の代表曲の一つに「カレーライス」(1971年)という曲があります。この歌ほど、時代の空気や変化を表現した曲は、他にはありません。

1970年、三島由紀夫が自決しました。国家だの精神だの、やたらと重たい言葉が世の中を飛び交っていた頃です。ところが若者たちの現実はというと、狭いアパートでカレーを食べ、「肉はないけどジャガイモが入っている!」などウキウキしている。遠藤賢司の「カレーライス」は、そのどうしようもない落差を、真正面から歌った。

外では誰かが腹を切っているのに、こちらはカレーを食べている。冷たい話に聞こえるかもしれませんが、これは無関心ではありません。歌にしたのですから。大きな理想や物語が崩れ去ったあと、信じられるものが「自分の手の届く日常」しか残らなかった、というだけの話ではないでしょうか?

全共闘世代が挫折し、サルトルやカミュの言う「反抗」も、だんだんと居場所を失っていきました。若者は実存主義を語らなくなった。いわば「祭りの後の静けさ」。遠藤賢司は、その後始末を引き受ける世代だったのだと思います。燃え尽きたあとのバリケードの後を、じっと見つめていた人です。

当時、私は高校に入ったばかりでした。大阪の府立高校の校門にはバリケードがまだありました。しかし、空気が変わったのを肌で感じました。「カレーライス」の翌年には、吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットし、音楽は反抗よりも生活や恋を歌い始めます。政治の季節が終わり、生活の季節が始まったのです。

ただし、遠藤賢司はどちらにも乗りませんでした。彼は自分の音楽を「純音楽」と呼びました。流行にも政治にも寄らず、ただ自分の魂が震えた分だけ音にする。だからこそ、50年以上経った今も、「カレーライス」を聴く人が絶えないのでしょう。

1月13日は遠藤賢司さんの誕生日です。亡くなってから今年は10回忌。

夜中にカレーライスを作って食べました。玉ねぎを牛脂で炒めてガラムマサラと一緒のレトルトカレーに投入しました。大きな理想が崩れても、人は腹が減り、鍋をかき混ぜる。その静かな肯定を、エンケンは歌っていたのだと思います。決して虚無的ではない。虚無的だったら遠藤賢司は死ぬまで歌い続けなかったと思います。2026年の日本のほうが虚無的です。

今夜もどこかで、誰かがカレーを食べながら「カレーライス」を思い出しているはずです。エンケンはきっと空の上で、「ワッショイ!」(エンケン後期の歌)と笑いながら、その匂いを嗅いでいるのではないでしょうか。

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2026年1月13日火曜日

AI時代の日本が見失ってはならないもの ――言葉を失う教育と、現物現場で鍛えられるAI

 

現物と現場で鍛えられる知能が、産業を支えている

「AIで日本はもう手遅れだ」。

最近、こんな言い方をよく耳にします。随分と自虐的ですね。その根拠として挙げられるのがChatGPTです。生成AIの進化を前に、日本は完全に出遅れたという論調です。しかし、AIをChatGPTだけで語るのは、あまりにも視野が狭いと思います。概念の理解が追い付いていない。

私自身、文章のチェックにChatGPTを使うことがあります。便利ではありますが、使いすぎると、どこか無難で、考える手触りのない文章になってしまう。思考の途中をすべて省略できてしまうからです。

日本では以前から、本を読まなくなり、国語力が低下していると言われてきました。文章を最後まで読めない、前提を共有できない、行間を想像できない。これは教育の問題であると同時に、社会全体の問題です。Eメールさえ書かない、ほとんどをチャットで済ませてしまう。これが、ビジネス現場の実際です。

国語力とは、単に文章を書く技術ではありません。物事を順序立てて考え、他人の考えを追い、自分の立場を言葉にする力です。この土台が弱いまま、子どものころからChatGPTを多用すれば、考え抜く前に答えが提示される。これは教育に関わる人たちに、ぜひ理解してほしい点です。

もう一つ大変重要な点は、ChatGPTはAIの一部にすぎないという事実です。一方で、日本が本来強みを持つのは、現実世界で動く「フィジカルAI」です。産業用ロボットや介護ロボットなど、安全性と信頼性を重視する分野では、日本の設計思想は今も生きています。

フィジカルAIを支えるのは、現場を理解し、因果関係を読み取り、言葉で共有する力です。つまり、ここでも国語力が問われます。

AI時代に必要なのは、速く答えを出す人間ではなく、考え、選び、技術を道具として使える人間でしょう。

もっとも、私は高齢者です。

今のところは、最近始めたサキソフォンのことだけを考えていれば十分なのですが、いけません。ついつい余計なことを、口に出したり、書いたりしてしまいます。最近のブログも長すぎますものね。説明過多です。

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2026年1月12日月曜日

日本はどこへ向かっているのか――ロードマップ(続編)

 

これからの世界を、生きていく世代


毎日のニュースを見ながら、「これは自分の生活や、子どもの将来と本当に関係があるのだろうか」と感じたことはないでしょうか?

国際情勢や安全保障の話題は、難しく、どこか遠い世界の出来事のように語られがちです。しかし、親として考えてみると、それらは決して無関係ではありません。どんな価値観のもとで社会が動き、どんな力関係の中で国が判断を下しているのかは、子どもたちがこれから生きる環境そのものを形づくるからです。

いま私たちが直面しているのは、
  • 善悪ではなく力が支配する世界
  • 大人が説明を放棄すると、子どもは空気だけを学ぶ
今回は、専門家の議論ではなく、親の立場から、今の世界と日本のあり方を考えてみたいと思います。

「世界のヤクザ化」と日本の立ち位置を、現場感覚から考える

本稿は、特定の「思想」や「立場」から世界情勢を論じるものではありません。親米でも反米でもなく、右翼でもリベラリストでもない、ごく普通の一個人が、長い時間と複数の現場をくぐり抜けてきた経験から感じている違和感を、言葉にしておこうという試みです。

結論から述べます。

現在のアメリカ、中国、ロシアは、私の感覚では「仁義を失ったヤクザ組織」に近い振る舞いを見せています。これは感情的な罵倒ではありません。秩序がどのように保たれ、どのように壊れていくのか、その構造についての話です。

任侠とヤクザの決定的な違い

私が1970年代半ば、10代を過ごした大阪ミナミの世界には、少なくとも二つの層がありました。一つは、いわゆる任侠の世界、つまり理念としての姿です。そこでは、弱い者を守ること、筋を通すこと、仁義を切ることが重んじられていました。また、越えてはならない一線については暗黙の了解があり、何よりも約束を破ることが最大の恥とされていました。

もう一つは、そこから堕落した、ただの暴力団です。こちらは利益最優先で、恐怖によって支配し、嘘や裏切り、言い訳が常態化しています。上に立つ者は責任を取らず、外面だけは立派に整える。両者の違いは明確でした。

任侠とは、秩序を保つための暴力です。一方、ヤクザ化とは、秩序を壊すための暴力です。この区別を見失うと、世界で起きていることは理解できません。

冷戦期までのアメリカには「仁義」があった

私が長く身を置いてきたアメリカ社会を振り返ると、かつては国家としての「仁義」が確かに存在していました。それは、WASPが支配していた時代であり、アメリカに余裕があった頃でもあります。少なくとも当時のアメリカは、条約を重んじ、同盟国への配慮を一応は示し、「最後の一線」を守ろうとしていました。

ルールを破るときでさえ、建前としての理由を語ろうとしました。これは、国家レベルにおける任侠的な振る舞いだったと言えるでしょう。もちろん、完全に清廉だったわけではありません。しかし、「筋を通しているつもりではあった」という点に、一定の秩序が存在していました。その均衡が、ベトナム戦争あたりから徐々に崩れていったのです。

いまのアメリカは「ヤクザ化」している

近年のアメリカを見ていると、その変質は明らかです。約束よりも国内政治を優先し、同盟国を便利な下請けのように扱い、利益がなければ切り捨てる。しかし、責任は取らない。そして自分たちの暴走は「正義」と声高に叫ぶ。

これはもはや「親分」でも「任侠」でもありません。看板だけが残った暴力装置です。アメリカと長く関わってきた人ほど、この違和感を強く覚えるのではないでしょうか。

中国・ロシアは最初から「仁義を持たない型」

一方で、中国やロシアは少し性質が異なります。彼らの特徴は、仁義よりも面子を重んじ、約束よりも力関係を優先する点にあります。弱者保護という発想は乏しく、ルールは支配者の都合で書き換えられます。

彼らは、任侠から堕ちた存在ではありません。最初からヤクザ的な統治構造を持ってきた国家です。だからこそ、交渉の作法も前提も、西側の感覚とは根本的に異なります。

日本が一番まずい立場にいる理由

問題は、日本の立ち位置です。日本は今も、義や恥、約束といった任侠的価値を、どこかで信じています。しかし、相手はすでにそれを共有していません。それでもなお、「きっと分かってくれる」と期待してしまう。

私が10代を過ごした大阪ミナミの感覚で言えば、これは「もう仁義が通じない組織相手に、昔の筋を期待しているカタギ」です。最も危険な立ち位置だと言わざるを得ません。

私の視点について

私は、日本社会の内側も、アメリカの組織の内側も、そして暴力が日常に近かった空間も、すべて現実として見てきました。だから、親米でも反米でもなく、特定のイデオロギーに依拠しているわけでもありません。ただ、「空気が変質している」という事実に気づいているだけです。

この感覚は、メディアに登場する多くのコメンテーターや国際政治学者には、必ずしも共有されていないように感じます。

まとめ

私が一貫して書いているのは、独立宣言ではなく交渉であり、感情ではなく条件であり、夢想ではなく現実です。これは、仁義が崩れた世界で、それでも生き延びるための最低限の知恵だと考えています。

最後に、問いを一つに集約します。
「世界がヤクザ化したとき、日本はどう振る舞うべきか」。

答えは一つです。仁義がある前提で動くのをやめ、仁義がない前提で、しかし自分たちは任侠心、つまり筋を失わない。そのために必要なのが、これまで提示してきたロードマップなのです。

※本稿で用いる「ヤクザ」という表現は、特定の個人や集団を指すものではありません。秩序や責任、約束といった倫理が失われた状態を説明するための比喩として用いています。

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2026年1月11日日曜日

日本はどこへ向かっているのか ――落語家が語る、この国の主権回復ロードマップ

 
架空の上方落語家

日本の組織はなぜロードマップが描けないのか

――そして究極のロードマップとしての「植民地からの脱却」

日本の組織は、目の前の課題処理や現場対応には強い一方で、「中長期の道筋」を描くことが驚くほど苦手です。企業経営でも、行政でも、そして政治・外交でも、この弱点は繰り返し露呈してきました。本稿では、まずロードマップとは何かを簡潔に整理し、日本人がそれを苦手とする理由を概観した上で、究極のロードマップとしての「日本の植民地的状況からの脱却」について考えてみたいと思います。

ロードマップとは何か

ロードマップとは、目標達成までの道筋を「いつ・誰が・何をするか」という時間軸で整理した進行計画表です。単なる計画書ではなく、最終ゴールとそこへ至るマイルストーンを可視化し、関係者間で共通認識を持ち、進捗を管理するための「地図」のようなものです。

重要なのは、ロードマップは不変の聖典ではなく、状況変化に応じて更新される前提の「思考の道具」だという点です。未来を正確に予測するためではなく、変化に耐えうる判断基準を持つために存在します。

日本人はなぜロードマップが苦手なのか

日本の組織文化では、合意形成を重視するあまり、無難で曖昧な計画に落ち着きがちです。また、最初から完璧な工程表を作ろうとするため、変更が許されず、結果として環境変化に対応できなくなります。現場の実行力は高いものの、長期的なビジョンを外部環境と結びつけて描く「戦略的思考」が弱いとも言えるでしょう。

さらに、不確実な未来に旗を立てること自体が「責任リスク」として忌避され、誰も明確なロードマップを言語化しようとしません。その結果、日本の多くの組織は「その場しのぎの最適化」を積み重ねながら、気づけば方向感覚を失っていくのです。

今の日本人に万人受けするトピックだとは思えないので(私は正しいと思っていますが)、架空の上方落語の師匠に説明してもらいましょう。これは、黒船来航から継続する日本の姿なのです。


究極のロードマップ――日本の植民地的状況からの脱却

さて皆さん、よう考えてみてくださいな。
日本がいま一番ロードマップ要るんはどこや思います?
会社経営でっか? AIの普及でっか?
ちゃいまんねん。そこやない。

ほんまに要るんはな、政治と外交。
もっと言うたら、「戦後日本が、どうやって主権を取り戻すか」という話でっせ。

ここで、はよ言うときまひょ。
このロードマップ、「独立宣言したれ!」とか、「アメリカと縁切ったれ!」いう話とちゃいます。そないなスローガン、大声で叫ぶんは、日本人いっちゃん得意や。で、いっちゃん失敗してきたやり方でもある。

要るんはな、

「従属してへん!」言うて目ぇ背けることやなくて、
「あ、わしら、ここは従属してますなあ」
と、ちゃんと直視して、それを交渉の材料に変えていくことなんですわ。
そのための、現実的な工程表――これが「ろーどまっぷ」でんねん。

まず大前提。ここ大事やから、よう聞いておくれやす。
最初から「独立」を目標に掲げたらあきまへん。
これが一番あかんとこです。

日本はな、長いこと「対等な同盟や言うてます」
口では言いながら、実際は「ほぼ全面依存」
いう、二枚舌で生きてきましたんや。

東京の空、誰が仕切ってます? 日本政府ちゃいます。
安全保障の最終決定権、どこにあります? 実質、アメリカですわ。

でもな、これは現実でんねん。
戦後処理の結果として、そうなっとるだけの話です。

問題はな、この現実を「そうですねん」と公に認めんと、
「うちは独立国家です」言うて、自分で自分をだましてきたことですわ。

ロードマップの第一歩はな、
「こうなりたい!」いう目標設定とちゃいます。
「いま、どうなってまんねん?」いう現状認識です。

まず、日本は主権に制限のある国や、
いうところから始めな、話は一歩も進みまへん。

次の段階にいきまひょ。

従属を、ちゃんと見えるようにして、言葉にする。
これが第1段階です。

安全保障の話で言うたら、
在日米軍が動くとき、日本政府に「それアカン」言う拒否権がない。
日米地位協定は、左右対称やなくて、片っぽに重たい。
有事のとき、最終的に誰が指揮するんか、これもはっきりしてる。

これをな、「同盟の現実」として、白書や政府文書にちゃんと書きなはれ、いう話です。
反米やないですよ。
交渉の土俵を整えるだけの話ですわ。

経済や制度も同じでっせ。
アメリカが制裁したら、はいはい言うて自動追随。
半導体、エネルギー、金融、為替。
「ここは日本だけでは決められまへん」
いう分野を、ずらっと並べて整理する。

これも感情論ちゃいます。
事実の確認です。

さて、ここまで来て、やっと交渉が始まります。
第2段階、従属を取引条件に変える、ですわ。

皆さん、ええですか。
従属いうんは、タダやないんです。
nothing is free、いうやつですわ。

日本に価値があるから、アメリカは日本を手放さへん。
在日米軍はな、日本守るためだけやおまへん。
アメリカの世界戦略にとって、えらい大事な拠点ですわ。

日本はな、土地、安定、地理的な位置。
これ、全部カードとして出してます。

ほな、その対価、もろて当たり前やないですか。

駐留経費、どないなっとるんか、もっと透明に。
基地使うときの事前協議権、もうちょい広げまひょ。
日本の周り以外で使うなら、条件つけまひょ。在日米軍基地を「世界中どこでも無料で使える踏み台」にしない、という最低限の主権行使ですワ。

これは「同盟壊す」話やない。
同盟を現実にするための交渉です。

中国の話も同じですわ。
米中対立の最前線に立たされて、日本が背負うリスク。
これ、ちゃんと数字で出して、
「これだけのコストかかってまっせ」
言うて、見返り要求せなあきまへん。

エネルギーの保証、制裁時の国内補填、
技術流出防止の共同責任。
全部、取引条件に落とし込むんです。

第3段階

主権はな、一気に戻りまへん。
少しずつ、機能ごとに回復していくもんです。

司法、情報、外交。
このへんから、ちょびっとずつ裁量を取り戻す。
「同盟強化」いう看板掲げて進めてもええ。
大事なんは、中身ですわ。

ほんでな、一番しんどいんが第4段階
国内への説明です。

交渉にはリスクがある。
アメリカは圧力かけてくる。
一時的に経済的にしんどなるかもしれん。

でもな、
何も考えんと従い続けて、
暴走するアメリカ、中国、ロシア、
そんな巨大国家に巻き込まれるリスクと比べて、
どっちが現実的か。
それを国民に問いかけなあきまへん。

最後に、これだけは覚えといてください。
独立いうんはな、宣言するもんやない。
交渉を積み重ねた結果、
「あれ、気ぃついたら、だいぶ独立に近づいてまんな」
いうもんです。

アメリカがほんまに尊重するんは、
感情で叫ぶ自立論者やない。
現実をわかった上で、話ができる交渉相手です。

坂口安吾が『堕落論』で言うた通りですわ。
「対等な同盟」いう幻想、いっぺん捨てなはれ。
属国である自分を、ちゃんと直視しなはれ。

いっぺん、精神的に堕ちる。
そっから、現実の交渉に立ち上がる。

それがな、
ほんまの意味での「究極のロードマップ」ちゅうもんでっせ。

――どうでっか、皆さん。
拍手する前に、ちょっと胸に手ぇ当てて、考えておくんなはれ。

おあとがよろしいようで

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2026年1月10日土曜日

ミネアポリスの銃声が問うもの ――ベネズエラやイランと同じ地平で、アメリカの本質を考える――

 
迷子になる勇気

これはアメリカの話から始まりますが、読み進めるうちに「結局、日本の話じゃないか」と思ってもらえたら成功です。子どもたちの世代に、何を引き渡すのか――そんな回り道の文章です。

ミネアポリスの銃声が問うもの

ベネズエラやイランと同じ地平で、アメリカの本質を考える

年初から、世界では衝撃的な事件が相次いでいます。ベネズエラ、イランといった国々で起きている出来事は、日本でも比較的大きく報じられています。しかし、同じ時期にアメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで起きた射殺事件は、それらと同じ重さで受け止められているでしょうか。私は、このミネアポリスの事件こそ、今のアメリカの本質を鋭く突きつける出来事だったと考えています。

事件は、ICE(米移民税関捜査局)の捜査官が、37歳の女性レニー・ニコル・グッドを射殺したものです。連邦当局、すなわち国土安全保障省やトランプ大統領は、「女性が車を武器化し、捜査官を轢こうとした」「捜査官は自己防衛として発砲した」「これは国内テロにあたる」と主張しました。

一方で、ミネアポリス市長、市議会、ミネソタ州知事、民主党幹部らは、捜査官の行動を「無謀(reckless)」と断じ、連邦政府の説明を「プロパガンダ」「ガスライティング」とまで批判しました。複数の動画では、ICE捜査官が車に接近し、ドアを開けようとした直後、車が動き出した瞬間に至近距離から発砲し、SUVが制御を失って衝突する様子が確認されています。現在、FBIが捜査に入っています。

この事件の背景には、トランプ政権が不法移民や福祉不正を理由に、ミネアポリスへ約2,000人の連邦捜査官を派遣していた事実があります。特にソマリア系移民コミュニティが集中的に標的とされてきました。事件現場は、2020年にジョージ・フロイドが殺害された場所から約1マイルという近さであり、抗議は全米に広がりました。治安悪化を理由に、公立学校が休校する事態にまで発展しています。

この事件を報じたイギリスBBCの姿勢は、非常に示唆的です。BBCは、連邦政府の公式説明と、地方政府や市民側の主張を並列に紹介していますが、細部を読むと、単なる中立ではありません。トランプ政権やICEの主張には必ず引用符を付け、市長や州知事、目撃者、映像証拠を丁寧に積み重ねています。「捜査官がどれほど近距離にいたのかは明確でない」という一文は、致命的な正当防衛だったかどうかに疑義を呈する含意を持っています。

さらに、BBCは意図的に言葉の温度差を可視化します。
連邦側は「weaponise」「domestic terrorism」といった強い言葉を使い、地方側は「reckless」「propaganda」「gaslighting」という言葉で応じる。この対比は、アメリカ国内で事実認識そのものが分裂している現実を、読者に体感させます。

BBCが「ジョージ・フロイドが殺害された場所から約1マイル」と明記したのも偶然ではありません。これは、この事件を単なる治安問題ではなく、「連邦権力 × 人種・移民 × 武装警察」という、アメリカが抱え続けてきた構造問題の再燃として位置づけよ、という無言のメッセージです。BBCの本音は、「これは事故ではなく、移民政策が都市空間で武力衝突を生む段階に入った」という警告にあるように思えます。

ミネアポリスという都市の歴史も、この事件を理解する重要な補助線です。1990年代以降、ミネアポリスにはソマリア系移民だけでなく、ロシアやウクライナなど旧ソ連圏、東欧からの移民が多く流入しました。ロシア語だけで生活できる地域が存在したほどです。

この街は、冷戦後の世界の矛盾を吸収し、アメリカの活力そのものを体現してきた都市でもありました。優秀で意欲的な移民たちが、経済と社会を支えてきた現実があります。

その都市で今、連邦捜査官が市民を射殺し、市長が「この街から出ていけ(leave the city)」と叫ぶ。この発言は、感情的な暴言ではありません。これは、連邦制というアメリカの制度そのものがきしむ地点を正確に突いた、明確な政治行為です。

日本の感覚では、市長が国に向かって「出ていけ」と言うことは想像しにくいでしょう。しかしアメリカでは、連邦政府、州政府、地方自治体が対等な緊張関係にあることが前提です。市長の発言は、「連邦政府は万能でも絶対的上位でもない」という建国以来の思想に忠実なのです。

今回、市長が恐れているのは、治安維持という名目が、恐怖による管理へと変質している点です。その結果として市民が死んだ。だからこそ「出ていけ」なのです。これは混乱ではありますが、同時に「統治を問い返す力」がまだ生きている社会の姿でもあります。

対照的に、日本ではどうでしょうか?

日本の報道は、おそらくこの事件を「移民政策をめぐる混乱」「トランプ政権の強硬姿勢」といった平板な枠組みで処理するでしょう。誰がどの権力として、どこまで踏み込んだのか。なぜ市長が連邦政府を拒絶したのか。そうした核心には触れられないでしょう。

その理由は、日本が戦後、「統治される側」であり続けたことにあります。治安や権力を批判的に分析する言語が、意図的に育てられなかったのです(これは思考力でもあるのですが)。戦後日本でアメリカが行ったのは、住民の合意による統治ではなく、管理でした。秩序回復を名目に、治安・司法・教育・報道が再編されました。

ミネアポリスで起きていることと、戦後日本の占領統治は、驚くほど似た構造を持っています。しかし、大きな違いがあります。日本では市長が「出ていけ」と言えなかったこと、メディアが占領の正当性を疑えなかったことです。その結果、統治を疑う言語、つまり、思想そのものが育たなかった。

だからこそ、日本メディアがこの事件を淡く、遠く報じるとしたら、それはアメリカへの配慮ではなく、日本自身の問題なのです。このミネアポリスの事件は、「アメリカのジレンマ」なのですが、統治とは何か、権力はどの瞬間に市民の命を奪ってよいのか、地方の正統性はどこから生まれるのか。それらを私たち自身に突きつける、普遍的な問いなのだと思います。

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2026年1月9日金曜日

新しいサキソフォン

 
右手の中指でF#キーを押しています


昨年のブログで、修理に出した古いサキソフォンをきっかけに、私のサックス生活が始まったことを書きました。その続きです。

一年ほど吹いてみて、さすがに楽器の世代差を感じるようになりました。思わぬ音が出るたびに自分の未熟さを棚に上げ、楽器のせいにしたくなる日々です。そこで、長い逡巡の末、新しいサキソフォンを購入する決断をしました。

選んだのはヤマハのアルトサックス。仕上げはアンラッカーです。
理由は単純で、「使い込むことで変わっていく楽器」を、人生の後半で持ってみたかったからです。

ただし、ここで一抹の不安が生じました。

アンラッカーの渋い経年変化が出るのが先か、それとも自分の健康寿命が先か。まさかサキソフォンの酸化と競争することになるとは思いませんでした。

機能的にはハイF♯キーも付いており、理屈の上では以前より吹きやすいはずです。ところが現実は甘くなく、期待するほど音は言うことを聞いてくれません。新しい楽器が来たからといって、腕前まで新品になるわけではないようです。

それでも不思議なもので、1ミリでも前に進んだ気がすると、それだけでうれしい。誰に評価されるわけでもない自己満足ですが、今の自分にはそれで十分だと感じています。私は元々承認欲求は強くはありません。

クリスマス前に届く予定の新しい相棒は、結局、年も押し迫った29日に手に入りました。

今日も相変わらずピーヒャラピーヒャラと音を外しています。
それでも吹き続けていれば、楽器も自分も、少しずつ変わっていくはずです。そう信じて、しばらくはこの根競べを楽しもうと思っています。


A New Saxophone

Not long ago, I wrote about how my life with the saxophone began—sparked by an old horn I sent out for repairs. This is the sequel.

After about a year of playing, I could no longer ignore the generation gap between the instruments. Every time an unexpected note jumped out, I conveniently blamed the sax, quietly shelving the fact that I’m still a beginner. Eventually, after a long stretch of hesitation, I made the decision: I’d buy a new saxophone.

I chose a Yamaha alto, finished in unlacquered brass. The reason was simple. In the later half of life, I wanted to own an instrument that changes as you use it—one that ages along with you.

That’s when a small anxiety crept in.

Which would come first: the deep, weathered patina of an unlacquered sax, or the end of my own healthy years? I never imagined I’d be racing a chemical process—oxidation—at this stage of life.

On paper, the horn should be easier to play. It even has a high F-sharp key. In theory, things should be smoother than before. Reality, of course, had other plans. The sound doesn’t always obey. A new instrument doesn’t magically upgrade the player.

Still, there’s something strangely satisfying about feeling even a millimeter of progress. No applause, no audience—just quiet self-approval. These days, that feels like enough.
The new partner I was expecting before Christmas finally arrived on the 29th, just as the year was closing in on itself.

Today, as always, I’m still missing notes, making that familiar squeal and squawk.

But if I keep playing, I believe both the instrument and I will change—slowly, unevenly, but surely. For now, I’m content to enjoy this small, stubborn race.

(Photo: pressing the high F-sharp key)

一把新的萨克斯

不久前,我写过一篇文章,讲述自己是如何与萨克斯结缘的——起因是一把送去维修的老乐器。这篇文章,可以算是那段故事的续篇。

大约吹了一年之后,我再也无法忽视乐器之间的“代沟”。每当有一个不该出现的音符突然蹦出来,我总会很顺手地把责任推给萨克斯,悄悄把“自己仍是初学者”这个事实搁置一旁。犹豫了很长一段时间后,我终于下定决心:买一把新的萨克斯。

我选择了一把雅马哈的中音萨克斯,未经上漆的黄铜表面。理由很简单。人生的后半程里,我想拥有一件会随着使用而变化的乐器——一件能够与我一同老去的东西。

就在这时,一丝小小的不安浮现出来。

究竟哪一个会先到来:无漆萨克斯那种深沉、风化般的包浆,还是我自己健康岁月的终点?我从未想过,在这个人生阶段,竟然会和一种化学过程——氧化——展开赛跑。

从理论上说,这把乐器应该更容易吹奏。它甚至配备了高音F♯键。按理说,一切都该比以前顺畅。但现实当然另有安排。声音并不总是听话。一把新乐器,并不会自动升级演奏者。

即便如此,哪怕只是感觉到一毫米的进步,也会带来一种奇妙的满足感。没有掌声,没有观众,只有对自己的默默认可。如今,这样就已经足够了。

我原本期待在圣诞节前到来的这位新搭档,终于在12月29日抵达——正好赶在这一年即将收尾的时候。

今天也和往常一样,我依旧会吹错音,发出那种熟悉的尖叫和怪响。

但我相信,只要继续吹下去,乐器和我都会改变——缓慢、不均匀,却是确定无疑的。此刻,我很满足于享受这场小小而固执的赛跑。

(照片:按下高音F♯键的瞬间)


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2026年1月8日木曜日

「病院はある」時代の終わり ――救急医療の現場から見えた、日本医療の静かな崩壊

 
「病院はある」時代の終わり

救急医療の現場から見えた、日本医療の静かな崩壊

「どんなに良心的に頑張っても、病院はつぶれる」

https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20251224-GYTET00001/

下町の中小病院を率いてきた三代目院長の言葉が、胸に重くのしかかります。

読売新聞が報じたこの記事は、医療関係者にとっては「今さら」かもしれません。しかし、患者や家族の側にいる私たちにとっては、ようやく突きつけられた現実でもあります。

病院は、いつでもそこにあり、困ったときには受け入れてくれる。
そんな前提が、すでに崩れ始めているのです。

三次救急は「入り口」にすぎない

昨年11月、身内が自宅で倒れ、日赤病院に救急搬送されました。
日赤は三次救急医療機関です。命に関わる重篤な状態を、24時間365日で受け止める、日本の医療の最後の砦です。

しかし、そこに長くはいられません。
状態が安定すれば、必ず転院になります。

一か月後に転院し、そして昨日、ようやく退院しました。
治療の流れとしては、今の日本ではごく当たり前のことです。

三次救急は「治す場所」ではなく、命をつなぐ場所
その後の時間は、地域の中小病院や療養型施設、あるいは在宅医療に委ねられます。

20年で、病院は確実に変わった

振り返れば、この20年、私は否応なく病院に通い続けてきました。
母、父、叔母、義父、義母――入退院と介護を繰り返す中で、多くの病院を見てきました。

進化した部分も確かにあります。

  • 検査や画像診断の精度

  • 医療機器の高度化

  • 電子カルテやオンライン連携

一方で、テクノロジーの進化が、人の余裕を奪った側面もはっきりと見えます。医師は忙しく、看護師は疲弊し、病院全体が常にギリギリで回っている。

効率化の名のもとに余白が削られ、現場の「人間力」に過度な負担がかかっています。

病院は「経営体」でもあるという現実

読売新聞の記事が突きつけているのは、医療の中身以前に、病院経営の破綻です。診療報酬は抑えられ、物価と人件費は上がり続ける。

職員を多く抱える病院ほど苦しく、診療所のほうが儲かるという歪んだ構造。

「老人が増えるのに、なぜ病院がつぶれるのか」

それは、医療が市場経済ではないからです。
患者が増えても、収入は増えない。
むしろ、重度化・長期化するほど、病院は赤字になる。

この現実を、私たちはあまりにも知らなさすぎました。

「地域包括ケア」という美しい言葉の裏側

2026年現在、日本の医療は「病院完結型」から「地域完結型」へ移行しています。地域包括ケアシステム――聞こえは良い言葉です。

しかし、現場を歩くと、こうも感じます。

それを支える人も、金も、もう足りない。

病院、介護施設、在宅医療、行政。
連携すべき主体は増えましたが、誰かの負担が減ったわけではありません。

さらに外国人労働の問題も絡み、現場は複雑化する一方です。

見舞う側から、入院する側へ

私自身も年を重ねました。
最近は、病院を「見舞う場所」ではなく、「自分が入るかもしれない場所」として見るようになりました。

すると、見える景色が変わります。

  • 個室か、多床室か

  • 面会制限の現実

  • 退院後の生活設計

病院は、万能の避難所ではありません。
そこに「居続けられる」という前提そのものが、すでに幻想なのです。

日本の医療は、かなり危うい

はっきり言えば、日本の医療はかなりヤバい状況にあります。
制度の限界は、もう見えています。

だからこそ、50代・60代の「高齢者予備軍」が考えるべきことは明確です。

  • どの病院が、どんな役割を担っているのかを知る

  • 介護や療養の現実を、元気なうちに学ぶ

  • 健康管理を「自己責任」で引き受ける覚悟を持つ

基本は、自助努力です。

医療は「魔法」ではありません。
社会全体が痩せ細る中で、支え合いにも限界があります。

それでもなお、現実を直視し、備える人間から、次の時代を生き延びていく。今回の経験を通じて、私はそう強く感じました。

何だか、日本という国の現状とも重なります。
アメリカ依存を続けるのか、それとも真の独立の道を歩むのか――。

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2026年1月7日水曜日

そのニュース、子どもに説明できますか? ――親世代が直面する「思考停止メディア」の正体

 

社会の木鐸とは何か?


――沈黙する日本のジャーナリズムと、饒舌なコメンテーターたち――

「社会の木鐸」という言葉があります。本来は、権力や時代の空気に警鐘を鳴らし、社会に時間的・思想的な奥行きを与える存在を指す言葉です。木鐸は叩かれて音を出すものではなく、自ら響くから意味がある。しかし、近年の日本のジャーナリズムを見ていると、どうも拡声器と化してしまったように見えます。しかも音量だけはやたらと大きい。

今回のアメリカによるベネズエラ攻撃をめぐる日本の報道を見て、その思いは一層強くなりました。事実関係は断片的、背景説明は乏しく、国際政治の文脈はほぼ消失しています。代わりに並ぶのは、スタジオで頷き合うコメンテーターの「お気持ち」と、司会者の「分かりやすいまとめ」です。分かりやすいのは結構ですが、浅いものを分かりやすくしたところで、浅さが際立つだけではないでしょうか。

欧米のメディアも、もちろん完全に清廉潔白ではありません。スポンサーの影響も受けますし、政治的バイアスもあります。しかし、少なくとも「何が争点で、どこが分かっておらず、誰の利害が衝突しているのか」を整理しようとする最低限の知的誠実さは保たれています。ところが日本では、その手前で話が終わってしまう。原因は明白です。日本のメディア自身が、日本という国を相対化して理解しようとしていないからです。

政治の話になると、日本の報道は急に情緒過多になります。怒り、悲しみ、正義感――いずれも大切な感情ですが、それらが事実や構造分析を押し流してしまっては本末転倒です。マックス・ウェーバーが語った「レジティマシー(正統性)」の議論など、ほとんど耳にすることがありません。誰が、なぜ、どのような正統性をもって権力を行使しているのか。国家も都市も、そこを問わずに語れるほど単純ではないはずです。

にもかかわらず、テレビに登場する「知識人」や「有識者」たちは、疑念を投げかけるよりも、場の空気を整えることに熱心です。異論は「炎上リスク」、沈黙は「大人の対応」。こうして議論は痩せ細り、思考の筋肉は衰えていきます。本来、信念と疑念がぶつかり合うことで思想は鍛えられるはずですが、今や疑念そのものがマナー違反のように扱われているのです。

日本のジャーナリズムが劣化した理由は、一つではありません。記者クラブ制度、視聴率至上主義、広告依存、そして教育の問題。特に教育の影響は深刻です。受験を目的化した教育は、問いを立てる力ではなく、正解を当てる技術だけを磨いてきました。その結果、「分からないことを分からないと言う」「仮説を立てて検証する」といった思考の基本動作が社会全体で弱体化しています。

面白いのは、中国の若者の方がこの点ではよほど健全だという事実です。彼らは人民日報や国営テレビを鵜呑みにしません。「報道の逆を考える」というリテラシーが、皮肉にも全体主義体制の中で育っている。一方、日本では「自由な報道」があるはずなのに、それを無批判に消費するだけの大衆が量産されています。トーマス・ジェファーソンの言葉を借りるなら、「新聞ばかり読む人は、何も読まない人より教養がない」という状況が、テレビを含めて拡張されているように見えます。

かつて小林秀雄は、敗戦直後の講演で「人生観」という言葉の軽さを指摘しました。今の日本は、その軽さを思想だけでなく、報道にも持ち込んでしまったようです。重たい問題を、軽やかなトークで処理する。その場では分かった気になりますが、何も残らない。まるで栄養バランスを考えないファストフードのような報道が、毎日大量に消費されています。

社会の木鐸とは、本来、不人気で、面倒で、時に嫌われる存在です。叩かれても黙らず、空気を読まず、問い続ける。ユーモアとは、その厳しさを和らげるための知性であり、決して思考停止の潤滑油ではありません。しかし今の日本のメディアは、ユーモアを「笑い」に矮小化し、皮肉を「悪意」と誤解しているように見えます。

坂口安吾は「もっと堕落しろ」と言いました。堕ちきることで、初めて目が覚めるかもしれない、と。日本のジャーナリズムも、もしかすると今はその段階にあるのかもしれません。どこまで堕ちるのか、いつ目覚めるのか、それは分かりません。ただ一つ言えるのは、社会の木鐸が沈黙したままでは、国家の未来図は決して描けないということです。

木鐸は、誰かが叩いてくれるのを待つものではありません。自らの内部に空洞を持ち、響く準備ができているかどうか。その問いは、メディアだけでなく、私たち一人一人にも向けられているのだと思います。

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2026年1月6日火曜日

トランプのベネズエラ攻撃が突きつけた現実 ――分断する評価と、日本が直視すべき立場――

 
群れを離れたとき、はじめて思考が始まる

トランプのベネズエラ攻撃が突きつけた現実


――分断する評価と、日本が直視すべき立場――

年明け早々、米国はベネズエラを急襲し、マドゥロ大統領を拘束・米国に移送しました。この行動をめぐり、日本でも評価は大きく二分しています。

一つは、国際法違反としてトランプ氏を厳しく非難する「国際法支持」の立場。もう一つは、中国の世界的な拡張行動を牽制・抑止するための現実的な一手として、トランプ氏の判断を評価する立場です。

意見が真っ二つに割れる――この光景自体が、敗戦後80年にわたって続いてきた日本の特徴を象徴しているように思えます。

私はアメリカに長年住み、中国についても1970年代、文化大革命後期からウォッチしてきました。学者ではありませんので、細部の分析には限界がありますが、日本人として、どうしても考えざるを得ないことがあります。

それは、私はこの二つの立場のどちらにも与しない、ということです。

現実を見て、現実に生きるという視点

トランプ氏のベネズエラ攻撃は、国際法の観点から見れば問題がある行動です。一方で、現代の国際社会が、「国際法だけで動いている世界」ではないことも、否定しようのない現実でしょう。

注)私は国際連合や国際法を全く信じていません。現職の政治家が、国連や国際法を金科玉条のごとく信奉する姿勢は、国民に対して無責任だと考えています。

BBCなど欧米メディアも、この行動を単なる「暴挙」と断じる一方で、その背後にある地政学的意図――とりわけ中国への牽制――を冷静に分析しています。

問題は、トランプ氏が正しいか、間違っているかではありません。
問題は、日本がどの立場で、この現実を見ているのか、です。

従属国として生きるなら、その覚悟が要る

もし日本が、これからもアメリカの従属国として生きるのであれば、それならそれで、その立場にふさわしい発言や行動を選ぶべきです。従属国である以上、外交姿勢も、世界へのメッセージも、当然変わってきます。

しかし日本は、現実を直視せず、「対等な同盟国である」という幻想で自らを覆い隠してきました。その姿は、外から見れば、敗戦国としての屈辱的な立場を誤魔化しているように映っている可能性があります。

そして最近、私はこう思うようになりました。

日本は自己欺瞞をしているのではなく、自分が屈辱的な立場にいるという現実そのものを、理解していないのではないか、と。
 
ヤクザ社会に学ぶ「立場を知る」ということ

少し極端な例えかもしれませんが、ヤクザ社会には子分の仁義や掟があります。一人前になるには、その立場をわきまえ、掟の中で耐え、学び、力を蓄えるしかありません。立場を誤認した子分は、組織の中でも外でも生き残れません。

日本も同じではないでしょうか。

まずは、自分たちが従属的な立場にあるという現実を認めること。そこからしか、成長も、交渉も始まりません。

独立という選択肢と、その重さ

日本が真の独立を目指すという道もあります。しかしそれは、イバラの道です。安全保障、経済、外交、すべてにおいて、あらゆる困難を引き受ける覚悟が求められます。長期的な低迷を経験する可能性もあるでしょう。

それでも私は、日本はいつか、真の独立を目指すべきだと思っています。そしてそのときこそ、アメリカと「対等なパートナー」になれる。

皮肉なことに、トランプ氏のような現実主義者は、その話にこそ乗ってくる可能性があるのではないでしょうか。日本にとってのチャンスです。

交渉の余地は、現実の中にある

例えば、自衛隊の訓練を有料で米軍に委ねる(実際、すでに一部では行われています)。あるいは、日本の刑務所運営の一部をアメリカにアウトソースする。突飛に聞こえるかもしれませんが、こうした具体的な取引こそ、トランプ流の交渉の俎上に載り得る現実的な材料です。

重要なのは、「対等であるふり」をやめることです。「ごっこ」の世界からの脱却です。まずは従属国であるという現実を認め、その立場から交渉を開始する。そこにしか、次の段階はありません。

坂口安吾が突きつけた地点

ここで、私の頭の片隅には、どうしても坂口安吾の『堕落論』(1946年)が引っかかります。敗戦直後の日本で安吾は、「堕落しろ。まだ堕落が足りない」と言いました。それは投げやりな破壊ではなく、幻想や建前をすべて失い、人間が本来の姿に立ち返るための過程でした。

堕落の本質は孤独にある、と安吾は言います。集団の幻想に安住せず、一人荒野に立ち、そこから這い上がれ、と。今の日本に必要なのも、まさにその地点まで降りていく覚悟ではないでしょうか。

トランプの行動が、日本に突きつけたもの

トランプ氏のベネズエラ攻撃は、是非以前に、日本に問いを突きつけています。あなたは、現実をどう見るのか。そして、その現実の中で、どの立場で生きるのか。

分断された意見のどちらに与するかではなく、現実を見据え、そこから日本の進む道を考える。今、日本に最も欠けているのは、その覚悟ではないでしょうか。

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2026年1月5日月曜日

袋詰めカウンターは戦場だった ――スーパーで見た「老い」とプライドの正体――

 
袋詰めカウンターは静かな戦場になる

2026年、令和8年の幕開け

お正月、いかがお過ごしでしたか。

私はといえば、我が家の愛犬・チャーリーのドッグフードを買いに、1月4日の初売りで賑わう近所のスーパーへ繰り出してまいりました。わりと規模の大きなスーパーです。

そこで目撃した光景が、あまりに「現代日本」を凝縮した地獄絵図、もとい、シュールなコントのようでしたので、少しばかり書いておこうと思います。

聖地「袋詰めカウンター」の決闘

昨日のスーパーは、昼前だというのに凄まじい混雑でした。
店内を見渡せば、右も左も、前も後ろも高齢者。

正月早々、ここが老人ホームか、はたまたパラレルワールドの永田町かと思うほど、見渡す限りのシルバー、シルバー、シルバー。もちろん、そのシルバーの一人は私自身なのですが。

私は今では一般的な「セルフレジ」が嫌いです。
レジ係とのほんの短い会話を大事にしているからです。

ですから、あえて「人のいるレジ」に並び、会計を済ませ、戦利品を袋に詰めるべくパッキングのカウンターへと向かいました。

やっとの思いで見つけたわずかなスペース。
そこでチャーリーのドッグフードをカゴから出そうとした、その時です。

突如として、隣でいさかいの火蓋が切られました。

出演者は、70代後半とおぼしきお二人。
スペックはほぼ同等。お二人ともカッコいい防寒ジャンパーを羽織り、人生の荒波を乗り越えてきた自負が、その鋭い眼光から滲み出ています。

いさかいの発端?
正直、わかりません。

カゴの角が少し触れたのか、レジ袋の広げ方が気に食わなかったのか、あるいは「お前の顔がそもそも新年にふさわしくない」といったレベルの言いがかりかもしれません。

武器を持たない、世界一激しい「口撃」。

喧嘩の内容は実に些細なものでしょう。しかし、その熱量は凄まじい。

「お前、さっきからマナーがなってないんだよ!」
「マナーだと? どの口が言っとるんだ!」

スーパーの若い店員さんは、遠巻きに「またか……」というような、死んだ魚の目で見守っています。仲裁に入る気配など微塵もありません。おそらく彼らにとって、これは日常茶飯事、あるいは「野生の動物番組」を見ているような感覚なのでしょう。

「かつての自分」を捨てられない悲哀

一般的に、高齢者のトラブルは、「認知機能の低下」だの「身体的ストレス」だのと説明されます。医学的・行政的な解説によれば、「易怒性(いどせい)」がどうとか、「前頭葉の萎縮」がどうとか。しかし、私の目の前で展開されているこの決闘を見て、私は確信しました。

これ、単なる「プライドの衝突」です。

彼らは決してボケているわけではありません。むしろ、頭の回転は驚くほど速い。

相手を罵倒するためのボキャブラリーの豊富さといったら、最近のSNSの誹謗中傷など足元にも及ばないほどのキレがあります。

問題は、彼らが「かつての自分」を背負ったまま、スーパーの袋詰め台という、極めてパーソナルな空間に降り立ってしまっていることです。

現役時代、部下を従え、大きなプロジェクトを回し、「俺の指示が絶対だ」と信じて疑わなかった時代。

その栄光という名の透明な鎧を脱げないまま、令和8年のスーパーで、「レジ袋がうまく開かない」という現実の無力さに直面している。そのギャップから生じるイライラが、隣の「同じような鎧を脱げない爺さん」にぶつかるのです。

まさに、鏡合わせの自分を殴っているようなものです。

私という名の「鏡」

喧嘩を見ながら、私はふと、ビニール袋を広げようとして、指先がカサカサで滑りまくる自分の手を見つめました。

「年寄りって、いやだな……」

私も今、同じ舞台に立っている。私もまた、セルフレジを嫌い、自分のやり方に固執し、混雑に思いっきりイラついている。

20代、30代の皆さんは思うでしょう。「自分はあんな風にはならない」と。

しかし、前頭葉は裏切ります。
自然の摂理には抗えません。

あんなに優しかったお父さんが、あんなにスマートだった上司が、ある日突然、スーパーの袋詰め台で「場所を譲れ!」と叫ぶ戦士に変貌する。

それは、老化という名のマイクロソフトの強制アップデートなのです。
しかも、元に戻す方法はありません。

2026年、新年の誓い

50代、60代の「予備軍」の皆様。
君たちは今、トレーニング期間にいます。

「自分が正しい」と思った瞬間に、心の中で「他人も正しい」と自分に言い聞かせる練習をしておかなければなりません。さもないと、近い将来、あなたは私の隣で叫んでいるかもしれません。

結局、お二人の決闘は、一方が現場を立ち去ることで幕を閉じました。
勝者は不在です。

残されたのは、気まずい沈黙と、散らばったレジ袋の残骸だけ。

私はチャーリーのドッグフードを抱えて帰路につきました。家に戻り、チャーリーの無垢な目を見て、少しだけ救われた気持ちになりました。

彼には「プライド」も「スペック」も「かつての肩書き」もありません。ただ、「今、ここにあるおやつ」に全力で感謝するだけです。彼はひたすら今を生きているのです。

「歳はとりたくないものだ」

これは真理かもしれません。
しかし、歳をとることは止められません。

ならばせめて、私は「袋詰め台で譲れる老人」になりたい。もし私がスーパーで誰かと怒鳴り合いをしていたら、どうぞ優しく諭してください。

令和8年。鏡の中の自分と喧嘩をしないために。

令和8年、本年も「謙虚な前頭葉」を大切に過ごしてまいりましょう。

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2026年1月4日日曜日

森林が語る文明の寿命 ――アメリカのベネズエラ攻撃と、子どもたちに残す未来

 
多くの日本人は森林にもベネズエラにも関心がない


森とともに生きるという選択

人類の文明は、森とともに始まりました。

木は燃やせば大きな熱を生み、加工しやすく、身近にあります。調理、暖房、住居、道具――文明の基礎の多くは森林に支えられてきました。人類が世界各地へ広がることができたのも、森という存在があったからです。一方で、文明の発展は常に森林の伐採と背中合わせでした。

国連食糧農業機関(FAO)によれば、過去35年で世界の森林は日本の国土の5倍以上失われています。特に南米、アフリカ、東南アジアの熱帯雨林の減少は深刻です。1万年前と比べれば、世界の森林はすでに3分の2にまで減ったという推計もあります。これは「最近の環境問題」ではありません。

人類は古代から、合理的な判断として木を切ってきました。燃料効率が良く、石より軽く、生活に不可欠な資源だったからです。文明の繁栄と森林破壊は、最初から表裏一体だったのです。

環境考古学という学問

気候や地理条件などの環境が、人間の文明にどのような影響を与えてきたかを探る分野です。ある教授は「森を切り開くと文明は衰退する」と語っていました。ローマ帝国は森林を失い、土地が荒廃し、多神教的な世界観から一神教へと移行する中で、多様性を失い、やがて衰亡したという指摘です。私はこの見方を、かなり信じています。この視点は、森林が単なる資源ではなく、文明の思想や世界観そのものを支えていることを示しています。

私自身、宗教というよりも、「森や木や石や水に命が宿る」と感じる日本的な感覚に惹かれてきました。自然の循環や繰り返しを尊ぶ心は、経済効率だけでは測れない価値を持っていると思います。こうした思いの背景には、森を生涯の仕事とした祖父の存在があります。

祖父は明治33年生まれで、奈良の営林署から南樺太へ赴任し、1920年代から戦前・戦後を通じて日本の森林事業に人生を捧げました。極寒の山野を歩き、林道を拓き、木を育て、森と共存する知恵を現場で体現した人でした。国立国会図書館のデジタルアーカイブには、祖父の名前が林野庁の職員記録として残っています。

もっとも、私にとっての祖父は、学歴や業績よりも、日常の姿が強く印象に残っています。声を荒げることなく、淡々と暮らしながら、山と森への情熱を静かに燃やし続けていたのだと想像します。祖父は、私が中学生の頃に亡くなりました。

「木育」という言葉

子どもたちが木製玩具などを通じて木や森に親しむ教育です。意義は大きいと思いますが、祖父のように実際に森を歩き、木と格闘しながら学んだ経験と比べると、どこか物足りなさも感じます。森の匂い、木肌の感触、木陰を抜ける風――現場に立って初めて育まれる畏敬の念があるのではないでしょうか。

皮肉なことに、その木育発祥の地である北海道では、再生可能エネルギーの名の下に森林伐採が進んでいます。風力発電やメガソーラーは脱炭素という大義を掲げていますが、森を切り開いて設置される事例も少なくありません。釧路湿原周辺で進む開発計画は、生態系や景観との衝突を引き起こしています。森を犠牲にして未来を守れるのか。その問いは重くのしかかります。

アメリカのベネズエラ攻撃との共通性

この構図は、ここ数日メディアが報道するベネズエラ情勢とも共通しています。

「麻薬対策」「移民問題」という説明が前面に出されながら、実際の統計や専門家の分析はそれと噛み合っていません。アメリカの主張を「主張」として距離を取り、構造や根拠を検証しようとするのか。それとも、その主張を前提として報道するのか。日本の報道は、もっともらしい理由が単語として羅列されるだけで、そこにジャーナリズム精神は感じられません。

森林問題も同じです。

環境保護や持続可能性という言葉はあふれていますが、私たちの文明が「成長し続けること」を前提としている限り、森は切られ続けます。文明は資源を使うことで発展しますが、資源を使い尽くす文明は長く続きません。これは思想ではなく、歴史が繰り返し示してきた事実です。

自然を征服するのではなく、人と自然が一体となること。それは環境考古学が示唆する文明の条件であり、祖父が生涯を通じて体現していた姿勢でもあります。森は文明の礎であり、私たちが未来へ引き継ぐべき原点です。

森が語っているのは、環境問題ではなく、文明の寿命そのものなのかもしれません。その声に耳を傾けるかどうかが、私たちの選択なのだと思います。

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2026年1月3日土曜日

「義」は生きているか――令和に問う『武士道』の現在地

 

静と動――武士道が伝えてきた『義』の二つの表情
  

2026年年初に「義」を考える

――新保祐司・新渡戸稲造・アメリカ人の視点から――

私は新聞を読まなくなって何十年も経ちますが、元旦の新聞だけは別です。各紙の論調を一望すると、その年の日本がどこに立っているのかが、うっすらと見えてくるからです。

2026年元旦、産経新聞の「正論」で、文芸評論家・新保祐司氏が「義」を正面から論じていました。年末からたまたま武士道やヤクザ、さらにはアメリカ人の言う「義務」や「責任」について考えていた私にとって、この論考は不思議な符合を感じさせるものでした。

新保祐司氏のいう「義の国」

新保氏は、日本が内憂外患の危機に直面するいま、必要なのは制度改革や対症療法ではなく、「義」を時代思潮の基調に据えることだと述べています。そして令和を「第2の明治」と捉え、明治の精神の核心こそが「義」であったと指摘します。

新保氏が引くのは、札幌農学校に学んだ内村鑑三と新渡戸稲造です。内村の『後世への最大遺物』が説く「勇ましい高尚なる生涯」、新渡戸の『武士道』が最初に掲げる徳目「義」。それらはいずれも、損得や空気ではなく、正しいと信じる道を実践する生き方を意味しています。

新保氏の文章で印象的なのは、「昨年は『勇ましい高尚なる生涯』とは対極的な出処進退を随分見せられた。もうたくさんである」という一節です。これは、近年の日本の政治や組織に蔓延する、責任回避や保身、責任転嫁への強い違和感を代弁しているように感じました。

新渡戸稲造『武士道』とは何か

新渡戸稲造の『武士道』は、明治33年に英文で出版されました。序文には有名なエピソードがあります。

ベルギーの法学者から「日本には宗教教育がないのに、どうやって道徳教育をするのか」と問われ、新渡戸は自分に善悪の観念を植え付けたのが「武士道」だったことに気づいた、と述べています。

アメリカやヨーロッパでは、宗教が道徳の基盤です。ニューヨークでは、ユダヤ教の祝祭日を考慮したスクールカレンダーが組まれ、子どもは宗教や民族意識の中で育ちます。一方、日本人の日常生活では宗教心はほとんど表に出てきません。新渡戸はそこを否定するのではなく、「宗教に代替する精神的基盤としての武士道」を提示しました。それが「The Soul of Japan」「The Yamato Spirit」です。

『武士道』は全17章からなり、3章から11章で徳目が体系的に論じられます。最初に置かれているのが「義(Rectitude or Justice)」です。義とは、単なる正しさではなく、「敢為堅忍」、すなわち実行力と忍耐力を伴った決断の力だと説明されます。義のない勇気は無謀であり、義のない礼は猿芝居であり、義を欠けば名誉も忠義も成り立たない。これらの徳目は相互に結合した一つの体系なのです。

私自身、この本は夏目漱石の『私の個人主義』と並ぶ座右の銘です。英語は難しいですが、三年間の中学英語は『武士道』一冊で十分だと本気で思っています。「The feeling of distress(惻隠の情)」などの表現を、外国人との会話でさらっと使えたら、それだけで日本人としての背骨が伝わるはずです。余談ですが、私は『武士道』は、新渡戸がクエーカー教徒であるアメリカ人の奥様に書いたラブレターのように感じます。

アメリカ人の考える「義」

興味深いのは、「義」は決して日本人だけの専売特許ではないことです。アメリカで仕事をしていた頃、私の周囲には海軍や海兵隊の将校出身者が何人もいました。彼らに共通していたのは、強い「sense of obligation」、つまり義務感でした。

日系人初の米太平洋艦隊司令官、ハリー・ハリス提督は、日本人の母から「義理(duty)」を叩き込まれたと語っています。「国民は国家が必要とするときに奉仕する」という感覚は、アメリカではごく自然なものです。義務と責任が対になっている社会だからです。

ルース・ベネディクトは『菊と刀』で「義理は日本人特有の範疇だ」と述べましたが、私は必ずしもそうは思いません。中国人にも、アメリカ人にも義を重んじる人はいます。問題は、現代社会において、正義の道理を勇気をもって実行する人が極端に少なくなったことです。

スペインの哲学者オルテガが「我は我と我が状況である」と言い、エリック・ホッファーが群衆心理の中で描いたように、人は環境と人間関係によって形づくられます。義を欠いたネットワークに身を置けば、義は育たないのです。 

「武士道」は生きているか

新渡戸稲造は『武士道』の終盤で問いかけます。
Is Bushido Still Alive?

吉田松陰の

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」を英語で紹介しながら、武士道とは状況に流されず、覚悟をもって行動する精神だと示しました。

いまの日本で、「やむにやまれぬ」という言葉が、どれほどの重みをもって使われているでしょうか。権力を守るために仲間を裏切り、責任を国民に転嫁する姿は、「The Soul of Japan」とは正反対です。

新保祐司氏が期待するように、厳しい国際環境が日本人の皮膚に「搔痕」を与え、その下から「一人の武士」が現れるのかどうか。その答えは、私たち一人ひとりが「義」を自分の問題として引き受けるかどうかにかかっています。

もし『武士道』を読んだことがなければ、ぜひ一度手に取ってみてください。そこには、今の日本に最も欠けている背骨が、静かに、しかし揺るぎなく書かれています。

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2026年1月2日金曜日

2026年 元旦に思う ――ハクビシンに出迎えられて

 
元旦の早朝、夜が明ける少し前、いつものように近所を散歩していました。この早朝散歩は、もう10年以上続いています。

そのときです。

路地の向こうを、一匹の猫が横切った――ように見えました。
「まだ野良猫なんているんだ」

そう思った次の瞬間、その“猫”の後ろから、ぞろぞろ、ぞろぞろと何かが出てきました。

猫ではありません。

ハクビシンでした。それも一家総出です。

先頭の一匹、続く二匹、さらに子どもらしき小型の個体。
ざっと見て、4~5匹はいます。

まるで「今年もよろしくお願いします」と、新年のパレードでもしているかのようでした。ハクビシンは分類上「害獣」だそうですが、見た目は妙に愛嬌があります。

しかもこの一家、人をまったく恐れない。
どうやら、どこかで人間から餌をもらった経験があるらしく、子どもハクビシンに至っては、私と愛犬チャーリーのほうへ寄ってきます。

もっとも困惑していたのはチャーリーでした。

彼は他の犬を見ると例外なく吠え散らかすのですが、相手がハクビシンとなると話は別です。吠えるどころか、固まっている。

「これ、犬なのか? 猫なのか? それとも正月の縁起物なのか?」
「……吠えるべきか?」

そんな顔をしていました。

写真をご覧いただければ分かる通り、複数のハクビシンが、すでに完全に住宅地に定着しています。可愛らしさとは裏腹に、健康・衛生面、建物への被害など、実害は決して小さくありません。

奥多摩ではクマ、武蔵野ではハクビシン。

さらに言えば、早朝に吉祥寺方面から仕事を終えて帰宅する若者の、ほぼ半分が外国人になりました。日本列島も、なかなか多様性に富んできました。

さて、家に戻りメールをチェックしていると、例年どおり新年のあいさつメールがいくつも届いていました。ありがたいことです。私もまだ忘れられてはいないようです。

ただ、その中に一通、少し引っかかるものがありました。

政府の人口政策について触れた内容だったのですが、気になったので、忘れないうちにここに整理しておこうと思います。

まず、事実確認からです。現在、政府が進めている人口政策は、大きく二つの柱から成っています。

一つ目は、出生数の反転を目指す対策です。

児童手当の拡充、保育・教育費の軽減、育児休業制度の拡張、住宅支援など、「産みたい人が産める条件」を整える取り組みです。効果がすぐ数字に出ないのは当然で、これは10年単位で評価すべき政策でしょう。

二つ目は、人口減少を前提にした国家運営への転換です。

地方自治のあり方、医療・交通・上下水道といったインフラの維持方法の見直し、デジタル化による効率化。「人口が減っても国として機能を保つ」ための備えです。どれも早急な対策が必要です。

昨年11月に設置された「人口戦略本部」は、まさにこの二つを同時に考えるための司令塔です。希望的観測だけで「人口はそのうち増えるはずだ」と唱えるより、よほど責任ある姿勢だと思います。

ところが、その文章では、こう書かれていました。

「いつの間にか、人口減対策とは関係ない話に論点がズレていく」、「安い給料で女性を働かせようという、過去の政権の焼き直しの臭いがする」。

正直に申し上げて、ズレているのは政策ではなく、この論評のほうです。

人口減少対策と、人口減少を前提にした国家運営は、対立概念ではありません。これは、ブレーキを踏みながらエアバッグを装備するようなものです。事故を防ぐ努力をしつつ、万一に備える。当たり前の話です。

それを見て「事故を前提にするなんて無責任だ」と言い出すのは、運転席ではなく後部座席からハンドルに口出ししているようなものです。

さらに不可解なのは、「安い給料で女性を働かせる」という話が、どこから飛び出してきたのか、まったく分からない点です。人口戦略本部の話から、なぜそこへ瞬間移動するのか。論理というより、条件反射に近い印象を受けます。

人口減少社会では、女性も高齢者も外国人も含め、全員が能力を発揮できる社会設計が必要です。それを一言で「安く使う」とまとめてしまうのは、政策批判ではなく感情の吐露でしょう。安全保障の問題もあります(国内治安は悪化していると思いますよ)。

「やる気もないことに『真剣に検討します』と言い、防衛費と国会議員給与だけは増やす」

この一文には、現代日本病が凝縮されています。

  • 結果がすぐ出ない政策 ⇒ やる気がない
  • 防衛費 ⇒ 不要
  • 国会議員給与 ⇒ 悪意の象徴 (資格のない多くの国会議員には退場してもらいたいが)

すべて、感情的な連想ゲームです。

防衛費が増えるのは、日本の地理的位置や、ウクライナ侵攻以降の国際環境を見れば自然な流れです。日本は、ひょこりひょうたん島のように、好きな場所へ移動できません。国会議員給与も、制度上の改定であって、要は、資格のない自称政治家には退場願うことです。

それらを一括して「臭いがする」と表現するのは、論評というより、日本で蔓延している印象操作に近いものです。

文章の終盤では、こんな問いが投げかけられていました。

「自分は井の中の蛙、やがて茹でガエルになっていないか?」

率直に言えば、この問いは、そのまま書き手自身に返ってきます。

国家運営の現実を見ず、人口減少を「考えたくない未来」として切り捨て、国際情勢や安全保障を「誰かが何とかしてくれる」と無意識に信じる。

それは、「国連が助けてくれる」、「憲法9条があるから大丈夫」という思考停止の延長線上にあります。

最後に掲げられる「何でも見てやろう」という言葉は、確かに耳触りが良い。しかし問題は、何を見て、何を見ていないのかです。

人口構造、財政、インフラ、安全保障という重たい現実を直視せず、「雰囲気」「臭い」「焼き直し」で片付けてしまう。それは世界を旅する姿勢というより、自宅の縁側から世界を論じている状態です。負け犬の遠吠えかもしれない。

人口減少を前提に国家運営を考えることは、逃げではありません。経済予測は外れても、人口動態はほぼ予測どおりに進みます。希望だけを語り、備えを語らないほうが、よほど無責任でしょう。

新年早々、少々辛口になりましたが、「井の中の蛙」や「茹でガエル」という言葉は、他人に投げる前に、まず自分の足元の温度を測るために使いたいものです。私もまた、改めて自分の足元を見る必要があります(照顧脚下)。

明けましておめでとうございます。
本年も、現実から目を逸らさず、よろしくお願いいたします。

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2026年1月1日木曜日

人生最大のピンチは、だいたい夜明け前にやってくる

 

大晦日の早朝――正確には、12月31日の午前3時ごろのことでした。
世間では、大晦日ということで慌ただしい一日が待ち構えている。

私はすでに起きていました。
年寄りの朝は早い。というか、これが私の日常であり、ゴールデンタイムでもあります。

その時間、なぜか無性に中華粥が食べたくなりました。

炊飯器にはすでにセットしてあり、スイッチを入れるだけ。
あとは炊き上がりを待つだけです。

やがて炊きあがる音がして、いい匂いが立ちのぼってきました。
パクチー、ネギ、ドライオニオンを並べ、器はどれにするかなぁ、、、。
「さて、食べるか」と思った、その瞬間――
炊飯器の蓋が、開きません。

フックボタンを押しても、微動だにしません。
何度押しても、反応なしです。

中華粥の香りだけが、やけに元気に主張してきます。
いい匂いはする。
しかし、開かない。

これは焦ります。
大変です。
もしかしたら、人生最大のピンチかもしれません。

仕方なくネットで調べ、
パナソニックの「24時間チャット対応トラブル窓口」にアクセスしました。
深夜でも対応してくれるらしい。文明は進みました。

ところが、10回ほどやり取りして分かりました。
相手は、どう考えてもロボットです。

こちらが

「蓋が開かない」
「中華粥が食べられない」
と必死に訴えているのに、ロボットさんは冷静に、

「専門のテックにつなぎます。次の画面でお申し込みください」

と言います。

中華粥は好きか聞いても答えません。

しかも、

「通常500円のところを198円にディスカウント」
などと、いかにも親切そうな提案までしてきます。

もちろん、申し込みません。詐欺の可能性だってあります。
年寄りといっても、人生経験豊かな高齢者は簡単には騙されません。

そうこうしているうちに、50分ほど経ちました。
すると――

中が冷めたのか、再びフックボタンを押すと、あっさり開きました。

……あれほどの騒ぎは、何だったのでしょうか。

こうして私は、無事に中華粥にありつくことができました。
もう夜明けが迫っています。

パクチーも、ネギも、ドライオニオンも、すべてが報われました。

教訓はいくつかあります。

一つ、人生のピンチは、だいたい午前1時に起こります。
二つ、深夜のチャット窓口は、だいたいロボットです。
三つ、多くの問題は、少し時間が経てば勝手に解決します。

大晦日の夜明け頃、
私は湯気の立つ中華粥をすすりながら、
「まあ、今年もこんな感じか」
と、一人で納得しました。

新しい年も、きっと
大げさな騒ぎと、小さな結末の繰り返しなのでしょう。

***