2011年2月25日金曜日

ユダヤ人の生きる姿勢

樋口季一郎 陸軍中将

ユダヤ人(ジューイッシュ)の生き方は、今の日本人にとってお手本になるものです。ところが、日本でジューイッシュが話題になることは、全くと言っていいほどありません。ユダヤ人は、1948年にイスラエルが建国されるまで、1800年もの間、自らの国を持ちませんでした。

アメリカ、特に東海岸でのジューイッシュの存在感は非常に大きいものです。アメリカ全体でジューイッシュの人口は2%前後ですが、ニューヨークでは約20%です。ウォールストリートの金融街、医師、弁護士、教師、コンサルタント、芸術家など知的な職業に就くジューイッシュが非常に多い。ジューイッシュの家庭は非常に教育に熱心です。お母さんたちは、まさに孟母三遷(もうぼさんせん)、子どもの教育のためには引越しも厭わずです。国が存在せず、または、信頼できないのであれば、世界のどこでも生きていく生命力、スキルが必要だという精神が受け継がれているのです。日本には、まだ列島があります。ジューイッシュの生きる姿勢をお手本としながら、日本は日本の危機意識を持って復活してもらいたいですね。

イスラエル建国の功労者 樋口季一郎中将

さて、実はジューイッシュと日本は関係が深いのです。戦争遂行には膨大な資金が必要でした。日露戦争の軍費は、ニューヨークのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフが日本の戦時国債を大量に購入したことによって賄われました。このシフの強力な資金援助がなかったら、日本の勝利と帝政ロシア崩壊はなかったでしょう。シフの融資の理由は、帝政ロシアでの反ユダヤ主義に対する報復だったのです。

ユダヤ人社会では、二人の日本人がイスラエル建国の功労者として称えられています。日本帝国陸軍の樋口季一郎(ひぐち きいちろう)中将と安江仙弘(やすえ のりひろ)大佐です。日本人、それも、日本帝国陸軍の軍人がイスラエル建国の功労者だと言われてもピンと来る日本人は少ないと思います。もしご存じなければ、この機会に是非とも覚えておいて下さい(エラそうですね、、、失礼しました)。

日華事変勃発直後の1938年、ナチスの迫害から逃れるために、多くのユダヤ人がソ連・満州国境沿いにあるシベリア鉄道オトポール駅まで避難していました。第二次大戦中、ソ連のユダヤ人も多くがシベリアに連行され強制収容所で亡くなっています。樋口は、ユダヤ人難民を満州に入境させる措置をとりました。満鉄から救援列車を満州里駅まで出して、国境を歩いて渡った難民を収容しました。ドイツ外務省は、当時、日独同盟を結んでいた日本政府に対して猛烈な抗議をしたそうですが、樋口の上司であった東条英機は「人道上の配慮からだ」と突っぱねたのです。

安江大佐は、ユダヤ難民の満州への移住計画を主導しました。日露戦争の軍資金をユダヤ資本に頼った経験から、戦費捻出のためだったとも言われますが、事実として多くのユダヤ人の命を救ったことには違いありません。安江大佐は終戦直後ソ連軍に逮捕されシベリアに抑留され1950年、ハバロフスク収容所で病死しました。満州で救われたユダヤ人のうち6000人が大連から船で敦賀に上陸し、その後、汽車で神戸にやってきました。いまでも神戸にはユダヤ教の会堂であるシナゴーグがあります。

東条英機だけでなく、満鉄総裁であった松岡洋右も樋口季一郎と協力してユダヤ難民を保護しています。東条も松岡も極悪非道の戦犯というのが学校で教える歴史ですね。学校が教えないなら、親が賢くなって子どもに伝えるしかないのです。

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