2011年2月23日水曜日

サザエの殻

ES335

国が人民の殻(から)でない今の日本、パンダのようにワシントン条約で絶滅種に指定してもらい保護してもらうしか日本人生存の道は無いのでしょうか?

1881年(明治14年)、福沢諭吉46歳。外交政策論である『時事小言』を発表しました。若い頃から内外で見聞を広めた福沢諭吉は、「日本にとって大事なことは、国力を増強し、独立主権を目指すことだ」と、強く思ったのでしょう。

殻の外の「喧嘩異常なる」って、チュニジア、エジプト騒乱に端を発する中東情勢であり、中国の軍拡、北朝鮮の核問題、プーチンロシアの脅威、欧米の経済状況、、、「殻」たる政府が取り組まなければならないことは枚挙に遑がないですね。「気がついたら殻と共に魚市場のまな板の上だった」なんてことがないようにしてもらいたいものです。それとも、ヤドカリにように、別の「殻」を探さなければならないのでしょうか?

「俚話(りわ)に、青螺(さざえ)が殻中に収縮して愉快安堵なりと思ひ、其安心の最中に、忽ち殻外の喧嘩異常なるを聞き、窃(ひそ)かに頭を伸ばして四方を窺(うかが)へば、豈(あに)図らんや、身は既に其殻と共に魚市の俎上に在りと云ふことあり、国は人民の殻なり。其維持保護を忘却して可ならんや」(俚話:巷の話)。

福沢諭吉は大阪生まれの武士でした。10代の頃は居合と同時に漢学を学び、緒方洪庵の適塾では自然科学を学びます。江戸に出たあと、横浜の外国人居留地の見物に行ったら、専ら英語が使われていて、自分が学んできたオランダ語が全く通じずショックを受けています。24歳でした。この時から英語を猛勉強し、1860年、勝海舟と共に咸臨丸で渡米することになりました。

1862年(文久2年)、27歳の福沢諭吉は、幕府使節団の一員としてヨーロッパ各国を訪問しました(この年、新渡戸稲造が岩手で誕生しました)。欧州に行く途中、香港、シンガポールで植民地主義・帝国主義を目の当たりにしたのです。アジア人が白人によって虫けらのように扱われるのを見てショックだったでしょうね。ロンドンでは万国博覧会を視察し、蒸気機関車や電気機器に触れました。樺太の国境問題の交渉でロシアにも行っています。帰国後『西洋事情』を書いています。1867年には再度渡米、帰国後は『西洋旅案内』を書き、教育活動に専念して行きます。

漢文からオランダ語、英語。人文科学から自然科学。江戸から明治。日本から海外、それも、アメリカ、アジア、ヨーロッパ諸国。クロスオーバーですねぇ、ギタリストでいえば、先日グラミー賞を受賞したラリー・カールトン(ミスターES335)みたいな人です。

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