福沢諭吉は「学問すすめ」12編で二つのことを言っています。一つは、スピイチです。もう一つは、福沢諭吉が明示的に言ったわけではありませんが、私はインテグリティのことだと理解しています。
今日は、スピイチに関してです(インテグリティは次回に回します)。
どんなに勉強をしても、目に見えるアウトプットがないと意味がないのではないか?つまり、多くのデータを集めて、様々な考察をしても自分以外の人に訴えかけないと、それまで費やした思索や価値のある意見は意味を成さないということです。
コンピュータ(情報処理)は、インプットと処理とアウトプットの3つから構成されています。どれだけ技術が進んで人間との親和性が進歩しても、この基本は変わりません。コンピューターは、ディスプレイやプリンターでアウトプットするのですが、人の場合は、スピイチのように表現する力が大切になります。これが、一朝一夕には出来ない。小さい時からの訓練、繰り返しの練習が必要になる訳です。
アメリカの幼稚園で行われるショウ・アンド・テル(Show&Tell)は、小さな発表会です。自分で好きな物を持って来て、クラスメート全員の前で話をします。幼稚園児は、自分の気に入っているおもちゃなどの話をする。自慢話ですね。先生は助け船を出したりしながら、とにかく褒めまくる。
アメリカの子供達が人前で物怖じしないのは、こういった小さい時からの訓練が出来ているからでしょう。幼稚園の頃から人前で発表することを繰り返し練習していたら、人前で緊張することもなくなるでしょう。「ストーリーを作る力」もついてくるだろうし、笑いのつぼなども分かってきて、ユーモアのセンスもついてくるのだと思います。
日本の教育では、アウトプットの部分が弱いように感じます。福沢諭吉もスピイチの重要性を指摘しています。小さい時から人前で話をする訓練を積むことは、非常に大事なことだと思います。
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多分、この論点に対する反応は、あれ、日本では「沈黙は金。」ではないのか?「男は黙ってサッポロビール!」だよね。という事かなと思います。根回しや腹芸、アウンの呼吸で意思疎通というのが、日本の美徳、他の追随を許さない素晴らしさに在らずや。という事だと思います。その結果、国際舞台でJudoは、審判にその場でアピール出来ず、「金」を逃し、ならば、「黙って」に徹するかと思いきや、後になってぼそぼそと。「きっちり抗議/アピールして金」に出来る日本人の出現を期待しています。
返信削除日本人は、「表現をする力が弱い」というのは、同感です。スピーチだけでなく、文章でも表現をする力が弱いのではと思います。英語の方が得意な我家の子供達が、日本語の勉強をする際、国語の副教材を使っていますが、日本語が苦手なのにもかかわらず、「簡単だよね。」といいます。それは、多くの問いは、答えを、3択、4択の中から選べばよく、また、教科書に書いてあることをそのまま書き写せばいいような問題ばかりだからです。これでは、自分の考えをまとめる力は、つきません。こんなところにも、日本の小学校教育の改善点があるのではないでしょうか。
返信削除コメント、有り難うございます。学ぶことの意味を考えた場合、単にインプットしたことを憶えて試験で答案用紙にアウトプットすることではないはずです。インプットした情報を自分で考えて、幾つかの方法でアウトプットする。アウトプットはスピイチであったり、書くことであったり、他人との議論であったりする。福沢諭吉は、「視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書演説はもって智見を散ずるの術なり」と言っています。英語をはじめ、外国語で相当苦労したであろう人の教訓なんでしょうね。
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