2026年1月2日金曜日

2026年 元旦に思う ――ハクビシンに出迎えられて

 
元旦の早朝、夜が明ける少し前、いつものように近所を散歩していました。この早朝散歩は、もう10年以上続いています。

そのときです。

路地の向こうを、一匹の猫が横切った――ように見えました。
「まだ野良猫なんているんだ」

そう思った次の瞬間、その“猫”の後ろから、ぞろぞろ、ぞろぞろと何かが出てきました。

猫ではありません。

ハクビシンでした。それも一家総出です。

先頭の一匹、続く二匹、さらに子どもらしき小型の個体。
ざっと見て、4~5匹はいます。

まるで「今年もよろしくお願いします」と、新年のパレードでもしているかのようでした。ハクビシンは分類上「害獣」だそうですが、見た目は妙に愛嬌があります。

しかもこの一家、人をまったく恐れない。
どうやら、どこかで人間から餌をもらった経験があるらしく、子どもハクビシンに至っては、私と愛犬チャーリーのほうへ寄ってきます。

もっとも困惑していたのはチャーリーでした。

彼は他の犬を見ると例外なく吠え散らかすのですが、相手がハクビシンとなると話は別です。吠えるどころか、固まっている。

「これ、犬なのか? 猫なのか? それとも正月の縁起物なのか?」
「……吠えるべきか?」

そんな顔をしていました。

写真をご覧いただければ分かる通り、複数のハクビシンが、すでに完全に住宅地に定着しています。可愛らしさとは裏腹に、健康・衛生面、建物への被害など、実害は決して小さくありません。

奥多摩ではクマ、武蔵野ではハクビシン。

さらに言えば、早朝に吉祥寺方面から仕事を終えて帰宅する若者の、ほぼ半分が外国人になりました。日本列島も、なかなか多様性に富んできました。

さて、家に戻りメールをチェックしていると、例年どおり新年のあいさつメールがいくつも届いていました。ありがたいことです。私もまだ忘れられてはいないようです。

ただ、その中に一通、少し引っかかるものがありました。

政府の人口政策について触れた内容だったのですが、気になったので、忘れないうちにここに整理しておこうと思います。

まず、事実確認からです。現在、政府が進めている人口政策は、大きく二つの柱から成っています。

一つ目は、出生数の反転を目指す対策です。

児童手当の拡充、保育・教育費の軽減、育児休業制度の拡張、住宅支援など、「産みたい人が産める条件」を整える取り組みです。効果がすぐ数字に出ないのは当然で、これは10年単位で評価すべき政策でしょう。

二つ目は、人口減少を前提にした国家運営への転換です。

地方自治のあり方、医療・交通・上下水道といったインフラの維持方法の見直し、デジタル化による効率化。「人口が減っても国として機能を保つ」ための備えです。どれも早急な対策が必要です。

昨年11月に設置された「人口戦略本部」は、まさにこの二つを同時に考えるための司令塔です。希望的観測だけで「人口はそのうち増えるはずだ」と唱えるより、よほど責任ある姿勢だと思います。

ところが、その文章では、こう書かれていました。

「いつの間にか、人口減対策とは関係ない話に論点がズレていく」、「安い給料で女性を働かせようという、過去の政権の焼き直しの臭いがする」。

正直に申し上げて、ズレているのは政策ではなく、この論評のほうです。

人口減少対策と、人口減少を前提にした国家運営は、対立概念ではありません。これは、ブレーキを踏みながらエアバッグを装備するようなものです。事故を防ぐ努力をしつつ、万一に備える。当たり前の話です。

それを見て「事故を前提にするなんて無責任だ」と言い出すのは、運転席ではなく後部座席からハンドルに口出ししているようなものです。

さらに不可解なのは、「安い給料で女性を働かせる」という話が、どこから飛び出してきたのか、まったく分からない点です。人口戦略本部の話から、なぜそこへ瞬間移動するのか。論理というより、条件反射に近い印象を受けます。

人口減少社会では、女性も高齢者も外国人も含め、全員が能力を発揮できる社会設計が必要です。それを一言で「安く使う」とまとめてしまうのは、政策批判ではなく感情の吐露でしょう。安全保障の問題もあります(国内治安は悪化していると思いますよ)。

「やる気もないことに『真剣に検討します』と言い、防衛費と国会議員給与だけは増やす」

この一文には、現代日本病が凝縮されています。

  • 結果がすぐ出ない政策 ⇒ やる気がない
  • 防衛費 ⇒ 不要
  • 国会議員給与 ⇒ 悪意の象徴 (資格のない多くの国会議員には退場してもらいたいが)

すべて、感情的な連想ゲームです。

防衛費が増えるのは、日本の地理的位置や、ウクライナ侵攻以降の国際環境を見れば自然な流れです。日本は、ひょこりひょうたん島のように、好きな場所へ移動できません。国会議員給与も、制度上の改定であって、要は、資格のない自称政治家には退場願うことです。

それらを一括して「臭いがする」と表現するのは、論評というより、日本で蔓延している印象操作に近いものです。

文章の終盤では、こんな問いが投げかけられていました。

「自分は井の中の蛙、やがて茹でガエルになっていないか?」

率直に言えば、この問いは、そのまま書き手自身に返ってきます。

国家運営の現実を見ず、人口減少を「考えたくない未来」として切り捨て、国際情勢や安全保障を「誰かが何とかしてくれる」と無意識に信じる。

それは、「国連が助けてくれる」、「憲法9条があるから大丈夫」という思考停止の延長線上にあります。

最後に掲げられる「何でも見てやろう」という言葉は、確かに耳触りが良い。しかし問題は、何を見て、何を見ていないのかです。

人口構造、財政、インフラ、安全保障という重たい現実を直視せず、「雰囲気」「臭い」「焼き直し」で片付けてしまう。それは世界を旅する姿勢というより、自宅の縁側から世界を論じている状態です。負け犬の遠吠えかもしれない。

人口減少を前提に国家運営を考えることは、逃げではありません。経済予測は外れても、人口動態はほぼ予測どおりに進みます。希望だけを語り、備えを語らないほうが、よほど無責任でしょう。

新年早々、少々辛口になりましたが、「井の中の蛙」や「茹でガエル」という言葉は、他人に投げる前に、まず自分の足元の温度を測るために使いたいものです。私もまた、改めて自分の足元を見る必要があります(照顧脚下)。

明けましておめでとうございます。
本年も、現実から目を逸らさず、よろしくお願いいたします。

***

2026年1月1日木曜日

人生最大のピンチは、だいたい夜明け前にやってくる

 

大晦日の早朝――正確には、12月31日の午前3時ごろのことでした。
世間では、大晦日ということで慌ただしい一日が待ち構えている。

私はすでに起きていました。
年寄りの朝は早い。というか、これが私の日常であり、ゴールデンタイムでもあります。

その時間、なぜか無性に中華粥が食べたくなりました。

炊飯器にはすでにセットしてあり、スイッチを入れるだけ。
あとは炊き上がりを待つだけです。

やがて炊きあがる音がして、いい匂いが立ちのぼってきました。
パクチー、ネギ、ドライオニオンを並べ、器はどれにするかなぁ、、、。
「さて、食べるか」と思った、その瞬間――
炊飯器の蓋が、開きません。

フックボタンを押しても、微動だにしません。
何度押しても、反応なしです。

中華粥の香りだけが、やけに元気に主張してきます。
いい匂いはする。
しかし、開かない。

これは焦ります。
大変です。
もしかしたら、人生最大のピンチかもしれません。

仕方なくネットで調べ、
パナソニックの「24時間チャット対応トラブル窓口」にアクセスしました。
深夜でも対応してくれるらしい。文明は進みました。

ところが、10回ほどやり取りして分かりました。
相手は、どう考えてもロボットです。

こちらが

「蓋が開かない」
「中華粥が食べられない」
と必死に訴えているのに、ロボットさんは冷静に、

「専門のテックにつなぎます。次の画面でお申し込みください」

と言います。

中華粥は好きか聞いても答えません。

しかも、

「通常500円のところを198円にディスカウント」
などと、いかにも親切そうな提案までしてきます。

もちろん、申し込みません。詐欺の可能性だってあります。
年寄りといっても、人生経験豊かな高齢者は簡単には騙されません。

そうこうしているうちに、50分ほど経ちました。
すると――

中が冷めたのか、再びフックボタンを押すと、あっさり開きました。

……あれほどの騒ぎは、何だったのでしょうか。

こうして私は、無事に中華粥にありつくことができました。
もう夜明けが迫っています。

パクチーも、ネギも、ドライオニオンも、すべてが報われました。

教訓はいくつかあります。

一つ、人生のピンチは、だいたい午前1時に起こります。
二つ、深夜のチャット窓口は、だいたいロボットです。
三つ、多くの問題は、少し時間が経てば勝手に解決します。

大晦日の夜明け頃、
私は湯気の立つ中華粥をすすりながら、
「まあ、今年もこんな感じか」
と、一人で納得しました。

新しい年も、きっと
大げさな騒ぎと、小さな結末の繰り返しなのでしょう。

***

2025年12月31日水曜日

子どもが巣立ったあと、なぜ心が落ち着かないのか ――40代・50代が感じる正体不明の焦りについて

人がいないダイニングテーブル
~ 不在は喪失ではなく静けさ ~

「このままで人生、終わっていいのか」

年末が近づくと、こうした言葉が胸に浮かぶ中年世代が増えているといいます。

子育てが一段落し、家庭内での役割が急に軽くなる。仕事は続いているものの、新鮮さも成長実感も乏しい。予定表は空白が目立ち、SNSを開けば、誰かの成功談や自己啓発の言葉が流れてくる。そんな中で、自分だけが取り残されているような感覚に襲われる――。これが、いわゆる「空の巣症候群」(empty nest syndrome)と呼ばれる状態です。

この症状は年末に強まります。周囲が帰省や忘年会、仕事納めで忙しそうにしている一方、自分には特に予定がない。その「静けさ」が、不安を増幅させるのだそうです。そして、MBTI診断のような性格分類に飛びつき、「自分は主人公タイプだ」と一瞬の高揚を得ながらも、現実との落差に虚しさを覚える。結果として、「何者かになりたい症候群」が静かに広がっていくそうです。

しかし私は、この「空の巣症候群」を、単なる喪失や不幸としてだけ捉えてしまうのは、少しもったいない気がしています。なぜなら、その不安の正体は「子どもが巣立ったこと」そのものではなく、それ以前から積み重なってきた問題だからです。

問題の本質は「空」ではなく「未完」

40代、50代になっても自己が確立されていない。自律できず、克己もできないまま、還暦を迎えてしまう人が少なくない――多くの人が感じているこの実感は、決して個人的な感想ではなく、社会全体の構造的な問題です。

多くの人は、人生の節目節目で訪れる試練から、無意識のうちに逃げてきました。逃げるというか、世間の波に流されてきた。受験では「正解」を選ぶことが重視され、仕事では「空気を読む」ことが評価される。失敗しないこと、波風を立てないことが最優先される中で、自分の意志で決断し、引き受け、耐え抜く経験が極端に少ないまま大人になっていきます。

その結果、「親」という役割に自分を預けることで、ようやく人生が安定する。子育ては確かに大変ですが、同時に「自分が何者かを考えなくて済む」時間でもあります。ところが、子どもが独立した瞬間、その仮面が外れる。そこで初めて突きつけられるのが、「自分は空っぽなのではないか」という感覚なのです。

つまり、空の巣症候群とは、巣が空になったことへの悲しみではなく、巣立ち以前から自己が育ってこなかったことへの遅すぎる気づきだと言えるでしょう。

なぜ自己啓発に走るのか

この不安に直面したとき、多くの人が自己啓発本やスピリチュアル、副業情報に惹かれていきます。それは怠惰だからでも、浅はかだからでもありません。「このまま終わりたくない」という切実な叫びがあるからです。

しかし、そこで提示される多くのメッセージは、「簡単に変われる」「今日から主人公になれる」といった、耳触りの良いものばかりです。本来、自己の確立や自律、克己とは、長い時間と痛みを伴う試練の積み重ねによってしか得られないものです。それを飛ばして結果だけを欲しがれば、失望するのは当然でしょう。

しかも、その姿を子どもは見ています。試練から逃げ、安易な答えを求める親の背中を見て育った子どもは、同じように育っていく。空の巣症候群は、個人の問題であると同時に、世代を超えて再生産される問題なのです。

空の巣症候群へのポジティブな反論

では、どうすればいいのでしょうか。

私は、「空の巣」を敗北や喪失として捉える必要はないと考えています。むしろそれは、人生で初めて与えられた「自分自身の課題に正面から向き合う時間」なのです。

大切なのは、「何者かになろう」としないことです。主人公になろうとするから苦しくなる。肩書きや成功を求めるから疲弊する。そうではなく、小さな責任を、自分の意志で引き受けることから始めればいいのです。

毎週決まった曜日に通う場所をつくる。頼まれごとをひとつ、途中で投げ出さずにやり遂げる。結果が評価されなくても、自分で決めたことを続ける。そうした些細な行為の中にこそ、自己は静かに立ち上がってきます。

試練とは、何か特別な挑戦ではありません。「逃げられる状況で、あえて逃げないこと」。「誰も見ていなくても、手を抜かないこと」。その積み重ねが、自律と克己を生みます。

空になった巣から、ようやく始まるもの

子どもが巣立ったあとに残る静けさは、確かに不安を呼びます。しかしその静けさは、人生の終わりを告げる鐘ではありません。むしろ、「これまで先送りしてきた自分自身と向き合え」という、最後の呼びかけなのかもしれません。

空の巣症候群とは、人生の失敗ではありません。試練を避け続けてきた人に、ようやく訪れた“本番”なのです。

このままで人生を終えていいのか。その問いを感じられること自体が、まだ終わっていない証拠です。答えは、自己啓発本の中にはありません。日常の中で、自分に課す小さな試練の中にこそあります

空になった巣から、ようやく人生が始まる。


良いお年をお迎えください!


2025年12月30日火曜日

「いい子」ほど危ない――日本の教育が生む見えない自己破壊

静かに座る「いい子」の背中に、私たちは何を背負わせてきたのだろうか。


2025.12.27 18:00
なぜ人は「上手くいき始めた瞬間」自らそれを壊すのか?
心理学者が教える4つの理由と対策

https://forbesjapan.com/articles/detail/87719


アメリカは育て、日本は壊す?
自尊心から見た日米教育の決定的な違い

Mark Travers の「自己破壊(self-sabotage)」記事の要約

Forbesに寄稿した心理学者マーク・トラヴァースは、人が自らの成功や成長を妨げてしまう「自己破壊(self-sabotage)」の心理構造を分析しています。

彼によれば、自己破壊の背景には不安定な self-esteem(自尊心)があります。失敗したときに「自分の価値そのものが否定される」と感じてしまう人ほど、無意識に挑戦を避けたり、直前で手を抜いたりする。失敗そのものよりも、「傷つくこと」から逃げるための防衛反応だ、というわけです。

ここで重要なのは、self-esteem が「行動を支える心理的エンジン」として位置づけられている点です。self-esteem が安定していれば、失敗は経験として受け止められますが、不安定であれば成功すら脅威になります。自己破壊とは、怠惰や弱さではなく、脆い自己価値を守ろうとする必死の行動なのです。

日本における「自己破壊」は見えにくい

一見すると、個人主義の強いアメリカの方が自己破壊は起きやすく、日本のような集団主義社会では起きにくいようにも思えます。しかし実際には、日本では「別の形」で自己破壊が起きています。

日本では、成功や挑戦が「和を乱す」「目立つ」「迷惑をかける」ものとして無意識に回避されがちです。その結果、チャンスを前にして黙って身を引く、問題を抱えても助けを求めない、あるいは心身を壊すまで我慢する、といった形で自己破壊が表出します。

これは個人の内面の問題というより、集団への過剰な同調圧力が生む構造的な自己破壊だと言えるでしょう。

自尊心はどう違うのか――USと日本

ここで日米の self-esteem 観の違いが浮かび上がります。アメリカにおける self-esteem は、「失敗しても自分の価値は揺るがない」という前提です。結果や他人の評価から距離を取るための心理的基盤として、教育の中核に置かれています。

一方、日本語の「自尊心」は、しばしばプライドや虚勢と混同され、「強すぎると鼻につくもの」「控えるべきもの」として扱われがちです。そのため、教育の中で正面から語られることがほとんどありません。

このズレが、日本では自尊心が育ちにくく、同時に自己否定や集団依存が温存される一因になっています。

謙虚さと自己肯定感は両立できる

日本では「謙虚さ」と「自己肯定感」は対立概念だと誤解されがちですが、本来は両立可能です。鍵となるのは、比較によらない自尊心、そしてセルフ・コンパッション(自分への思いやり)です。

謙虚さとは本来、自己卑下ではなく「他者から学ぶ姿勢」です。「自分は完璧ではないが、存在としての価値はある」と受け止められる人は、他者を尊重しつつ、自分の能力も正しく認識できます。これは傲慢さとは正反対の、成熟した自尊心です。

集団への配慮か、集団への依存か

日本社会の問題は、「配慮」という美名の下で、実際には集団への依存が強化されている点にあります。組織に属していなければ自分を定義できない。組織の存続が公共よりも優先される。これは官僚主義や大企業だけでなく、学校教育にも色濃く見られます。

自立した「個」が確立されていない社会では、「公共」もまた育ちません。結果として、責任は曖昧になり、組織全体が変化を恐れて自己破壊的な選択を繰り返す。これは個人の self-sabotage が、集団レベルに拡大した姿とも言えます。

教育の再定義が必要な理由

とりわけ学校教育は、社会から最も隔絶された業界の一つです。教師の多くが特定の世界しか知らず、その内側の論理で「教育」を完結させてしまう。そこに教育を丸投げすることには、明確な限界があります。

これからの教育に必要なのは、知識伝達ではなく、「自立した個」を育てることです。自尊心を、競争や比較ではなく、人格の基盤として再定義すること。学校を組織防衛の場から、社会とつながる公共空間へと開くこと。それなしに、日本社会が自己破壊の連鎖から抜け出すことは難しいでしょう。

自己破壊(Self-sabotage)は個人の弱さではありません。それを生み出す社会構造と、育てそこねた自尊心の問題なのです。

***

2025年12月29日月曜日

大学教育と世界観――ある隠居老人の違和感

19世紀は労働者、20世紀は消費者がカモにされた…
大企業が舌なめずりして囲い込む「21世紀のカモ」の正体

(PRESIDENT Online 掲載記事)


1970年代のアメリカの大学

隠居老人、最近の記事を読む

PRESIDENT Onlineに掲載された、ある大学教員による論考を読みました。大学の政経系学部で行われた講義をもとにした著書の一部だそうです。

私はその先生の本を読んでいません。
知ったのは、あくまでこの紹介記事だけです。
したがって、以下は「講義の全体像」を論じるものではなく、
公開されたテキストから受け取った印象に基づく感想です。

もっとも、古希を前にした隠居老人としては、人生もそろそろ先が見えてきました。今さら遠慮する必要もない。言いたいことは言っておこう――そんな心境です。

「21世紀のカモ」論の要点

記事の主張は明快です。

資本主義の歴史は、「誰がカモにされてきたか」の歴史である。
19世紀のカモは労働者。
20世紀のカモは消費者。
そして21世紀のカモは、「参加者」だ。

テック資本主義の時代、人々はSNSや検索サービス、各種プラットフォームに参加することで、自らの個人データ、注意力、時間を無償で提供している。それこそが21世紀の「資本」であり、巨大テック企業は、それを原材料に富を蓄積する。

赤い通知バッジ(notification badge)、スワイプ操作、色彩心理を利用したUI(ユーザーインターフェイス)。人間の生理的・心理的特性を前提に設計された仕組みによって、私たちは自由意思で行動しているつもりで、実は囲い込まれている――。

議論は刺激的で、比喩も巧みです。しかし、読み終えたとき、私は強い違和感を覚えました。

正しい。しかし、、、、


内容が間違っているとは思いません。テック企業が人間の注意力を資源として扱っていることも、行動科学がビジネスに使われていることも、事実でしょう。

それでも息苦しい。
なぜか。

それは、この論考が最初から完成された世界観として提示されているからです。

資本主義は搾取装置であり、
参加者はカモであり、
自由は幻想であり、
人間は檻の中のネズミである。

分かりやすい。しかし、分かりやすすぎる。共産主義国家の人民のような、、、。

そして、これが「大学の講義」をもとにしていると知ったとき、隠居老人は、少し背筋が寒くなりました。

「如何なものか」では足りない

最初、私はこう思いました。
「考えさせる前に、世界観を与えるのは、如何なものか」。

しかし、考え直しました。
これは「如何なものか」という話ではありません。

間違っていると思います。

あらゆる「観」―― 世界観、歴史観、国家観、人間観――は、人格形成の過程で、自分で身につけていくものだからです。

教育が提供すべきなのは、結論ではなく、思考の材料と摩擦です。

1970年代、アメリカの大学で起きたこと

この違和感は、私にある古い読書体験を思い出させました。

『The End of the American Era(アメリカ時代の終焉)』ハッカー(1970年)です。

アメリカの没落はベトナム戦争から始まった、という議論はよく知られています。しかしハッカーは、より根源的な問題として、大学と学問の劣化を挙げました。

アメリカ人が、自分たちを特別な存在だと錯覚し、謙虚さを失い、学問が凡庸になっていった。

彼は、こんな趣旨のことを書いています。

  • 平凡な学者が恐れるのは、他人から批判されることである。
  • だから彼らは、決して間違いを指摘されないことしかやらなくなる。
  • 凡庸な頭脳にとって最も都合がよいのは、
  • ルールが明示され、全員が同じ手続きを踏む研究である。

これは、1970年のアメリカの話です。しかし、今のアメリカでも続いている。そして、今の日本も、急速にそうなりつつある――隠居老人には、そう見えます。

福田恆存の警告

さらに思い出すのが、昭和29年の福田恆存の言葉です。

アメリカ視察から帰国した福田は、
「アメリカは貧しい」と言いました。

物質的には豊かでも、
精神的なバックボーンが痩せている、という意味です。

私は2001年、15年ぶりに香港、上海、北京を訪れ、「中国は1980年代より貧しくなった」と感じました。高層ビルが増え、生活は便利になった。それでも、精神的な安定は見えなかった。

「神」や「お天道様」がない文明は危うい。
多民族化が進み、「神」の力が弱まったアメリカも危うい。

そして今――

精神的な支柱が溶け、「お天道様」が隠れた日本は、福田恆存が憂慮した時代より、もっと崖っぷちに立っているように見えます。

大学は、世界観を配る場所ではない

大学がやってはいけないことがあります。

  • まだ経験の浅い若者に
  • 権威ある立場から
  • 感情に訴える完成形の世界観を
  • 代替的な視点を十分示さずに与えること

それは教育ではありません。思想のインストールです。

一度インストールされた世界観は、あとから疑うことが難しい。
これは、長く生きた者の実感です。

おわりに――隠居老人の譲れない一言

私はその本を読んでいません。この記事だけを読んだ感想です。

それでも、「大学の講義を本にした」と聞いて、この完成された世界観が前面に出てくることに、1970年代アメリカと同じ匂いを感じました。

あらゆる「観」は、人格形成の過程で、自分で身につけていくもの
それを、考えさせる前に大学が与えてしまうのは――
如何なものか、否、間違っている

隠居老人の、率直な違和感として、ここに書き残しておきます。

***

2025年12月28日日曜日

若者は従順になったのではない ― 時代がそうさせた ―

 早朝の豆腐屋@三鷹通り

まだ街が目を覚ます前に、黙々と今日の仕事が始まっている。
変化は派手ではないが、確かに時代は、こういう場所から動いていく。

The American family isn't collapsing, it's adapting to reality | Opinion

This is the shift that unsettles older generations: a vision of the American dream untethered from property or possessions, rooted instead in lived experience and personal autonomy.

Andrew Sciallo
Opinion contributor
Dec. 23, 2025Updated Dec. 24, 2025, 8:09 a.m. ET

https://www.usatoday.com/story/opinion/voices/2025/12/23/no-contact-family-estrangement-holidays-economy/87884305007/

変わりゆく時代の中で、若者は何を引き受けているのか

――10年前の大晦日の日記と、アメリカの若者たち――

10年前の大晦日、私は日記にこう書きました。
「自分はまだ運転席で運転手をやっている」。

世間が年末の慌ただしさに包まれるなかでも、自分の人生のハンドルは自分で握っている。その実感だけは失っていない、という意味でした。いま振り返ると、なかなかに傲慢な爺様です。

あの日記をいま読み返すと、不思議な既視感があります。
当時私は、日本人の課題として「社会性」「コミュニケーション」「独善性(こだわり)」の三つを挙げていました。大人になっても他者との関係に不器用で、母国語でさえ意思疎通が十分にできず、自分の安心できるルールに固執してしまう――そうした傾向は、社会に出れば自然に矯正されるどころか、日本の閉鎖的な組織の中で、むしろ増幅されていくのではないか、という危惧でした。

そして日記の最後に、私はこう書いています。
「主体的に、能動的に行動する。自分の人生だから」。

あれから10年。
世界はコロナのパンデミックを経て、経済環境はさらに厳しさを増しました。日本社会はますます余裕を失い、個人にかかる負荷は静かに、しかし確実に重くなっています。そんな中で目にしたのが、USA TODAY に掲載されていた、アメリカの若者と家族をめぐるオピニオン記事でした。

この記事は、「アメリカの家族は崩壊しているのではない。現実に適応しているのだ」と語ります。若者たちは、結婚や持ち家、子どもを持つことを軽んじているのではありません。そもそも、それを選べる経済条件が失われているのだ、という指摘です。

住宅、医療、教育、老後まで含めた生涯コストは、500万ドルを超えるとも言われています。日本円にすれば、いまのレートで7億円以上。生活を成り立たせるだけで精一杯、という感覚は決して大げさではありません。

仕事は不安定で、生活は「働く、寝る、また働く」の繰り返し。
ニューヨークでは、仕事仲間と過ごす時間が人間関係の中心になり、「あなたは誰か」より先に「何をしているのか」が問われます。仕事がアイデンティティを規定しながら、その仕事に満足している人は少ない――そんな矛盾した現実が描かれていました。

その結果、アメリカの若者のあいだでは、「物を持つこと」よりも、「経験すること」「自分の時間と心を守ること」に価値を置く動きが広がっています。家族との距離をあえて取る選択、いわゆる no contact も、わがままではなく自己防衛として語られるようになりました。アメリカの家族観は、音を立てて形を変えつつあります。

この話は、決してアメリカだけのものではありません。
日本の若者もまた、同じ経済的圧力の中にいます。ただし、日本ではそれがあまり言葉になりません。

日本の若者は「従順」「大人しい」と言われがちです。しかしそれは、性格の問題というより、合理的な判断の結果ではないでしょうか。賃金は伸びず、失敗のリスクは大きく、異議を唱えても状況が変わらない社会において、「目立たず、波風を立てず、生き延びる」ことは、むしろ賢明な戦略です。

アメリカでは、旧来のアメリカンドリームが若者を見放した、という言葉が使われます。日本では、その同じ現実が「仕方がない」「そういうものだ」という空気の中で、静かに受け入れられていきます。表現の違いはあっても、起きていることはよく似ています。

10年前の日記で私が危惧した「主体性の欠如」は、個人の性格や世代の問題というより、時代の構造が生み出したものなのかもしれません。若者が従順に見えるのは、従わなければならない圧力が強すぎるからです。

それでも、あの日記の最後に書いた言葉は、いまも色褪せません。少なくとも私は、いまもそれを信じています。

「自分の人生だから、自分で考える」。

アメリカの若者たちは、混乱の中でそれを言葉にし始めています。日本の若者たちは、まだ多くを語らず、静かに適応しています。

人は、自分の知っている言葉の範囲内でしか考えられません。言葉の豊かさがなければ、他者とつながることもできません。

時代が厳しくなるほど、「誰かに運転を任せる人生」は成り立たなくなります。山椒魚のように、自分の岩屋に閉じこもり、思考を生成AIにゆだねる――それは、時代の状況に逆行した動きです。

若者には、従順になってほしくありません。同時に、無理に声を荒げる必要もありません。

自分はどこに立ち、何を引き受けるのか。自由と責任を考える、と言い換えてもいいでしょう。その問いを手放さないこと――それこそが、この時代における本当の自立なのだと思います。

***

2025年12月27日土曜日

スキルと覚悟のバランス

 

前言

このスライドは、今から30年ほど前に作ったものです。人生一番生意気な40歳前後にまとめた資料ですが、いま振り返ると当時よりもずっと今の社会に切実に当てはまる気がしています。  

日本社会は相変わらず、いや以前にも増してスキル(能力)ばかりを追い求め、「commitment(覚悟)」はどうしても後回しにされがちです。資格や方法論は増えたのに、「どこまで引き受けるのか」という問いは軽くなった。そんな違和感があります。

もっとも、これを人生論として考えてほしいなどと言い出す時点で、すでに上から目線の自己中心的な高齢者の完成形かもしれません。それでもなお、組織の話としてではなく、自分自身の人生に引き寄せて考えてもらえたら――そう願って、あえてこの古いスライドを持ち出しました。

スキルと覚悟のバランス

――スキルだけでは、組織も人も強くならない――

私たちはしばしば「スキル不足」を問題にします。ITスキルが足りない、専門知識が弱い、コミュニケーションが下手だ――。確かにスキル(Capability)は重要です。しかし、それだけでは組織も人も強くなりません。

今回修正したスライドが示しているのは、極めてシンプルで、しかし見落とされがちな事実です。スキルと同等、いやそれ以上に重要なのが個人の「覚悟」である、ということです。

スキルとは何か ―― 図の左側

図の左側にある「スキル(Capability)」は、大きく二つに分かれます。

① 社会的スキル(ヒューマンスキル)
  • チームワーク
  • コミュニケーション
  • 意思決定
  • 他者との協働  等々
② 技術的スキル(テクニカルスキル)
  • ITスキル
  • 会計・税務などの制度的知識
  • 方法論、専門知識  等々
これらはいずれも「学べば身につく」能力です。研修やOJT、資格、経験によって、ある程度は後天的に獲得できます。しかし、ここで話を終えてしまうと、現場でよく見る“残念な光景”に行き着きます。

    、、、スキルはある。
    、、、しかし、誰も責任を取らない。
    、、、誰も本気で踏み込まない。

能力が足りないのではありません。覚悟が欠けているのです。


覚悟とは何か ―― 図の右側

そこで登場するのが、図の右側にある 「覚悟(Commitment)」 です。

英語で言えば Commitment。中国語で言うなら「承諾」が最も近いでしょう。「覚悟」という言葉が持つ精神論的な響きではなく、自分で引き受けると決める意思が核心です。

今回のスライドでは、覚悟を「組織に属する個人」ではなく、一人の人間として生きる覚悟として、次の4点に整理しました。

  1. 自分の立ち位置と価値観を引き受ける覚悟
    ─ どこに立ち、何を守り、何を引き受けるのかを自分で決める

  2. 自分の成長を止めない覚悟
    ─ 年齢や環境を理由に、可能性の更新をやめない

  3. 人との関係を育てる覚悟
    ─ 孤立を選ばず、信頼・尊敬・関心をもって関係に関与する

  4. 他者の人生に貢献する覚悟
    ─ 見返りを前提にせず、誰かの成功を本気で支援する

重要なのは、すべては個人の覚悟から始まるという点です。「会社が悪い」「環境が悪い」と言う前に、自分は何を引き受けると決めたのか(責任)が問われます。


スキル × 覚悟 = 相乗効果

このスライドの核心は、中央にある言葉です。

相乗効果(Synergy)

スキルと覚悟は、足し算ではありません。掛け算です。
  • スキルが高くても、覚悟がゼロなら成果はゼロ
  • 覚悟があっても、スキルがなければ空回りする
一人ひとりが
  • スキルを磨き、
  • 覚悟を引き受け、
スキルと覚悟が噛み合ったとき、人はようやく自分の人生を自分の足で進めるようになります。

人生と組織に共通するピラミッド構造


スライドは、成功を次のピラミッドで示しています。
  1. スキル × 覚悟
  2. 自分にしかできない貢献を通じて、人生で出会う人々と長く続く信頼関係を築く
  3. 楽しめる環境 ─ 自分も、周囲も
  4. 成功 ─ 組織においても、人生においても

ここで重要なのは、順序を飛ばせないということです。スキルと覚悟という土台がないまま、成功だけを求めても、それは砂上の楼閣になります。

スキルだけでは足りない理由

スキル偏重の組織や人生では、こうした現象が起きがちです。
  • 判断を先送りする
  • 責任の所在が曖昧になる
  • 「できる人」が静かに去っていく
これはスキルの問題ではありません。覚悟の欠如です。

逆に、覚悟を引き受けた人は違います。未熟でも学び、失敗しても前に出る。その姿勢が周囲の能力を引き出し、結果として組織も人間関係も強くします。

成功は、覚悟とスキルの上にしか積み上がらない

強い組織は、制度やスキルから生まれるのではありません。強い人生も、肩書きや運から生まれるのではありません。一人ひとりのスキルと覚悟の相乗効果から生まれます。
  • 能力を磨くこと
  • そして、それをどこに使うと引き受けるのかこの二つが揃って初めて、
信頼が生まれ、
人に囲まれ、
楽しめる環境が育ち、
結果として「成功」が積み上がっていくのです。

スキルだけがあっても、覚悟がなければ届かない。
覚悟だけでも、スキルがなければ形にならない。
だからこそ、スキルと覚悟のバランスが重要なのです。

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