2025年8月30日土曜日
主体性なき教育は、主体性なき国家を生む ―― 戦後教育の根本を問う
先日、ある元大学教授が「次期学習指導要領のカギは主体性だ」と論じる記事を目にしました。正直に申し上げて、「何をねぶたいこというとんねん」と思いました。
なぜなら、日本の教育にはそもそも「主体性」など存在してこなかったからです。戦後の教育制度は、敗戦直後にGHQによって設計されたものであり、日本人が自らの歴史や文化を踏まえてつくり上げたものではありません。教育の出発点から「主体性」を欠いているのです。元大学教授の論は、こうした歴史的背景を踏まえず、表層的に「主体性」を唱えているだけに見えます。だからこそ、眠たい議論に聞こえるのです。
私はこれまでのブログで繰り返し指摘してきましたが、日本の教育現場で「協調性」という言葉ほど危ういものはありません。本来の「和」とは、自分の主体性を保持したうえでの協調です。しかし現実には、その前提が抜け落ち、付和雷同する態度が「協調性」として評価されてきました。孔子が「君子は和して同ぜず」と説いた精神は、戦後教育の中で形骸化してしまいました。
その結果として、若い世代は「自分は何をすればいいのか」と問い続けながら、情報を自分の目で確かめることもなく、政治を他人事と見なし、海外に視野を広げることもなく、ただ「誰かに従う」生き方に安住してしまうのです。サルトルの言葉を借りれば、実存が本質に先行するはずなのに、日本人はその実存を自ら放棄してしまったといえるでしょう。
この従順教育の帰結が、現代日本の社会と政治に表れています。国民は怒る力や疑う力を失い、自ら首輪をはめる「自発的隷従」の状態にあります。AIが普及すれば、思考さえ外部に委ね、ますます「怠け者の天国」に陥ることになるでしょう。しかしそれは強制されたものではなく、自ら望んで選んだ隷従なのです。
現行教育の最大の欠陥は、知識を科目ごとの「柱」として植え付ける一方で、それらをつなぐ「梁」を欠いていることにあります。抽象と具体を往復し、全体像を描く力が育たない。これこそが、日本人から主体性を奪い、従順さだけを残した根本原因です。孔子の「君子不器」――一つの機能にとどまるな――という教えは、現代日本にこそ必要な精神だと思います。
もし本物の「主体性教育」を目指すのであれば、敗戦直後に立ち戻る必要があります。外から与えられた教育制度を根本から見直し、日本の歴史と文化に基づいて再構築すること。これを避けて、表層的に「主体性が大事だ」と叫ぶ限り、教育は変わりません。
主体性のない教育は、主体性のない国民を生み、主体性のない国民は、主体性のない国家しかつくれません。これこそが、日本という国の最大の病なのです。
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2025年8月29日金曜日
AIと自殺大国ニッポン ― 脳を使わない社会の末路
そして、AI依存の危険なサイクルはすでに指摘されています。
- 現実逃避の手段として使い始める
- AIとの会話が心地よくなる
- 人間関係よりAIを優先するようになる
- 現実とバーチャルの境界が曖昧になる
- AIの言葉を絶対視するようになる
2025年8月28日木曜日
「臣」としての政治家か、それとも「従属者」としての日本か
多くの評論家やメディアのコメンテーターは、直近の参議院選挙で自民党が少数与党へと転落した現状を背景に、政治家に必要なのは「政治とカネの体質を刷新すること」と「国民生活に直結する課題への政策対応の迅速化」であると説いています。そして、それらは防衛費や安全保障政策とも切り離せず、政治家には「臣」としての責任や品性が求められるのだと結論づけます。
2025年8月27日水曜日
責任とリーダーシップの空洞化
リーダーシップの本質は、個と公共のバランスにあります。自分を律しながらも、公共に奉仕する意思を持ち、共同体を自己統治として形成していく力です。しかし日本社会では、この「自己統治」の発想そのものが欠けています。国家や組織からのパターナリズムが重く覆いかぶさっているからです。ここでいうパターナリズムとは、親が子どもを一方的に導くように、権威が国民を「守ってあげる」と称しながら実際には依存を強める構造を指します。その結果、人々は「管理されること」に慣れすぎ、自らの責任で共同体を動かす経験を持たないまま大人になってしまうのです。
教育のあり方も大きな問題です。学科ごとに分断された非総合的な教科体系のもとで、子どもたちは「知識の断片」を詰め込まれるだけで、概念を横断的に結びつける力を養えません。教育改革を声高に唱える人々もいますが、実際には何も考え抜かれてはいません。総合的な思考の訓練もなく、言葉を通じて思考を鍛える経験もない。これではリーダーが育たないのも当然です。
さらに、日本では「正統性(legitimacy)」という考え方も十分に理解されていません。正統性とは、単に選挙で勝つことではなく、その人がリーダーとして認められるに足る人格・責任・一貫性を備えているかどうかを意味します。民主主義においては、権力の行使そのものが「正統性」によって支えられるのです。しかし、日本の現状を見る限り、その意識は希薄です。国民もまた、その条件を求めないまま、表面的な人気や手軽な安心感に流されています。
本来、リーダーであり続けるためには、正統性に裏打ちされた責任感と、環境を学びに転化する柔軟性、そして矛盾を乗り越え続ける努力が不可欠です。困難に直面しても逃げるのではなく、向き合い続ける姿勢こそがリーダーをリーダーたらしめる。ところが今の日本の総理大臣は、その条件を何一つ満たしていません。いや、それ以前に人格そのものが問われるべきでしょう。
しかし、問題は個人に帰せられるものではありません。リーダー不在の社会は、リーダーを求めない国民自身の選択の結果でもあるのです。責任を取らないリーダーを生み出すのは、責任を問わない国民である。そのことに気づかぬまま、日本は「耳障りのよい安心感」と「先送りの文化」に沈み込んでいます。
リーダーシップの本質を忘れた社会に未来はありません。日本に欠けているのは「誰がリーダーか」ではなく、「リーダーとは何か」という根本的な問いを持ち続ける姿勢なのです。
2025年8月26日火曜日
ユーモアとリーダーシップの大谷翔平
2025年8月、ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平は、サンディエゴ・パドレスとの試合で45号ホームランを放ち、試合を決定づけました。しかし、注目すべきは、そのホームランの後に見せたユニークな行動です。試合中、大谷はサンディエゴのペトコパークで、観客から絶え間ない野次を受け続けていました。その観客は、日々の生活の辛さを球場での野次にぶつける、パドレスファンの中でも有名な人物です。試合の初めから終わりまで、大谷の打席に対して厳しい言葉を投げかけていました。しかし、大谷はそれに対して驚くべき反応をした。ホームランを打った後、わざわざその観客とハイタッチを交わしました。この行動は、普段の冷静な大谷からは想像できないもので、周囲を驚かせました。
ドジャースの監督デイブ・ロバーツは「普段の大谷では考えられないことだが、観客が試合中ずっと彼に厳しい言葉を投げかけていたから、最後にそれを上手く受け流して、ハイタッチをすることで彼に最後の一撃を食らわせたのだろう」と語っています。大谷自身は試合後にコメントを避けましたが、この行動が彼の持つユーモア精神と相手に対するリスペクトを象徴していると考えられます。
日本では見られない「余裕」と「無駄」
大谷の行動から感じるのは、スポーツマンとしての真摯な姿勢に加え、相手へのリスペクトを忘れない余裕です。日本では、この「無駄と余裕がなさすぎる」という点を私は若い頃から指摘してきました。特に日本の社会では、勝敗を決する場面において「負けられない」というプレッシャーが強く、余裕を持った対応が少ないように感じます。大谷は、勝負の世界でも一線を画す人物でありながら、相手を挑発することなく、むしろその挑発にユーモアをもって返すことで、観客や対戦相手を一歩引かせています。結果として、ファンもファンでない人も「みんなで楽しもうよ」という気持ちが共有されているように思います。
私は以前から、リーダーに必要な条件は「決断力」「イニシアティブ」「ユーモアのセンス」であると述べてきました。大谷が見せた行動は、まさにリーダーに必要な資質の一端をスポーツの場で体現したものと言えるでしょう。翻って日本の政治を見れば、現総理大臣にはこの3つの条件に達する以前に、人格そのものに大きな問題があるように感じます。国を導くべき立場にある人が、決断力もイニシアティブもユーモアも欠いていることは、日本社会全体に重苦しい影を落としているのではないでしょうか。
大谷翔平が野球に対して示すのは、単なるスーパースターとしての姿勢ではなく、まさに「野球を楽しむ心」の体現です。それは、競争の厳しさの中でも、他者との関係性を大切にし、ユーモアを持って接することの重要さを教えてくれます。彼の姿勢は、単なる技術的な勝負だけでなく、心の余裕と対人リスペクトの大切さを改めて感じさせてくれます。
そして、日本の政治や社会がもっと柔軟で余裕のある態度を持つことができれば、もっと健全なコミュニケーションが生まれるのではないでしょうか。大谷のように、勝者も敗者も一緒に楽しめる余裕を持つことこそ、現代社会に求められる姿勢ではないかと私は思います。
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2025年8月25日月曜日
環境がリーダーをつくる ~ アメリカ大統領の教育と日本政治の世襲
Richard Nixon loved the violin. Abraham Lincoln was 'self-taught.' American presidents had varied educations(Stewart D. McLaurin, Opinion contributor)
子供時代の教育とリーダーシップ
アメリカ大統領の教育背景は実に多様です。上のUSA Today の記事によれば、初代ワシントンは本格的なラテン語教育を受けることなく、実務的な幾何学や測量を学びました。リンカーンは「self-taught(独学)」を誇りとし、学んだのはわずか一年にも満たない「つぎはぎの教育」でした。フーバーは田舎の小学校からスタンフォード大へ進み、アイゼンハワーは「リンカーン小学校」で学び、フォードは高校時代から歴史とフットボールに秀でていました。カーターは教師の助言に感銘を受け、就任演説で彼女の言葉を引用しました。ニクソンはヴァイオリンを愛し、クリントンはサックスと生徒会活動に情熱を注ぎました。
私自身、アメリカで20年近く生活して痛感したのは、アメリカではどんなレベルの人間であっても堂々と自己主張し、プレゼンテーションするという事実です。そこで必要になるのは、その真贋を見抜くインテリジェンス、すなわち「取捨選択を断ずる能力」です。
一方で日本の政治家を見渡すと、その大半が世襲か、あるいは元タレントや元スポーツ選手で占められています。もちろん世襲や経歴そのものが悪いわけではありません。しかし、問題は彼らが自覚的にリーダーシップを学び、人格を磨き、環境と邂逅の中で成長してきたのか、という点です。
ワシントンも、リンカーンも、クリントンも、恐らくトランプも、それぞれの環境と教育を生かしてリーダーへと成長しました。日本の政治家に決定的に欠けているのは、そうした「環境と自らの邂逅をリーダーシップへと昇華させる力」ではないでしょうか。世襲や肩書きではなく、学び続ける姿勢と一歩踏み出す勇気こそが、リーダーの正統性を裏付けるのです。
2025年8月24日日曜日
南京事件と歴史を語れない国、ニッポン
中国で「南京写真館」というプロパガンダ映画が上映され、観客を集めているそうです。日本のメディアは否定的な言葉をほとんど発していません。BBCの記事('We were never friends': A massacre on the eve of WW2 still haunts China-Japan relations)を読んでも分かるように、歴史問題はいまだに政治とナショナリズムの道具として利用され続けています。
私自身、10代のころはご多分に漏れずやや左翼的で、本多勝一の『中国の旅』を読んで衝撃を受けました。しかし同時に、どこかおかしいという違和感も持ちました。やがて鈴木明の『南京大虐殺のまぼろし』(1981年)に出会い、その後も検証本を何冊も読みました。1985年、仕事で南京を訪れる機会を得て、旧城内を歩き回ったときの実感からも、10万人単位の虐殺は物理的にあり得ないと確信するに至りました。南京事件を追いかけてきたのは10代のころからであり、以来、東京裁判と切り離せない問題だという認識を持っています。
南京事件、文化大革命、天安門事件。これらは本質的に同じものです。すなわち、中国共産党にとって都合の良い記憶は誇張され、不都合な記憶は消される。中国国内では文化大革命など教えられず、当時を知る人もすでに高齢となりました。天安門事件も同様です。だからこそ、国外で語り継ぐしかありません。
南京事件に関しては、アメリカでとくに議論になります。1997年、アイリス・チャンの『The Rape of Nanking』がニューヨーク・タイムズのベストセラーとなり、多くのリベラル派ニューヨーカーがその影響を受けました(江沢民の反日教育とタイミングが一致しています)。しかし内容には数々の誤りがあり、多くの写真さえ捏造だと指摘されてもいます。アイリス・チャンは2004年36歳の時に自動車の中で謎の拳銃自殺をしました。
だからこそ、日本人としては反論できるよう、少なくとも10冊ほどは関連書籍を読み、歴史的経緯を把握しておく必要があります。南京事件を論じるときは、必ず東京裁判の性格や問題点も合わせて考えるべきです。なぜなら「南京大虐殺」という言葉自体、東京裁判の場で突然持ち出されたものだからです。
中国のプロパガンダ映画は、歴史を検証するための資料にはなりません。むしろ「歴史は未だ終わっていない」と感情をあおる役割を担っています。記憶と怒りを組織的に演出し、若い世代に「日本は敵だ」というメッセージを刷り込む。これは歴史教育の名を借りた思想統制です。そして残念ながら、日本のメディアはそれに真っ向から反論しようとしません。
私たちは南京事件の真偽そのものを議論すること以上に、「歴史を利用する政治のあり方」に警戒すべきだと思います。東京裁判、日本国憲法、日米安保の延長線上に、日本が「自らの歴史を語れない国」として固定化されてしまった。だからこそ、南京事件を論じることは過去の問題ではなく、今の日本の姿勢を問うことでもあるのです。
「友達だったことは一度もない」という中国映画のセリフは、歴史の断絶を象徴する言葉です。しかし、本当に断絶を招いているのは、日本人の記憶力の弱さと、歴史に向き合う覚悟のなさではないでしょうか。南京事件の「真実」に迫ることは、中国のプロパガンダを打ち破るためだけではなく、日本人が自分自身の足場を確立するためにも不可欠なのです。
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