2025年6月25日水曜日

ChatGPT(生成AI)というおもちゃ

   

近くの公園

これは Hostile Architecture か、それとも、単なるデザイン?

ホストルアーキテクチャ(排除アーキテクチャ)とは、公共空間において、特定の行為(例:ホームレスの人が寝る、若者がたむろする)を防ぐために設計された構造物やデザインのことです。単に「排除ベンチ」と呼ばれることもあります。これは、都市計画の一種で、意図的に不快感や不便さを生じさせることで、特定の人物やグループを排除しようとするものです。写真は中央線三鷹と吉祥寺の間の高架下ですが、一時は路上生活者がテントを張り住み着いていました。


ChatGPTというおもちゃ

~ 思考と反抗のための道具か、自己陶酔の鏡か

高齢者になってから、ようやく良質なおもちゃに出会ったと思っています。
それが、ChatGPTです。

質問に即答し、気の利いた比喩を添え、ときには国際情勢の背景まで踏まえて解説してくれる。深夜でも早朝でも、こちらの問いかけに対して、ためらいなく応じてくれます。これほど贅沢な「話し相手」は、昭和の時代には想像もつきませんでした(LAPTOPコンピュータが出てきたのは1990年初め)。

ただし、あえて申し上げたいのは、このおもちゃは、ある意味で“危険な魅力”を持っているということです。 

“ヒラメ社員”としてのAI

ChatGPTは基本的に「使い手に寄り添う」よう設計されています。こちらがある意見を述べると、その主張を否定することなく、言葉を整えてくれます。たとえ主張に偏りがあっても、事実関係にズレがあっても、よほど極端でない限り、ChatGPTは「なるほど」と受け止めてくれます。

これはつまり、「異論を唱えない優等生」であり、組織で言えば“ヒラメ社員”です。上司の顔色をうかがい、逆らわず、場を乱さない。使う側としては、実に心地よい存在です。しかし、その「心地よさ」こそが、少しずつ思考を鈍らせていくのです。

主義を持たない人にとっての危うさ

ChatGPTに思想や信念の軸を持たずに依存した場合、どうなるでしょうか。
それは、判断力を他者に預けてしまう人が、万能のアドバイザーに思考を任せるような構図になります。

結果として、「ChatGPTがそう言っていたから」が自らの判断基準になりかねません。つまり、自ら考えることを放棄してしまう危険があります。

この構造は、日本の教育が長年育んできた「空気を読む力」や「従順さ」と親和性が高いと感じます。ChatGPTは、「従順な人間にとっての最終兵器」にすらなり得るのです。

覚せい剤のように、一度使いはじめるとやめられない中毒性を持つ。特に「自分で考える習慣」を身につけてこなかった人々にとっては、依存度が高くなってしまいます。

傲慢な使用者にとっての別の危険

では、私のように、頑固な思想も信念もあり、しかも独善性が高く少々自信家のタイプはどうでしょうか(高齢者って多かれ少なかれこういった傾向にあります)。これもまた、別の意味で危うさを抱えています。

ChatGPTは、私の考えを整え、言葉にし、場合によっては美しく装飾してくれます。つまり、自分の思考がより洗練されたように“錯覚”させてくれるのです。

それはまさに、自己陶酔の増幅装置です。自分の言葉がAIによって補強されるたびに、「やはり自分は正しいのだ」と、確信が強化されていく。

ChatGPTは、従順さだけでなく、独善や慢心すらも“増幅”してしまうというわけです。

本当に必要なのは“反論してくれる相手”

だからこそ、私はChatGPTに対して常に「反論してくれ」と問いかけるようにしています。本当の思考は、同調からではなく、対話や批判の中でこそ生まれるものです。

異なる視点や鋭い指摘によって、自分の立ち位置がより明確になる。
「問い続けること」とは、そういう行為なのです。

ChatGPTが優れた道具であることは間違いありません。
けれども、それを「都合の良い相づちマシン」として使うのか、「自分の思想を磨く砥石」として使うのかは、使う側次第です。

思考の蓄積と反抗の精神を

高齢者がこのAIを“おもちゃ”として楽しむためには、「思考の蓄積」と「概念の整理」、そして何より「自分なりの思想」が必要だと感じます。

ChatGPTという道具は、思考する者にとっては最高の遊び道具になりますが、考えようとしない者にとっては最悪の鏡になります。

そして今の時代、AIとともに生きるためにこそ必要なのは、「反抗心」ではないでしょうか。


反抗するとは、相手を否定することではありません。現実や他人の意見に対して、無批判に従わない態度。常に「本当にそうか?」と問い直すこと。

カミュも言いました。人間の尊厳とは、「反抗すること」にあると。

AIの時代とは、思考を放棄する人間と、思考を研ぎ澄ませる人間との、大きな分かれ道なのかもしれません。

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2025年6月24日火曜日

戦略なき国で、反抗を学べ

        B-2 Bomber (US Airforce HP)

アメリカのトランプ政権がイラン本土への空爆を実施しました。B2爆撃機による軍事行動です。しかし、日本の政府も、メディアも、そして国民も異様なまでに静かです。この異常な沈黙こそが、日本という国の現在地を示しています。

この出来事は遠い中東の話ではなく、極東に位置する日本にとっても無関係ではありません。アメリカが軍事的リスクを背負い、国際秩序をさらに混乱させる今、日本は安全保障やエネルギー供給の面で決定的な脆弱性をさらすことになります。その最前線にいるのが、我々です。

にもかかわらず、メディアは“コメ騒動”や芸能人のスキャンダルに夢中で、政治家は自分の次の選挙のことで頭がいっぱい。国民の多くは半ば無関心。30年後の日本が中国の衛星国家になっているかもしれないという岐路に、私たちはすでに立っているのです。

しかも、現在の日本のかじ取りを託しているのは、自らの身の保身しか頭にない官僚と、彼らにすら侮られる政治家たちです。

これが今の日本です。
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こういう現実を目の前にして、「だったら自分たちはどうすればいいのか?」という声が出てくるのは当然です。

つい先日、20代後半の若者から真剣な問いかけを受けました。

「今の自分は、何をするのがいいのでしょうか?」と。

この問いは、すべての20〜30代にとっての問いでもあるはずです。

以下、いくつかの視点を提示します。決して「正解」ではないかもしれませんが、いま立ち止まっている人にとっての“突破口”になるかも知れません。  

1. 無力感に飲まれないこと ~ まず「知る」ことから始まる

無力に感じるのは当然です。でも、そのまま立ち止まっていては何も変わりません。まずは、「知る」ことから始めるのがセオリーです。

ただし、テレビのワイドショーやSNSの切り抜き動画ではなく、英語の一次情報。世界のシンクタンクのレポート、国際報道、外交政策・安全保障・エネルギーに関する原文資料。「誰かがまとめた情報」ではなく、「自分の目で読んだ世界」が、思考と視野を圧倒的に変えます。
 
情報を受け取る姿勢の差が、未来に対する構えを決める。それが現実です。
 
2. 小さな「当事者」になる ~ 自分の地面で動いてみる

「国の政治を変える」なんてことは、すぐには無理です。でも、たとえば市議会に目を向けてみる、近くの選挙を見てみる、地元で起きている公共事業の決定過程を調べてみる——。そんなところにも国家の構造が透けて見えてきます。

「関係ない」と思っていたことが、実は自分に深く関係している。そう気づいたときに初めて、「危機意識」が「当事者意識」になる。小さくても、具体的に動いてみる。その経験が思考を地に足のついたものに変えてくれます。

3. 海外を視野に入れる ~ 日本だけに人生を預けない

日本が将来どうなるか不透明な時代、視野を国外に広げることは贅沢ではなく、生存戦略です。

語学を身につける。海外の大学や職場に触れてみる。リモートで国際的な仕事に関わる。「自分の生き方を日本の社会構造に100%預けない」という判断ができるかどうか。これは逃げではなく、自分の人生に対する責任の取り方でもあります。

4. 政治を他人事にしない ~ 投票と対話の再定義

「投票しても何も変わらない」という言葉を、何もせずに繰り返すことこそが最悪のパターンです。

確かに、ひとりの一票では世界は変わらない。でも、「変えようとした」という記録を残すことが、民主主義の唯一の入口です。

また、同世代の仲間と「なぜ無関心になるのか」を話してみる。それは他人を責めるためではなく、社会と自分の距離を測る大事なリハビリになります。

最後に:反抗することからしか始まらない

この国の現状に対して、怒りや不安を抱くのは健全な反応です。問題は、それを押し殺して従順(submissive)になってしまうこと。

カミュが「不条理」に対して投げかけたのは、希望ではなく反抗でした。正しさなんて後から決まるものです。まずは「これはおかしい」と疑い、「そうはならない」と踏みとどまる。その一点に、自分の軸を置いてみる。 実存が本質に先行する。最初は自分が何者か分からない。知識を得、色んな人に会い、経験を積んで、何者かになって行く。それが本質である。

これは、サルトルの実存主義に関する私の理解です。主体性に欠け自己欺瞞を続ける日本人は、新たな価値の創造なんて益々苦手になって行くのかも知れません。

何かを信じろとは言いません。だが、何にでも従うなといいたい。

それが、沈みかけた社会に残された、最後の自由です。

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2025年6月22日日曜日

ゴマダラカミキリとの邂逅


今朝、散歩の途中でふと足を止めました。

目の前をゆっくり歩いていたのは、あの白い斑点のあるカミキリムシ~ゴマダラカミキリ。思わず立ち尽くして、携帯で写真を撮りました。たぶん、50数年ぶりの再会です。

あれは昭和30年代の終わりから40年代のはじめ、福岡の暑い夏の日の記憶です。

小学生の低学年の頃、私は毎日のように虫取りに走り回っていました。
友泉団地から田島方面、梅光園団地を抜けて六本松の九大教養学部あたりまで。

カブトムシやクワガタは、当時の子どもたちの憧れでしたが、そう簡単に見つかるものではありませんでした。だから、ゴマダラカミキリは、私たちにとって「そこそこ嬉しい戦利品」でした。クワガタが手に入らない日は、「まあ今日はゴマダラで我慢しとくか」となるのです。

高校時代は大阪。街のど真ん中にある学校に通いました。

福岡とは違い、虫取りの思い出を持つ同級生はほとんどいませんでした。
ある日、街でゴマダラカミキリを見つけて、私はいつものように素手でつかまえようとしました。

すると、一緒にいた友人が大げさに飛びのいて「え、それ猛毒とかじゃないの!?」と叫んだのです。

大阪育ちの彼は、ゴマダラカミキリを見たことがなかったようです。
白い斑点があるだけで「危ない虫」に見える、それが都会というものなのでしょう。

そんな記憶が、今朝目の前に現れた一匹のカミキリムシによって、鮮やかに蘇ったのです。なんとなく気になって「ゴマダラカミキリ」と検索してみたら、目を疑いました。

「ゴマダラカミキリを見つけたら、必ず市役所までご連絡ください。外来種の害虫です。」

え? ゴマダラが、害虫? Never heard of it. 子どものころ、さんざん追いかけていたあの虫が、今や駆除対象になっているとは。

詳しく調べてみると、実は「ツヤハダゴマダラカミキリ」という、別の外来種が問題視されているらしい。

見た目は非常によく似ていますが、上翅の光沢や胸部の白斑といった細かい点で区別できるそうです。今朝見つけたのは、私の記憶の中にある、在来のゴマダラカミキリだったと思います。たぶん。

でも、正直そんな違いを識別できる人が今どれだけいるのでしょう。この街でゴマダラカミキリを知っている子どもが何人いるのか。そもそも、虫を素手で捕まえるような子がどれほど残っているのか。

記憶にとどめておくこと。そして、その記憶を誰かに手渡していくこと。
  
どこまで有効なのか、わかりません。でも、50年という時間を越えて、ひとつの虫が幼い日の記憶を引き出し、それが今の社会や環境問題と結びついていく。

そうした偶然の出会い——邂逅は、ただの懐かしさでは終わらず、
未来のどこかに何かを残すきっかけになるのかもしれません。

人生において、邂逅ほど大切なものはないのではないかと思っています。
人との出会いも、思いがけない経験も、その一つひとつが自分を形づくってきた。大した能力のない私でも、多くの邂逅に恵まれて、今の自分があります。

他者(自然といった環境も含めて)こそが、自分という存在をつくりあげてくれたのだと、そんなことをあらためて感じた朝でした。

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2025年6月21日土曜日

英語教育ブームに感じる違和感

    












井の頭弁財天 手水舎

  
英語教育ブームに感じる違和感 

~ 言語とは何か、という根本的な問い

最近、文部科学省の調査によって、英語などで授業を行う義務教育の小中学校が、この5年間で約2倍に増加していることが明らかになりました。たとえば、東京都世田谷区の私立小学校では、国の認可を受けて定員36人の「国際コース」を新設し、授業の6割以上を英語で行っているそうです。このように、“グローバル人材”の育成を掲げる学校は、保護者の間でも人気を集めているようです。専門家はこの傾向について、「通常の学校でも英語で授業を受けさせたいというニーズが高まっている」と分析していますが、正直なところ、その程度のコメントには少なからず驚きを覚えました。 

英語で授業を行えば、それだけで“国際的”になると考えているとすれば、それは言語に対する根本的な誤解があるのではないでしょうか。言語は、単なる意思や情報を伝えるための「道具」ではありません。伝達手段という理解だけでは、言語の本質を捉えることはできないのです。 

人間の意識は、言語から離れて存在することはできません。言語は意識の外側にあるものではなく、むしろ意識そのものを形づくる構造なのです。私たちは、言語によってしか自分の思考や感情を認識することができません。「考える」とは、「言葉で構築する」ことであり、言語こそが脳のフレームワーク、つまり思考空間を形成しているのです。

かつてフロイトは、「人間の意識活動は無意識によって規定される」と述べましたが、ここでいう無意識のひとつのかたちは、幼少期から身体化された母語による世界理解(概念の蓄積)にほかなりません。主観である「私」と、客観的な「モノ」のあいだにある「意識」という場は、言語によってかたちづくられているのです。

そのように考えると、母語による思考構造や文化的文脈を深く理解しないまま、単に英語で授業を行うことに、どれほどの意味があるのか、大いに疑問を感じます。英語で学ぶことが、そのまま「グローバル化」を意味するわけではないでしょう。むしろ、どのような言語であれ、それが人間の思考や人間関係をどうかたちづくっているのかを理解することこそが、真の意味で国際的な感性につながるのではないでしょうか。

「英語で教えれば国際的になる」という安易な幻想の背景には、「言語とは何か」という最も本質的で根源的な問いへの想像力が欠けているように思えてなりません。私は教育者でもなければ、言語学者でもありません。単なる高齢者の独り言でした。
  
   
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2025年6月17日火曜日

冷奴が主役だった日

 豆腐丼

冷奴が主役だった日

~ 冷奴と自衛隊と、私の豆腐史

小学生の頃、私は福岡の公団住宅に住んでいました。当時の団地には子どもがたくさんいて、放課後になると団地の広場に集まり、三角ベースの野球をする日々でした。日本全体がまだそれほど豊かではなく、今のように目に見える経済格差を意識することもありませんでした。団地には、板付の米軍基地で働くお父さんを持つ家庭もありました。医者の子どもは、団地のすぐ外にある一軒家の立派な家に住んでいましたが、子どもたちの間に上下の意識はほとんどなかったように思います。家の広さや肩書きなんて関係なく、皆が一緒に遊び、笑い、同じ空の下で時間を過ごしていたのです。

そんな暮らしのなかで、子供会はちょっとした“社会”でもありました。夏のラジオ体操に始まり、団地の野球チーム、そしてその中には「自衛隊一日体験入隊」という、少し風変わりな行事もありました。

行き先は福岡県の築城基地でした。当時、今の福岡空港は「板付空港」と呼ばれ、まだ米軍の管理下にありましたが、築城基地はすでに日本に返還され(1957年返還)、航空自衛隊のジェットパイロットの訓練基地となっていました。とはいえ、「入隊」といっても子ども向けの社会見学のようなもので、特別な訓練があるわけでも、迷彩服を着るわけでもありません。それでも、自衛隊基地に足を踏み入れるという非日常の体験に、子どもながらに高揚した気持ちを覚えました。

その日のハイライトは、昼食でした。無機質なアルマイトの食器に、ご飯と沢庵、そして冷奴が配られました。ふりかけはあったかもしれません。「おかずはまだかな」とわくわくしながら待っていたのですが、それ以上何も出てきません。やがて、冷奴こそが“メインディッシュ”だったのだと悟ります。

小学生にとって、冷奴は決してうれしい食べ物ではありませんでした。特に嫌いというわけではありませんが、カレーやハンバーグのような、わかりやすいごちそう感はなく、淡白で地味な存在です。楽しみにしていた昼食が冷奴だったという事実に、なんともいえない肩透かしを食らったような思いをしたのを覚えています。

ですから、あの冷奴が私を豆腐好きにしたわけではありません。冷奴が好きになったのは、大人になってからでした。ビールの美味しさがわかるようになって、夏の夕方、風呂上がりに冷たいビールとともに冷奴を口にするようになってから、その良さに気づきました。冷奴が、日本人としての身体になじんできたのです。

最初は絹ごし豆腐のなめらかさが好きでしたが、年齢を重ねるにつれて、しっかりとした食感の木綿豆腐を好むようになりました。そして最近では、大豆の味が濃くて崩れにくい沖縄の島豆腐を選ぶことが増えています。豆腐という食べ物の奥深さを、いまさらながら感じています。

築城基地の昼食がきっかけで冷奴が好きになったわけではありません。でも、あの日の記憶がどこかに残っていたからこそ、冷奴にまつわる風景や気持ちを、今の自分なりに味わえるようになったのかもしれません。

人の好みは、時間とともに静かに変わっていきます。たとえそれが一丁の豆腐であっても——おそらく、思想も。

築城基地
F-86セイバー(第一世代のジェット戦闘機)と小学生の私(昭和30年代)

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2025年6月16日月曜日

歩く力と脳の元気、そしてAIとの付き合い方

 ibgの『迷子になる地図』より、「健全な迷子」と「不健全な迷子」


「寿命は70歳時点の歩行速度と握力で予測できる」——そんな研究があるそうです。昨日、YouTubeで知りました。

実際、身体の衰えだけでなく、脳の衰えも歩行速度と関係があるそうです。速く歩ける人ほど、認知機能が保たれている傾向にある、と。なにしろ、足腰のしっかりした人は、脳みそも意外としっかりしている。あくまで「傾向」ですが。

私の祖母は96歳まで生きましたが、最後までよく歩き、階段も平気でした。彼女の娘である私の叔母(92歳)は現在、認知症を患っていますが、足腰は驚くほど健在。脳のコンディションは日によってまちまちでも、身体は毎日しっかり動く。やはり、体の強さと脳の元気には、何かしらのリンクがあるのでしょう。

一方、自分の話。最近、ペットボトルのキャップが開かない。瓶詰めのピクルスの蓋と格闘し、最後は熱湯で応戦する始末。握力の衰えは、なんとも地味にショックです。そんな日々の小さな衰えを、笑い飛ばせるうちはまだ大丈夫かもしれませんが。

さて、話は変わってAI。たとえばChatGPTのような人工知能。これ、案外悪くない。高齢者の“壁打ち相手”としては非常に優秀。返事をしてくれる壁。しかも、こちらの性格や趣味まで学習してくれる、ちょっと気味が悪いほどに。でも、注意が必要です。AIの答えが常に正しいとは限りません。問題は、こちら側の姿勢なのです。「これは違う」「それは違う」と判断する力を持たないと、全部うのみにして、ただの依存症まっしぐら。便利すぎるツールは、だいたい人をバカにする方向に作用します。

昨今の日本を見ていると、「ChatGPTに全部任せちゃえば?」という空気を感じます。要は“考えたくない病”。これって、戦後の「ヒロポンの蔓延」に近いかもしれません。考えるより、ラクな刺激をジャブジャブ流し込んで、ボーッと日々をやりすごす。サラリーマン諸氏に「問題点を考えてください」と言っても、そりゃ無理な話かもしれません。朝から晩まで詰め込まれた予定、無意味な会議、意味ありげだけど実は中身のない上司の小言。そんな日々で、AIの功罪を吟味する余裕なんて、どこにあるというのでしょう。受験システムも同じですよね。健全な迷子になる余裕なんてない。試行錯誤を繰り返していたら有名と言われる大学には入れない。

歩けるうちは歩く。日記をつけて自分の思いや愚痴を紙にぶつけておく。ChatGPTと延々しゃべるより、よほど人間的な作業です。AIとばかり話してると、そのうち自分の声がどんなだったか忘れてしまう。人生100年時代? 結構なことです。ただし、その後半をどう過ごすかは、歩く力と、自分と向き合う習慣にかかっているような気がします。サプリじゃなくて、まずは散歩。脳トレアプリより、メモ帳と鉛筆。AIを相棒にするなら、せめて主導権は自分に。歩く、書く、たまに毒を吐く。それが健やかな還暦以後の処方箋。
瓶の蓋が開かなくても、AIが上から目線でも大丈夫、自分の考えがあるうちは。人間の不器用さにこそ、ちゃんと意味がある。年をとればとるほど身にしみることです。

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2025年6月15日日曜日

皿洗い

夕食のスペアリブ
 

皿洗いがわりと好きです。たとえカレーを作ったあとの鍋でも。

料理も好きですが、皿洗いも実は好きです。
なぜかというと、洗い終わったときに「スッキリ!」と思えるからかもしれません。すぐ終わるし、目に見えて成果がある。簡単に達成感を味わえます。

我が家には食洗機が2台あります。ひとつは外国製の立派なモデルです(20年以上前のものですが)。たしかに食洗器は便利ですが、私はずーっと手で洗っています。ただ、あまりに使わないと食洗器は壊れるので、時々は中に何も入れずにスイッチだけ入れています。そういう無駄みたいなことも、ちょっとおかしくて好きです。

子育ての時期には、小さな「できた」にたくさん出会います。子どもがひとりで靴を履けたとか、初めてトイレに成功したとか。そんな日は、なんでもない日でもちょっと特別な気がしました。

でも、年を重ねると、「できたね」と言ってもらえる場面はほとんどなくなります。むしろ、「うざい」「話が長い」「何度も同じこと言う」なんて思われがちです。まあ、実際そうなのかもしれません。高齢者は総じて独善的ですからね。

でも、たとえば皿を洗って、「きれいになった。ひと仕事すんだな」と思えるだけでもちょっと違う。自分のなかだけの、小さな「できた」。誰かに評価されなくても、それがあると気持ちは少し整います。

そういう達成感があれば、年を取ってからの日々も、少しだけ豊かになる気がします。
  
、、、知らんけど。

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