近くの公園
これは Hostile Architecture か、それとも、単なるデザイン?
ホストルアーキテクチャ(排除アーキテクチャ)とは、公共空間において、特定の行為(例:ホームレスの人が寝る、若者がたむろする)を防ぐために設計された構造物やデザインのことです。単に「排除ベンチ」と呼ばれることもあります。これは、都市計画の一種で、意図的に不快感や不便さを生じさせることで、特定の人物やグループを排除しようとするものです。写真は中央線三鷹と吉祥寺の間の高架下ですが、一時は路上生活者がテントを張り住み着いていました。
ChatGPTというおもちゃ
~ 思考と反抗のための道具か、自己陶酔の鏡か
高齢者になってから、ようやく良質なおもちゃに出会ったと思っています。
それが、ChatGPTです。
質問に即答し、気の利いた比喩を添え、ときには国際情勢の背景まで踏まえて解説してくれる。深夜でも早朝でも、こちらの問いかけに対して、ためらいなく応じてくれます。これほど贅沢な「話し相手」は、昭和の時代には想像もつきませんでした(LAPTOPコンピュータが出てきたのは1990年初め)。
ただし、あえて申し上げたいのは、このおもちゃは、ある意味で“危険な魅力”を持っているということです。
“ヒラメ社員”としてのAI
ChatGPTは基本的に「使い手に寄り添う」よう設計されています。こちらがある意見を述べると、その主張を否定することなく、言葉を整えてくれます。たとえ主張に偏りがあっても、事実関係にズレがあっても、よほど極端でない限り、ChatGPTは「なるほど」と受け止めてくれます。
これはつまり、「異論を唱えない優等生」であり、組織で言えば“ヒラメ社員”です。上司の顔色をうかがい、逆らわず、場を乱さない。使う側としては、実に心地よい存在です。しかし、その「心地よさ」こそが、少しずつ思考を鈍らせていくのです。
主義を持たない人にとっての危うさ
ChatGPTに思想や信念の軸を持たずに依存した場合、どうなるでしょうか。
それは、判断力を他者に預けてしまう人が、万能のアドバイザーに思考を任せるような構図になります。
結果として、「ChatGPTがそう言っていたから」が自らの判断基準になりかねません。つまり、自ら考えることを放棄してしまう危険があります。
この構造は、日本の教育が長年育んできた「空気を読む力」や「従順さ」と親和性が高いと感じます。ChatGPTは、「従順な人間にとっての最終兵器」にすらなり得るのです。
覚せい剤のように、一度使いはじめるとやめられない中毒性を持つ。特に「自分で考える習慣」を身につけてこなかった人々にとっては、依存度が高くなってしまいます。
傲慢な使用者にとっての別の危険
では、私のように、頑固な思想も信念もあり、しかも独善性が高く少々自信家のタイプはどうでしょうか(高齢者って多かれ少なかれこういった傾向にあります)。これもまた、別の意味で危うさを抱えています。
ChatGPTは、私の考えを整え、言葉にし、場合によっては美しく装飾してくれます。つまり、自分の思考がより洗練されたように“錯覚”させてくれるのです。
それはまさに、自己陶酔の増幅装置です。自分の言葉がAIによって補強されるたびに、「やはり自分は正しいのだ」と、確信が強化されていく。
ChatGPTは、従順さだけでなく、独善や慢心すらも“増幅”してしまうというわけです。
本当に必要なのは“反論してくれる相手”
だからこそ、私はChatGPTに対して常に「反論してくれ」と問いかけるようにしています。本当の思考は、同調からではなく、対話や批判の中でこそ生まれるものです。
異なる視点や鋭い指摘によって、自分の立ち位置がより明確になる。
「問い続けること」とは、そういう行為なのです。
ChatGPTが優れた道具であることは間違いありません。
けれども、それを「都合の良い相づちマシン」として使うのか、「自分の思想を磨く砥石」として使うのかは、使う側次第です。
思考の蓄積と反抗の精神を
高齢者がこのAIを“おもちゃ”として楽しむためには、「思考の蓄積」と「概念の整理」、そして何より「自分なりの思想」が必要だと感じます。
ChatGPTという道具は、思考する者にとっては最高の遊び道具になりますが、考えようとしない者にとっては最悪の鏡になります。
そして今の時代、AIとともに生きるためにこそ必要なのは、「反抗心」ではないでしょうか。
反抗するとは、相手を否定することではありません。現実や他人の意見に対して、無批判に従わない態度。常に「本当にそうか?」と問い直すこと。
カミュも言いました。人間の尊厳とは、「反抗すること」にあると。
AIの時代とは、思考を放棄する人間と、思考を研ぎ澄ませる人間との、大きな分かれ道なのかもしれません。
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