2025年10月12日日曜日

知能と知性を混同する国

 
Silicon Valley is home to many major tech firms, including Apple's circular headquarters

(BBCの記事から借用です)

‘It’s going to be really bad’: Fears over AI bubble bursting grow in Silicon Valley” — BBC ニュース(2025年10月11日付)

https://www.bbc.com/news/articles/cz69qy760weo

この記事で報じられていたのは、OpenAI や Nvidia を中心に、AI関連企業の過熱感と、その先にある市場の崩壊リスクである。記事は、企業間の複雑な投資スキームが実需を曖昧化している点も指摘しています。

このニュースを読んで、私は改めて「AI の進歩」と「人間の知性」の関係を問い直したくなりました。

世界中がAIに熱狂し、巨額のマネーが動くなかで、本当に問われるべきは「人間の側の知性」ではないでしょうか。人工知能は人間を超えるスピードでデータを処理しますが、それが「知的」かどうかは別問題です。AIの能力に驚嘆する一方で、私たちは「知能」と「知性」を混同していないでしょうか。

人工知能は知能(intelligence)を拡張する道具であり、人間にできないことを可能にします。それは、大量のデータを高速に処理するという「計算能力」においてです。しかし、知性(intellect)とは本来、人間固有のものであり、反省や内省、振り返り、すなわち自己認識の営みの中にあるものです。

最近のアメリカを見ていて驚くのは、哲学のような本来「知性」の領域に属する学問まで、形式化・数量化しようとしていることです。AIの議論の根底に、「数値化できないものは存在しない」とする発想があるのです。

アメリカ社会の根本的な矛盾は、自分たちが「永遠にナンバーワンで不滅だ」と信じていることにあります。「More(もっと)」を無限に追い求める“足るを知らない病”です。金を持っている人間が神に祝福された人間であり、偉いのだという価値観。トランプ氏はその典型です。シンギュラリティという概念は、まさにそうしたアメリカ的な富と権力への信仰にぴったり合っているのです。

しかし、そのトランプ政権下で進められた徹底した不法移民の取り締まりと大規模な強制送還は、アメリカの本質的な強みを損なうものでした。問題は単に下層の労働力だけではありません。シリコンバレーを支えてきたのは、インド系や中国系をはじめとする世界各地から集まった優秀なエンジニアたちです。彼らの中には合法・非合法を問わず、才能を求めてアメリカにやってきた人々が少なくありませんでした。アメリカのベンチャー企業は、そうした移民たちのエネルギーと創造力によって支えられてきたのです。

その「懐の深さ」こそが、かつてのアメリカ経済を再生させた最大の要因でした。

アメリカ資本主義を支えてきたのは、合理性と多様性という二つの支柱です。合理的な仕組みと透明なルールのもとで、多様な人材が競い合うことで新しい産業が生まれてきました。1990年前後のアメリカ経済がどん底から復活したのは、まさにこの二つの力によってでした。ところが今、その合理性は投機的な「AIバブル」によって歪められ、多様性は排外主義的な政策によって損なわれつつあります。アメリカがかつて自らを支えた土台を掘り崩しているようにも見えます。

そして残念ながら、日本もまた同じ過ちを犯しています。新聞やテレビのコメンテーターが、表層的な理解だけでAIやシンギュラリティを語る光景は、滑稽とさえ言えます。ここでも、手段と目的の取り違えが起きているのではないでしょうか。AIという「知能の拡張」を目的化してしまい、「人間の知性」を磨くという本来の目的がすっぽり抜け落ちているのです。

知能と知性を混同する国は、アメリカであり日本でもあります。

AIに頼るほど、人間は何を失っていくのか。それを考える「知性」こそ、今いちばん必要とされているのではないでしょうか。

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2025年10月11日土曜日

「移民国家ニッポン」を語る前に ~ 渋谷で見た日本の現在地

渋谷スクランブル交差点

先日、5~6年ぶりに渋谷に行きました。いやあ、びっくりしましたね。まるで空港のターミナル。スクランブル交差点を渡る人の7~8割が外国人。浅黒い肌の中東系、インド系、そして白人の姿も目立つ。パルコのレストランに入ると、店員さんまで外国人。しかもみんな日本語を話している――もっとも、流暢というよりは接客マニュアルの会話レベルですが。もはや「旅行者」ではなく、明らかに「居住者」なんですね。日本人の私が、なんだか田舎から出てきた高齢者のおのぼり観光客のような気分になってしまいました。エスカレーターに乗るのにも一苦労。突然立ち止まる人、写真を撮る人、スーツケースを引く人…。渋谷の街は、東京というより“人種と文化のカオス・ワールド”。その雑踏を抜けるころには、頭がくらくら、軽い時差ボケを感じたほどです。

そんなタイミングで、日本版『ニューズウィーク』を開いたら、フランス人ジャーナリストのレジス・アルノー氏の記事が目に飛び込んできました。タイトルは「なぜ日本は『移民』を語って『帰化』を語らないのか」。――まるで渋谷の雑踏から直接インスピレーションを得たようなテーマです。記事の趣旨は、「日本はすでに移民国家なのに、その現実を見ようとしない」というもの。たしかに数字だけ見れば説得力があります。日本に暮らす外国人は約380万人。飲食業も建設業も、今や外国人なしでは回らない状況に追い込まれた。法務局の帰化審査がブラックボックスだという批判も、正しいのかもしれません(詳しくは知りません)。

しかし、読み進めるうちに、どうにも違和感が湧いてきました。彼の論には、「時間」と「記憶」という、日本特有の文脈がすっぽり抜け落ちているのです。

日本は、戦前と戦後でまったく別の国になりました。敗戦後の80年で、日本は見事なまでにアメリカ化し、2000年以上かけて積み重ねてきた文化や風習――つまり「日本人の情緒」を、自らの手で手放してきた。しかも押しつけられたのではなく、むしろ喜んで。

「アメリカの保護者付きで生きるほうが楽だった」のです。考えなくていい、責任を取らなくていい、失敗しても誰かのせいにできる。そんな“戦後の知恵”が国民的習慣になった。私は、ここに戦後日本のストックホルム症候群的構造を見るのです。つまり、支配者を憎みながらも依存せざるを得ない心理(令和の現在、そういった意識さえ無くなった)。おかげで私たちは「独立国家のふり」をしながら、実際には「ごっこ」の中で暮らしている。―― これこそ、戦後最大の自己欺瞞ではないでしょうか。

だから私は、「日本は移民国家だ」というアルノー氏の断定には、少し首をかしげます。確かに街を歩けば外国人だらけ。でも、それで移民国家?いや、あれは“共生”というより“雑居”です。同じマンションに住んでいるけど、料理の匂いも文化も混ざらない。せいぜい「エレベーターでうなずき合う」レベルの共存です。フランスのように「生まれたら国民(出生地主義)」の国と、「血と文化を継ぐ(血統主義)」の国では、社会観がまるで違う。それを「どちらが進んでいる」と比べたがるのは、文明が文化を見下す傲慢というものでしょう。

むしろ今の日本は、「外」ではなく「内」を見つめ直す時期だと思います。私は極論を承知のうえで言いますが(何十年も言い続けています、、、)、いまこそ“精神的鎖国”をしてもいい。「日本とは何か」を、もう一度ゆっくり考える時期です。「和の感性」「間の美学」「自然との共生」―― これらは懐古趣味ではなく、未来への設計図です。それを忘れ、自らの「情緒」を経済合理性の奥底に押し込めてしまったのが、いまの日本人の姿でしょう。

だからこそ、必要なのは「反抗」です。

ただの反米ではなく、思想としての自立、文化としての自尊 ―― つまり、自分の足で立つという決意。移民政策の議論をする前に、私たちはまず「どんな日本に生きたいのか」を考えるべきです。国家とは制度ではなく、文化の器であり、精神の住処なのですから。

最後に、日記をつけることをお勧めします。“Inner Balance Notebook(内なる均衡ノート)”――自分の心のバランスを記すための小さな日課。毎日の気づきや感情をほんの数行でも書きとめる。それは、忙しい日常の中で“自分の中の日本”を取り戻す、ささやかな習慣です。渋谷の喧騒の中でも、静かに立ち止まる時間が生まれる。日本の再生は、そんな小さな自己対話から始まるのではないでしょうか。

移民国家かどうかを論じる前に ―― まず私たち自身が、どんな日本に生きたいのかをノートに書くこと。それが、未来へつながる本当の「文化の再構築」だと思います。

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2025年10月10日金曜日

絵日記という原点 ~ 情緒と思考をつなぐ習慣づけ

 
ibg ノート

小学校で「絵日記」を書くことの意味を、私たちは意外なほど軽く見ているのではないでしょうか。印象に残った場面を絵に描き、その説明を短い文章でまとめる。単純な宿題に見えますが、実はこの作業こそが「情緒的な思考」と「論理的な思考」をつなぐ最初のステップなのです。


小学校のうちに、感情や経験を言葉に置き換えて表現する練習をしておかないと、後に論理的思考へと発展していきません。ましてや、抽象的な概念を使って論文を書くなど到底無理なのです。社会人になってから求められるのは、専門的な知識をもとに自分の考えを体系的にまとめ、他者に説得力をもって伝える力です。その基礎は、実は「絵日記」にあります。

柳田国男に学ぶ「ふりかえり」の力

民俗学者・柳田国男は「青年と学問」(岩波文庫)で次のように書いています。

自分たちの学問は、いつまでたっても改良と訂正とが必要である。これを印刷に付するのは、このまま信用せられんがためでなく、むしろ自分も読者諸君とともに後日虚心平気にもう一度これを批評せんがためである」。

自分の過去の考えを、年月を経て改めて見直す。これこそが「学び」の原点だと柳田は言うのです。私自身も、10年、20年、30年前に書いた日記を読み返すことがあります。そこには、変わった部分もあれば、相変わらず同じことをグダグダと繰り返している自分もいる。絵日記も同じで、「あの時自分は何を感じていたのか」をたどる手がかりになります。書くこと、描くことは、自己をふりかえる習慣なのです。

鉄人28号と絵を描く力

私が小学生低学年だったころ、夢中で「鉄人28号」の絵ばかり描いていました。リモコン次第で悪人の手先にもなる鉄人28号のほうが人間くさい鉄腕アトムよりも好きでした。音楽でいえば、ビートルズよりローリング・ストーンズが好きなのと似ています(本当は両方好きですよ!)。子どものころは、夢中で絵を描いては次々に興味が移っていったものです。
     
今思えば、あの頃に「描く」ということを通じて、無意識のうちに観察力や構成力を身につけていたように思います。文系・理系を問わず、絵を描くことは思考の基本です。頭の中のイメージを形にする力、つまり「構造化する力」です。ビジネスの世界でパワーポイントの図解をつくるのも、絵日記の延長線上にあります。絵心がある人は、複雑な情報を整理してわかりやすく伝えることができるのです。

絵日記はプレゼンテーションの原点

絵日記の構成をよく考えてみましょう。

「絵」=ビジュアルで印象を伝える要素。
「文章」=説明で補う言語的要素。

これはそのまま「ビジネスプレゼンテーション」の構成と同じです。

子どもが描いた絵を説明するとき、「どうしてそれを選んだの?」「何がいちばん印象に残ったの?」と聞いてあげると、子どもは自分の考えを自然と整理し、言葉にしていきます。このプロセスは、将来の「プレゼン力」を育てる練習です。しかも、親子の対話を通して進めることで、コーチングの実践にもなります。絵日記は、子どもの言葉を引き出す“家庭の小さなプレゼン研修”なのです。

「物語」としての自分を語る

人生とは、ひとりひとりの物語です。自分という主人公がどこに立ち、何を感じ、どう行動してきたのか――それを語る力が「大人になる」ということだと思います。

絵日記は、その第一歩になります。自分を少し距離を置いて見つめ、「あの日の自分はこう感じていた」と言語化する。この「布置化(ふちか)」、つまりコンステレーションの習慣が、自分の思考や行動を客観視する力を育てます。後にこれが、仕事での自己省察やチーム内でのコミュニケーション力につながっていくのです。

多くの人と関わり、語り、ふりかえる。その積み重ねが「人生のビジョン」を形づくります。信頼や尊敬は、時間を共有するなかで生まれるのです。絵日記は、その原型として自分と他者をつなぐ訓練の場でもあります。

感情を言葉にする力は一生の財産

「楽しかった」「きれいだった」だけでは、もったいない。絵日記では、限られた言葉で自分の気持ちを表現しなければなりません。「風が気持ちよかった」「心がドキドキした」――そうした表現の中に、子どもの感性が息づきます。短い中に情緒を込めるという点では、俳句や短歌にも通じます。短いと言っても、スマホによるチャットの交換ではないですよ。この訓練が、「自分の感情を言葉にする力」を養い、将来の社会生活で必ず役立ちます。

現代社会では、SNSやプレゼンテーション、自己紹介など、あらゆる場面で「自分を言葉で表現する力」が求められています。絵日記で育つ言語化能力は、一生もののスキルです。

「もう一人の自分」を持つトレーニング

カーリングの藤沢五月選手は、自分の心に「もう一人の自分」を宿すトレーニングをしているそうです。これは心理学で「メタ認知能力(meta-cognitive ability)」と呼ばれるもので、自分を客観的にふりかえる力のことです。スマホ依存が進む現代社会では、この力がますます重要になります。

実は、絵日記や日記を書くという行為そのものが、この「もう一人の自分」を育てるトレーニングでもあります。自分の思考や感情を見つめ直す時間を持つこと。それが人間の成熟に欠かせない要素なのです。

ibgノートという“ふりかえり”のツール

10年ほど前に、この考えをもとに「ibgノート」を作りました。A4横サイズ、白いダブルリング綴じ、KPT(Keep/Problem/Try)方眼フォーマット付き。ビジネスコンサルタント用に設計しましたが、実はお子さんの絵日記や雑記帳としても使えます。

上のページに絵を描き、下のページに「よかったこと」「よくなかったこと」、そして右に「やりたいこと」を書く。親子でふりかえる時間を持つことで、会話が生まれ、考える力が育ちます。絵日記は子どもの教育だけでなく、企業のコミュニケーションにも通じる――そんな思いを込めたノートです。

絵日記は、情緒と思考をつなぐ最初の架け橋です。
そしてそれを続けることが、「自分を語り、自分を成長させる」ための、最もシンプルで確実な方法なのです。

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2025年10月9日木曜日

AIと教育 ― 便利さの幻想を超えて

出典:不明

デジタル化が進むほどに問われる「人間とは何か?」「生きるとは何か?」
教育の本質は効率ではなく、思考の再教育にある。


AIやデジタル技術の導入が加速する教育現場。

しかし、「便利」「効率的」という言葉の裏側で、教育の本質が見失われつつあります。
AIが生成する“知”の時代に、私たちは何を学び、どのように考えるべきなのでしょうか。

技術礼賛の先にある「思考の空洞化」

近年、「AI×教育」や「デジタル学習革命」といった言葉が教育現場を賑わせています。けれども、その多くは技術の導入を目的化した表層的な議論にとどまっているように思います。AIやデジタル機器を「効率を上げる道具」としてのみ語る言説は、教育の本質を見失う危険をはらんでいます。

記事や報道を眺めていると、傾向は大きく三つに分けられます。第一に、デジタルを「便利なツール」として礼賛する類。第二に、リスクを過度に強調する立場。第三に、AI導入事例を並べるだけの「技術紹介」型です。これらに共通するのは、教育を「技術の問題」としてしか見ていない点です。教育とは本来、人間の内面に関わる営みであり、AIが解決できるのは一部の作業的課題にすぎません。

デジタル化が変えるのは「知識」ではなく「情報の意味」

AI時代の教育において本当に問うべきことは、「何をどう教えるか」ではなく、「情報とは何か」という問いそのものです。
かつて情報は希少であり、それゆえに価値を持ちました。しかし今では、情報は溢れています。検索一つで誰もが入手できる時代において、価値の源泉は「情報の量」ではなく、「取捨選択・編集・解釈の力」へと移りました。学ぶべきことは、「情報を持つ力」から「情報を意味づける力」へと転換しているのです。

AIが生成する情報は無限に拡張します。けれども、それをどう読み、どう疑い、どう再構築するかという人間の思考が伴わなければ、知は空洞化します。デジタル化の本質とは、情報の洪水のなかで“意味”が相対化されることにあるのです。

教育の目的は「ツールの習熟」ではない

教育の目的は、技術の習得ではなく、思考の涵養にあります。
ある教育情報サイトが示したように、「情報を活用し、意味づけ、創造へとつなげる力」は、AI時代における人間の根幹的な能力です。重要なのは、AIを“使える”ことではなく、AIを通して「人間とは何か」を考えることなのです。

教育には次の五つの視点が求められます。
  1.  情報の真偽を見抜く批判的思考力
  2.  情報を再構成する編集力
  3.  文脈を読み取る理解力
  4.  デジタル(仮想)と実体験(現実)のバランス
  5.  技術格差に対する社会的配慮
これらはいずれも「便利さ」や「効率性」といった価値観の外側にあります。AIを使いこなす以前に、AIに使われない人間を育てることこそ、教育の使命ではないでしょうか。

「思考の再教育」こそAI時代の鍵

AIが文章を作り、画像を描き、問いに答える時代に、人間はどのように学び、考えるべきか――。
その答えは、単なる情報教育ではなく「思考の再教育」にあります。自ら考え、疑い、判断する力を養うこと。そこに教育の原点があるのです。

「デジタル教育」の喧噪のなかで、私たちはいま一度、教育の目的を問い直す必要があります。
AIが変えるのは学びの“手段”ではなく、人間の“意味”そのものなのです。

最後に

AI教育をめぐる議論は加速していますが、「効率」や「個別最適化」の言葉が独り歩きしています。

教育は、道具をどう使うかの問題ではなく、人間がどう生き、考えるかの問題です。その根幹を見失わないために――「便利さの幻想」を超えた教育の再定義が求められています。

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2025年10月8日水曜日

フェミニズムと自由の原点 ― 高市総裁が映す“平等”のかたち

 
出典:Adobe Stock

自民党総裁選で高市早苗氏が新総裁に選出され、初の女性首相誕生の可能性が現実味を帯びてきました。これに対して、多くの国民からは期待や歓迎の声が上がっていますが、日本のフェミニズム研究の第一人者である社会学者・上野千鶴子氏は、「うれしくない」と率直な思いをX(旧ツイッター)で発信しました。

上野氏は、「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない」と投稿。さらに、スイスのシンクタンク「世界経済フォーラム」が毎年発表する「ジェンダーギャップ指数」に言及し、「来年は日本のランキングが上がるだろう。だからといって女性に優しい政治になるわけではない」と指摘しました。

特に上野氏は、高市氏が「選択的夫婦別姓」に慎重である姿勢を問題視。「これで選択的夫婦別姓は遠のくだろう。別姓に反対するのは誰に忖度しているのだろう?」と批判的な見方を示しました。もっとも、高市氏自身は旧姓の通称使用拡大に政治家として長年取り組んできた経緯があります。

一方で、立憲民主党の辻元清美参議院議員は、党派を超えて祝意を述べました。「高市さんと私は20代の頃から『朝まで生テレビ』で議論してきた対極の存在」としながらも、「ガラスの天井をひとつ破りましたね。たとえ意見や考え方が違っても、すべての人の幸福のために力を尽くす。その思いでしっかり熟議しましょう」と前向きなメッセージを送りました。

この辻元氏の発言には、普段彼女の政治姿勢に賛同しないと語る一部の有権者からも、「今回はよかった」「さすが大阪のおばちゃん」と評価の声があがりました。

高市氏の総裁就任を巡っては、社会的な立場や政治的な思想によって、評価が大きく分かれています。しかし、この議論から見えてくるのは、「女性であること」そのものよりも、「どのような価値観に基づき、どのような社会を目指すのか」という、より本質的な視点が問われているということです。

男であれ女であれ、魅力的な人は魅力的であり、家庭にいる女性もオフィスで働く女性も同じように尊重されるべきです。性別によって役割が決まるのではなく、互いの違いを認め合い、折り合いをつけながら共に生きていくことこそが、成熟した社会の姿といえるでしょう。

その意味で注目すべきなのは、社会主義者・北一輝の思想です。彼は社会主義者ですから、当然のごとく男女平等主義者でしたが、同時に「断じて同一の者に非ざる本質的差異」があることを認めていました。男と女は物理的に異なり、それぞれにしかできないこともある。互いに理解できない現実もある。にもかかわらず、人は努力して折り合いをつけながら共に生きていくものだ、という視点は、今日のジェンダー論にも通じる重要な視座ではないでしょうか。

ここで思い起こされるのが、アメリカ建国の精神です。

「すべての人は平等に造られている(All men are created equal)」という独立宣言の一節は、当初は女性や有色人種を含まない限定的なものでした。しかしその理念――「個人の自由と平等を守る」という普遍原理――が、のちの黒人解放運動や女性参政権運動、そしてフェミニズムの礎となっていきました。

つまり、フェミニズムとはアメリカ建国の「自由の精神」を、性の次元において拡張し、実践しようとする試みでもあるのです。性別を超えた「人間としての尊厳の平等」を求める思想こそ、民主主義の延長線上にあるべきものです。

とはいえ、今のアメリカ社会を見れば、その理想はむしろ遠のいているようにも見えます。分断と対立の構図は深まり、自由の名のもとに他者を排除する風潮すらある。皮肉なことに、アメリカ建国の理念は、最も古くに掲げられながら、最も実現が遅れている理想なのかもしれません。

もしかすると、「すべての人が平等に造られている」という思想は、日本が先に実現していたのではないか――そう感じる瞬間すらあるのです。

そして、そのような社会を目指すのであれば、「知ることと行うこと」が一致している(知行合一)、つまり「言っていることとやっていること」が一致している人物こそが信頼に値します。性別を盾にするのではなく、より抽象度の高い「平等」という理念にどう向き合うのかが、今まさに問われているのです。

フェミニズムとは、本来、性別を問わずすべての人が平等に扱われるべきだという思想です。日本ではしばしば誤解されがちで、「フェミニスト=女性を優遇する人」と捉えられることもありますが、それは本質ではありません。フェミニズムは、性差別をなくし、機会の平等を追求する考え方であり、男性でも女性でも支持しうる思想です。

つまり、「フェミニストは女性だけのもの」とするのではなく、性別に関係なく、すべての人がその理念を共有し得るものである――この視点が、これからの議論の出発点となるべきなのです。

なお、私自身は上野千鶴子さんについて深く知っているわけではありません。発言や立場を見る限り、非常に学者らしく、現実社会からはやや距離のある意識の持ち主であるように感じます。ときに、彼女のフェミニズムは「女性優位論」として映ることもあり、彼女の実生活と発言の間に乖離があるようにも見えます。つまり、「知行合一」とは程遠い印象を受けるのです。ファンの方には申し訳ありませんが、こうした違和感を覚える人も少なくないのではないでしょうか。

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2025年10月7日火曜日

親子関係と情報の時代を考える

散歩


ワクチンよりも信頼 ― 親子関係と情報の時代を考える


アメリカの Washington Post に「ワクチンを受けずに育った若者たちが、大人になってから自ら接種を選ぶ」という記事が掲載されていました。宗教的理由や医療不信などから、親が子供に予防接種を受けさせなかったケースが多く、子が成人してから医療機関で「実はほとんど接種していなかった」と知って愕然とする例が紹介されていました。

記事で印象的なのは、「親を信じていたはずの子供が、成人してから自分の身体を守るために“親の判断を修正する”」という点です。ワクチン問題の背後には、単なる医療政策だけでなく、親子の信頼関係や社会への信頼の問題が深く関わっています。

日本の医療は、世界でも稀な充実度

日本に暮らしていると見えにくいのですが、日本の医療制度は世界的に見ても極めて手厚いものです。私自身、両親や義父母の介護を経験し、医療費や高額療養費制度など、国の支援のありがたさを痛感しました。アメリカでは、医療保険が不十分な家庭も多く、経済的理由で予防接種を受けさせられない親もいます。宗教や思想だけでなく、「医療費」や「制度の不備」もまたワクチン忌避の背景にあるのです。

日本のコロナワクチン接種については、私は初期の段階で区切りをつけました。裏で様々な思惑が交錯しているように感じられたからです。健康に関する選択は、国家や企業の方針に委ねるものではなく、やはり最終的には一人ひとりの判断にゆだねられるべきだと思います。

情報の時代における「親の限界」

いま世界中の若者たちは、スマホとSNSで育っています。情報の出所はもはや親ではありません。ワクチンに限らず、社会や政治の情報についても、親世代と子世代の間に大きな断絶が生まれています。

私の世代では、「朝日新聞の天声人語を読め」と先生に言われたものです。しかし今では、朝日新聞をはじめとする既存メディアの信頼度は大きく落ちています。テレビや新聞の情報を鵜呑みにするのは、私の上の世代か、同世代くらいまででしょう。

いま必要なのは「正しい情報をどう選び取るか」というリテラシーです。真贋を見極めることは容易ではありませんが、読んで・考えて・書くという営みを怠れば、思考力は確実に失われます。AIに思考を委ねるのではなく、日々の生活の中で自分の頭を使うことが、知性を守る最低限の防波堤です。

成人した後の「子育て」

何度も言及していますが、「子育て」には、二つのフェーズがあると思っています。

① 成人するまでの子育て
② 成人した後の子供との関係

多くの「子育て論」は①しか扱いません。けれども、親子関係は成人しても続くのです。
親の役割は「誠実で信頼できる存在であること」。それがすべてです。

子供は親の言葉ではなく、親の態度や行動を見ています。言葉と行動にギャップがあれば、信頼は失われます。信頼とは、教え込むものではなく、日々の言動の積み重ねから生まれるものです。

私は中学生の頃、教師のあら探しばかりしていました。信頼できない学校や先生とは距離を置いた。反抗的な傾向は高齢者になった今も変わりませんが、、、。誠実さのない大人は、子供にも社会にも信頼されないのです。政治家と国民の関係も、まったく同じ構図でしょう。

「自然体の親」であること

日本社会では、アダルトチルドレン的な傾向が強まっていると感じます。子供のころから親との信頼関係が築けず、大人になっても他者との関係がうまく結べない。会社では上司と部下の関係に置き換わり、仮面をかぶって生きる。

それを断ち切る第一歩は、親が自然にふるまうことです。立派な親でなくていい。言葉よりも誠実さ。形よりも態度。「信頼できる親」であることが、ワクチンよりも強い免疫になるのです。
  
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2025年10月6日月曜日

日本初の女性総理誕生と「平等」という幻想

 
高市さんは橿原市の出身。

自民党の総裁に高市早苗さんが選ばれました。歴代初の女性総裁であり、事実上、日本初の女性総理が誕生したことになります。アメリカに先んじて女性リーダーを迎えたことは、国際社会に大きな驚きを与えるでしょう。しかし、この出来事を単なる「男女平等の象徴」として消費してしまうのは、やや短絡的ではないでしょうか。

はアメリカにほぼ20年暮らし、アメリカ企業で働いてきました。その経験から言えば、アメリカはあらゆるカテゴリーに差別が存在する社会です。格差の広がりも凄まじく、人種・性別・宗教・階層といった要因で壁が立ちふさがります。それに比べると、日本は驚くほど平等な社会です。格差社会へと少しずつ変貌してきたとはいえ、アメリカや中国と比べたら日本ははるかに公平で、格差の少ない社会だと断言できます。

近年はLGBT法案も注目を集めています。私がNYで働いていた頃、直属の上司がゲイの男性でした。しかし、その事実を特別に意識したことは一度もありませんでした。当時は「LGBT」という言葉すら一般的でなかったのにです。結局のところ、性的少数者は紀元前から存在してきたのです。アメリカが2000年以降、急速にジェンダーフリーに舵を切ったのは事実ですが、その副作用として優秀な人材が社会の表舞台から退くような現象も見受けられました。自由と民主主義の行き過ぎが、社会の健全なバランスを壊すこともあるのです。

こうした問題に対して、エマニュエル前駐日米大使は「同性婚は日本の未来への前進だ」と発言しました。しかし私は思います。日本には日本の価値判断の基準があるのではないか、と。欧米社会は「差別が前提」であり、そのために法律で規制するという仕組みをつくっています。けれど日本はそもそも差別の強度が弱く、自然と人間を二元論で分けるのではなく、自然と共生しながら独自の価値観を育んできました。そこに欧米型の「法律による規制」をそのまま持ち込むのは、むしろ違和感があります。

もちろん、日本にも課題はあります。事なかれ主義、当事者意識の欠如、危機に直面したときの脆さ。コロナ禍下でそれが露呈しました。また、日本人は「共同主観の模索」が苦手です。つまり、主観と客観を行き来しながら議論を深めることが不得手で、そのためリーダーシップの不在が際立ちます。それでも、欧米のように差別を「前提」にして制度を積み上げるのではなく、人間と自然の因果を一体として受け止める日本的発想を忘れてはならないと思うのです。

世界は本来、平等ではありません。程度の差はあれ、どこに行っても格差や差別は存在します。むしろ、日本は世界で最も平等に近い社会のひとつでしょう。その中で「何が何でも男女平等」と叫ぶ声には違和感を覚えます。人生を生きるということに男女の差はなく、それぞれが自らの美意識、人生の物差しを持てばよいのです。ビジネスの世界で優秀で魅力的な女性は、家庭でも有能な母であり、同時に社会を支える存在である。これは決して矛盾ではなく、日本の強みでもあります。

北一輝は男女平等を主張しましたが、それは「断じて同一の者に非ざる本質的差異」を前提としていました。男と女は物理的に異なり、それぞれにしかできない役割もある。互いに理解できない現実を認めつつ、それでも折り合いをつけて共に生きる努力をする――そこに本当の意味での「平等」があるのではないでしょうか。

一方で、男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法が掲げる「法律で男女を同一に扱う」という発想には危うさを感じます。それは本質的差異を無視し、国民を「全体主義の奴隷」として均一化してしまう危険があるからです。日本はもっと多様で柔軟な国柄であってよい。

教育に関しても同じです。子供たちには「世の中は平等ではない」という前提を教えるべきです。その中で試行錯誤し、失敗から学び、精神的に強くなること――Be Mentally Strong!――こそが必要なのです。立川談志師匠は「努力はバカに与えた夢だ」と語りましたが、師匠自身は人一倍努力を重ねました。天才でない限り、人と同じことをしていたら人と同じようにしか生きられない。だからこそ、自分の個性を磨き、強く生き抜くしかないのです。

高市総裁誕生という歴史的出来事を「男女平等」の勝利として称えるのも一つの見方です。しかし私は、それ以上に「日本には日本の平等観がある」という事実を大切にしたいと思います。日本的な価値観を思い出し、自然との共生、人間の差異を受け入れる感覚を未来へ引き継ぐこと。それこそが、これからの時代に必要な「平等」の姿なのではないでしょうか。

追)高市氏の出身高校は私の本籍地と同じ町内であり、橿原市の初代市長が私の親族であるという偶然の符合があります。とはいえ、私は特定の政治家を称賛する意図はありません。むしろ、この出来事を通して「日本的平等観」を改めて考える契機としたいのです。

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