2025年11月2日日曜日

迷子になる勇気 ― 井伏鱒二『山椒魚』が映す日本社会の閉塞

 

井伏鱒二の『山椒魚』が発表されたのは1929年、昭和の幕開け、満州事変の直前の頃です。


それから約一世紀が経った今も、この作品は学校の国語教科書に掲載され続けています。けれども、現代の教育現場でこの作品がどこまで深く読まれているのかといえば、疑問を感じざるを得ません。  

多くの場合、「自分の殻に閉じこもった山椒魚の孤独」という心理的・道徳的な読み方にとどまり、そこに潜む社会的比喩までは掘り下げられていないように思います。

社会に出て組織の中で働いた経験を持つ人が読むと、この短編はまったく別の表情を見せます。

山椒魚が閉じこもった「岩屋の穴」は、まさに現代日本の組織社会そのものを象徴しているように見えるからです。狭く、息苦しく、しかし奇妙に安定した空間。そこに閉じ込められた山椒魚は、他者を責め、言い訳を重ね、自分の境遇を嘆きながらも、けっして外へ出ようとしません。彼を不自由にしているのは他者ではなく、自分自身なのです。そして、蛙。山椒魚によって岩屋に閉じ込められた生物です。当初は山椒魚と罵り合うのですが、最終的には山椒魚の孤独を理解し、両者の間に奇妙な連帯感が生まれます。なんだか、いったん入社すると、惰性でそのまま定年まで、、、。

この構図は、いまの日本社会に驚くほどよく似ています。

学校では、与えられた問いに「正しい答え」を返すことが評価されます。「なぜ」「どうして」と問うことは煙たがられ、他人と違う意見を持つことが「面倒」とされる。社会に出れば、上司の指示に従うことが『協調性』とされ、異論を唱える者は『空気が読めない』と排除される。

こうして人々は、自分で考え判断する力を失い、洞窟の中で不満を言うだけの存在になってしまいます。

井伏が『山椒魚』を書いた頃、日本は急速な近代化のただ中にあり「自律」という概念を置き去りにしていました。国家も個人も、外から与えられた枠組みの中で「秩序」を優先し、「自由」を恐れたのです。その構図は、戦後を経た現代でもあまり変わっていません。むしろ管理と監視の技術が高度化したことで、私たちはより精密な「洞窟」の中に閉じ込められているのかもしれません。

思えば、山椒魚が岩屋に閉じこもることになったのは、「ほんの気まぐれ」でした。外に出るタイミングを逃したことが、彼を永遠の囚人にしたのです。日本社会もまた、戦後のある時期に「自由より安定」「個より組織」という選択をしました。その結果、社会は安定しましたが、精神の自由を失いました。自らの判断で動く勇気――すなわち「自律」――が奪われていったのです。もちろん、外的要因は多々ありましたが、、、。

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2025年11月1日土曜日

チームビルディングという幻想 ― 日本が自律を失った理由

1998年頃に作成したスライド
 

組織という病理 ― 日本が「自律」を失った理由


高市新政権が船出しました。
外交も内政も、ようやく舵を切ったばかりです。

それにもかかわらず、主要メディアは早くも冷笑的な論調を競い合っています。どうもこの国では、政治家が何かを「始める」ことよりも、「まだ何もしていない」段階で叩くことに快楽を見いだす人々が多いようです。私は、もう少し静観するくらいの知的余裕を持ちたいと思います。

もっとも、政権批判そのものの是非を論じたいわけではありません。私が気にしているのは、この国の組織や教育の根に深く巣食っている「自律の欠如」という問題です。どれほど立派な理念を掲げた政権が誕生しても、日本の組織文化そのものが変わらない限り、社会の底力は決して上がらないでしょう。
 
「タコつぼ国家」の正体

日本の組織は、一言で言えば「タコつぼ型」であります。専門領域を掘り下げることが美徳とされ、他の部門には立ち入らない。互いに干渉せず、協働せず、しかし波風も立たない。そこに「和」が保たれていると信じているのです。

しかしながら、この「和」はきわめて奇妙な代物です。意見をぶつけ合う「嵐(ストーミング)」の段階を避けることで、組織は表面上の平穏を保ちますが、その実、内部には無関心が蔓延します。誰も責任を取らず、誰も決断しない。こうしてチームは「協働する群れ」ではなく、「並列する個」の集合体に堕していくのです。
 
リーダー不在の共同体

日本の組織には、リーダーがいません。いや、正確に言えば、「命令する人」はいても「導く人」がいないのです。上司は部下を育てるのではなく、監視します。会議では「意見」よりも「空気」が支配する。その光景には、自由よりも服従を美徳とする国民性の影が見えます。

本来、リーダーとはチームを支配する者ではなく、その自律を促す者です。ところが日本では、上に立つことを「責任」ではなく「特権」と誤解し、下にいることを「服従」と思い込む。そのため、誰もリーダーになりたがらない。上司を軽蔑し、部下を育てず、結果として組織全体が「管理の奴隷」と化していくのです。

教育が奪った「自ら考える力」

私は、この問題の根源は教育にあると考えています。日本の教育は、答えを覚え、他者に認められることを目的としてきました。その結果、「自分で問いを立てる力」が育たなかった。教師は常に「教える者」であり、生徒は永遠に「与えられる者」であり続けたのです。

自ら考える訓練を受けないまま社会に出た人々が、「上の指示」を待つのは当然のことです。それを「協調性」と呼び、「組織人の美徳」としてきました。しかしその実態は、自律を放棄した従属の連鎖にほかなりません。
 
「褒めない社会」とモチベーションの空洞

日本人は、人を褒めるのが苦手です。褒めれば「贔屓」と見なされ、評価は常に「相対的な順位」で語られます。この文化の中で育った人間は、他者の評価に依存するようになります。その結果、「何のために働くのか」という根本的な目的意識を見失ってしまうのです。

セルフ・モチベーションが育たない社会では、リーダーもまた育ちません。リーダーとは、誰かに褒められるために動く存在ではないからです。自己の信念と目的意識をもって行動する――そこにこそ、真の自律があると私は思います。

信頼のない国に自由はない

結局のところ、昨今の日本社会の病理は「信頼の欠如」に尽きます。上司は部下を信じず、教師は生徒を信じず、親は子を信じない。信頼のない場所では、自律も自由も育ちません。だからこそ、組織は「管理」に走り、教育は「監視」に堕していくのです。

私は思います。この国に必要なのは、新しいスローガンでも、派手なリーダーでもありません。一人ひとりが自分の判断で動く勇気であります(迷子になる勇気)。信頼し、任せ、失敗を許す文化を取り戻さない限り、日本は永遠に「管理社会の徒花」に咲き続けることでしょう。

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2025年10月31日金曜日

1960年代のTVドラマ『逃亡者』

https://youtube.com/shorts/_SzDTLz60iU?si=aVdiDT9D_4ypJlDI  

私のアメリカへのあこがれは、音楽ではベンチャーズ、映画では『卒業』や『ブリット』、そしてテレビドラマでは『逃亡者』にはじまります。60年代から70年代初期にかけて、私はアメリカのドラマを片っ端から観ました。『ルート66』『サンセット77』『名犬ラッシー』『ハイウェイ・パトロール』『ハワイアンアイ』、そして『奥様は魔女』『鬼警部アイアンサイド』『警部マクロード』。しかし、その中でもデビッド・ジャンセン主演の『逃亡者(The Fugitive)』は、群を抜いて私の心をとらえました。


『逃亡者』は、妻殺しの濡れ衣を着せられた医師リチャード・キンブルが、真犯人である“片腕の男”を追い求めながら、アメリカ中を逃げ続ける物語です。1963年に放送が始まり、日本でも1964年からTBS系列で放映されました。私は福岡市の公団住宅に住む小学生で、土曜の夜8時、テレビの前に釘づけになっていました。

いま思えば、あの地方都市の団地の世界と、キンブルが旅する広大なアメリカの風景との対比が、何よりも鮮烈だったのだと思います。それは、自分の日常と、スクリーンに広がるアメリカの街並みとのギャップ。私にとって『逃亡者』は、アメリカという国がいかに広く、多様で、そして複雑であるかを初めて教えてくれたドラマでした。車も冷蔵庫もガソリンスタンドも、どれをとっても日本のものとは違って新鮮に見えました。

一話完結の物語構成も魅力でした。どの回にも、逃亡を続けるキンブルが立ち寄る町があり、そこにそれぞれの人間模様がありました。彼は名前を変え、職業を偽りながらも、医師としての良心を失わない。危険を顧みず人を救おうとする姿に、子ども心に「正義とは何か」という問いを感じ取っていたのかもしれません。

デビッド・ジャンセンの演技は、今見ても息をのむほど深い。セリフの少ない沈黙の中に、孤独と誠実さ、そして哀しみが漂っていました。対するジェラード警部(バリー・モース)は、冷徹でありながら、どこかキンブルへの敬意を隠せない。その関係性がまた、人間ドラマとしての厚みを加えていました。私は途中から「もしかしてジェラード警部こそ犯人ではないか」と真剣に疑ったほどです。

三島由紀夫はかつてこう書いています。

「少年期の一時期に強烈な印象を受け、影響を受けた本も、何年かあとに読んでみると、感興は色あせ、あたかも死骸のように見える場合もないではない。しかし、友だちと書物との一番の差は、友だち自身は変わるが書物自体は変わらないということである。それはたとえ本棚の一隅に見捨てられても、それ自身の生命と思想を埃(ほこり)だらけになって、がんこに守っている。われわれはそれに近づくか、遠ざかるか、自分の態度決定によってその書物を変化させていくことができるだけである」。

この言葉は、『逃亡者』のような映像作品にも通じるように思います。少年期に夢中で観たドラマも、年月を経て再び見ると、まったく違う感慨を与える。変わるのはドラマではなく、私たち自身なのです。

高校生になってから知ったのですが、『逃亡者』が放送されていた1960年代のアメリカは、公民権運動が高まり、体制への不信が渦巻く時代でした。無実の罪で国家権力に追われるキンブルの姿は、社会の不安や孤独な個人の戦いと重なっていたのかもしれません。小学生の私にはそんな背景など分からなかったけれど、理不尽に追われる男の姿に、どこか人間の悲しさとたくましさを感じ取っていたのだと思います。

4年間続いた全120話のドラマは、最終回で全米視聴率50%を超えるという歴史的な記録を残しました。 60年経った今も、私は『逃亡者』をときどき見返します。オープニングのナレーションとテーマ音楽が流れるたびに、あの頃の自分と自分が生きてきた年月を思わず辿り直してしまいます。

当時の私は、小学生ですから、自由とか正義とか、人間とは何か――そんなことを考えていたわけではありません。ただ、見たことのない広い国、未知のアメリカへの憧れが強まっていったのです。『逃亡者』とは、そうしたアメリカへの夢を育ててくれたテレビドラマでした。

リチャード・キンブルを演じたデビッド・ジャンセンは、1980年2月13日、カリフォルニア州サンタモニカで心臓発作により亡くなりました。48歳という若さでした。その早すぎる死を惜しむ声は多く、彼のintenso(強烈)でリアルな演技は、今なおシリアスなテレビドラマの基準として、多くの俳優たちに影響を与え続けています。

1963年版『逃亡者』のナレーションもまた、このドラマを特別なものにしました。特に日本語吹き替え版で睦五郎氏が務めた語りは、視聴者の心に深く残っています。冒頭のナレーションには、こうあります。「正しかるべき正義も、ときとしてめしいる(blind justice)ことがある……」。

“めしいる”という言葉の意味を、小学生の私は知りませんでした。しかし、その響きだけが、なぜか心に残りました。

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2025年10月30日木曜日

言葉の品格を失う社会へ ― メディアと言葉の暴力

 

昨今のメディアに出てくる人たちの言葉の乱れは、目に余るものがあります。堂々と間違った言葉づかいをし、それが繰り返されるうちに、あたかもそれが「正しい日本語」であるかのように広まってしまう。大げさに言えば、かつて日本社会に共通して存在していた「言葉の善」が崩れはじめているのではないでしょうか。


ある新聞のオピニオン欄で指摘されていたように、最近のメディア空間では「批判」と「ハラスメント」の境界があいまいになっています。政治家や公人に対して、政策論争ではなく、人格攻撃や嘲笑が先行する場面が増えている。報道の現場でも、関係者の軽率な発言が電波に乗るなど、「言葉の暴力」が常態化しつつあります。

本来、言葉は品格をともなうものでした。相手を敬う言葉づかいの中に、社会の秩序と人間の尊厳が宿っていた。ところが、いまの言葉は自己主張の武器となり、他者を攻撃するための道具になりつつあります。SNSの世界では、それがさらに増幅され、匿名の「集団的ハラスメント」として拡散していく。

言葉の乱れとは、単なる語彙や文法の問題ではありません。もっと深いところで、人間の意識の劣化を意味しています。言語は単なる意思伝達の手段ではなく、人間の意識の構造そのものです。私たちは「考えてから言葉にする」と思いがちですが、実際は逆です。人間は「言葉によって考える」存在なのです。つまり、言葉が粗雑になれば、思考そのものもまた粗雑になる。

「バベルの塔」(旧約聖書)は、その象徴的な警鐘だったのかもしれません。神は人間の傲慢さに怒り、言葉を通じなくしてしまった。なぜ「言葉」を乱すという方法を選んだのか。それは、言語が人間の協調や思考の根幹をなしているからです。言葉を失えば、共同体は崩壊する。いまの日本社会もまた、静かに同じ病を患っているように見えます。

さらに厄介なのは、AIの登場です。AIが生み出す「言葉」は、意味を理解して発せられるものではなく、確率的にもっともらしく並べられた記号の連鎖にすぎません。そこには「意志」も「倫理」もない。それでも、私たちは便利さに慣れ、その機械的な言葉を“自然な会話”と錯覚しつつあります。

もし私たちが、言葉を単なる情報伝達の手段としてしか扱わなくなったら、人間らしさの根幹が失われます。言葉の品格とは、他者を思いやり、自分の感情を律する力のことです。言葉を粗末にすることは、人間を粗末にすることと同じです。

民主主義とは、本来「言葉によって成り立つ制度」です。だからこそ、「言葉の暴力」が蔓延すれば、政治も社会も荒廃する。いま、私たちに問われているのは、「政治の品格」よりもむしろ「言葉の品格」ではないでしょうか。

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2025年10月29日水曜日

大谷翔平が教えてくれる“本質を愛する力”

 
野球
(ネットで見つけた画像です)


昨日のワールドシリーズ第3戦、ドジャース対ブルージェイズは本当にすごかったですね。

延長18回、まるで二試合分のような死闘でした。びっくりしました。最後はフリーマンのウォークオフ・ホームラン(サヨナラ本塁打)で決まりましたが、私が心を打たれたのはやはり大谷翔平の姿でした。

彼は勝敗だけを追っているのではない。
もちろん勝ちたい気持ちは誰よりも強いでしょう。
それでも彼の表情には、勝ち負けを超えた「野球そのもの」への愛情があふれていました。

延長18回を戦い抜いたあとも、大谷は笑っていた。
その笑顔を見て、敵味方の選手も観客も、誰もが感じていたはずです。
――大谷は、野球というスポーツそのものを愛しているのだと。

この姿を見て、私は言語学の「シニフィアン」と「シニフィエ」という概念を思い出しました。少し難しい言葉ですが、簡単にいえば「シニフィアン」は言葉の“かたち”、“音”であり、「シニフィエ」はその言葉が指し示す“意味”や“本質”のことです。

たとえば、赤ん坊が「りんご」という言葉を覚えるとき、最初はただ音として「りんご」を覚えます。そのあとに、丸くて赤くて甘い果物だと理解する。つまり「りんご」という音(シニフィアン)と、「果物としてのりんご」(シニフィエ)が結びつくことで、初めて“モノの概念”が形づくられていくのです。

そして、その「概念」は育つ文化や環境によって違ってきます。
私には二人の孫がいます。二人ともアメリカの南部で生活しています。
当然ながら英語の世界の中で成長している訳です。

ジージとしては少し寂しいのですが、私が「りんご」と言っても、彼らの頭の中に浮かぶ“apple”は、私が思い描く「りんご」とは少し違うのです。言葉を覚えるということは、同時に「世界の見方」を身につけることでもある――そう感じます。

だからこそ、私は幼児や小学生の「英語早期教育」に懐疑的です。言葉を学ぶことは単なるスキル(ツール)ではなく、その人がどんな文化の中で世界をどう感じ取るかという、もっと深い営みだからです。
  
大谷翔平が見せてくれるのは、まさに「シニフィエ=本質」を愛する姿勢だと思います。アメリカの野球、日本の野球という枠を超えて、彼は「野球そのもの」という普遍的な本質を楽しんでいる。その姿が観る人の心を打ち、国境を越えて感動を共有させるのです。

私たちも、ものごとを見るときに“思い込み”というフィルターを外し、
その奥にある「本質」に目を向けてみたい。

そうすれば、少し大げさかもしれませんが――
生きることそのものが、少し楽しくなるような気がします。
   
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2025年10月28日火曜日

自己規制外交からの脱却 ― 高市外交が示す新しい現実主義

 
橿原神宮と畝傍山


トランプ米大統領の来日は、日米関係の新たな節目を示す象徴的な出来事となるでしょうか。


来年にはアメリカで中間選挙を控え、アメリカ国内では保守とリベラルの対立が修復不可能なレベルまで深まっています。一方、支持政党に関係なく、生活費の高騰は国民共通の関心事です。トランプ大統領の発言や外交姿勢には、一貫して「アメリカ・ファースト」の理念が貫かれています。

高市早苗首相が橿原市で10代という自己形成の重要な時期を過ごしたことは、彼女の政治観に大きな意味を持つと考えることができます。高市さんが通った畝傍高校は、私の本籍地と同じ町内にあります。

橿原市が持つ歴史的背景は、彼女の政治家としてのアイデンティティや理念の形成に、少なからず影響を与えた可能性があるでしょう。橿原という場所は、初代神武天皇の即位の地であり、日本初の本格的な都城・藤原京が置かれたところです。国家、すなわち律令国家の礎が築かれた地です。この「国家の原点」とも言うべき土地で10代を過ごしたことが、彼女の政治的信念や日本という国家への感度に独自の深みを与えているのかもしれません。

そうした背景を持つ高市首相と行われる今回の会談は、日本外交の今後を占ううえで重要な意味を持つでしょう。

日本の主要メディアやテレビのコメンテーターは、高市政権の「中国への強硬姿勢」を批判しています。しかし、私にはその「強硬さ」は単なるナショナリズムではないように思えます。むしろ、戦後日本が長く抱えてきた「自己規制外交」からの脱却を意味しているのではないでしょうか。

戦後日本は、アメリカの同盟国としての立場と、アジア諸国との歴史的関係とのはざまで、常に「波風を立てない」外交を続けてきました。しかし、いまや主権と人権、そして国際秩序を守るために明確な立場を取ることこそが、外交的抑止力の基盤です。高市首相はその原則を理解しているように見えます。実際のところは分かりませんが、そうであってほしい――私はそう願っています。

中国による尖閣諸島への侵入、日本のEEZ内での資源調査船の常態化、台湾海峡での軍事的威嚇行動。これらはすべて、中国政府による政策的・制度的な暴力です。違いますか?それにもかかわらず、日本の一部の知識人や主要紙は「憎しみに満ちた中国人を理解せよ」「文明的な中国人を日本の同盟者として活用せよ」と説きます。しかし、日本が直面している問題は、中国人個々への理解ではなく、国家体制としての中国共産党による脅威なのです。論点のすり替えは許されません。「理解」や「共生」といった言葉で応じるのは、現実を直視しない甘い姿勢と言わざるを得ません。

一方で、高市首相は韓国やASEAN諸国に対しては、融和と安定を重視した現実的な外交を進めています。

これは対立を避けるための妥協ではなく、地域全体の安定を見据えた戦略的協調姿勢です。高市外交の真価は、「対立」と「協調」を峻別する知性にあります。「綱渡り外交」と評するのは表層的であり、むしろ日本が東アジアの秩序形成に主体的に関与しようとしている証と見るべきでしょう。

またエネルギー政策の面でも、日本は米国の「脱ロシア」方針に盲目的に追随することなく、エネルギー安全保障と地政学的現実を両立させる柔軟な政策を取っています。これは依存ではなく、リスク分散の知恵です。アメリカにも中国にも偏らず、独立国家として自らの判断を下す――その姿勢こそ、戦後日本がようやく取り戻そうとしている“自立の証”ではないでしょうか。

つまり、高市外交は「安倍さんの影」ではなく、「日本の意思」です。戦後80年を経て、ようやく日本が自らの言葉で世界と向き合おうとしている。今回のトランプ大統領との会談は、その転換点を象徴する出来事になることを期待しています。

日本外交が自己欺瞞から現実主義へと踏み出した瞬間として、記憶されるようになればいいですね。 

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2025年10月27日月曜日

まだ間に合う教育再生 ― 若い世代に託す希望



若い世代へのエール

私は高齢者ですから、まずは正直に言わせてもらいます。50歳以上の人たちにいろいろ提言しても、もう手遅れです(人間が、総合的に最も機能するのは50代後半から60代前半だという研究もあるようですが、、、)。耳が遠くなったわけではありません。 頭の中のアップデート機能が、そろそろサポート終了を迎えつつあるのです。

ですから、希望は若い世代に託すしかありません。小中学生から40歳前半くらいまでの人たち、そして彼らを育てる親御さんたち。ここに日本の未来を変えるカギがあります。

「流行」ではなく「原理」を学ぶ

最近は何かと「AIドリル」「プロンプト力」「デジタル人材」など、横文字が飛び交っています。しかし、流行りのツールを追いかけていても、学びの本質には近づけません。道具は時代とともに変わりますが、思考の基礎体力は変わらないからです。

教育の目的は、最新ツールの使い方を覚えることではなく、「抽象度を上げ、全体を見渡す目を育てること」だと思います。つまり、木を見て森を見ずではなく、「森の成り立ち」を理解できる人を育てる。これこそが、AIの時代に、人間が人間であり続けるための知恵です。

子供たちには、本、できれば一冊でも二冊でも古典を読んでほしいと思います。長年読み継がれてきた文章には、時代を超える「人間の知恵」が詰まっています。気に入った部分はどんどん真似していい。模倣は創造の第一歩です。昔の文人たちは皆そうして成長しました。パクることは、恥ではなく学びの技です。

モチベーションとインセンティブを混同していませんか?

さて、日本では「モチベーションが上がらない」という言葉がやたらと聞かれます。しかし、モチベーション(やる気)とインセンティブ(ご褒美)を混同している人が多いようです。

モチベーションとは、自分の内側から湧き出る「よし、やるぞ」という気持ち。インセンティブは、そのやる気を引き出す外側の仕掛け――つまり、ニンジンです。

「ご褒美がないと動かない」では、インセンティブに頼り切った状態です。本当の学びは、ニンジンがなくても走り出すようなモチベーションから生まれます。

では、そのモチベーションはどこから来るのか?
社会のリアリティがそれを育てます。

平均化社会の罠

アメリカの子供たちは、街角でホームレスや薬物中毒者を見ます。同時に、巨大な家に住み、高級車を乗り回す大富豪も見ます。彼らのモチベーションは明快です。「こうはなりたくない」「ああなりたい」――この振れ幅が、行動の原動力になるのです。

一方、日本はどうでしょう。

極端な貧困もなく、極端な富裕も少ない。コンビニに行けば、とりあえず何かは買える。安心で穏やかな社会である一方、「危機感」や「憧れ」という刺激が少ないのも事実です。過度な平均化は、やる気の平準化でもあります。 個性が磨かれる前に、角を丸めてしまうのです。

これは教育にも同じことが言えます。「みんな一緒に、同じペースで」――確かに優しい響きですが、長い目で見れば、誰のためにもなっていません。

「機会の平等」と「結果の平等」は違う

平等主義は大切です。しかし、「機会の平等」と「結果の平等」を混同してはいけません。日本の教育は、時に「結果の平等」に偏りすぎています。

小学校低学年までは、皆で同じことを学ぶのが良いでしょう。しかし、高学年になると、子供たちの得意・不得意、興味の方向ははっきりしてきます。それなのに、どんなに才能があっても、「みんな同じスピードでやりましょう」と言われたら、やる気のある子ほど退屈します。

能力別クラスという言葉は日本では敬遠されがちですが、本来は「格差」ではなく「最適化」の仕組みです。優秀な子を伸ばすと同時に、不得意な子が別の才能を見つけるチャンスにもなる。平等とは「全員が同じ結果を出すこと」ではなく、「全員が自分の可能性を発揮できること」ではないでしょうか。

Gifted と Talented ― 才能の芽をどう育てるか

英語で「Gifted & Talented」という表現があります。Gifted は生まれつきの才能。Talented は努力で伸ばす力。才能があっても磨かなければ錆びますし、努力があれば凡人も変わります。両方がそろって、初めて真の成長が生まれるのです。

日本の教育は、Gifted(天賦の才)を恐れ、Talented(努力する才)を強調しすぎたのかもしれません。「みんな同じように頑張りましょう」と言いながら、実は誰の個性も伸ばせていないのです。これでは、努力の報酬も曖昧になり、モチベーションも生まれません。

刑法の改正に学ぶ ― 一人ひとり違っていい

最近、刑法が改正され、懲役と禁錮が統一されて「拘禁刑」になりました。これも象徴的な変化です。社会が「罰する」より「更生させる」方向に舵を切ったということです。なぜなら、受刑者も一人ひとり違う背景を持つからです。

教育も全く同じです。

子供たちは一人ひとり違う。家庭環境も、関心も、成長のスピードも違う。それを理解せずに「画一的な正解」を押し付ける教育では、人材が育つわけがありません。拘禁刑が人間の多様性を認める制度改正だとすれば、教育にも同じ発想の転換が必要です。

コンサルタントが考える「生きるスキル」

私はこれまでグローバルなビジネスの世界でコンサルティングに携わってきました。その経験から言えるのは、どんな業界でも必要とされるのは「基本的な人間力」だということです。

大人になる前に、子供たちが身につけるべきは、次のようなスキルです。
  • 自分で考える力
  • 責任ある生き方
  • イニシアチブ(自分から動く姿勢)
  • 相手の意見を聴く寛容さ
  • チームワーク
  • 強靭さ(インテンシティ)
  • 向上心
  • インテグリティ(倫理観・スキル・野心のバランス)
  • 信頼性
どれも、試験では測れません。
でも、社会に出てからはこれらがすべてです。

子育て世代へのお願い

子供の教育は、学校任せではうまくいきません。

親御さん自身が、子供の「得意」と「苦手」を見抜く力を持つことが大切です。そして、失敗を恐れない子に育ててあげてください。失敗を笑い飛ばせる余裕こそ、人生の最高の学びです。

子供が「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞いたら、こう答えてあげてください。「将来、自分で考えて、自分の足で立てるようになるためだよ」と。

結びに ― ユーモアを忘れずに

日本の教育には、確かに課題が山ほどあります。でも、それを嘆いていても仕方ありません。

教育の未来は、制度や予算よりも、人間の心の在り方にかかっています。子供たちに必要なのは、完璧な教科書ではなく、「応援してくれる大人の背中」です。

大リーグでは、大谷翔平や山本由伸が従来の大リーグを変えつつあるのではないかと議論されています。それは、かれらの精神力や心の持ち方に注目しはじめているからです。

教育の未来は、制度や予算よりも、人間の心の在り方にかかっています。

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