2026年1月22日木曜日

私たちの住む街は、どこから来たのか ――『警視庁物語』と『鉄人28号』が教えてくれる戦後のリアル


本題に入る前に、まず二つの作品について簡単に触れておきたいと思います。どちらも、いまの子育て世代の親御さんにとっては、名前すら聞いたことがないかもしれません。

『警視庁物語』は、1950年代後半に制作された映画シリーズで、戦後まもない東京を舞台に、警視庁の刑事たちが集団で事件を捜査する姿を描いた作品です。派手なアクションやヒーロー的活躍はなく、実際の街並みの中で、聞き込みや地道な捜査を重ねる様子が淡々と描かれています。当時の東京の空気を、ほとんど記録映像のように残している点が特徴です。

一方の『鉄人28号』は、同じ時代に連載が始まった漫画で、巨大ロボットを操る少年が活躍する物語です。一見すると子ども向けの空想作品ですが、物語には警察組織が深く関わり、戦後の社会不安や復興期の日本が背景として描かれています。ロボットという非現実的な存在を通して、当時の現実が映し出されている作品です。

私が『警視庁物語』と『鉄人28号』を特別に好んでいる理由は、この二つの作品に共通して「戦後の地続きにあるリアリティ」が色濃く描かれているからです。物語としてのジャンルは、刑事映画と少年向け漫画・空想科学作品と大きく異なりますが、その根底に流れている時代の空気には、驚くほどの共通性があります。

私は、戦争を直接体験した世代でもなく、終戦直後の混乱を生きた世代でもありません。しかし、自分自身が形作られていったのは、まさに「戦後」という時間が連続した延長線上にある社会でした。焼け跡は姿を消しつつも、価値観や人々の記憶、社会の歪みは、まだあちこちに残っていた時代です。その感覚と、『警視庁物語』や『鉄人28号』の世界観が、私の中で自然につながっているのだと思います。

とりわけ『警視庁物語』が描いている昭和30年代の東京には、戦後日本の生々しい現実がそのまま刻み込まれています。上野や浅草、新宿といった街並みは、いまの整然とした都市の姿とはまったく異なり、舗装されていない道や、仮設のような建物が残る混沌とした風景が広がっています。一方で、建設中のビルや新しい鉄道が映り込み、高度経済成長の入口に立った社会の熱気と不安が同時に感じられます。これは単なる舞台装置ではなく、復興途上の日本そのものを記録した「生きた映像」だと感じます。

事件の背景に描かれる人々の姿もまた、戦後の傷跡と直結しています。混乱期に身分を偽って生き延びた人間の不安、地方から都会に出てきたものの、居場所を見つけられずに困窮する人々、戦災孤児が成長した先に待っていた厳しい現実。こうした要素は、犯罪を単なる悪としてではなく、時代が生み出した歪みとして浮かび上がらせます。そこに、戦後社会のリアリティがあります。

一方で、『鉄人28号』もまた、空想科学という形をとりながら、戦後の現実をしっかりと内包しています。巨大ロボットが登場しても、物語の中心にあるのは、警察組織や大塚署長の存在であり、社会秩序を守ろうとする大人たちの姿です。超人的なヒーローがすべてを解決するのではなく、「組織の一員」としての警察が描かれる点は、『警視庁物語』と通底しています。

刑事たちは泥臭く聞き込みを重ね、夜を徹して議論をしながら、一つひとつ事件を解決していきます。その姿には、戦後の不安定な社会の中で、法と秩序を積み上げようとした時代の意志が感じられます。私にとって、それは単なるノスタルジーではなく、自分自身が育ってきた社会の「原風景」を見つめ直す行為でもあります。

『鉄人28号』が空想というフィルターを通して描いた戦後、『警視庁物語』が現実の街角から切り取った戦後。その両方が示している「地続きのリアリティ」こそが、私がこの二つの作品に今なお強く惹かれる最大の理由なのです。

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2026年1月21日水曜日

AIが嘘を作る時代に、国語は何を育てるべきか

 

正解を探すのではなく、関係を読み直す。
AI時代に、国語が本来育ててきたはずの力。

AIが嘘を作る時代に、国語は何を育てるべきか

~ 共通テスト現代国語と、ある事件をきっかけに)

「性的ディープフェイク」で女性芸能人に似せたわいせつ画像を作成し、会員制サイトに掲載した疑いで、警視庁が31歳の男を逮捕した――そんなニュースを目にしました(2026年1月20日、読売新聞)。

AIを使って実在人物の性的画像を生成し、販売していたという内容です。いわゆる「性的ディープフェイク」と呼ばれる、新しい形の性暴力犯罪だとされています。映像や画像そのものはAIが作り出した虚構ですが、被害を受けるのは現実の人間です。技術の進歩が、人の尊厳を踏みにじる形で使われてしまったという事実に、私は強い違和感と不安を覚えました。

このニュースをきっかけに、今年の大学入学共通テストの現代国語の問題を読み返しました。

出題文は、桜井あすみ氏の「贈与としての美術・ABR」です。そこでは、美術とは作者が意味を一方的に伝えるものではなく、鑑賞者や社会との関係の中で「贈与」として成立する営みである、という主張が語られていました。私はこの考え方に深く共感しました。意味は作品の内部に閉じているのではなく、人と人、人とモノとの関係性の中で立ち上がるものだ、という視点です。

この「関係性の中で意味が生まれる」という考え方は、美術鑑賞に限らず、情報を受け取る態度そのものにも通じるのではないでしょうか。フェイク情報の多くは、単独で提示され、文脈や他の視点から切り離された形で流通します。一枚の刺激的な画像、一つの断定的な言葉だけが孤立して提示される。だからこそ、それが事実であるかのように見えてしまうのです。

逆に言えば、複数の情報源、異なる立場、反証の有無などを照合し、情報を関係性の中に配置し直すことで――いわばコンステレーションを描き直すことで――初めて見えてくるものがあります。これは、桜井氏の言う「贈与としての美術」と同じ構造ではないかと感じます。つまり、フェイクを見破るには、個々の情報の真偽だけでなく、その背後にある関係性まで含めて考える必要がある、ということだと思います。

コンステレーション

「コンステレーション(constellation)」は主に「星座」という意味ですが、転じて「多数の人工衛星群」や「一群の要素が構成する配置・まとまり」などを指し、ユング心理学やデジタル通信分野でも使われる言葉です。

ただし、この話を国語教育、とりわけ大学入試の現場に当てはめてみると、話は少しややこしくなります。

高校の現代国語は、本来、価値観の多様性に触れ、思考の幅を広げるための教科だったはずです(これは私の独自解釈かもしれません)。ところが、受験の現場では、思考をできるだけ限定し、設問の意図に最短距離でたどり着くスキルが求められます。予備校の現代国語講座を見ても、効率よく点数を取るための「型」が前面に出ています。自由に考える力は、むしろ邪魔者扱いされているようにも見えます。

最後に、改めて考えたいと思います。AI時代に本当に必要なのは、あらかじめ用意された正解を素早く当てる力ではなく、断片的な情報を文脈の中に置き直し、関係性を組み替えて意味を立ち上げる力ではないでしょうか。そして、それこそが本来、国語教育が担ってきた、あるいは担うべき役割だったのではないか――教育の素人の私はそう感じています。

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2026年1月20日火曜日

国語教育、本当に“考える力”を育てていますか? ――共通テスト現代国語から考える

点数にならない思考の痕跡

今年の大学共通テストの現代国語を見て、正直なところ、複雑な気持ちになりました。

出題された桜井あすみ氏の「贈与としての美術・ABR」は、限られた抜粋からでも、きわめて示唆的な文章だと感じました。美術とは、意味を一方的に伝達するものではなく、他者との関係の中で「贈与」として成立する営みである、という主張には、私は全面的に同意します。これは美術論にとどまらず、深層心理学で言うコンステレーション、すなわち関係性の中で意味が立ち上がるという考え方にも通じるものだと思います。

ところが、その文章を素材として作られた設問を見たとき、私は強い違和感を覚えました。文章の思想の深さと、設問の性質との間に、あまりにも大きなギャップがあるのです。もちろん、全国一斉試験である以上、採点の公平性や効率性が最優先されるのは理解できます。しかし、その結果として、著者が本当に語ろうとしている核心部分――関係性の中で意味が生成されるという動的な思考――は、ほとんど切り落とされてしまっているように見えました。

私は共通一次試験以前の世代で、センター試験も共通テストも経験していません。したがって、これはあくまで外野からの、しかも無責任な高齢者の感想にすぎません。それでも、昨日あらためてYouTubeで予備校の現代国語講座をいくつか見て、違和感は確信に近いものになりました。そこでは、文章をどう読むかよりも、どう「処理」すれば7〜8割の点数を短期間で取れるか、というテクニックが前面に出ていました。効率的ではありますが、高校の国語教育や、出題者が掲げているはずの理念とは、どうも別の方向を向いているように感じました。

整理すると、高校の授業、受験準備(塾・予備校)、試験問題、大学での4年間、そして社会人生活の間には、いくつもの断絶があります。高校で学んだ内容は、受験の段階で「点数」に変換され、管理しやすい形に加工されます。そして入試が終わった瞬間、その多くは泡沫のように消えていく。これは、ある意味で日本文化らしいとも言えますが、あまりに惜しい話です。さらに言えば、授業設計と現場の教師の間にもギャップがあり、現代国語と歴史など他教科との統合、いわば「梁」が存在しないため、知は柱のまま、やがて一本一本倒れていきます。

高校の現代国語の教科書と、予備校の国語講座を比べてみて、決定的な違いにも気づきました。高校国語は、本来、視野を広げ、価値観の多様性を学ぶためのものだったはずです。一方、入試問題で求められるのは、思考の幅を狭め、型にはめ、正解を一つに収束させるスキルです。自由な思考は、序列化しにくく、管理しにくいからです。

こう考えると、現行の受験制度は、高校国語教育の目的を事実上否定しているようにも見えます。皮肉なことに、いまのAI時代に本当に必要とされている「考える力」や「統合的な知」は、高校国語が本来目指していた方向にこそあります。それを受験が真逆の方向に引っ張っている。この矛盾を、学校も塾も、ある程度わかっていながら、システムを変えない。どこか、見て見ぬふりをしているようにも感じます。無責任だとは思いませんか?

拙宅の近くには、教育評論家の有名人が住んでいます。つかまえて聞いてみたい気もしますが、たぶん武蔵野警察に通報されるでしょう。冗談はさておき、日本の教育問題は、それほど根が深いのだと思います。そしてAIの時代だからこそ、点数化できない思考や、人と人、人とモノとの関わりの中で、少しずつ育っていく理解や気づきを、もう一度大切にする必要があるのではないでしょうか。
 
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2026年1月19日月曜日

なぜ教育は、劣等感を手放せない人を育ててしまうのか ――「理想との距離」では測れないもの

最近、劣等感について「理想の自分と今の自分のギャップが劣等感だ」と説明する文章を目にしました。アドラー心理学に基づく整理であり、劣等感を前向きな成長のエネルギーとして捉え直そうとする姿勢には、一理あると思います。劣等感それ自体は悪ではなく、解釈と行動次第で人生を前に進める力にも、足かせにもなる。事実は一つでも、解釈は無限である、という指摘も納得できます。

ただ、私はこの説明にどうしても引っかかりを覚えます。劣等感を「理想の自分」と「今の自分」の差として一般化してしまうと、見落とされるものがあると感じるからです。


比較しない人生と、「自分の軸」

私はこれまでの人生で、特別に優れた能力を持っていたわけでもなく、運動ができたわけでも、芸術的才能に恵まれていたわけでもありません。容姿もごく普通です。それでも致命的な失敗をせず、高齢者になるまでやって来られた理由を考えると、自分は劣等感も優越感も、人より弱かったのではないかと思うのです。

その理由は単純です。他者と比較して生きてこなかったからです。

中高生の頃の自我の成立に、他者の影響が比較的少なかったのかも知れません。十代の半ばには、すでに自分なりの価値観や人生観、死生観のようなものがありました。それは完成された思想ではありませんが、「自分はこう生きる」という軸のようなものです。通信簿のコメントには、「協調性がない」と共に、「競争心に欠ける」と書かれていました。

この軸があったため、他人の成功や評価を自分の尺度に持ち込まずに済んだ。結果として、「理想の自分」と「今の自分」を常に見比べる必要もなかったのだと思います。

劣等感と優越感は、同じ根から生える

劣等感が厄介なのは、それが個人のマインドを支配してしまうときです。劣等感は、往々にして他者との比較から生まれます。比較が始まると、人は自分の内側ではなく、外側の序列に価値判断を委ねるようになります。

そしてこの構造は、劣等感と優越感を同時に生み出します。どちらも同じ根から生えている感情です。

政治家でトップに上り詰める人たちを見ていると、この「劣等感と優越感の混合物」、つまりコンプレックスに強く支配されている人が少なくありません。総理大臣という地位にまで執着する背景には、理念や使命感よりも、内面の欠落感や承認欲求が透けて見えることがあります。

これは決して珍しい話ではありません。

国家と教育に埋め込まれた「比較の構造」

日本社会全体を見渡しても、この構造は繰り返されています。明治以降、日本は西欧に対する劣等感と優越感の間で揺れ動き、敗戦後はそれがアメリカに置き換わりました。夏目漱石がロンドンで精神を病んだ時代から、ほとんど変わっていません。

国家としての総括や学習を怠り、三百万人以上が亡くなった戦争の原因すら曖昧なまま、記憶喪失のように現代に至っている。この土台の弱さが、個人のコンプレックスを増幅させているように思えます。

福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、envy を「怨望」と訳し、これを人間にとって最も害のある徳の欠如だと述べました。他人と幸福の水準を比較し、自分のほうが不幸だと感じたとき、自分を高めるのではなく、他人を引きずり下ろそうとする心。それが怨望です。これは劣等感が歪んだ形で固定化した状態と言えるでしょう。

教育の問題も、ここに直結しています。日本の教育は知識量を重視する一方で、概念を育てる訓練が不足しています。概念とは、世界をどう捉えるかという思考の枠組みです。

これが育たないと、自分の価値観や判断基準を内側に持てず、外部の評価や序列に過剰に適応するしかなくなります。その結果、劣等感と優越感の間をメトロノームのように揺れ続ける人間が量産されてしまう。


同じ条件を与えること(平等)と、同じ結果に到達できるよう条件を調整すること(公平)は、似ているようで本質的に異なる。この図は、教育を点数や順位で比較する仕組みにしてしまうと、子ども一人ひとりの違いや背景が見えなくなり、上位には優越感を、下位には劣等感を同時に生み出してしまうことを象徴的に示している


「未熟さ」を生きるという態度

私はこれまで、「自分は未熟である」という前提で生きてきました。しかし、それは劣等感ではありません。未熟であるという事実を受け入れたうえで、そこに可能性を見るという態度です。

未熟さにコンプレックスを感じる必要はないと思う。未熟であるということは、まだ余白があるということです。楽しめばいいのです。死ぬまで。

劣等感を「理想とのギャップ」として捉える発想は、成長を促す場合もあるでしょう。しかし、それ以前に必要なのは、他者との比較から距離を取り、自分なりの世界観や価値観を持つことです。

劣等感をどう使うか以前に、劣等感に支配されない構造をどう作るか。そこにこそ、教育と個人の生き方の本質的な課題があると、私は考えています。

少し、大げさですかね?

AIという鏡の前で、人間は何を問われているのか

ここで、AIの存在を考えてみる必要があります。AIは、人間よりも速く、正確に、そして大量に「正解らしきもの(ハルシネーション)」を提示します。知識量、処理速度、網羅性――そうした指標で見れば、多くの分野で人間はすでにAIに劣っています。

この事実だけを切り取れば、AIは新たな「比較対象」となり、人間の劣等感を刺激する存在に見えるかもしれません。

しかし、ここでも問題は能力差そのものではなく、「比較の構造」にあります。AIは序列を気にせず、承認も欲しがらず、劣等感も優越感も持ちません。ただ与えられた条件のもとで応答する存在です。

人間がAIに対して劣等感を覚えるとすれば、それはAIとの比較によって、自らを序列の中に置こうとする発想から生じています。

むしろAIの登場は、人間に問いを突きつけています。
「あなたは、何を基準に自分の価値を測っているのか」と。

他者との比較、社会的評価、数値化された成果――そうした外部基準に依存してきた生き方は、AIの前では容易に崩れます。だからこそ、これからの時代に重要になるのは、AIに勝つことでも、AIを恐れることでもありません。比較から自由になり、自分なりの世界観や価値基準を持つことです。

劣等感とは克服すべき欠陥ではなく、自分が何者であり、どこへ向かおうとしているのかを静かに問い返してくる、内なる羅針盤なのかもしれません。

AIという鏡の前に立たされた今こそ、人間はようやく、比較ではなく思想によって生きることを求められているのだと思います。

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2026年1月18日日曜日

子どもに“自由”を教えられていますか? ――人生の自由度ランキングを読んで、親として考えたこと

人生の自由度ランキングと、日本人の「自由」

先日、あるビジネス誌に「人生の自由度ランキング」という記事が掲載されていました。世界価値観調査をもとに、「自分の人生をどの程度自由に動かせると思っているか」という問いへの回答を国別に比較したものです。結果は、日本が世界で下から3番目。レバノン、ギリシャに次ぐ低さだそうです。

https://diamond.jp/articles/-/380018

この数字を見て、「やはり日本は不自由な国なのだ」と絶望する人もいるかもしれません。一方で、記事の筆者は慎重です。この調査は社会制度としての自由度を測っているのではなく、日本人の人生態度、つまり慎重さや期待値の低さを反映しているにすぎない、と説明しています。人生が自由だと感じていなくても、日本人は比較的幸福であり、「不自由でもあまり嘆かない国民性」があるのだ、というわけです。

なるほど、統計の読み方としては誠実だと思います。ただ、私はこの記事を読みながら、どうしても引っかかるものが残りました。

私は、アメリカ企業で働き、アメリカで20年ほど家族とともに暮らしました。子どももアメリカで育てています。また、中国で働いた経験もあります。ですから、ここで述べることは、全くの想像や伝聞ではありません。もちろん、私の見解が正しいと主張するつもりもありませんが、少なくとも実体験に裏打ちされた感覚ではあります。

高校一年のとき、夏目漱石の『私の個人主義』を読みました。それが直接のきっかけだったかどうかは分かりませんが、私はその頃から「自由と責任」という言葉について、妙に考えるようになりました。もっとも、学校の勉強とは一線を画し、正直に言えば、授業をサボって喫茶店に行くための言い訳に使っていた面もあったと思います。学校をサボって大阪ミナミの喫茶店にいると、不安になる。その不安を打ち消すために、哲学的なことを考えている「つもり」になっていた、というのが実態でしょう。

それでも、漱石の言葉はいまも頭のどこかに残っています。漱石は講演の中で、次のように述べています。

「自己本位といふ事は、利己主義といふ意味ではない。
他人の自由を認めた上で、はじめて成立つものである。」


この一文は、私にとって長いあいだ、自由を考える際の基準のようなものになっています。

ビジネス誌の記事が扱っている「自由」は、「人生を自由に動かせると感じているか」という主観的な感覚です。しかし、私がアメリカで感じた自由は、それとは少し異なるものでした。自由とは、選択肢が多いこと以上に、「選んだ結果について自分で引き受けること」を求められるものだったからです。転職も、異動も、教育も、失敗も、基本的には自己責任です。自由である分、常に緊張があり、安心はありません。

一方、日本では、人生を「自由に動かせるとは思っていない」人が多いにもかかわらず、幸福度はそれなりに高い。これは美徳とも言えますが、別の見方をすれば、「自由を行使しなくても回ってしまう社会」にうまく適応してきた結果とも言えるのではないでしょうか。

自由を感じないことと、自由がないことは、本来は別の問題です。

健全な迷子と、不健全な迷子
――自由とは、正解を与えられない状態に耐え、考え続ける力でもある

しかし、自由を使わずに済む状態が長く続けば、やがて自由そのものを求めなくなります。漱石が警告したのは、自由を奪われることよりも、「自由を扱えなくなること」だったのではないか、私はそう思います。

人生の自由度ランキングは、日本社会を断罪するためのものではありません。ただ、「自由をどう感じるか」ではなく、「自由をどう使い、どこまで責任を引き受けてきたか」を、私たち一人ひとりが考え直すきっかけにはなるはずです。数字そのものよりも、その数字を前にして何を考えるのかが、いま問われているのだと思います。

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2026年1月17日土曜日

AI時代に露呈する日本教育の構造的欠陥

 
AIに何を教えるかではなく、AIの答えをどう疑い、どう判断するか。
その力を、日本の教育は育ててきただろうか。

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/40097

フェイクニュース時代に必要な“科学リテラシー”とは?AI、SNS全盛で混沌とする社会を生き抜く術
横上菜月( Wedge編集部)


日本の教育は、なぜ思考力を育てられないのか

生成AIとSNSが日常に浸透し、真偽不明の情報が瞬時に拡散する時代において、「科学リテラシー」の重要性が改めて問われています。Wedgeの記事で石浦章一氏が指摘するように、科学的判断とは「絶対的な安全/危険」を断言することではなく、不確実性を前提に、確率と根拠をもとに考える態度であるということです。

しかし、こうした思考態度を日本の教育は本当に育てているのでしょうか?

日本の教育は考える訓練になっているか?

日本の初等・中等教育では、理科であれ国語であれ、「どう感じたか」「どう思ったか」という情緒的な反応が重視されがちです。観察結果から因果関係を考え、仮説を立てて説明する訓練は、十分に行われているとは言い難いと思います。実は、as-is を調査して因果関係を考え、仮説検証するのはコンサルティングの王道です。

欧米では、原子力や放射性廃棄物といったテーマを扱う際にも、「技術が社会にどのような影響を与えるか」「利点とリスクをどう評価するか」といった価値判断を含む議論が教育の中に組み込まれているようです。一方、日本の教科書は、放射線の種類や半減期といった事実説明にとどまり、社会的意味や判断のフレームワークをほとんど扱わない。

この差は、単なるカリキュラムの違いではないと思います。「考える訓練」をどこまで教育の中心に据えているかという、思想の違いなのです。

受験システムが破壊する思考の連続性


さらに深刻なのは、日本の受験システムが、教育内容そのものを無効化している点です。

直近30年の高校「現代国語」を見れば、その教材は明らかにポストモダン以降の世界観、価値観の多様性、不確実な社会をどう生きるかというテーマと重なっています。ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」とオーバーラップしています。(ibgで議論した「ポストコロナのPOVである『迷子になる地図』」、つまりあらかじめ用意された正解ルートが存在せず、立ち止まり、迷いながら考えることが求められる時代認識とオーバーラップしています)。

つまり、教科内容自体は「これからの世界」を見据えて設計されているのではないでしょうか?

ところが、その背景となる世界観は、入学試験において完全に無視される。入試が終わった瞬間、それまで読んできたテキストや思考の枠組みは「点数を取るための材料」として消費され、ゼロリセットされる。そのまま社会人になり、年は流れて定年を迎えるのです。

これは偶然ではないし、必然でもない。受験を頂点とする制度設計の中で、思考よりも選別を優先してきた結果なのです。

国語教育と受験の致命的な乖離

問題は、
  • 現代国語の内容を設計した人々
  • 受験テクニックを教える塾・予備校
  • 現場の教師
この三者の間に、埋めがたい断絶があることです。
教科内容の設計者は、おそらく現代国語を通じて
  • 思考のフレームワーク
  • 抽象化する力
  • 異なる価値観を往復する知性
を育てたかったはずです。

しかし、受験は「いかに効率よく正解を選ぶか」がすべてであり、塾や予備校はそのための思考を狭める技術を短期間で教え込む。入試問題は「選択する力」、つまり思考の幅を意図的に削ぎ落とす能力を要求する。

結果として、
  • 学校で習う国語:視野を広げ、多様な考え方を学ぶ
  • 受験で求められる国語:思考を限定し、迷わず切り捨てる
という正反対のベクトルが同時に存在することになる。

善意に解釈すれば、学校教育は「自由に考える力」を育てようとしていると言えます。しかし受験は、それを全面的に否定している。これはもはや矛盾ではなく、構造的破壊と言ってよいのです。

AI時代に露呈する日本教育の弱点

生成AIは、この問題をさらに露わにします。

AIは「それらしい答え」を瞬時に生成します。だが、根拠を吟味し、確率で判断し、社会的影響まで考える責任は人間側に残されています。にもかかわらず、国語教育が本来担うべき論理的・概念的思考力が、受験によって骨抜きにされてきた日本では、AIの出力を批判的に読む力が育ちにくいのです。

コロナ禍のワクチン議論や原発問題で露呈したのも、「ゼロリスク」を求める非科学的態度でした。これは理科の問題ではなく、言語と思考の問題です。

教育を変えなければ、未来は変わらない

日本の政治家に感じる「人間的魅力の乏しさ」や「政治的リテラシーの不足」は、個人の資質の問題ではない。受験を頂点とする教育システムが、概念を扱う力、抽象的に考える力、文化的背景を踏まえて議論する力を削いできた結果なのです。有名大学の卒業証書が水戸黄門の印籠になっている。

フェイクニュースとAIが溢れる時代に必要なのは、
  • 母国語で深く考える力
  • 科学的根拠を確率として評価する態度
  • 思考の幅を広げたうえで判断する知性
です。

教育を変えなければ、日本の未来は変わらない。

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2026年1月16日金曜日

AIハルシネーション政治 ――考えている「ふり」の世界

 

考えているように見える。
だが、何も考えていない。

イアン・ブレマーの2026年の世界10大リスク

イアン・ブレマーは、アメリカを代表する国際政治学者であり、世界の政治・経済リスクを分析するコンサルティング会社「ユーラシア・グループ」の創設者です。国家間の軍事衝突や金融危機だけでなく、テクノロジーや社会変化が民主主義に与える影響を読み解くことで知られ、各国政府やグローバル企業の意思決定に大きな影響を与えてきました。

毎年発表される「世界10大リスク」は、未来予測というより、世界が見落としがちな「構造的な危うさ」を可視化する警告として注目されています。

イアン・ブレマーは、2026年の世界的リスクの一つとして「ユーザーを食い尽くすAI」を挙げました。

彼が最も警戒しているのは、AIが人間を超えることではありません。人間が考えなくなることです。おこがましいですが、これは私がコロナ禍のころから言い続けてきたことでもあります。

ここで重要なキーワードがあります。
「AIハルシネーション」です。

ハルシネーションとは、AIが「それらしく聞こえるが、事実でも理念でもない答えを、もっともらしく作り出してしまう現象」を指します。一見、筋が通っているように見える。言葉も整っている。ところが、よく見ると根拠も責任も現実認識も欠けている――それがAIハルシネーションです。特に現実認識、いわゆる as-is に弱い。原因と結果の間に立ち、同じ目線で丁寧に考えるようなことは、基本的にしません。

考えている「ふり」をする新党結成の正体

昨日発表された、野党同士による新党結成のニュースを聞いた瞬間、この言葉が頭をよぎりました。

立憲民主党の野田佳彦代表は、「200人近く擁立しなければ比例票が出てこない」と語ったそうです。一方、公明党の斉藤鉄夫代表は、「選挙目当てではない」と述べるにとどまり、目標数すら示しませんでした。
  • 理念は語られない。
  • 国家像も語られない。
  • 政策の一致点も検証されない。
あるのは、「それっぽい言葉」と「選挙にかかわる数字」だけです。

これは熟議の結果なのでしょうか。それとも、「野党が勝つための最適解を出せ」と入力し、AIが吐き出したハルシネーション的アウトプットなのでしょうか。私のこの疑問、なかなか面白いと思いませんか?

ブレマーが警告するAIの最大の危険性は、エンゲージメント――つまり人を動かす効率――を最大化するために、意味や真理を切り捨ててしまう点にあります。そこでは、「正しいかどうか」ではなく、「反応を得られるかどうか」だけが価値基準になります。少し立ち止まって、よく考えてみてください。

今回の新党構想は、まさにそれと同じ構造を持っています。
  • 勝てそうかどうか
  • 数が取れるかどうか
  • 動員できるかどうか
これらはすべて「出力」であり、「目的」ではありません。にもかかわらず、政治の中枢がそこだけを語っているように見えます。

AIハルシネーションの怖さは、「間違い」よりも「空虚」にあります。完全な虚構ではない。しかし、そこに責任を引き受ける主体がいない。――日本の政治に、実によく似ていませんか?

今回の新党結成も、同じ匂いがします。失敗したとき、誰が何を誤ったのかを説明できない。なぜなら、最初から「なぜそれをやるのか」が存在していないからです。日本の大規模な業務改革プロジェクトを思い出す方も多いでしょう。

ブレマーはこう言います。

熟議民主主義には、独立して考え、情報を持ち、積極的に関与する市民が必要だと。しかし今、日本の政治が示しているのは、その正反対です。考えず、感じず、ただ「それらしい回答」を並べる。これはAIに支配される未来ではありません。AIの振る舞いを真似てしまった人間の劣化です。

AIには理念もビジョンもありません。しかし、人間までそれを放棄したとき、民主主義は単なるアルゴリズムになります。理念もビジョンもない日本の政治とは、残念ながら相性がいい。

今回の新党結成は、政治的決断とは言いにくいでしょう。政治を装ったAIハルシネーションなのです。

ブレマーの警鐘は、シリコンバレーだけに向けられたものではありません。すでに、日本の政治状況そのものに、はっきりと響いています。

――人間は、まだ自分で考えているのでしょうか。

この問いに答えられない政治に、未来を語る資格はありません。

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