2025年11月1日土曜日

チームビルディングという幻想 ― 日本が自律を失った理由

1998年頃に作成したスライド
 

組織という病理 ― 日本が「自律」を失った理由


高市新政権が船出しました。
外交も内政も、ようやく舵を切ったばかりです。

それにもかかわらず、主要メディアは早くも冷笑的な論調を競い合っています。どうもこの国では、政治家が何かを「始める」ことよりも、「まだ何もしていない」段階で叩くことに快楽を見いだす人々が多いようです。私は、もう少し静観するくらいの知的余裕を持ちたいと思います。

もっとも、政権批判そのものの是非を論じたいわけではありません。私が気にしているのは、この国の組織や教育の根に深く巣食っている「自律の欠如」という問題です。どれほど立派な理念を掲げた政権が誕生しても、日本の組織文化そのものが変わらない限り、社会の底力は決して上がらないでしょう。
 
「タコつぼ国家」の正体

日本の組織は、一言で言えば「タコつぼ型」であります。専門領域を掘り下げることが美徳とされ、他の部門には立ち入らない。互いに干渉せず、協働せず、しかし波風も立たない。そこに「和」が保たれていると信じているのです。

しかしながら、この「和」はきわめて奇妙な代物です。意見をぶつけ合う「嵐(ストーミング)」の段階を避けることで、組織は表面上の平穏を保ちますが、その実、内部には無関心が蔓延します。誰も責任を取らず、誰も決断しない。こうしてチームは「協働する群れ」ではなく、「並列する個」の集合体に堕していくのです。
 
リーダー不在の共同体

日本の組織には、リーダーがいません。いや、正確に言えば、「命令する人」はいても「導く人」がいないのです。上司は部下を育てるのではなく、監視します。会議では「意見」よりも「空気」が支配する。その光景には、自由よりも服従を美徳とする国民性の影が見えます。

本来、リーダーとはチームを支配する者ではなく、その自律を促す者です。ところが日本では、上に立つことを「責任」ではなく「特権」と誤解し、下にいることを「服従」と思い込む。そのため、誰もリーダーになりたがらない。上司を軽蔑し、部下を育てず、結果として組織全体が「管理の奴隷」と化していくのです。

教育が奪った「自ら考える力」

私は、この問題の根源は教育にあると考えています。日本の教育は、答えを覚え、他者に認められることを目的としてきました。その結果、「自分で問いを立てる力」が育たなかった。教師は常に「教える者」であり、生徒は永遠に「与えられる者」であり続けたのです。

自ら考える訓練を受けないまま社会に出た人々が、「上の指示」を待つのは当然のことです。それを「協調性」と呼び、「組織人の美徳」としてきました。しかしその実態は、自律を放棄した従属の連鎖にほかなりません。
 
「褒めない社会」とモチベーションの空洞

日本人は、人を褒めるのが苦手です。褒めれば「贔屓」と見なされ、評価は常に「相対的な順位」で語られます。この文化の中で育った人間は、他者の評価に依存するようになります。その結果、「何のために働くのか」という根本的な目的意識を見失ってしまうのです。

セルフ・モチベーションが育たない社会では、リーダーもまた育ちません。リーダーとは、誰かに褒められるために動く存在ではないからです。自己の信念と目的意識をもって行動する――そこにこそ、真の自律があると私は思います。

信頼のない国に自由はない

結局のところ、昨今の日本社会の病理は「信頼の欠如」に尽きます。上司は部下を信じず、教師は生徒を信じず、親は子を信じない。信頼のない場所では、自律も自由も育ちません。だからこそ、組織は「管理」に走り、教育は「監視」に堕していくのです。

私は思います。この国に必要なのは、新しいスローガンでも、派手なリーダーでもありません。一人ひとりが自分の判断で動く勇気であります(迷子になる勇気)。信頼し、任せ、失敗を許す文化を取り戻さない限り、日本は永遠に「管理社会の徒花」に咲き続けることでしょう。

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