ChatGPTのような生成AIは、使い方次第で非常に有効なツールになります。私自身もその利便性には大いに注目しています。ただし、このツールが持つポテンシャルには、同時に注意すべき側面もあります。特に、中高生といった学びの基礎を築いている段階にある若者にとっては、AIの使い方を誤ることで思考力の育成が妨げられるおそれがあるのです。
AIは、文章を自動で整えてくれる便利な機能を備えています。しかしそれが、「知識を自ら獲得し、それを言語化して自分の表現にする」という本来の学びの過程を短絡的に飛び越えてしまう危険性もはらんでいます。これは、言い換えれば思考停止を助長するリスクです。
本来、表現力や論理的思考力は、「絵日記」→「作文」→「小論文」→「論文」といったプロセスを経ながら、徐々に育まれていくべきものです。特に「作文」から「小論文」へと進む段階では、自分の主張を筋道立てて伝える力が必要になります。しかし、日本の教育制度ではこの部分が軽視されがちで、十分な訓練を経ないまま、多くの若者が受験という競争に巻き込まれていきます。
こうした背景のまま社会に出ると、実務や交渉の現場で「自分の意見を筋道立てて伝える」力が不足しがちです。例えば英語でのビジネスコミュニケーションにおいては、相手の理解に応じた言葉の選び方や論理的な構成が求められます。こうした力は、「小論文」や「論文」を書く中でこそ培われるものです。
残念なことに、こうした訓練が不十分なまま社会的な立場に就くケースもあります。発信力や判断力が弱いまま、重要なポジションに就いてしまうこともあり、それが社会全体の言語的思考力に影響を及ぼすことさえあります。公的な言説においては、個人的な感情ではなく、事実と論理に基づく発信が求められるのは当然のことです。
さて、話をChatGPTに戻しましょう。
若い世代にとっては、まず何よりも"「読書」や「実体験」”を通じて語彙や概念を蓄えることが大切です。こうした基礎があってこそ、ChatGPTのようなツールを本当に「学びの道具」として活かすことができるのです。
一方で、シニア世代にとっては、ChatGPTは気軽な「話し相手」や「情報補助ツール」として役立つ側面もあります。相手に気を遣わず、自分のペースでやりとりできる点は、とても心強い要素だと言えるでしょう。ただしこの場合も、ある程度の言語的な素地があってこそ、AIとの対話は実りあるものになります。
忘れてはならないのは、ChatGPTは「単語の並び方」を予測するしくみに過ぎず、本当の意味で思考しているわけではない、という点です。その限界を理解しつつ、適切な場面で使えば、これほど便利なツールはありません。しかし、学びの初期段階でその「便利さ」に依存してしまえば、逆に思考力や表現力を養う機会を失ってしまうことにもなりかねません。
だからこそ、私たちは今、AIツールとの距離の取り方について、一人ひとりが意識的に考える必要があるのだと思います。
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