私が焼きトウモロコシに初めて出会ったのは、小学校の低学年の頃、家族で阿蘇へドライブに出かけたときのことでした(昭和30年代)。草千里でたまたま観光用の馬がいて、ついでに乗ってみるか、ということになったように思います。馬の記憶は正直あまり残っていないのですが、そのとき風に乗ってふわりと漂ってきた、ある香りのインパクトだけは今でも鮮明です。
焦げた醤油の匂いです。
しかも、それがトウモロコシに染み込んでいるというのですから、子どもながらに「これはただ事ではない」と思ったわけです。
一本買ってもらい、高原の風に吹かれながらかぶりついた焼きトウモロコシ。あれは私の味覚の原風景となりました。脳のどこかに「本物」としてしっかり保存されたのでしょう。
その後、中国でもアメリカでも、トウモロコシは何度も食べました。けれど、あのときのような衝撃には、二度と出会っていません。焼いたものというより、茹でたものか、粒をスープに浮かべたものばかり。あの香ばしく焦げた醤油の香りは、日本人の食に対する異常なまでのこだわりの結晶だったのだと、あとになって気づきました。
人は、子どもの頃に出会った「本物」を無意識のうちに基準にして生きていくのだと思います。味覚もそうですし、読書や人間関係も同じです。脳のデータベースには、最初に登録されたものが「標準設定」として残る。もし最初にストアされたものがニセモノだったら、その後の判断も少しずつズレていくかもしれません。
だから、若いうちにどれだけ「本物」と邂逅できるかが大事です。
本で言えば、手当たり次第に自己啓発書を読むよりも、まずは古典を一冊読んでみる。明治や昭和初期の文豪たちの作品に触れることで、現代の情報過多のなかで忘れがちな「重み」や「間」を感じることができます。そして何より、そうした古典は、読み手の年齢や経験に応じて違った顔を見せてくれる。十五歳のときに読んだ『吾輩は猫である』と、四十歳になって読み返すそれとでは、まるで別の小説のように響いてくるのです。
人との出会いも同じです。若い頃に「生きた教材」としての人物と邂逅できたかどうか。単なる有名人や高スペックの人ではなく、強烈な個性や矛盾を抱えながら、それでも一本筋の通ったような人。そうした出会いは、その後の人生の糧になります。
AIは便利です。世界中の情報を集めてくれる。でも、それは誰かが経験した知識の寄せ集めであって、自分の身体や感情を通したものではありません。焦げた醤油の香りを知らないAIに、あの焼きトウモロコシの味は語れないのです。
タコツボの中に閉じこもっていたら、「本物」との邂逅にも限りがあります。だからこそ、「迷子になること」を恐れないでほしいのです。それは、一歩踏み出す勇気であり、自分の世界を広げるための旅の始まりでもあるのです。
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