2025年7月20日日曜日

日本航空123便墜落事故

上野村「慰霊の園」の追悼施設(撮影者不明)


語られない記憶が残したもの、1985年の夏


この話題には、できれば触れたくありませんでした。

1985年8月12日、日本航空123便が群馬県・御巣鷹の尾根に墜落し、520人の方が命を落としました。単独機の事故としては、いまも世界最悪の犠牲者数となっています。

事故当日、私は中国・北京の商務省(Ministry of Commerce)のコンピュータ室にいました。アメリカのコンピューター会社の社員として、システムに関連する業務のために現地に赴いていたのです。翌13日は、中国人エンジニアたちと一日中、この事故について話しました。我々は、日本人として中国人として、そして一人の人間として、悲しみや運命について語り合ったことを、今でもよく覚えています。

この事故では、同じ会社の先輩も亡くなっています。そのため、今でもこの話題には自然と心が沈みます。それでも、こうして書いておこうと思う理由があります。

陰謀論として片づけられる“違和感”

この事故には、今もなお、多くの疑問が残っています。
  • コックピットのボイスレコーダー(CVR)やフライトデータレコーダー(FDR)が公開されていないこと(ボイスレコーダーやフライトレコーダー開示請求裁判は請求した側の敗訴)
  • 墜落直後に上空を飛んでいたはずの自衛隊機や米軍機の動きがはっきりしないこと
  • 操縦士・高濱機長による異例の対応や、通信記録の“断絶”
こうした点は、当時も今も「陰謀論」として片づけられてしまいがちです。でも、真相が明かされないまま「陰謀論」として封じ込められている状況そのものが、すでに異常なのではないかと感じています。語ること自体が「非常識」とされてしまう空気のほうが、かえってこの事故の闇の深さを示しているように思えます。

プラザ合意とその後の連鎖

この事故のわずか1か月後、1985年9月22日にプラザ合意が結ばれました。当時1ドル240円台だった為替は、120円まで一気に円高が進みました。輸出競争力を失った日本は内需拡大へと向かい、やがて未曾有のバブル景気が生まれました。

しかしそのバブルは崩壊し、そして何よりの転機となったのは、小泉政権による「構造改革」でした。郵政民営化をはじめとした改革には、アメリカ政府からの圧力があったと想像しています。そうした流れのなかで、日本経済は長い低迷期へと突入していきました。

この一連の出来事の因果関係を証明することはできません。ただ、それでも、あの事故と、それに続いた経済や政治の大きな転換が、一つの流れとしてつながっているように感じられるのは、私だけではないと思っています。

8月――沈黙と限りない悲哀の月

私は昔から、日本の「夏」が苦手でした。
  • 8月6日、9日 ― 広島・長崎への原爆投下
  • 8月15日 ― 敗戦記念日
  • そして8月12日 ― 日本航空123便の墜落事故
この時期に訪れるのは、単なる「喪失」ではなく、「限りない悲哀」だと感じています。戦争と同じように、JAL123便の事故もまた、「語られないまま風化していく」という意味で、日本社会の“忘れる仕組み”のなかに埋もれていってしまっているように思えます。

それでも書くことの意味

いま、あえてこの話を書き残そうと思ったのは、自分のためでもあり、「歴史に問いを残す」ためでもあります。

あの事故が象徴しているのは、単なる航空機の技術的トラブルや人災ではないと感じています。むしろ、「誰も真相にたどり着こうとしない社会」への問いかけなのだと思います。

語られないままの記憶を、少しでも掘り起こすこと。それが、今を生きる私たちにできる、ささやかな務めなのかもしれません。

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