今村均将軍と今の日本政治を見つめて
今回の参議院選挙と、それに際して聞こえてきた総理の発言を通じて、私は改めて、戦後80年を経たこの国の「失敗の帰結」を突きつけられたように感じました。今の日本の政治の姿は、敗戦後の歩みの総決算のようにも見え、その象徴が、いま総理大臣の座にある人物なのだと思えてなりません。
これまでの人生で、私の身のまわりには、このような人物は一人もいませんでした。そんな「スペックの人」が、国のリーダーであるという現実に、ただ茫然とするばかりです。そんなとき、ふと思い出したのが、40年ほど前に読んだ角田房子さんの『責任 ラバウルの将軍 今村均』という本でした。初めて読んだとき、私はとても強い衝撃と感動を覚えました。「責任とは何か」「リーダーとは何か」という問いに、ここまで明快に応えた人物が、日本の戦後にどれほどいたでしょうか。
今村均さんは旧日本陸軍の大将として、徹頭徹尾「責任を取る」ということを実行した人でした。戦局が悪化する中、ラバウルで数万人の兵を指揮しながら、玉砕も飢餓も許さず、終戦まで秩序を保ち続けたそうです。戦犯として収容されたあとも、自ら進んで責任を負い、帰国後は部下やその遺族の支援に奔走しました。その姿は、占領軍のマッカーサーさえも動かしたといいます。
「その時は責任を取ります」と言う人は今もたくさんいると思います。でも、実際に取った人は、ほんのわずかしかいません。今村将軍は、部下たちの苦しみを自分自身の問題として引き受け、帰国後も自らの意思で、ふたたびマヌス島の収容所に戻ろうとさえしました。それは、単なる義務感や軍人としての誇りではなく、「仁」の心に裏打ちされた、深い人間性の表れだったのだと思います。
それに比べて、今の日本の政治に「責任」という言葉は、本当にあるのでしょうか。たとえ総理の口からその言葉が出たとしても、どこか軽く、空虚で、胸に響いてきません。なぜなら、その人が「責任とは何か」を真剣に考えた形跡が見えてこないからです。政治家が、手段と目的を取り違え、ただ権力の座にしがみついている。そんな姿に、私たち国民は人質のようにされているのではないか――そんなふうに思えてなりません。
今村さんと同時代を生きた人々に直接話を聞くことは、もはや難しい時代になりました。でも、今村さんのような人が、かつてこの国にたしかに存在したこと。そして、その生き方が、丹念な記録として書き継がれていることは、私たちに希望と方向性を示してくれているように思います(角田さんが本書のために行った数々のインタビューは、まさに最後の生き証人たちとの貴重な対話でした)。
歴史は繰り返すと言われます。だとすれば、「今」という、このどこか敗戦にも似た空気のなかで、今村将軍の「責任」のあり方に学ぶことは、決して無意味ではないはずです。
私が総理に望むことは、たったひとつです。せめて今村均という人物の存在を、知っていてほしい。それすら難しいなら、どうか、軽々しく「責任」という言葉を口にしないでほしい。
責任とは、その人の生き方そのものを指す言葉なのですから。
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