2025年7月25日金曜日

大和の精神と国のかたち

タイとカンボジア国境地帯で本格的な軍事衝突、民間人ら12人死亡…砲弾とF16の応酬

【バンコク=水野哲也、プノンペン=竹内駿平】タイとカンボジアの国境地帯の複数箇所で24日、両国軍が交戦した。タイ政府によると、砲撃によりタイで民間人11人と兵士1人の計12人が死亡、31人が負傷し、タイ軍は戦闘機でカンボジア軍の拠点を攻撃した。両国軍は5月28日にも国境地帯で交戦しており、約2か月後に再び本格的な軍事衝突となった。

タイ・カンボジア紛争を見て思う大和の精神と国のかたち

私は奈良県橿原市を本籍とする者として、日本という国の始まりを常に意識しています。神武天皇が東征の果てにたどり着き、国を開いたとされる大和の地。そこは単なる地理的な「場所」ではなく、自然との調和によって文化を育んだ空間でした。

奈良盆地は、周囲を山に囲まれた天然の要害でありながら、狭すぎず、広すぎない。広大な平野は外敵にとっても好都合ですが、奈良のような地形は自らを護りながらも、人々が自然と共生するにはちょうどよいスケール感を持っていました。大和の人々は、森を切り拓くのではなく、森とともに暮らす道を選んだ。それは、防衛や利便性ではなく、調和と持続可能性を第一に置いた選択だったのです。

「大和は国のまほろば」。この美しい響きのなかに、現代の我々が見失いつつある叡智が込められています。木を切らなかった大和の精神。そこには、資源を無限に搾取するのではなく、未来へ残すという倫理観があった。言ってみれば、日本は持続可能性の元祖だったのです。

そして、それは偶然ではありません。藤原京、平城京、平安京――都が移ろっていった過程には、時代の要請と自然との折り合いをつけながら、確固たるビジョンのもとに柔軟に変化していく姿勢がありました。これこそが日本の国のかたちの本質であり、「和をもって貴しとなす」という言葉は、その理念の結晶です。

こうした視点で、現在のタイとカンボジアの国境紛争を見ると、複雑な思いにとらわれます。地続きであること、外敵の脅威が常に意識されること、国家が軍事と排除を前提に成り立つこと。それは、大和的な国づくりとは対極にある状況です。

そして日本は今、果たしてこの「大和の精神」を継承していると言えるでしょうか?

かつて「安全保障の専門家」として名前が挙がった石破茂氏、岩屋毅氏、中谷元氏といった政治家たちは、本当にこの国のかたちや、独立した安全保障のビジョンを語ってきたでしょうか?彼らは、戦略や歴史的文脈を語ることなく、アメリカ依存を当然視し、現状維持を繰り返してきただけではなかったか。何も考えずに、、、、。安全保障を語りながら、実際には国民を「考えさせない」方向に導いてきた責任は、軽くありません。

そして今、史上最低と思われるこの内閣が、日本国民の生死与奪を握っている現状に、私は深い危機感を抱きます。持続性も柔軟性も、和の精神も、すべて形骸化され、ただ「管理」される社会。このままでは、「大和」から始まった日本の原点が、霞のように消えていくのではないか。

いま必要なのは、過去の美化ではなく、国のかたちを問い直す誠実さと覚悟です。調和と変化の力をもって、自らの手で「次の日本」を描けるかどうか。それが、我々一人ひとりの問いとして突きつけられているのだと思います。






亡き父の写真集より

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