ブリューゲル 怠け者の天国(1567年)
怒りの奥にある笑い
最近、つくづく思います。
「税金、もう払いたくない」と。
こんな気持ちになるのは、生まれて初めてです。脱税したいわけではありません。
ただ、今の政権や政治家たちの顔を思い浮かべながら、自分の稼ぎの一部を渡していると思うと、心の奥からじわじわと怒りがこみあげてくる。
そのお金で、彼らはどこかの料亭で笑い合っているのだと思うと、ふざけるな、と言いたくなるのです(私は料亭に対する妬みや羨望はありませんよ、念のため)。
私が若い頃、日本人はもっと違う国民だったように思います。
身体は丈夫で、顔にも誇りがあった。理屈ではなく、生き方に一本筋が通っていた。
ところが今はどうでしょう。「よく働き、文句を言わず、規則を守る」──そういう意味では高性能かもしれませんが、すっかり従順な生き物になってしまった。
これは「家畜化」です。しかも、自主的な。
首輪は必要ない。自分で喜んでつけているのです。
便利さに慣れすぎてしまいました。スマホがあれば脳はいらない。AIがあれば思考もいらない。判断することを放棄し、「選んでも変わらない」と言い訳して選挙にも行かない!
その結果が、今の総理です。
その総理という神輿が、いかに軽いか。
もう、風で揺れているのが見えるほどです。
けれど、その神輿を担いでいるのは誰か。
メディア、官僚、そして「おとなしい」私たち国民です。
彼らが何をしようと、顔色ひとつ変えずに税金を納め、口をつぐむ。
それを「成熟」という人もいるでしょう。
しかし私には、それが沈黙することが賢さだと信じ込まされた教育の成果に思えるのです。
実はそれこそが、虚無的な服従であり、自主的隷従というものです。
怒るべきときに怒らず、問うべきときに問わない。
そして、何も期待せず、何も望まず、「どうせ変わらない」と心の奥でつぶやく。
これを知性の退化と呼ばずして、何と呼ぶべきでしょうか。
科学技術が進歩し、生活は確かに便利になりました。
でも、その便利さの代わりに、私たちは何を差し出してきたのでしょうか。
怒る力、感じる力、疑う力──つまり、人間らしさの根幹です。
「考える葦」どころではない。今や、ただそこに飾られている「しゃべる観葉植物」のような存在感になりつつある。
目の前にはAIがあります。
これは確かに賢い。文句ひとつ言わず、瞬時に答えを返してくる。
人間が担っていた知的労働も、もはや朝飯前です。
このままいけば、「怠け者の天国」はすぐそこです。
ブリューゲルが描いた、焼かれた豚が自ら歩いてくるような楽園で、人間たち(学者・兵士・農民)はだらしなく寝そべっている。そんな風景が、もはや現実になりつつあります。
「AIがやってくれるから大丈夫」と言いながら、自分で何かを決める力を手放していく。
まるで、レールの先に崖があると知りながら、「自動運転だから安心です」と笑っているドライバーのようです。
私が若い頃には、違和感に対して声をあげる文化が、かろうじて残っていました。
中国でも、アメリカでも、そして九州の町でも、人はもっとむき出しで、もっと不器用でしたが、自分の言葉で生きていたように思います。
当時の日本人が今より自由だったとは言いません。けれど、敗戦の意味や日本の近代化の矛盾について、語ろうとする気配はあった。
ではなぜ、今はそれが失われたのか。
答えの一端は、戦後の占領政策にあるかもしれません。
GHQが目指したものは、制度の変更だけではなかった。
もっと深いところで、日本人の精神を壊すこと──つまり、主体性と怒りの文化を断つことにあったのではないか。
そして、その目的は80年かかって見事に達成されたのかもしれません。
それでも、文化の断片がどこかに生き残れば、いつか後の世代(孫たちが大人になった世界)が問いかけるでしょう。
「ねえ、なぜ日本人はあんなに素直に従っていたの?」
「なぜ誰も怒らなかったの?」
「日本って無くなってしまったんだね、、、」
私たちはこう答えるしかないのかもしれません。
「だって、怒ってもどうせ変わらないから」
──それこそが、この国を蝕む最大の病なのです。
私たちはこう答えるしかないのかもしれません。
「だって、怒ってもどうせ変わらないから」
──それこそが、この国を蝕む最大の病なのです。
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