ところが、今の深夜の高速は様子が違います。足柄SAに着いたのは午前3時半だったのですが、駐車場はほぼ満車。売店やレストランは閉まっているのに、人だけはやたら多い。深夜割引の影響か、トラックも乗用車も列をなしていました。静岡SAも岡崎SAも同様。まともに休憩できる場所すら確保できません。
かつて、深夜の高速は“自由の時間”でした。だが今では、そこにも「割引のある時間に一斉に動く人たち」が詰め込まれています。
こうして見ると、「若者の車離れ」という言葉にも別の意味が浮かび上がってしまいます。
たしかに、都市部では車を所有しない若者が増えた。経済的な理由もあるし、カーシェアや公共交通が便利になったこともあります。だが単に「持たない」のではなく、「持つことの責任や煩わしさを避ける」傾向が強まっているように感じるのです。
もちろん、経済性や便利さを追求するのは悪いことではない。
けれど
深夜のサービスエリアで見かけた人々──どこかに向かっているはずなのに、誰もどこにも向かっていないように見えてしまいました。
午前0時を過ぎてから高速に乗ると割引になります。それだけの理由で、時間を調整し、眠い目をこすって車を走らせる。制度に合わせて動くことで、確かに少し得をする。だがそれは、自分で決めているように見えて、3割の割引のために(3割は大きいですが)、自分の行動を最適化しているだけではないか。
これは、高速道路だけの話ではありません。いま私たちは、知らないうちに「自分で考えること」「自分で決めること」から遠ざかっています。判断のタイミングも、行動のリズムも、すべて誰かが設計した制度やルールに「乗って」動いている。そしてそのことに、だんだんと違和感を覚えなくなってきているのです。
「判断を避ける」「責任を持たない」「自分の足で立たない」。この傾向は、たんに個人の問題ではなく、社会全体の構造の問題なのではないでしょうか?とはいえ、
深夜のサービスエリアで見かけた人々──どこかに向かっているはずなのに、誰もどこにも向かっていないように見えてしまいました。
午前0時を過ぎてから高速に乗ると割引になります。それだけの理由で、時間を調整し、眠い目をこすって車を走らせる。制度に合わせて動くことで、確かに少し得をする。だがそれは、自分で決めているように見えて、3割の割引のために(3割は大きいですが)、自分の行動を最適化しているだけではないか。
これは、高速道路だけの話ではありません。いま私たちは、知らないうちに「自分で考えること」「自分で決めること」から遠ざかっています。判断のタイミングも、行動のリズムも、すべて誰かが設計した制度やルールに「乗って」動いている。そしてそのことに、だんだんと違和感を覚えなくなってきているのです。
「判断を避ける」「責任を持たない」「自分の足で立たない」。この傾向は、たんに個人の問題ではなく、社会全体の構造の問題なのではないでしょうか?とはいえ、
このような見方に同意しない方も多いことでしょう。実際に、いくつかの反論が考えられます。
まず、「深夜割引の時間に合わせて高速道路を走る」という行動については、それは制度を賢く利用した合理的な判断で、また、深夜のSAの混雑を見て「社会の自律性の低下」や「自己家畜化」と結びつけるのは、社会批評としての飛躍ではないかという指摘もあると思います。交通量の増減や休憩タイミングの集中といった現象に、過剰な意味づけをしているのではないかという冷静な見方です。
さらに、「若者の車離れ」についても、これは単なる消極的選択ではなく、環境意識やライフスタイルの変化の表れだという解釈もあります。車を持たないことが、必ずしも「責任を取りたくない」ことには直結しない。むしろ、他の選択肢が増えたからこそ、「持たない」という主体的判断をしているとも考えられます。
また、私が問題視したような「制度に合わせて動くこと」についても、制度やルールに従うことが自動的に思考停止を意味するわけではないと。
現象に意味を読み込みすぎているのではないかという反論も成り立ちます。たまたまSAが混んでいた、たまたま人が集中していた──そんな偶然を、社会の病理の象徴として語るのは、やや拡大解釈だという声もあるでしょう。
最後に、私が示唆したような「誰も考えていない」といった前提自体に、疑問を投げかける人もいるでしょう。そこにいた一人ひとりには、それぞれの判断や目的、事情があるはずで、「考えていない」という決めつけそのものが、むしろ老害そのものではないか!
こうした反論は、たしかに一理あります。それでも私は、あの深夜の高速道路に流れていた空気(reading the room)──「便利さ」の裏側で少しずつ蝕まれていく自律性や判断力──に、どこか現代の日本社会のひずみが重なるように感じてしまうのです。近未来のディストピアとしての日本を、、、、。
車のハンドルを握るその手に、私たちはまだ「自分の行き先」を選ぶ感覚を持ち続けているでしょうか。あるいは、それすらも、気づかぬうちに誰かに委ね始めているのかもしれません。
まず、「深夜割引の時間に合わせて高速道路を走る」という行動については、それは制度を賢く利用した合理的な判断で、また、深夜のSAの混雑を見て「社会の自律性の低下」や「自己家畜化」と結びつけるのは、社会批評としての飛躍ではないかという指摘もあると思います。交通量の増減や休憩タイミングの集中といった現象に、過剰な意味づけをしているのではないかという冷静な見方です。
さらに、「若者の車離れ」についても、これは単なる消極的選択ではなく、環境意識やライフスタイルの変化の表れだという解釈もあります。車を持たないことが、必ずしも「責任を取りたくない」ことには直結しない。むしろ、他の選択肢が増えたからこそ、「持たない」という主体的判断をしているとも考えられます。
また、私が問題視したような「制度に合わせて動くこと」についても、制度やルールに従うことが自動的に思考停止を意味するわけではないと。
現象に意味を読み込みすぎているのではないかという反論も成り立ちます。たまたまSAが混んでいた、たまたま人が集中していた──そんな偶然を、社会の病理の象徴として語るのは、やや拡大解釈だという声もあるでしょう。
最後に、私が示唆したような「誰も考えていない」といった前提自体に、疑問を投げかける人もいるでしょう。そこにいた一人ひとりには、それぞれの判断や目的、事情があるはずで、「考えていない」という決めつけそのものが、むしろ老害そのものではないか!
こうした反論は、たしかに一理あります。それでも私は、あの深夜の高速道路に流れていた空気(reading the room)──「便利さ」の裏側で少しずつ蝕まれていく自律性や判断力──に、どこか現代の日本社会のひずみが重なるように感じてしまうのです。近未来のディストピアとしての日本を、、、、。
車のハンドルを握るその手に、私たちはまだ「自分の行き先」を選ぶ感覚を持ち続けているでしょうか。あるいは、それすらも、気づかぬうちに誰かに委ね始めているのかもしれません。
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