2025年7月28日月曜日

真贋を見抜く力を失った国へ


小林秀雄と芥川龍之介に寄せて

ニセモノ天国とも言われた中国が、もしAIの主導権を握ったらどうなるのでしょうか。私はもう何十年も前から、「中国が先進国、あるいは世界のリーダーになりたければ、まず贋作をなくさなければならない」と考えてきました。

それは、単なる知的財産の問題ではなく、「真贋を見抜く力」を一つの文明の成熟度と捉えていたからです。

その一方で、戦後80年を迎える日本は、まさにその「真贋を見極める目」を急速に失いつつあるように見えます。何が本物で、何が模造品なのか。それを判断する感性や知性が、社会のあらゆる場面から消えつつあるのです。政治・政治家もしかり。

昭和25年、小林秀雄は随筆「雪舟」のなかで、次のような逸話を紹介しています。

「かつて上海の銭痩鉄さんの許で、顔輝筆『彗可断臂図』というものを見せてもらった事がある。雪舟の絵と全く同じ構図であり、恐らく雪舟は、この種のものに倣って作画したのであろうと思われたが、模倣によって如何に異なった精神が現れるかには驚くべきものがあった。顔輝の絵も見事だと思って眺めていたが、その間しきりに雪舟の絵が思い出され、どうも雪舟の方が立派だと思えて来てならなかったのである。」

ここで小林は、単なる構図の模倣を超えて、「精神の在り方」が作品に滲み出ることを説いています。本物とは、技術や形式ではなく、内側に宿る何かによって定まると。つまり、本物と偽物を分けるのは“精神の質”なのだと、彼は言っているのです。

この小林のまなざしに呼応するかのように、私の頭には芥川龍之介の随筆『西郷隆盛』も思い浮かびます。芥川は、後世の人々が語る西郷像に対して、静かな懐疑を向けていました。

「西郷隆盛という人間は、われわれの心の中にある、ある一つの理想の投影にすぎないのではないか。」

つまり、私たちが“本物の英雄”だと信じてきた西郷像は、実のところ、時代が作り出した幻想ではないかと問いかけているのです。芥川は、西郷を“本物らしい何か”として崇める大衆心理に潜む危うさを感じ取っていました。それは、まさに現代にも通じる警鐘です。人は、実像ではなく「本物っぽさ」に惹かれる。そしてその「っぽさ」が広がれば広がるほど、誰もが真贋の判断を怠るようになるのです。
  • 本物の中に潜む贋作を見抜く力。
  • 贋作のなかに光る本物の精神を見出す力。
この二つを持たなければ、私たちは情報の洪水やAIによる巧妙な模倣に翻弄され、ついには「何が真で、何が偽か」を判断できなくなるでしょう。

中国が確信犯的にニセモノを流通させる国であるとすれば、いまの日本は、その真贋を問う意志すら持たない、判断力を喪失した国になりつつあるのかもしれません。模倣すらしなくなった国。模倣ができるだけの美意識すら失われた国。それは本当に“豊かで平和な国”と言えるのでしょうか。

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