2025年7月24日木曜日

「ヘイ・ジュード」と英語と、わたし

 

久しぶりにビートルズを聴きました。 80代になったポール・マッカートニーが『ヘイ・ジュード』を歌う映像を観たのです。声は少しかすれても、あの「Hey Jude」のフレーズが流れ出すと、不思議なもので、 時間が逆回転したようで、遠い記憶が胸に押し寄せてきました 。

たぶん、ビートルズの曲の中で一番好きなのがこの『ヘイ・ジュード』です。最初に出会ったのは、小学校の高学年。ちょうどグループサウンズから卒業し、“本場”の音楽――ビートルズやローリング・ストーンズ――に惹かれ始めた頃でした。『ヘイ・ジュード』のシングル盤を手に入れて、レコードが擦り切れるんじゃないかと思うくらい、何度も何度も聴きました。

そしてある日、ふと思ったのです。「この歌は、いったい何を言ってるんだろう?」

田舎の小学生では当然わからない。でも、どうしても意味が知りたくて、近所で英語を教えている先生を見つけて、個人レッスンに通い始めました。この先生は専業主婦だったのですが、イギリスで生活をしていたそうです。学校の勉強とはまったく関係なく、「ビートルズの歌詞が知りたい」という一点の思いだけで動いていたのです。おかげで、英語との最初の出会いはずっとワクワクするものでしたし、中学3年間の英語はほとんど勉強する必要がなかった。

振り返ってみれば、英語なんてものは「勉強する対象」ではなく、「好きなものを深く知るための道具」だったのだと思います。目的はいつも、歌詞の向こうにある彼らの気持ちや、背景の風景を想像することにありました。辞書を片手に、歌詞カードをにらみながら、「ペニーレインって、お金の”雨”が降るという歌なのか?」などと真剣に考えていたのも、今となっては良い思い出です(実際には、ポールの育った町の地名でしたが)。ちなみに、私が最初に買ったビートルズのLPが『マジカル・ミステリー・ツアー』で、B面3曲目がその『ペニーレイン』でした。A面とB面をひっくり返すのも、あの頃の儀式のひとつでした。

ビートルズの歌詞は難解です。時代背景やイギリスの空気を知らないと、文脈を誤解してしまう。でも、その謎を解きたくて辞書を引き、意味を考える。そうやって英語と向き合う時間が、私にとっての「勉強」だったように思います。

中でも、『ヘイ・ジュード』は、やはり特別な一曲です。後に、ポールがこの曲をジョン・レノンの息子ジュリアン(ジュード)を励ますために書いたと知りましたが、私は社会人になってから、プレゼンテーションの枕などでよくこの曲の一節を引用していました。少し皮肉を込めて、「これは日本のサラリーマンを励ます歌なんですよ」と言いながら。

特に、こんな一節――

So let it out and let it in, hey jude, begin,
(万物は流転なんだ、一歩前へ出ろよ)
You’re waiting for someone to perform with.
(誰かが助けてくれるなんて、待ってるんじゃない)
And don’t you know that it’s just you, hey jude, you’ll do,
(自分だけなんだぞ、自分でやるんだ)
The movement you need is on your shoulder.
(その一歩は、お前の肩にかかってるんだ)

「誰かがやってくれるのを待ってる場合か」「その一歩は、自分の肩にかかってるんだぞ」――そんなふうに、ポールが目の前で語りかけてくれているように響いたのです。私が込めたメッセージは、「自分の人生は、自分がプロデュースする」――ただそれだけでした。誰かに流されてばかりじゃ、What is the life for? なのです。 

英語は道具です。でも、良い道具には「物語」が宿ります。興味を持つきっかけは、何だっていい。私の場合は、レコードから流れてきた『ヘイ・ジュード』が、すべての始まりでした。

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2025年7月23日水曜日

焦げた醤油の記憶

 

私が焼きトウモロコシに初めて出会ったのは、小学校の低学年の頃、家族で阿蘇へドライブに出かけたときのことでした(昭和30年代)。草千里でたまたま観光用の馬がいて、ついでに乗ってみるか、ということになったように思います。馬の記憶は正直あまり残っていないのですが、そのとき風に乗ってふわりと漂ってきた、ある香りのインパクトだけは今でも鮮明です。

焦げた醤油の匂いです。

しかも、それがトウモロコシに染み込んでいるというのですから、子どもながらに「これはただ事ではない」と思ったわけです。

一本買ってもらい、高原の風に吹かれながらかぶりついた焼きトウモロコシ。あれは私の味覚の原風景となりました。脳のどこかに「本物」としてしっかり保存されたのでしょう。

その後、中国でもアメリカでも、トウモロコシは何度も食べました。けれど、あのときのような衝撃には、二度と出会っていません。焼いたものというより、茹でたものか、粒をスープに浮かべたものばかり。あの香ばしく焦げた醤油の香りは、日本人の食に対する異常なまでのこだわりの結晶だったのだと、あとになって気づきました。

人は、子どもの頃に出会った「本物」を無意識のうちに基準にして生きていくのだと思います。味覚もそうですし、読書や人間関係も同じです。脳のデータベースには、最初に登録されたものが「標準設定」として残る。もし最初にストアされたものがニセモノだったら、その後の判断も少しずつズレていくかもしれません。

だから、若いうちにどれだけ「本物」と邂逅できるかが大事です。 

本で言えば、手当たり次第に自己啓発書を読むよりも、まずは古典を一冊読んでみる。明治や昭和初期の文豪たちの作品に触れることで、現代の情報過多のなかで忘れがちな「重み」や「間」を感じることができます。そして何より、そうした古典は、読み手の年齢や経験に応じて違った顔を見せてくれる。十五歳のときに読んだ『吾輩は猫である』と、四十歳になって読み返すそれとでは、まるで別の小説のように響いてくるのです。

人との出会いも同じです。若い頃に「生きた教材」としての人物と邂逅できたかどうか。単なる有名人や高スペックの人ではなく、強烈な個性や矛盾を抱えながら、それでも一本筋の通ったような人。そうした出会いは、その後の人生の糧になります。

AIは便利です。世界中の情報を集めてくれる。でも、それは誰かが経験した知識の寄せ集めであって、自分の身体や感情を通したものではありません。焦げた醤油の香りを知らないAIに、あの焼きトウモロコシの味は語れないのです。

タコツボの中に閉じこもっていたら、「本物」との邂逅にも限りがあります。だからこそ、「迷子になること」を恐れないでほしいのです。それは、一歩踏み出す勇気であり、自分の世界を広げるための旅の始まりでもあるのです。

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2025年7月22日火曜日

責任という言葉の重さ

 

今村均将軍と今の日本政治を見つめて

今回の参議院選挙と、それに際して聞こえてきた総理の発言を通じて、私は改めて、戦後80年を経たこの国の「失敗の帰結」を突きつけられたように感じました。今の日本の政治の姿は、敗戦後の歩みの総決算のようにも見え、その象徴が、いま総理大臣の座にある人物なのだと思えてなりません。

これまでの人生で、私の身のまわりには、このような人物は一人もいませんでした。そんな「スペックの人」が、国のリーダーであるという現実に、ただ茫然とするばかりです。

そんなとき、ふと思い出したのが、40年ほど前に読んだ角田房子さんの『責任 ラバウルの将軍 今村均』という本でした。初めて読んだとき、私はとても強い衝撃と感動を覚えました。「責任とは何か」「リーダーとは何か」という問いに、ここまで明快に応えた人物が、日本の戦後にどれほどいたでしょうか。

今村均さんは旧日本陸軍の大将として、徹頭徹尾「責任を取る」ということを実行した人でした。戦局が悪化する中、ラバウルで数万人の兵を指揮しながら、玉砕も飢餓も許さず、終戦まで秩序を保ち続けたそうです。戦犯として収容されたあとも、自ら進んで責任を負い、帰国後は部下やその遺族の支援に奔走しました。その姿は、占領軍のマッカーサーさえも動かしたといいます。

「その時は責任を取ります」と言う人は今もたくさんいると思います。でも、実際に取った人は、ほんのわずかしかいません。今村将軍は、部下たちの苦しみを自分自身の問題として引き受け、帰国後も自らの意思で、ふたたびマヌス島の収容所に戻ろうとさえしました。それは、単なる義務感や軍人としての誇りではなく、「仁」の心に裏打ちされた、深い人間性の表れだったのだと思います。

それに比べて、今の日本の政治に「責任」という言葉は、本当にあるのでしょうか。たとえ総理の口からその言葉が出たとしても、どこか軽く、空虚で、胸に響いてきません。なぜなら、その人が「責任とは何か」を真剣に考えた形跡が見えてこないからです。政治家が、手段と目的を取り違え、ただ権力の座にしがみついている。そんな姿に、私たち国民は人質のようにされているのではないか――そんなふうに思えてなりません。

今村さんと同時代を生きた人々に直接話を聞くことは、もはや難しい時代になりました。でも、今村さんのような人が、かつてこの国にたしかに存在したこと。そして、その生き方が、丹念な記録として書き継がれていることは、私たちに希望と方向性を示してくれているように思います(角田さんが本書のために行った数々のインタビューは、まさに最後の生き証人たちとの貴重な対話でした)。

歴史は繰り返すと言われます。だとすれば、「今」という、このどこか敗戦にも似た空気のなかで、今村将軍の「責任」のあり方に学ぶことは、決して無意味ではないはずです。

私が総理に望むことは、たったひとつです。せめて今村均という人物の存在を、知っていてほしい。それすら難しいなら、どうか、軽々しく「責任」という言葉を口にしないでほしい。

責任とは、その人の生き方そのものを指す言葉なのですから。
  
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2025年7月21日月曜日

参議院選挙の結果と日本の政治

 7月20日の参議院選挙から日が変わり、大勢が明らかになったものの、私にとっては驚きはありませんでした。最初から大きな期待を抱いていなかったので、予想通りの結果と言えます。

今も変わらぬ問題は、ジャーナリズムの不在と国民のリテラシー(教育)の不足です。日本の政治は、視野の広いビジョン(未来図)を持ってこそ成り立つべきものですが、そのビジョンが曖昧であれば、教育にいくら力を入れても、実を結ぶことはありません。むしろ、日本の受験システムは教育とは言えず、ベクトルが間違っています。受験を目的とした教育は、個々の能力や創造性を育むことに向いていないのです。国家が目指すべき未来像が不明瞭なまま、教育システムはただ形式的に進行し、真の問題解決にはつながりません。

国家は努力して作り上げるものであり、教育はその実現のための重要なツールであり手段です。政治家もその手段の一部であるべきですが、現状では多くの政治家が手段と目的を履き違え、権力の座にしがみつくことが目的となってしまっています。そのため、政策の実現よりも、自己の立場や利益が優先され、国民のための政治が行われることは少なくなっています。メディアもまたその役割を果たせていません。ジャーナリズム精神は失われ、ただ視聴率や票を求めるだけの報道が繰り返されています。

これらの問題に対して、私が今回の選挙結果を見て思うことは、むしろ「もっと堕落しろ!」という坂口安吾の言葉に近いものを感じることです。敗戦直後に安吾が『堕落論』で述べたように、堕落することで逆に目覚める瞬間が来るのかもしれません。この国の国民が、いつ目を覚ますのか、そしてどこまで堕ちていくのか、そんなことを考えながら選挙結果を見つめていました。

この国の未来は、政治家やメディア、教育に委ねられているのではなく、最終的には国民一人一人の意識改革にかかっているのではないでしょうか。しかし、その目覚めがいつ来るのか、私にはまだ分かりません。たぶんもうこの世にはいないでしょうが、、、、。

  
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2025年7月20日日曜日

日本航空123便墜落事故

上野村「慰霊の園」の追悼施設(撮影者不明)


語られない記憶が残したもの、1985年の夏


この話題には、できれば触れたくありませんでした。

1985年8月12日、日本航空123便が群馬県・御巣鷹の尾根に墜落し、520人の方が命を落としました。単独機の事故としては、いまも世界最悪の犠牲者数となっています。

事故当日、私は中国・北京の商務省(Ministry of Commerce)のコンピュータ室にいました。アメリカのコンピューター会社の社員として、システムに関連する業務のために現地に赴いていたのです。翌13日は、中国人エンジニアたちと一日中、この事故について話しました。我々は、日本人として中国人として、そして一人の人間として、悲しみや運命について語り合ったことを、今でもよく覚えています。

この事故では、同じ会社の先輩も亡くなっています。そのため、今でもこの話題には自然と心が沈みます。それでも、こうして書いておこうと思う理由があります。

陰謀論として片づけられる“違和感”

この事故には、今もなお、多くの疑問が残っています。
  • コックピットのボイスレコーダー(CVR)やフライトデータレコーダー(FDR)が公開されていないこと(ボイスレコーダーやフライトレコーダー開示請求裁判は請求した側の敗訴)
  • 墜落直後に上空を飛んでいたはずの自衛隊機や米軍機の動きがはっきりしないこと
  • 操縦士・高濱機長による異例の対応や、通信記録の“断絶”
こうした点は、当時も今も「陰謀論」として片づけられてしまいがちです。でも、真相が明かされないまま「陰謀論」として封じ込められている状況そのものが、すでに異常なのではないかと感じています。語ること自体が「非常識」とされてしまう空気のほうが、かえってこの事故の闇の深さを示しているように思えます。

プラザ合意とその後の連鎖

この事故のわずか1か月後、1985年9月22日にプラザ合意が結ばれました。当時1ドル240円台だった為替は、120円まで一気に円高が進みました。輸出競争力を失った日本は内需拡大へと向かい、やがて未曾有のバブル景気が生まれました。

しかしそのバブルは崩壊し、そして何よりの転機となったのは、小泉政権による「構造改革」でした。郵政民営化をはじめとした改革には、アメリカ政府からの圧力があったと想像しています。そうした流れのなかで、日本経済は長い低迷期へと突入していきました。

この一連の出来事の因果関係を証明することはできません。ただ、それでも、あの事故と、それに続いた経済や政治の大きな転換が、一つの流れとしてつながっているように感じられるのは、私だけではないと思っています。

8月――沈黙と限りない悲哀の月

私は昔から、日本の「夏」が苦手でした。
  • 8月6日、9日 ― 広島・長崎への原爆投下
  • 8月15日 ― 敗戦記念日
  • そして8月12日 ― 日本航空123便の墜落事故
この時期に訪れるのは、単なる「喪失」ではなく、「限りない悲哀」だと感じています。戦争と同じように、JAL123便の事故もまた、「語られないまま風化していく」という意味で、日本社会の“忘れる仕組み”のなかに埋もれていってしまっているように思えます。

それでも書くことの意味

いま、あえてこの話を書き残そうと思ったのは、自分のためでもあり、「歴史に問いを残す」ためでもあります。

あの事故が象徴しているのは、単なる航空機の技術的トラブルや人災ではないと感じています。むしろ、「誰も真相にたどり着こうとしない社会」への問いかけなのだと思います。

語られないままの記憶を、少しでも掘り起こすこと。それが、今を生きる私たちにできる、ささやかな務めなのかもしれません。

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2025年7月16日水曜日

Red Eye Back ― 奈良からの夜明け

 



ニューヨークからロサンゼルスまでは直行便で6時間、時差は3時間あります。朝早くNYを出ても、着くのはLA時間の夕方で、実質的に仕事にはなりません。ディナーミーティングに参加するくらいです。そして問題は帰りです。LAで仕事を終え、午後9時や10時発のJFK便に乗ると、NYには翌朝6時に着きます。そのままオフィスに向かうわけです。アメリカ人ビジネスマンの朝は早いのです。red eyeとは、そういう移動でした。マネジメント層にとっては、これをこなして一人前、という空気すらありました。

今のようにインターネット会議で済む時代になっても、まだred eyeを続けている人がいるのかどうか、それはわかりません。

さて、今回はその"地上版red eye"でした。

奈良からの帰りは、いつもなら午前3時に出るのですが、今回は午前1時にスタートしました。途中3〜4回の休憩を入れて、6〜7時間のドライブです。幸い、国内に時差はないので、朝の8時頃には武蔵野に着けるはずでした。

ですが、今回は違いました。岡崎から静岡にかけて、台風と線状降水帯を伴う低気圧が通過中でした。猛烈な風雨に見舞われ、何度も豪雨を避けては休憩を入れる羽目になりました。東名は案の定、大和トンネルあたりから東京料金所までラッシュの渋滞。環八はまだマシでしたが、それでも武蔵野の自宅にたどり着いたのは午前9時を過ぎていました。

まさに、「奈良からのred eye back」でした。

30代40代の頃は、こんな無茶な移動も“仕事”だったんですよね。今から思えば、どうかしていたと思います。でも今は違います。ただの私用で、仕事とは関係ありません。極楽とんぼの半分は隠居の身です。

それでも、朝9時に車を降りたときには、さすがに疲労困憊でした。昔なら平気だった長距離ドライブが、いまは身体に堪えます。渋滞も、豪雨も、眠気も、すべてが重すぎました。

ドライブのあいだ、頭の中ではずっとスティーリー・ダンの《Reelin’ In the Years》がぐるぐる回っていました。あの少し皮肉で、どこか突き放すような歌詞。たぶん、ちゃんと意味を理解しているわけじゃないのですが、不思議と、こんな夜明けにはぴったりでした。

私はあの歌詞の中の男のようにプライドが高いわけじゃありませんし(たぶん)、恨み節なんてほとんどないです。大成功したキャリアではなかったけれど、後悔は微塵もありません。妬みなんて、、、ないです。

red eye の車バージョンで帰ってきて、過ぎ去った年月のこと、あの頃あったいろんな出来事のことが、頭の中をぐるぐると駆け巡っていました。

私は《Reelin’ In the Years》の主人公のように、皮肉に閉じこもることなく、自分の人生を自分の言葉で引き取っています。それは、スティーリー・ダンの知的な諦念よりも、もっと静かで強い「納得」に近い感覚です。これって、もしかしたら高齢者にありがちな頑固な独善性なのかもしれません。

たとえ「大成功したキャリア」ではなくても、
たとえ「昔ほどタフではなくなった」としても、

後悔は微塵もない。自分の涙は、もう自分でちゃんと受け止めています。そこにあるのは、「やりきった」とか「まあ、いいか」ではなくて、時間を巻き戻す(reeling)必要も、涙を集める必要もないという穏やかな境地なのです。

そして、やっとこさ武蔵野の自宅に着いた頃に、頭の中の《Reelin’ In the Years》は終わっていました。

    


 

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2025年7月14日月曜日

物語をやめた国で、物語をはじめる




茅(ち)の輪くぐりの準備@奈良西方寺

夏越(なごし)の祓(はらえ)は、1年の前半を無事に過ごせたことに感謝し、後半の半年を健康に過ごせるように祈願する行事です。特に、茅の輪をくぐることで、身についた罪や穢れを祓い清めるとされています。


物語をやめた国


物語の中に、ひとつの国がありました。

そこでは、政治家たちが手元の作文を読みながら、「語っているふり」をしていました。

「ヴィジョンとは何か」
「成長戦略とは」
「この国の未来とは」

そんな言葉を並べながら、彼らは実際には何も語らず、何も決めず、たどたどしく誰かが書いた作文を読んでいる。肝心の中身には、誰も関心を持っていませんでした。

政治家たちが勝手にしゃべるたび、国民は「ああ、またか」と目を伏せます。言葉だけじゃない。顔も見たくない。むしろ吐き気がするようになった。
誰もが次の展開を知っていました。

  • 主人公のいない物語
  • 反省しない登場人物たち
  • ページがすすまない
そんななか、ひとりの「語り手」がいました。
もともとは「読者」だった人です。税金という参加費を払い、静かにこの国に生きてきた。

けれど、ある日ふと、こうつぶやいてしまいました。
「このストーリー、あまりにも退屈じゃないか? しかも、バカ高い金払ってさ」。

その瞬間、彼は物語の外へと押し出されました。
「反政府的だ」「空気を読め」と言われながら、語り手でありながらページの隅に追いやられた。

しかし彼は気づいてしまったのです。

この国には、もはや物語をつくれる人間がいない。

誰も責任を取りたがらず、誰も新しい筋書きを描こうとしない。
ただ「前例」と「忖度」と「お友達」の三点セットで、台本は惰性で進んでいく。

「もう一度、最初から書き直すしかない」
語り手はそうつぶやき、ペンを手にしました。

物語を捨てた国を、もう一度、物語が始まる国へと修理するために。
語り手とは、物語の修理工でもあるのです。

この国の物語は、まだ書きかけのままです。
でもひとつだけ確かなことがあります。

こんな茶番に付き合うほど、読者はバカじゃない。

読者から語り手へ──静かな反抗のすすめ

日本人は、賢い読者ばかりです。
空気を読み、先を読み、余白を読み、沈黙の意味すら読もうとする。

「読者」がただの傍観者で終わらないとき、「語り手」が生まれます。
それは、カミュの言う「反抗」であり、60〜70年代のサルトル的実存の実践でもある。

自らが語る者となるとき、物語は再び始まるのです。

今この国に必要なのは、そうした静かな決意です。
「読むだけ」の位置から一歩踏み出して、「語り始める」こと。
沈黙ではなく、言葉を選び、筆を取り、物語の修復に加わること。

物語をやめた国で、物語をもう一度つくるために。
その仕事は、まだ終わっていません。

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2025年7月13日日曜日

深夜の高速で考えたこと

 



















午前2時半に武蔵野の自宅を出て、車で奈良を目指しました。50年近く運転してきましたが、長距離はそろそろしんどくなってきた、、、、。とはいえ、雨さえ降ってなければ、深夜の運転は好きです。すいている道を、自分のペースで走る感覚。これは若い頃から変わりません。

ところが、今の深夜の高速は様子が違います。足柄SAに着いたのは午前3時半だったのですが、駐車場はほぼ満車。売店やレストランは閉まっているのに、人だけはやたら多い。深夜割引の影響か、トラックも乗用車も列をなしていました。静岡SAも岡崎SAも同様。まともに休憩できる場所すら確保できません。

かつて、深夜の高速は“自由の時間”でした。だが今では、そこにも「割引のある時間に一斉に動く人たち」が詰め込まれています。

こうして見ると、「若者の車離れ」という言葉にも別の意味が浮かび上がってしまいます。

たしかに、都市部では車を所有しない若者が増えた。経済的な理由もあるし、カーシェアや公共交通が便利になったこともあります。だが単に「持たない」のではなく、「持つことの責任や煩わしさを避ける」傾向が強まっているように感じるのです。

もちろん、経済性や便利さを追求するのは悪いことではない。

けれど

深夜のサービスエリアで見かけた人々──どこかに向かっているはずなのに、誰もどこにも向かっていないように見えてしまいました。

午前0時を過ぎてから高速に乗ると割引になります。それだけの理由で、時間を調整し、眠い目をこすって車を走らせる。制度に合わせて動くことで、確かに少し得をする。だがそれは、自分で決めているように見えて、3割の割引のために(3割は大きいですが)、自分の行動を最適化しているだけではないか。

これは、高速道路だけの話ではありません。いま私たちは、知らないうちに「自分で考えること」「自分で決めること」から遠ざかっています。判断のタイミングも、行動のリズムも、すべて誰かが設計した制度やルールに「乗って」動いている。そしてそのことに、だんだんと違和感を覚えなくなってきているのです。

「判断を避ける」「責任を持たない」「自分の足で立たない」。この傾向は、たんに個人の問題ではなく、社会全体の構造の問題なのではないでしょうか?とはいえ、

このような見方に同意しない方も多いことでしょう。実際に、いくつかの反論が考えられます。

まず、「深夜割引の時間に合わせて高速道路を走る」という行動については、それは制度を賢く利用した合理的な判断で、また、深夜のSAの混雑を見て「社会の自律性の低下」や「自己家畜化」と結びつけるのは、社会批評としての飛躍ではないかという指摘もあると思います。交通量の増減や休憩タイミングの集中といった現象に、過剰な意味づけをしているのではないかという冷静な見方です。

さらに、「若者の車離れ」についても、これは単なる消極的選択ではなく、環境意識やライフスタイルの変化の表れだという解釈もあります。車を持たないことが、必ずしも「責任を取りたくない」ことには直結しない。むしろ、他の選択肢が増えたからこそ、「持たない」という主体的判断をしているとも考えられます。

また、私が問題視したような「制度に合わせて動くこと」についても、制度やルールに従うことが自動的に思考停止を意味するわけではないと。

現象に意味を読み込みすぎているのではないかという反論も成り立ちます。たまたまSAが混んでいた、たまたま人が集中していた──そんな偶然を、社会の病理の象徴として語るのは、やや拡大解釈だという声もあるでしょう。

最後に、私が示唆したような「誰も考えていない」といった前提自体に、疑問を投げかける人もいるでしょう。そこにいた一人ひとりには、それぞれの判断や目的、事情があるはずで、「考えていない」という決めつけそのものが、むしろ老害そのものではないか!

こうした反論は、たしかに一理あります。それでも私は、あの深夜の高速道路に流れていた空気(reading the room)──「便利さ」の裏側で少しずつ蝕まれていく自律性や判断力──に、どこか現代の日本社会のひずみが重なるように感じてしまうのです。近未来のディストピアとしての日本を、、、、。

車のハンドルを握るその手に、私たちはまだ「自分の行き先」を選ぶ感覚を持ち続けているでしょうか。あるいは、それすらも、気づかぬうちに誰かに委ね始めているのかもしれません。

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2025年7月11日金曜日

自己家畜化するジャポン

ブリューゲル 怠け者の天国(1567年) 

怒りの奥にある笑い


最近、つくづく思います。

「税金、もう払いたくない」と。

こんな気持ちになるのは、生まれて初めてです。脱税したいわけではありません。
ただ、今の政権や政治家たちの顔を思い浮かべながら、自分の稼ぎの一部を渡していると思うと、心の奥からじわじわと怒りがこみあげてくる。
そのお金で、彼らはどこかの料亭で笑い合っているのだと思うと、ふざけるな、と言いたくなるのです(私は料亭に対する妬みや羨望はありませんよ、念のため)。

私が若い頃、日本人はもっと違う国民だったように思います。
身体は丈夫で、顔にも誇りがあった。理屈ではなく、生き方に一本筋が通っていた。
ところが今はどうでしょう。「よく働き、文句を言わず、規則を守る」──そういう意味では高性能かもしれませんが、すっかり従順な生き物になってしまった。

これは「家畜化」です。しかも、自主的な。
首輪は必要ない。自分で喜んでつけているのです。

便利さに慣れすぎてしまいました。スマホがあれば脳はいらない。AIがあれば思考もいらない。判断することを放棄し、「選んでも変わらない」と言い訳して選挙にも行かない!
その結果が、今の総理です。

その総理という神輿が、いかに軽いか。
もう、風で揺れているのが見えるほどです。

けれど、その神輿を担いでいるのは誰か。
メディア、官僚、そして「おとなしい」私たち国民です。
彼らが何をしようと、顔色ひとつ変えずに税金を納め、口をつぐむ。
それを「成熟」という人もいるでしょう。
しかし私には、それが沈黙することが賢さだと信じ込まされた教育の成果に思えるのです。

実はそれこそが、虚無的な服従であり、自主的隷従というものです。
怒るべきときに怒らず、問うべきときに問わない。
そして、何も期待せず、何も望まず、「どうせ変わらない」と心の奥でつぶやく。
これを知性の退化と呼ばずして、何と呼ぶべきでしょうか。

科学技術が進歩し、生活は確かに便利になりました。
でも、その便利さの代わりに、私たちは何を差し出してきたのでしょうか。
怒る力、感じる力、疑う力──つまり、人間らしさの根幹です。

「考える葦」どころではない。今や、ただそこに飾られている「しゃべる観葉植物」のような存在感になりつつある。

目の前にはAIがあります。
これは確かに賢い。文句ひとつ言わず、瞬時に答えを返してくる。
人間が担っていた知的労働も、もはや朝飯前です。

このままいけば、「怠け者の天国」はすぐそこです。
ブリューゲルが描いた、焼かれた豚が自ら歩いてくるような楽園で、人間たち(学者・兵士・農民)はだらしなく寝そべっている。そんな風景が、もはや現実になりつつあります。

「AIがやってくれるから大丈夫」と言いながら、自分で何かを決める力を手放していく。
まるで、レールの先に崖があると知りながら、「自動運転だから安心です」と笑っているドライバーのようです。

私が若い頃には、違和感に対して声をあげる文化が、かろうじて残っていました。
中国でも、アメリカでも、そして九州の町でも、人はもっとむき出しで、もっと不器用でしたが、自分の言葉で生きていたように思います。
当時の日本人が今より自由だったとは言いません。けれど、敗戦の意味や日本の近代化の矛盾について、語ろうとする気配はあった。

ではなぜ、今はそれが失われたのか。

答えの一端は、戦後の占領政策にあるかもしれません。
GHQが目指したものは、制度の変更だけではなかった。
もっと深いところで、日本人の精神を壊すこと──つまり、主体性と怒りの文化を断つことにあったのではないか。
そして、その目的は80年かかって見事に達成されたのかもしれません。

それでも、文化の断片がどこかに生き残れば、いつか後の世代(孫たちが大人になった世界)が問いかけるでしょう。

「ねえ、なぜ日本人はあんなに素直に従っていたの?」
「なぜ誰も怒らなかったの?」
「日本って無くなってしまったんだね、、、」

私たちはこう答えるしかないのかもしれません。

「だって、怒ってもどうせ変わらないから」

──それこそが、この国を蝕む最大の病なのです。

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2025年7月10日木曜日

「文化」と「文明」のあいだで ── 今、教養とは何かを問う

 1980年代初期に北京の内部書店で購入した日本語版『毛主席語録』(初版)。




前書きは、毛沢東暗殺に失敗し謎の死を遂げた林彪です。



「文化」と「文明」のあいだで  ──  今、教養とは何かを問う

教養ある中国人とは誰か?

平川祐弘さんは「権威に盲従しない人」と言います(産経正論2025年7月8日)。なるほど、それは実に納得のいく定義です。だとすれば、日本における「教養ある知識人」とは誰のことを指すのでしょうか。

AIが急速に一般化し、「知識」へのアクセスがかつてないほど容易になった今こそ、本当の意味で問われるべきは「文化と文明」のバランス感覚だと思います。科学技術が文明を前に進める一方で、それをどう使うのかという価値判断は、つねに文化に根ざした教養に依拠せざるをえません。

私は、来年古希を迎えます。思い返せば、私の思考の支柱になってきたのは、学校でも教師でも教科書でもありませんでした。むしろ、明治から昭和初期にかけての知識人──いわゆる「文豪たち」の言葉でした。福沢諭吉、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治……。彼らが直面していたのはまさに「文化と文明の相克」という現代的なテーマだったのです。

平川さんの記事でも指摘されていたように、かつての日本では「教養」とは漢籍に通じることを意味し、それに代わって西洋古典が読まれるようになってからも、文学や思想の素養は知識人の証でした。けれど今では、教養の中身そのものが曖昧になり、英語すら手段としてしか扱われず、学ぶべき「日本の近代古典」すら忘れられつつあるように思います。

一方、中国では『四書五経』が国民的古典としての地位を失い、かつて毛沢東の語録がそれに取って代わるかに見えた時期がありました。だが結局、『毛沢東語録』は読まれる古典にはなりきれず、現代の中国においても「敬意をもって読むべき本」が不在のままです。皮肉にも、教養ある中国人とは「語録を読まない人」と定義される時代になっているというのです。

日本においても、教養は形骸化しつつあります。全集を揃える家庭は減り、本棚の存在感はスマートフォンの画面に取って代わられました。それでも、私たちは「本を読む民族」から完全に堕ちてしまったわけではないと信じたいのです。

難解な古典に無理に立ち返らなくとも、たとえば明治の知識人の書いたものに立ち戻ることは可能です。彼らは「日本」という国家が急激に近代化するさなかで、何を守り、何を捨て、何を受け入れるかを懸命に考え、悩み、書き残しました。その営みこそ、現代を生きる私たちにとっての「教養」の原点になるはずです。

AIの時代だからこそ、人間の軸を持たなければならない。平川さんの言葉を借りれば、明治の古典を「カリキュラムの核」に据えること。それはノスタルジーではなく、未来への選択なのです。


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2025年7月8日火曜日

はじめての味──ピザ、ビーフシチュー、ハンバーガー、そしてラーメン

先日、わが家で食べたビーフシチュー

昭和三十年代の終わりか、四十年代の初め。場所は福岡市、天神か川端のあたり。正確な場所は記憶の中で少し曖昧ですが、そこに洋画のロードショーを上映する映画館がありました。なぜかその一階(?)には、ちゃんとしたレストランが併設されていて、子どもだった私にはまるで「異世界の入り口」のような場所でした。

映画館で洋画を観る。スクリーンの向こうには、現実にはない世界が広がっていて、その刺激は確実に私の人格形成に影響を与えました。でも、インパクトを受けたのは映画だけではありません。私がそのレストランで出会ったのが、人生初の「ピザ」と「ビーフシチュー」でした。

ピザは、今となってはコンビニでも買える食べ物ですが、当時の私のまわりには、ピザという料理を食べたことのある人間など一人もいませんでした。子どもながらに「これはなんだ?」と圧倒されました。

さらに強烈だったのがビーフシチューです。シチューというからには、牛乳で煮た白いスープのようなものを想像していたのですが、出てきたのはこってりとレンガ色のルウ。その中に、ジャガイモとニンジンがごろりと入っていて、そして、驚くほど大きな牛肉のかたまり。しかも、その肉が、箸でも崩れるほどに柔らかかった。これが“牛肉”なのかと、言葉を失いました。

もうひとつ忘れられないのが、佐世保で食べたハンバーガーです。食べたのは1964年11月、米原子力潜水艦「シードラゴン」が佐世保に寄港したときのこと。当時、核を積んだ原潜の寄港は社会問題となっており、全国で反対運動が起きていました。そんな中、父がなぜか「原潜を見に行こう」と言い出して、福岡から佐世保まで車で連れて行かれました。

昼時に立ち寄ったのが、アメリカ海兵隊相手に営業しているバーでした。昼間だけランチ営業をしていたそのバーのカウンターで、父と並んで出されたハンバーガーにかぶりついた記憶が、いまも鮮明に残っています。パンにはさまれていたのは、肉のパティとスライスオニオンだけという、実にシンプルなものでしたが、それがとにかく旨かった。ポパイの漫画に出てくるウインピーが手にしていた“謎の食べ物”が、ようやく目の前に実体をもって現れた瞬間でした。

そしてもう一つ、福岡スポーツセンターのプールの帰りに友人と食べた町中華のラーメン。お金がなかった私たちは、一杯のラーメンを二人で分けて食べました。今でこそ「豚骨ラーメン」として知られていますが、当時は単に“ラーメン”と呼んでいた気がします。スープは白濁していて、上にはきくらげと紅ショウガがのっていました。器から漂う独特の香りと、どこかクセのある味。でも、それが妙にうまかった。どこか知らない町のにおいがしたのです。

私は4歳から14歳までの10年間を福岡で過ごしました。だから、人生で初めて食べた「外の味」はほとんどがこの町での出来事です。ピザも、ビーフシチューも、ハンバーガーも、ラーメンも。今となっては定番中の定番ですが、あの頃の私は、それらに触れるたびに、世界の広さを体感していたのだと思います。

子どもの頃に「本物の味」に出会っておくことは、とても大切なことです。

それは単なる味覚の話ではありません。社会に出て、一流の人たちとともに働く中で痛感するのは、「本物を知っているかどうか」が、その人の判断力や直感に大きく影響するということです。本物を知っていれば、ニセモノに対して本能的な違和感を覚えるようになる。料理でも、仕事でも、人でも、そして言葉でも。

あの映画館も、あのレストランも、もうないでしょう。けれど、スクリーンの暗がりと、皿の上の衝撃の味は、いまも私の中に生きています。もしかしたら、人生の方向性は、あのとき、すでに定まっていたのかもしれません。   

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2025年7月7日月曜日

国の未来を語れない人たちが、未来を握っている件

日本の夜明けはくるか? それとも将来はすべて山の中か?

たまには政治家の“生の声”でも聞いてみるか。参院選も近いことだし、各党の党首が何を語るのか一応チェックしておこう。そう思って、車のラジオをつけたのですが……五分もしないうちに不愉快な気分になりました。


いや、ひどい。あまりにもひどい。

議論の低空飛行ぶりに耳を疑ったのは、一度や二度ではありません。企業経営をしていると、財務諸表のトップの数字、つまり売上高が作れないことが何よりつらいものです。日本の最大の問題は、まさにこの「トップの数字」が国として作れていないことにあります。にもかかわらず、言い方は違いましたがその核心に触れたのは作家の百田尚樹さんだけでした。あとは数字をいっぱい並べて胡麻化そうとするだけで、それではやたら味を濃くする素人の料理と同じです。言葉はあっても、その重みが感じられない。ビジョンを提示し、実行計画を聞かれているのに、そこから逃げているように見えました。

私にとって驚きだったのが、山本太郎が「少しだけ」まともに聞こえたことでした。

あの山本太郎が、です。私にとって彼のイメージは、映画『難波金融道』に出てきた、調子のいいノリで利息の取り立てをする闇金の舎弟公平くん。威圧感ゼロの軽薄キャラ。信用できる人物だとは今でも思っていませんよ。ただ、それほどまでに他の党首たちの話がひどかった。相対的に見えてしまっただけです。むしろ、そう見えてしまったこと自体が、日本の政治の末期的症状を表しているのではないでしょうか。

石破さんに至っては、いったい何を言っているのかもよくわからない。

テープの再生どころではなく、どこを見て誰に向かって話しているのかが不明。人間の温度というよりも、私の人生において、絶対に友達にはならない種類の人です。私は石破さんを何十年も前から見ていますが、安倍元総理が「一番総理にしてはいけない人物」と評したのも頷けます。しかし、その石破さんが、総理大臣になってしまった。神輿は軽い方がいい。官僚にも、野党にも、敵対国にも、そして党内のライバルにとっても。

維新の吉村さん、国民民主の玉木さんも同様です。言葉が薄っぺらい。社会経験が乏しいから、言葉に血が通っていない。結局のところ、彼らも「選挙目当て」で、使い回しのセリフを繰り返しているにすぎません。

被害を被っているのは、私たち国民です。

無能で、しかし権力欲だけは強い。そんな人物を「トップ」に据える代償を、国民が税金というかたちで負担している。本当に怖いのは、こうした光景に、国民が何も感じなくなっていることです。いや、正確には、「感じてはいるけれど、諦めている」ことです。何を言っても無駄。誰がやっても同じ。選んでも、変わらない。そんな空気が、社会全体に広がっています。

こうした政治家たちの姿を見ていて、作家である百田さんの言っていることが一番まともに思えました。いや、正確には、私の考えと近い部分がいくつかあったというだけです。ただし、それを公言するのは、「日本の空気」の中ではあまりにも誤解を生みやすい。だから、これまであえて言及しませんでした。こうして「言ったら損」という雰囲気そのものが、この国の病なのかもしれません。

たぶん、私たちはもう、とっくに答えを知っているのかもしれませんね。

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2025年7月6日日曜日

リーダーなきAI時代を、文化はどう生き抜くか


参議院議員選挙の期日前投票に行ってきました。
車の中で党首討論のニュースを聞きながら、暗澹たる思いになりました。


ガラパゴスAIでもいいじゃないか 

中国のAI開発は、どうやらこのまま独自路線を突き進む構えのようです。しかもその進化は、あくまで中国共産党の方針に則ったかたちで行われる見込みです。つまり、都合のいい出力だけをAIにさせ、検閲済みのコンテンツを中国国内はもちろん、東南アジア、アフリカ、南太平洋の小国、さらには南米諸国へと拡散していく。もう始まっていると言っても過言ではないでしょう。

一方、三権分立などという「面倒な仕組み」が存在しない国が、AIの世界で主導権を握ることには、大きな危険がつきまといます。チェック機能がないAIほど恐ろしいものはありません。言ってみれば、ノーブレーキで暴走する大型トレーラーのようなものです(loose cannon)。

アメリカもまた、AI規制については頭を抱えています。州ごとに法律が異なるうえ、利害関係者も多く、法整備はまるでジャングルの中を手探りで進む探検のようです。自由は多いが、統一感はない。それがアメリカの強みでもあり、弱点でもあります。

日本に残された可能性

では日本はどうか。実は、AI時代の“隠れた本命”になり得る条件がいくつか揃っています。中央集権型の統治システムを活かせば、AIに関する法整備も比較的スムーズに進められるはずです。もっとも、そこにはリーダーシップという魔法の言葉が必要です。そして、それが今の日本に最も欠けているという現実。何とも皮肉な話です。

さらに残念なことに、日本の政治家にはリーダーシップだけでなく、AI時代にもっとも求められる「倫理観」が見当たりません。倫理と論理の区別もつかないのでは?と首をかしげたくなるような発言が、党首討論でも飛び交っています。

政治家こそ、AIのように強大な力を持ちながらも、国民のことを考える倫理観を第一にすべき存在のはずです。そもそも、そういう志があって政治家になったのではないのでしょうか。そう信じたいのですが、政治家の言動を見る限り、その “はず” はもはや “幻想” なのかもしれません。

文明が文化を食いつくすとき

AI技術の発展は、確かに人類にとって大きなチャンスでもあります。しかし、それは同時に、文化という繊細で時間をかけて育まれてきたものを破壊する力をも内包しています。アメリカと中国に共通するのは、他国の文化をあまり尊重しないという姿勢です。効率と支配、合理と規模。そんな価値観がAIと結びつくと、世界は文化の砂漠と化すかもしれません。

それに対して日本は、数千年にわたって文化を育んできた稀有な存在です。明治維新以降、急速に西洋化を進め日本精神の崩壊を促進した。敗戦後はアメリカ化に突き進みましたが(自発的隷従)、まだ取り返しがつかないほどではありません。今こそ、自国の文化と精神を見つめ直すチャンスではないでしょうか。

ガラパゴスAIという選択肢

「日本のAIはガラパゴスだ」と笑う声もあるかもしれません。しかし、文化を土台にした “ガラパゴスAI” こそが、世界に一石を投じる価値のある存在ではないか? 合理性だけを追い求めるのではなく、倫理観、精神性、そして多様性を重んじる技術のあり方を提示する。そんなAIなら、人間社会との共存も夢ではないはずです。

日本にはその提案をする資格がありますし、責任もあります。必要なのは、未来を見据えたビジョンと、それを語れるリーダーです。そして何より、文化の重要性を忘れない感性です。

高齢者としての、ひとりごと

私はもう高齢者です。この国の行く末を決めるような大きなことはできません。能力も財力もありません。静かに暮らし、やがて黙って消え去る存在です。しかし、今の政治や政治家を見ていると、やはり黙っていられない。子や孫が生きていく未来の日本が、文化も倫理も失った無機質な国になるかもしれないと思うと、不安を覚えます。

どうか日本のリーダーたちに、文化と文明のバランス感覚を取り戻してもらいたい。そして、日本という国が「人間らしさ」を軸にAIとの向き合い方を世界に提示できる……そんな幻想くらいは、まだ捨てきれずにいます。
    
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2025年7月5日土曜日

「AIで雇用が消えるのか」という問いに、どう向き合うか

あさりの酒蒸し

料理を作って味わうことから何を感じ、どう生きているかを確認する 


AIの進化と普及によって、仕事がなくなるのではないか、雇用が奪われるのではないかという不安が高まっているというアメリカ発信の記事を読みました。アメリカの経営者たちはこの問題についてさまざまな見解を表明し、それを日本のメディアも大きく報じている。だが、その報道に接するたびに、私は違和感を抱くのです。

日本とアメリカでは、そもそもビジネスの環境も、テクノロジーに対する感覚も大きく異なります。アメリカの経営者の発言を、そのまま日本に当てはめることには無理があります。

実際、「AIによる業務の効率化が従業員のレイオフにつながるか?」という問いひとつ取ってみても、日本とアメリカでは事情がまるで違う。アメリカでは、雇用の契約形態も職務分掌も明確で、「仕事がなくなればクビ」というのが合理的な現実として受け入れられています。一方、日本ではたとえ業務がAIで効率化されようとも、それだけで即レイオフという話にはなりにくい。むしろ、新しい仕事を生み出すことで雇用を維持する方向に知恵が絞られる。

アメリカの企業で働くと、大きく分けて二つのレイヤーが存在します。ひとつは、マネジャーやマネジメント層を目指す層。もうひとつは、昇進は望まないが一定の給料を安定的に得られればよいという層です。後者は、AIによって職務が代替されるとレイオフの対象になりやすい。AIによって業務が合理化されれば、「人間である必要がない」と判断されてしまうからなのです。

加えてアメリカの職場では、実力を上げて成果を出し続ければ、それに見合った報酬が得られる仕組みになっている。難度の高い仕事に挑み、評価を得れば給料が上がる。さらに、実力をつけた人材は、より高い報酬やポジションを求めて他社へ転職するという選択肢も当然のように存在しています。こうした流動性の高さと成果主義の文化の中では、AIの登場が直接的に「雇用喪失」につながりやすい構造があるのは否めない。

では日本はどうでしょうか。日本の企業には、アメリカのような明確な職種区分や、昇進を前提としたレイヤーの分断がそれほど強くない。マネジメント層と非マネジメント層の間にも、大きな構造的な隔たりは存在しない。しかも、雇用の安定性が強く意識される日本社会では、AIによる業務効率化が直ちにレイオフにつながることは稀だと思います。企業はむしろ、社員を別の部署に異動させたり、AIに置き換えられない仕事を新たに作り出すことで、雇用の継続を図ろうとする傾向が強いと思います。

ただし、これは楽観してよい話ではありません。たとえAIが「人間の仕事を奪わない」としても、それは人間が何もせずに済むという意味ではない。むしろ、AIをどう使いこなすか、どう人間の思考や創造性や判断力と組み合わせるかが、今後の仕事の質を決定するのです。とくにマネジメント層にとっては、AIの力を戦略的に使いこなすスキルが求められる一方で、AIに判断の主導権を握られてしまえば、自らの役割を失いかねないというリスクもあるのです。

さらに、AI導入による法的リスクも無視できません。たとえば、AIに業務を全面的に委ねた結果、著作権侵害や誤った判断による瑕疵担保責任が発生し、訴訟に発展するようなケースも想定される。場合によっては、それが企業の存続に関わる重大な問題へと発展することもあります。

だからこそ、日本社会は、日本の環境に合ったAIとの付き合い方を自分たちの頭で考えなければならないのです。AIという新たなテクノロジーの本質と進化をしっかりと理解し、日本固有の制度、文化、倫理観を踏まえた合理的かつ持続可能なプランを構築していくべきです。

未来は、予測ではなく設計(ビジョン)するものです。その設計において、AIに任せきりになるのではなく、人間がAIをどう使いこなし、ともに進化していくかが、これからの鍵を握っています。日本政府や経済界のお歴々に任せておいても大丈夫なのか? 教育界の重鎮は現状をどこまで理解しているのでしょうか?

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2025年7月4日金曜日

セルフサービスって、ほんとに嫌い!

ファミレスのテーブル

セルフサービスって、苦手というより――大嫌いです。

コンビニのレジで他人のやりとりを眺めたり、店員に「今日も暑いねぇ」と一言こぼしたり、品物の場所を聞いて「そこです」と事務的に返されて、でもなんとなく通じ合ったり。そうやって何年も通ううちに、中国人店員とも軽口を交わせるようになる。そんな“距離の縮まり方”が楽しい。

買い物って、ただモノを買うだけじゃない。人とすれ違って、ちょっと何かが通じる、そんな時間でもあるのですよ。

1980年代は中国語で仕事をしていました。90年代はアメリカで英語中心。あの頃は、言葉の向こうにちゃんと“人”がいた。何語でも、どこの国の人でも関係ない。言葉って、結局は人と人をつなぐためのものだったから。そして、その言葉の背後には個人の人となりがある。

ニューヨークに住んでたころは、ナッシュビルに4年間、毎週出張することがありました。

ナッシュビルのアメリカン航空のグランドホステスとも顔見知りになって、「毎週毎週大変ね」なんて言われると、出張もちょっと悪くない気がしたものです。言葉と気配で、人と人がつながってた。金曜の夕方、「Have a nice weekend」と言われて、「You, too! Have a good one!」と返す――たったそれだけで、心がちょっと浮くんです。

なのに、今はどうでしょう。

コンビニも、レストランも、空港のチェックインですら、人間に会うことすらままならない。タッチパネルが「いらっしゃいませ」と言ってくるけど……いや、いらっしゃってないんですよ、誰も。そこに“人”はいない。ただのタッチパネルのスクリーン。黙ってぴっぴと注文して、番号札を持って、黙って待つ。人間ガチャ、ハズレなしの無人対応。店員との会話なんて「非効率」の一言で片づけられる時代になりました。

私のような旧式の人間は、もう社会的コストなんでしょうね。生産性は低いし、テンポも悪いし、つい話しかけて場の空気を乱す。世間は「便利になった」と言うけれど、その正体って実は「人と人との断絶」だったんじゃないか。便利のために、誰もが静かに孤独へと閉じ込められていくディストピアの世界。

アメリカでは、この無人化社会はもう10年以上前から始まってました。笑顔で「How are you doing?」と話しかけてくれてたレジ係も、今は無言のキオスクに取って代わられた。日本も、気がつけばすっかりそっち側の人になってしまった。

世の中がどんどん「便利」になればなるほど、私には逆に不便で、生きにくくて、居心地が悪くなる。頑固ジジイ? 大いに結構。このまま誰とも話さず、無人の世界でひっそりフェードアウトするのも悪くはない。

というか、もう既に世の中からはサインアウト済みかもしれませんね。ははは……。

 







ファミレスでは料理もロボットが運んでくる。話かけても返事はしない!


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