2009年12月24日木曜日

岡倉天心



8月末に帰国して、岡倉天心ゆかりの五浦海岸に行ってきました。

岡倉天心は「亜細亜は一つなり」と言った人ですが、日本美術や東洋美術のすばらしさを堂々と英語で西欧諸国に訴えた芸術家でした。明治36年にボストン美術館に顧問として迎えられています。インキュベーター(人材育成者)であり、プロデューサーである天心は私の尊敬する明治の偉人の一人です。

茨城県の北端に位置する五浦(いづら)海岸は、アメリカ、ヨーロッパ、インド、中国、朝鮮半島を旅行した岡倉天心が、世界中で一番美しい所だと言い、自宅を建て六角堂(上の写真)を作って晩年を過ごした場所です。今は、立派な天心美術館(茨城県立)になっています。六角堂は、ニューイングランド地方にあるガゼボの和風版だと思いました。

(ウィキペディアより岡倉天心の逸話)

明治36年(1903年)、天心は米国ボストン美術館からの招聘を受け、横山大観、菱田らの弟子を伴って渡米。羽織・袴で一行が街の中を闊歩していた際に1人の若い米国人から冷やかし半分の声をかけられた。
「おまえたちは何ニーズ? チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?」。そう言われた天心は「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」と流暢な英語で言い返した。

<原文>
"What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?". "We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?"

天心はどういう育て方をされたのか?

天心は、1863年の幕末期に外国人向け商店街の中心地の横浜で生まれました。天心の父親は、越前藩の藩士でありながら、越前の商品を扱う商社石川屋を営んでいて、天心は子供の頃から英語が飛び交う店の中で育ったそうです。父親の「これからは英語力だ」という考えから、小さい時から横浜の英語塾に預けられたそうです。その後、8歳の時に神奈川の長延寺に預けられ、和尚によって「論語」、「孟子」など漢学を叩き込まれました。乳母が福井藩士橋本左内の遠縁にあたる人だったそうで、いつも橋本左内のことを語って聞かせていたそうです。天心の日本人としてのアイデンティティはこういったところで形成されたのでしょうね。

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