2009年12月21日月曜日

私の個人主義

民主主義国家では、個人が自由に意見を表明でき、さらにそれが集まると世論が形成されます。ただ自由に意見を言うといっても、それが自分勝手な要望ばかりでは困ります。日本では、自由というのは少しばかり悪いことのようなニュアンスでとられている感があります。それは、「自由」と「自分勝手」がゴチャまぜになっているからでしょう。

また、「イニシアチブ」や「リーダーシップ」も、はっきりしたビジョンがないと、個人の利益誘導ととられても仕方ありません。「個人が勝手なことをやりみんなの和を乱す」と考えられているのかも知れませんね。

日本人は「自由でいることの責任の重さ」を十分理解していて「自由じゃないこと」を選んでいるのかもしれません。ひょっとしたら、これらを逆手に取り案外うまいことやっているんじゃないかと思うこともあります。

夏目漱石の「私の個人主義」は、漱石がこれから社会に出ていく学習院の学生に対して大正三年に行った講演です。明治の文豪は本当に偉大ですね。

漱石はスピイチの中で「ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もないし、権力を使う価値もないし、また金力を使う価値もない」と言っています。「自由とその背後にある義務という観念が必要なこと」にも言及しています。漱石がこれから社会に出ていく学習院の学生に対し語ったこれらのことは、そっくりそのまま現代の日本人に対しても十分通用するのではないでしょうか?

漱石は大正時代に「日本の国の変化の中で大切なのは、変化に対応できる個人主義だ」と言っています。今の日本は、漱石の時代とは違って、国家と自分の関係を考えるにはあまりにも平和すぎるのかも知れません。

自由とは責任を伴うものです。日本人は、自分から自由を捨てることで責任も放棄してしまったのでしょうか?お互いの自由を尊重しあい、ルール至上主義でなく、社会の基本をもう一度考えることから始めたらと思います。

福沢諭吉の「学問のすすめ」の最終編である十七編は、人望に関することです。諭吉は「人間交際」が大事で、人望を得るには実学を含む様々な修養を積めと言っているかのようです。私は、夏目漱石が言う自由であることに必要な倫理観も、人との関わりを通して身につくものだと思います。もっと人や社会と関わりを持ち、そうした経験から自然と倫理観を持てるようになれるといいですね。

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