2012年8月28日火曜日

今だから聖徳太子 

法隆寺 

七世紀初頭、聖徳太子は小野妹子を二回目の遣隋使として派遣しました。 聖徳太子は朝廷の摂政でした。 

朝廷が隋の皇帝に宛てた国書は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきやの書き出しで始まっていることは、日本人であれば皆が知るところです。 

当時、隋は漢以来の一大帝国を作り上げていました。一方、日本はやっと国としての体裁を整えつつありました。 朝鮮三国の王朝は隋の皇帝に服従していました。 しかし、聖徳太子は隋と対等の立場で国書を出したのです。 五世紀頃までは、日本も中国の王朝に朝貢していたのですから、聖徳太子のアクションは非常に強気です。 旧来の主従関係を転換し、日本の朝廷(天皇)対中国の皇帝という対等な外交関係の樹立を目指したわけです。
 
小林秀雄も敗戦直後に言いましたが、ジャーナリズムを過信してはいけません。 高等教育を受けた中国の若者は、人民日報や中央テレビを信じません。 私の知っている中国人の若者は、「報道の逆が真である」という意味で、中国国内の報道をチェックしています(基本的にテレビは見ません)。 日本も同じようなものです。 昨今のテレビ番組は報道というよりも、ニュースといっても娯楽番組と見なしてもいい。 「思想」というものが溶けてなくなったり、個人に自己防衛の意識が稀薄である場合、テレビや新聞なんて非常に危険です。 大衆を感化して社会主義国家が成立したり、全体主義に陥り武力衝突になった過程とよく似ています。
 
教育も同じです。 「聖徳太子は実在しなかった」と教えている小学校の先生だっているかも知れません。
 
聖徳太子を教えていても、聖徳太子が生きた時代の背景や、『十七条の憲法』で何を言っているかに触れません。 それでは意味がない。 聖徳太子は外交のエキスパートです。 国家の独立とか主権といったものを国の内外に認めさせたのですから。 朝廷と隋の煬帝の間に入ったり、国内の調整を行ったりと、バランス感覚のある「際」の魔術師なのでしょう。国交を断絶することなく、ましてや服従することもしなかった。 仏教を上手く取り入れ、日本文化に習合するように仏教を日本的宗教として確立させたのではないでしょうか? 
 
外務大臣や日本国の大使を務める人には爪の垢でも煎じて飲ませたい。
 
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